日本ファシズム論争

日本ファシズム論争 ---大戦前夜の思想家たち (河出ブックス)

日本ファシズム論争 ---大戦前夜の思想家たち (河出ブックス)

 

1920年代後半のムッソリーニ・ブーム

1920年代後半にはムッソリーニが[児童向けの]「偉人」にふくまれていたことに注目したい。(略)
 ムッソリーニが「偉人」とみなされたのは、彼がお金持ちや貴族の出身ではなく、「伊太利の片田舎の無学な鍛冶屋の児」であるにもかかわらず、首相になったからであった。

 ムッソリーニ・ブームは、戯曲・歌劇から演劇にも広がっていく。その担い手は、二代目市川左團次である。(略)[1928年]ムッソリーニを市川が、社会党員を二代目市川猿之助が演じた。脚本は演劇界の革新者小山内薫(略)
[小山内は劇中でムッソリーニにこう語らせる]
大利のどこに空論派でない卑怯者でない無能でない日和見主義者でない社会主義者共産主義者がゐたか。……それに輪をかけて無能だったのは社会革命家自身だつたとは言へないか。ふだんこそ、やれ「革命」だとか、やれ「無産者の独裁」だとか言つてゐながら、いざとなると、彼等は何等の方針も何等の統一も持たなかつたではないか。……彼等に何の革命が成就されよう。君等は吾輩を裏切者だと呼ぶ。だが、吾輩を裏切つたものこそ君等だ。君等は今吾輩を憎んでゐる。それはなぜか。吾輩は敢て言ふ。それは民衆が吾輩を愛してゐるからだ。民衆が君等を見捨てたからだ。

デモクラシーへの嫌悪

[1928年に普通選挙が実施される中、『中央公論』『日本及日本人』『国本』などの特集でデモクラシーへの違和感が取り上げられた]
[『中央公論』は]そもそも吉野作造が論陣を張るなど大正デモクラシーを代表する雑誌であった。このため、『国本』や『日本及日本人』のようにデモクラシーヘの嫌悪をむき出しにしているわけではない。(略)
[藤森成吉「ヒロイズムの復活」は次のように述べる]
 第一は、デモクラシーの没落過程、もツと詳しく云へば資本主義が帝国主義的段階を取るに伴つて、必然的に興つて来るところの独裁的専制的傾向、それを人間に具体化する事によつて生じる英雄崇拝心だ。
(略)
[高畠素之「デモクラシーの馬脚」は]
次のように言う。デモクラシーもしょせん少数支配であり、投票というトリックによって「独裁専制」をカモフラージュしているものにすぎない、しかし、今や世界大戦によってこれらの「一切の虚飾」がはがれおちた時代にわれわれはいる、と。
 つまり、高畠は、今でもありがちなデモクラシーか独裁かという単純な二項対立でものを考えているのではなく、デモクラシーの化けの皮をはがせばそれもまた独裁ではないかと言っているのである。
(略)
 ここには、ムッソリーニ・ブームの背景を考えるうえで、重要なことが描かれている。つまり、この「独裁専制のカモフラージュ」や「心理偽瞞」に対する人びとの違和感こそムッソリーニ・ブームの根源地というわけである。

直木三十五の「ファシズム宣言」

直木は、一九三〇年に満洲を旅行したあと、日本をめぐる緊張を文学で表そうとする。村田春樹名の小説「太平洋戦争」が『文藝春秋』に連載されるのは一九三一年二月号からであった。同誌翌年一月号には「日本の戦慄」を発表したほか、六月に同題の『日本の戦慄』(中央公論社)を刊行した。「ファッショ文学の第一巨弾」と銘打たれた同書は刊行直後に「五〇版」まで版を重ねたという。
 こうして、直木は、時局との距離を縮めるなかで、『読売新聞』 一九三二年一月八日付朝刊に「ファシズム宣言」を発表した。
(略)
馬鹿野郎が「階級闘争をかいてない」とか「斉彬を神様扱ひ」にしてゐるとか、そして、僕の「戦争と花」とを、フアシズムだとか――君らが、そ、そういふつもりなら、フアシスト位には、いつでもなつてやる。それで、一二三ん、僕は、一九三二年中の有効期間を以て、左翼に対し、こゝに、闘争を開始する。さあ出て来い、寄らば斬るぞ。何うだ、怖いだらう、と――万国へ、宣言する。
▽これは、秘密の話であるが、この前、スターリンに逢った時、彼は「先生のやうな方が左翼に入って下されば」と云ったので、僕は「僕の如き偉大なる作家が、左傾すると、日本の左翼文士の如きは、忽ち、千人位失業しなくてはならんから」と答へると、彼は「成る程深謀遠慮、敬服の至りです」と、感心してゐた。つまり、左翼を助ける為に、左傾しないんだ。僕が左傾して君達の仕事を奪った時の事を考へて見給へ。ぞつとするだらう。物は、考へやうといふものだ。

「ファッショ」直木の動きは、他の大衆作家をまきこみながら、軍部との会合にまでいたっている。(略)
一九三二年二月五日に開かれた会の名称は五日会と名づけられた。(略)
 会合では、軍部が満洲で撮影してきた映画を見たり、根本中佐から上海事件について解説を受けたりした。その後、晩餐をとりながら雑談し、文壇側から「軍部の方針、近代兵器、支那の国民生活、支那軍閥の歴史、支那における諸外国の勢力」などについて質問があり、これに軍人が答えるなどしたという。
(略)
[「文芸ノート」では]
文壇に接近する軍部の姿勢についても次のように評されている。

