戦前昭和の国家構想

 

戦前昭和の国家構想 (講談社選書メチエ)

戦前昭和の国家構想 (講談社選書メチエ)

  • 作者:井上 寿一
  • 発売日: 2012/05/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

なにやら現代と大差ない当時の二大政党の状況をかなーーり大雑把に解説。
1928年普通選挙導入を前に政権政党の政友会は新たな有権者の労働者・農民のことを考えまっせーとゴマすってみたり、露骨な選挙干渉をやったりするも、民政党が一議席差負けながら大躍進。総得票なら勝ってるし、都市部ではダブルスコアでウチの勝ちやと意気上がる民政党。焦った政友会は緊急勅令で治安維持法改正。憲法学の最高権威美濃部達吉は「権利の濫用」「憲法違反」と批判。政友会は保守主義からファシズムへ踏み込み、民政党は知識人の支援を受け「デモクラシー」の擁護を訴える。
創立メンバーの一人が27名を連れ民政党を離脱、巻き返した政友会。張作霖爆殺事件などで田中内閣崩壊、元老西園寺は「憲法の常道」を確立するとして、民政党浜口内閣を選ぶ。

憲法の常道」とは

憲法の常道」とは何か。「二大政党が対立し交互に政権を取り、競うて国民の信望を博することに努むるが憲政発達の常道である」
(略)
 民政党は前年の総選挙直後と比較して衆議院議席を減らしていた。「憲政の常道」とはいっても、民政党の政権獲得は「棚から牡丹餅」だった。解散・総選挙によって国民の信を問うのが筋である。(略)
[てな批判を受けつつ]
緊縮財政を優先させる浜口内閣は、国民生活に直結する政策に消極的だった。
 「国民精神作興」と「綱紀の粛正」のために、浜口内閣は文部省主導による「教化運動」(「国体観念を明徴にし国民精神を作興すること」他)を展開する。[その模範としてムッソリーニのイタリアを賞賛](略)
 政友会ならばわからないではない。しかしこれが民政党の国民運動とは恐れ入る。(略)
田中内閣下の日本の「ファシズム」化を批判した民政党が今度は「ファシズム」を褒め称える。これでは民政党の「昭和維新」は復古的な国家改造計画になりかねなかった。

世界恐慌下緊縮財政、金解禁失敗、張作霖爆殺事件といった悪条件で選挙突入、駄目かと思ったら、浜口の人柄で民政党大勝利。ロンドン海軍軍縮条約調印、戦前昭和デモクラシーの頂点。政友会・海軍からの「統帥権干犯」批判をガン無視

幣原は国務大臣の輔弼の優位性ではなく、天皇大権に直結して批准の正当性を主張した。
 協調外交と議会主義を守ろうとする浜口の民政党内閣の主観的な意図は、客観的な結果として、天皇大権の乱用をもたらした。
 問答無用とばかりに数の力で条約批准を押し切った浜口の手法は、深刻な波紋を投げかける。
(略)
 国民は昭和恐慌に喘いでいた。それにもかかわらず、議会では政友会も民政党も党利党略にまみれた争いを繰り返している。(略)
 議会主義に討する国民の懐疑の念が強まる。議会主義の威信は地に堕ちる。(略)
 何をまちがったのか。悪いのは議会主義ではない。問題は二大政党制だ。政党の側から真摯な自己批判が始まる。

野党となった政友会はおごってましたと、全国規模の経済調査団を派遣、国民の皆さんの苦しい生活を実感しました、下流階層の側に立って格差是正を訴え、なんだよオメーら野党の時は、失業対策やりますとか、言ってたのに全然やらねーじゃん、マニフェスト違反じゃん、と民政党批判。民政党は失業対策より財界の安定と上流階層の側に立つ。

  • 山川均の満州事変反対論

 満州事変の拡大にともなって、無産政党は戦争支持へと転換する。(略)
「満蒙確保のためのいっさいの行動は、社会主義の名において、帝国主義的侵略だという宣伝を受けないように、国民社会主義によって、見事に合理化された」。
 合法活動の枠内に止まりながら、国民社会主義者の対「満蒙」態度を批判する山川の論理は、相手の論理を逆手にとるものだった。「満蒙をさく取なき平和の楽土にする!」そんなことができるのか。(略)山川は「満蒙に資本を誘致することは決して容易なことではない」と指摘する。事実そうだった。財閥系資本は、ハイリスクな「満蒙」投資をためらっていた
(略)
日本の労働者が満州に渡る。そこで何が起きるか。「賃銀の方からいえば日本人の三分の一、体力の点において向うは三分の一多うございます……同じレバラーとして同じステージの上に働かせることは、日本人には堪え得ませぬよ」山川は皮肉る。「『資本入る可らず』の制札を『支那労働者入る可らず』と書き替えたらどうだろう」。もちろん矛盾が露呈する。「満蒙新国家の表玄関」には「各民族は平等待遇す」と掲げてあったからである。

 満州事変を経た日本の政治はどこへ向かうのか。「ファシズム」だ。そう指摘する声が大きくなっていく。(略)
[政友会と民政党泥仕合による]議会政治に対する信頼の失墜が「ファシズム」に対する共感をもたらす。(略)
 社会主義者の山川均は別の見方だった。堀の議論の前提を認めて「仮りにファシズム政治を可能とする条件が備わっているからといって、ファシズム政治が直ちに出現するわけではない。それには十分な動機が必要である」。国民には「ファシズム」を受け入れるだけの「十分な動機」がない。(略)
「いっさいの救いの希望がなくなった時にメシヤを待ち望むように、議会政治の与え得ぬものを、人々は、いっそう力強い政治に求めようとする」。
 「ファシズム」か、議会政治の復権か、それとも「メシア」の登場か。一九三二(昭和七)年五月一五日に一つの結論が出ることになる。

