ファシズムとは何か 労働者が極右に近づく理由

順番を飛ばして興味を引きそうな、最近の話の第7章から。

ファシズムとは何か

ファシズムとは何か

新右翼

 極右の政策がより受容されるようになったことのもう一つの理由は、知識人たちがウルトラナショナリズムの定義を転換したことにもあった。実際に彼らは外国嫌いと不寛容とを、自由民主的な普遍言語の表現へと置き換えた。
(略)
 新右翼が生み出したものの多くは、新しいものではなかった。たとえば、それらが、戦間期ファシズムの発想源となった似非科学(民族間闘争の不可避とか適者生存とか、個人間の必然的不平等、人種的純粋性の必要など)の焼き直しにすぎないことを見抜くのは、簡単である。独創的であったのは、国家内の少数派差別を正当化するための「同等の権利」の援用である(ただそれも、ナチ急進派のオットー・シュトラッサーがすでに同様の考えを持ってはいたので、まあ独創的、というくらいか)。あるネイションのいわゆる独自性を保持していくためには、すべての人種が純粋である権利を持っているのだから、少数民族を差別化する必要がある、と新右翼は主張したのだった。
(略)
 ついで第二に、自由主義ナショナリズムとつなぐ別の動きが存在した。2002年のオランダ総選挙におけるピム・フォルタインの政見と候補者リストは、一見したところでは現代極右の典型であった。(略)しかし、公然とした同性愛者であったフォルタインは、イスラームを非難するにあたって、女性とゲイとに対するヨーロッパの寛容と権利承認を脅かす「遅れた宗教」ではないか、と主張したのである。
(略)
[第三に、サッチャーレーガンなどの]新保守主義者が、左翼に対抗する動きに拍車をかけはじめた。経済においてそれは、規制緩和というかたちでの自由主義経済の復活を意味した。それがまたグローバルな自由貿易を意味する限り、新保守主義は、新右翼の経済ナショナリズムとは対立したが、しかし新保守主義者は自由化を正当化するにあたって、それこそはグローバル競争の時代に国を強化するものなのだ、としたのであった。
(略)
 1981年には、グローバルな経済危機の最中で、フランスでは社会主義派が大統領選挙に勝ち(略)
他の国々では新保守主義が勢力を誇っていた時期に、フランスの右派は派閥に分かれて対立を繰り返した。国民戦線に投票した人びとは、当初は比較的裕福で、年配者、カトリック信者、保守思想を持ち、反社会主義であり、党の綱領も、こうした投票者たちの自由市場を支持する主張に一致していた。国民戦線の人種主義は、こうした自由経済の主張を強めるものでもあった。というのは、アラブ人は「不適合者」の象徴であり、市場で競争することもできず、福祉にばかり頼って無為徒食だ、としていたからである。
 その後、右派の主流が(あまり首尾一貫してではなかったが)自由経済路線に向かったのに対して、国民戦線はそこから離れることになった。国民戦線は、投票者のほとんどを右派から、それもフランスの地方小都市の右派から、とくに獲得し続けている。(略)若年の労働者階級男子の党ともなってきており、彼らはしばしば失業中で、比較的教育程度が低く、大都市の近郊工業地帯に暮らしている。
 1995年の大統領選挙では、労働者の三割が国民戦線に投票したが、それは社会党共産党への支持より上まわっていた。(略)
2000年代までには、ほぼ新保守主義を放棄し、グローバル化外国人労働者に対抗してフランス人の雇用を守ろう、という路線をとるようになった。これはまた、大部分の右翼にも訴えかける政策であった。