 だが、軍部の人々は、遥かに頭がいゝ。文学者の立場とか、文学の仕事に対して、正しい理解と、評価とを持つてゐる。文学者に接近し、文学者に親しむことに依つて、軍部の正しい精神と、意識とを諒解せしむる機会を持つことは、どれくらゐ賢明な方法だか知れないだらう。それが、ちやんと分つてゐるところをみただけでも、現在軍部の人々の頭が単に武弁一片だけに硬化してゐないことが分る。対外的にも、対内的にも現在の状勢が、はつきり分つてゐるのだと思ふ。
(略)
座談会「フアツシヨとフアツシズム文芸に就て」
(略)
白井喬二 その〔独裁するような〕偉い奴といふのは、日本ではどういふ階級の人に当るのですか。個人として、さう言ふ物が現はれてゐない日本の現在のやうな場合には。
三上於菟吉 それは僕たちの精神を非常に具現した男でせうね。
白井 さうすると、軍部といふことになりますかね。
三上 集団系統を以てすれば、政党の集団よりも軍部の集団の方が非常に純潔だと思つてますね。僕なんか自分も不純潔だったし、環境も不純潔であるが、それが多少パッショネートに腹立たしくなつてゐるので、それで私をひきつるものが軍部であつてもいゝし、何であつてもいゝと思つて居るのですよ。

秋沢修二・体制への抵抗としての全体主義

 全体主義は体制的であり、民衆にとって抑圧的なものであったというのは今日の常識だろう。しかし、ここで取りあげるのは、体制への抵抗として打ち出された全体主義である。
 この希有な全体主義を唱えたのは、秋沢修二
(略)
秋沢は、ナチ党に対する批判的な姿勢を堅持しながら、ナチズムやイタリア・ファシズムを分析している。(略)
特に秋沢が関心をいだいたのはオトマール・シュパンの「全体主義」だった。(略)
この時期の秋沢にとって、シュパン全体主義は、いまだ「ナチス哲学」のひとつでしかなかった。しかも、秋沢にとって、「ナチス哲学」は「非合理主義的神秘主義的観念論」にすぎなかった。(略)
 興味深いのは、秋沢が「本来の意味における全体主義は、実は、強権主義でもなく、官僚主義でもなく、また国家主義でさへもない」として、その論調を変化させていることである。
 その理由として、秋沢がまずあげたのが、国家は国民との現実的な関係においてかならずしも全体者とは言えないのではないかということであった。そしてもうひとつは、国家も人類のような「なほヨリ高き諸全体者」をもつ部分にしかすぎないのではないかということであった。
 つまり秋沢も舩山信一と同じく、「全体」が国家に限定されていくことに疑問をいだいているわけである。しかも、ここで、秋沢も二つの代表的な全体主義として、ローゼンベルクとシュパンの「全体主義」をあげた。(略)
 しかし、秋沢と舩山の全体主義論は、ここを境に分かれていく。舩山は「全体主義」におけるロゴス(合理的なもの)とパトス(非合理的なもの)の統合を目指したのに対し、秋沢はそうではなかった。(略)
秋沢が徹底的に批判したのは、ローゼンベルク全体主義のほうだった。(略)
 秋沢は「宗教的」、つまり非合理的なものを認めることはできなかった。この批判をふまえて、彼は「ナチス全体主義」を越える方向性を考えていく。この模索のひとつのきっかけになったのが[かつて非合理と一蹴した]シュパン全体主義だった。

 ここに秋沢が弁証法にこだわる理由があった。秋沢にとって、「全体者」を「神」や「神秘的なもの」によって代表させるのではなく、それらを「真理」へと置きかえていかなければならない。秋沢がここで述べた「神」とは何であるかは言わずとして明らかであろう。この「神」を批判していく契機こそ、秋沢にとって「合理的全体主義」なのだった。
 こうした全体主義の読みかえは、秋沢のなかで、「世界史」の再構成にまで進んでいる。(略)
共産主義・デモクラシー対全体主義という対立図式(略)に対して異議を申したてる。なぜなら、民主主義国家も国内的には独占資本主義、国外的には帝国主義であり、ひと皮むけば、彼らが批判する全体主義国家と大同小異ではないかと考えたからであった。ここで秋沢が目指したのは、独占資本主義という問題に加えて、民主主義の矛盾をいかに克服するかであった。
 注目すべきは、その突破口として、秋沢は、民主主義と対立すると考えられている全体主義のほうに着目したことである。(略)「真の全体主義は、個人を生かし民主主義の精神を生かすもの」とか、「正しい全体主義が東亜協同体思想の根底をなすべき」と、彼は言う。つまり、この時期の秋沢にとって、「全体主義」とは時局にいたずらに迎合する思想ではなく、時局を変革する思想であった。
(略)
 これらの問題に取り組むなかで、秋沢の「全体主義」が時局に適用されていく。特に東亜協同体論から刺激を受けてか、その後の彼の全体主義論では、「協同体原理」という側面が強く強調されていった。