F・H・キング

土地の永続的な利用をめざす土壌学者として、キングは土地の利用と土壌管理を改めるために、ヒントをアジアに求めてやって来た。(略)
 キングの現地調査は、1909年のことである。清朝中国はまだ崩壊していない。韓国は翌年に併合される。日本は日清・日露戦争に勝利してアジアの大国になっていた。(略)
 キングは日本の農民が狭い農地を最大限に利用していることに驚嘆する。たとえば稲田に水を溜めておくためのわずか30センチ幅の狭い畔さえが過重な大豆作に耐えている。地面それ自体がさまざまな植物で混雑している。
(略)
 その後、九州を回り、大陸中国朝鮮半島を経て日本に戻ってきたキングは、あらためて美しい田園風景を賞賛する。「草の生えた狭い畔は窪地に水を溜め、連続する最も壮麗なモザイクに窪地を接合した。そしてこれらのモザイクは、おそらく二千年も以前に、工人芸術家によって谷底につくられ、それ以来幾春秋を貫いて彼らの子孫によって維持されてきたものであり
(略)
[京都の美しさにも魅了され、清水寺のうつくしさに打たれる民衆にも驚く]
美しい田園風景のなかで、敬虔な祈りを捧げながら、農作業に従事する。このような民衆こそが日本人だった。
 以上のようなキングの調査報告を今読むと、たいていの日本人は当惑するだろう。これは西洋人の誤解に基づく異国趣味のようにみえるからである。今日の日本人にとって農民のイメージとは、キングの現地調査から二年後の『東京朝日新聞』が伝える困窮した農民のイメージである。
(略)
[キングは農村の惨状が目に入らなかったのではなかった。軒先で綿花から糸をつむぐ老夫婦の写真に「70歳を超えても苦労はまだ終わりそうにない」とキャプションをつけ]
キングは日本の農民を賞賛する。「このような光景には哀れな側面と同様に、明るい面もあるのである。この二人は50年間苦楽を共にし、生涯は苦労に満ちていたけれど、彼らには健全な肉体、不屈の精神および立派な性格がつくられてきた。もし荷が重かったならば、お互いが相手の荷を軽くしてやり、満足を一層十分にし、喜びを大きくし、悲しみを少しでも耐えやすくしてきたのである」。キングが賞賛したのは、互助の精神に貫かれたたくましい日本の農民の姿だった。

五・一五事件

「兄弟村」は橘孝三郎という風変わりな人物が始めた。橘は一高を卒業の間際に中退し帰農する。都市のエリート候補から「百姓」への転身は、同郷の人々を戸惑わせた。転身のきっかけが天啓によるとなると、いよいよ周囲の人々は怪しんだ。
 そうではあっても、帰郷後の橘の生活は堅実だった。日中は農作業、夜は読書が日課の生活を道る。(略)
橘が再発見したのは、かつてキングが明治の日本に再発見したのと同じ、農本思想の歴史的伝統だったと言い換えてもよい。
 橘の思索は、資本主義の圧政から農業をどのように救うかだった。橘はマルクス主義を退ける。マルクス主義は都市における工業が持つ矛盾対立の理論であり、農業には当てはまらないからだった。「農民を救うものは農民であり、農村を救うのは農村それ自身だ」。橘はこれを「勤労主義」と名づけた。(略)
 橘の愛郷会を訪れたのは、農村青年だけではなかった。軍人、とくに海軍の青年将校が話を聞きに来た。仲介したのは、茨城県の立正護国堂にいた日蓮主義者の井上日召だった。(略)
 「勤労主義」に基づく農村更生運動の限界を自覚する橘は、資本主義の変革、体制の変革なくしては農村を救済できない、と考えるまでに追い詰められる。(略)
 そこに満州事変が勃発する。(略)
[大陸のフロンティアに開拓移民熱が高まったが、結局]
満州移民は悲惨な末路をたどる。昭和恐慌から脱出しようとしても、大陸は閉ざされていた。満州事変にもかかわらず、農村の閉塞感は強まる。
(略)
 橘の国家改造プランは、ナショナリズムによって結びつく、社会階層を横断する新しい社会を基礎としていた。そこには復古主義的な伝統回帰志向はない。あるのは社会主義計画経済を換骨奪胎した国家社会主義思想だった。
 橘は新しい国家が国民を解放すると強調する。橘が国民解放政策の中心に位置づけるのは、国民の経済的な解放である。それは所得の平準化がもたらす。「首を切る事は官吏、教員、織工等何によらず止める。その代り高い報酬と低いのを平均すればよい」。橘にとって所得の平準化は、都市と農村との格差の是正であり、「奢侈品」と「生活必需品」の間における生産の均衡を意味した。
 橘は同様の観点から農村問題の具体的な解決策を示す。それは第一に「家産法を設定して農家の生活と生産を安定せしめること」、第二に「大地主を無くすること」、第三に「国有土地を解放して内地植民を部落建設的に行うこと」だった。
 以上のような国家改造プランである限り、そこから橘が直接行動に出ることは想像しにくい。橘は官僚、財閥、政党の「金力支配」を非難しながらも、「之れに取って代うるにファシズム又はプロレタリア独裁の如き支配を置き換える等の事も絶対的に許さる可きものではありません」と断言している。のちに『日本愛国革新本義』を押収した検事は「これは危険思想ではない」と述べたという。実際のところ橘は最後まで直接行動に訴えるべきか、迷っていた。それでも刊行日を五・一五事件の当日としたことによって、重要なメッセージを託したことほまちがいなかった。

そして遂に帝都東京ブラックアウト計画始動
うわー、何ソレ、と盛上がったとこで次回につづく。