労働者が極右に近づく理由

あふれるほどの消費を促す文化的圧力や、さまざまな商品の性的アピールとの結びつきのゆえに、貧しい若者たちは置いてきぼりの感覚を抱いている。彼らは、政府が階級的不平等に対処すべきなのに、それ以上にジェンダーや人種や性的問題に取り組みがちだということで、そうした政府に対して腹を立てている。
(略)
 その結果、極右は金持ち層に対して腹を立てて、キャリアウーマンを嫌う。ゲットー化した郊外団地で、若い白人たちは移民と対峙している。彼らは、移民を犯罪集団として非難し、「やつら」の女を襲ったりする。そして、なかには、抑圧された「少数派」という役回りを彼らに与えてくれる政党に、加わるようになる。
(略)
 労働者が極右に近づくのは、1990年代から多くの社会主義政党新保守主義的な路線をとるようになった、という現実からも来ているところがある。左右の差異が消滅し、双方とも、経済の変容で勝ち残った人びとのために発言し、敗れた者たちは代表もなしに放っておかれている。左翼が選挙で勝つために右旋回し、保守政党のほうは左翼とは差異化するために、外国嫌いを利用している。出し抜かれないように左翼は、自分たちも移民に対しては弱腰ではない、として有権者を安心させようとする。反移民政策がまともなものとされるようになるが、しかしこのようなまともさは、極右が不必要になるほど極右を正当化するたぐいのものである。いずれにせよ、移民こそが敗者である。
(略)
 戦間期ファシズムと現代の極右の間には、(極端なナショナリズム少数民族に対する差別、反フェミニズム、反社会主義ポピュリズム、社会的・政治的エリートヘの敵対、反資本主義、そして反議会主義といったように)正真正銘の連続性が存在する。しかし同様に、(大衆動員や擬似軍隊的暴力の不在、一党体制国家の創出という野望の欠落、といったように)はっきりした違いも存在する。さらには、現代の極右は、民主主義の転覆を狙うよりも、民主主義が潜在的にはらんでいる差別的な可能性を利用しようと狙っている。だからといって、現代の極右がファシズムよりも「悪くない」とか「危険度が低い」というわけではない。

ファシストにとって

「近代的」とか「伝統的」とかは、なにを意味していたか

 ファシストが依拠していたのは、社会ダーウィニズムとそのフランス的変形であるラマルク主義、集団心理学、社会生物学、群衆科学、神話研究、であった。それらの考え方をすべてつき合わせることによって、ネイションの性格や(あるいは)人種について、一見すると科学的であるような議論がなされた。ネイションがもし不可避の凋落に向かう傾向に打ち勝ち、国際的な生きるか死ぬかの闘争に生き残らなければならないとすれば、そのネイションは内部的に力強く同質的でなければならない、という確信と、ここに挙げたような「科学」とが結びついていた。
 ここにおいてファシストの思想は、芸術的な近代主義によって彫琢されていた。それによれば、世界は暗い、脅威に満ちた場所であり、なにものもいっさい永遠ではなく、しかしにもかかわらず、芸術家の特殊な技術を通して意味を与えられ、飼いならされさえするかもしれない、そういう場所なのだ、と。
(略)
ファシズムとは、伝統と近代性とか、あるいは急進的と反動的といったような、二項対立では容易に区分けが効かない、相互に開運しつつ対立もしているイデオロギーと実践との、一連の矛盾に満ちた総体にほかならないのである。

「ナショナル・ポピュリスト」

 政治社会学者のアニー・コロヴァルドが説明しているように、フランスの国民戦線が「ナショナル・ポピュリスト」というラベルをみずから採用したことは、ある危険な状態を強く示すものである。この「ナショナル・ポピュリスト」という分類は、国民戦線自身が作ったものではなく、フランスの大学制度において戦略的な地位を占めていて政府筋にも近い、そういう政治学者たちのグループによって考え出されたものであった。(略)
彼らは国民戦線について、こう描いた。それは、グローバル時代における自分たちの困難に対する単純な回答を求める、社会の周縁部にいる教育程度の低い人びとからの、一時的な「ナショナル・ポピュリスト」的抗議にほかならないのである、と。庶民へのある種の軽蔑が表されていることは別にして、このような解釈は、現在の国民戦線指導部にいる高等教育を受けた専門的政治家たちに都合の良いように、機能することになっている。国民戦線ファシズムとは違う、声なき人びとを代表しているのだ、という主張には学問的な根拠がある、と彼らが断言できるようにしたからである。それはあたかも、ファシスト的でなければ人種差別も認められる、といっているようなものだ。
 ただし、国民戦線ファシストというラベルを貼ることは、それはそれで問題であろう。それは、たしかに政党の信頼を失墜させる方法かもしれないが、しかし国民戦線の支持者たちは通常自分たちがファシストだとは思っていない以上、この運動はエリートによって侮蔑的に忘れ去られた真面目な人びとを代表しているのだ、という彼らの確信を、かえって強化してしまう危険を冒すことになるのである。

次回に続く。

 

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