ファシズムとは何か・その2

前回の続き。

ファシズムとは何か

ファシズムとは何か

モーリス・バレス

ファシズム創出者の一人ともいわれることのあるモーリス・バレス(略)
ネイション(国民)とは、フランスに住む個人(男性のみだが)がともに住むことを理性的・民主的に選択したことの表れだ、と見なす自由主義的で民主主義的な観点を、バレスは拒絶した。彼にとってネイションとは、通常の人間の理性を超えたスピリチュアルな感覚から発するものであった。
 こうした見方は、人間の集合的な無意識という当時流行りであった心理学的な考え方、そしてまた、芸術は人間行動の下に隠されている神話に接近可能にしてくれるものだと見なす、象徴派文学運動によって形づくられたものである。バレスは、ネイションとは歴史と伝統が生み出したもの、そして農民が国土と長年にわたって接してきたことから生み出されたもの、と見なした。

群衆

 ファシストに影響を与えた人びとの一人として、群集心理に関するフランス人理論家、ギュスターヴ・ル・ボンを挙げておかなかればならない。彼は、非理性的な群衆はデマゴーグによって操作されうる、と主張した。ムッソリーニヒトラーも、ル・ボンを引用していたが、しかしル・ボン自身はといえば保守主義により近く、また彼の理論は、極右に対すると同様に左翼に対しても魅力的であった。ル・ボンという鋳型から出てきたのがジョルジュ・ソレルであった。ソレルもまたムッソリーニによって引用されていた人物だが、彼も、大衆というのは神話と暴力によって誘導されるものだ、と主張していた。
(略)
ニーチェは、普遍主義こそが強者に対する尊敬を傷つけてきたのだ、と確信していた。ニーチェは、運命の人がよりスピリチュアルな共同体を創造するであろう、と望んでいたが、しかし彼の思想は矛盾に満ちており、折衷的なものであった。(略)
 実際われわれは、ファシズムの起源を、もっぱら理性の拒絶という点にだけみるわけにはいかない。反対に、前に挙げた思想家たちはみな、神話もエリートも群衆も、普遍的な科学的原理を用いて研究することができる、と考えていた。たとえばル・ボンは、進化論を誤用して、進化と自然淘汰が、理性の力の発展を通してエリートが大衆の上に立つことを可能にしてきたのだ、と論じていた。その結果、エリートは、大衆の激情の原因を理解し、大衆をナショナリズムに即した安全な方向に導くために、社会科学を活用することができるのだ、と。当時の基準によれば、優生学的な社会計画は、その人種論的な次元ともども、聞違いなく科学的だったのである。もちろん、われわれにとっては、これらの多くは似非科学である。

社会ダーウィニズムの主張者たちは、

貧者救済を伴った近代社会の安楽が、不適合者の生存と社会の退化に繋がりはしないかと恐れた。彼らは回答として「優生論」を説き、不適合者の断種といった「否定的」手段と、そして(あるいは)また、健常者の再生産奨励といった「肯定的」手段とを、提案していた。
 社会ダーウィニズムの主張者のなかには、大衆がカウチポテト(無気力)症候群の19世紀末版に陥ることを予防できるのは、強力な指導者によってのみだ、と思っている者もいた。社会ダーウィニズム信奉者はまた、国民国家間における力の闘争は不可避だ、と信じており、なかには、国民の運命に比べれば個人の運命などは微々たる重要性しかない、と思っている人たちもいた。
(略)
 人種差別は、帝国主義の本質的な要素の一つであった。(略)ヨーロッパ列強は人種科学を利用して、「劣った」非ヨーロッパ系の人びとに対する支配を正当化し、それがふさわしいと列強自身が見なしたところでは、法の支配を無視した。いくつかのところで生じた現地住民たちの絶滅は、ホロコーストの先行事例に当たるものであった。

急進右翼とは、

大衆政治の結果であるとともに、それを抑え込むための試みでもあった。急進右翼は、ネイションを階級や宗教よりも上位に位置づけ、競争相手を抑え込み、ある種の左翼政策を引き継ぎ変形させることによって、この政治舞台で敵と戦おうとしたのである。こうした潜在的に矛盾をはらんだ目的があった、という点を明確にしたうえで、急進右翼は理解されるべきなのである。
 まず、ナショナリズムから始めよう。19世紀末に至るまで、ナショナリストはまず左翼に位置していた。というのも彼らは、民族の「自己決定」への権利を唱え、多民族国家であったロシア帝国ハプスブルク帝国、イギリス帝国に対して、民主主義の名において挑んでいたからである。しかしながらナショナリストたちはまた、正義という普遍原理に対する訴えを、しばしば、潜在的に非民主主義的でロマン主義的なナショナリズムとも結びつけた。それは、ナショナルな理念の、なかば神秘的な確信をすべての住民に求めるものであった。その住民たちは、同一の人種的出自を持っているのであって、他の人種とは本質的に異なるのだ、とされた。
(略)
19世紀の社会主義者たちは多くがナショナリストでもあって、自分たちを民族や国民の代表と見なしており、「コスモポリタン」な資本家や貴族に敵対していたからである。社会主義者たちはより広い急進的な伝統に溶け込んでもいたが、その伝統は、女性の権利を滅多に認めることはなく、しばしば外国嫌いでもあった。

ドイツは不完全にしか統一されなかったのだ、

という信念は広まっていた。ユリウス・ラングベーンが1890年に匿名で出版した『教育家としてのレンブラント』は、「民族至上主義的」な考え方の完璧な事例である。すなわち、エスニックという点でたがいに結びついている人びとのなかに根を張ったナショナリズム、という考え方である。ラングベーンは、このオランダ人の巨匠は、その仲間の同郷人たちと同様に、人種という点では実質的にドイツ人だ、と信じていた。そしてこの混乱した本は、レンブラントを、新たなドイツ宗教改革の教師として描いていた。
 ラングベーンは、素人のジェネラリストを縮図的に体現する人物であった。すなわち彼は、専門分野への学問の「分化」に対して不満を抱いていた。彼は、科学・学問を芸術と結合させることを推奨し、人種の心理的現実からの情報をとらえた歴史によって、無味乾燥の専門的な歴史を置き換えよ、と勧めている。彼は、同時代の優生学を引き合いに出し(略)同時にまた、「民族」に根を張っている英雄芸術家という神話にも訴える。そうした英雄こそが、スピリチュアルな再生をもって政治的統一を完全なものにしてくれるのだ、と。
(略)
 1920年代末になると、ラングベーンの本はふたたび売れ出した。とくに、他のより一般的な急進右翼の人びとと並んでラングベーンは、アジアやアフリカでの伝統的な帝国の野望ではなしに、むしろ「レーベンスラウム(生存圏)」という観念とも結びつけられた、東ヨーロッパヘの膨張というナチによる転換を先取りしていた。ラングベーンが示した企図は、人種論的・社会的・優生学的な技術的開発の計画と、ドイツがアメリカやイギリス、ロシアといった競争相手と経済的にも軍事的にも競い合える勢力圏を発展させなければならない、という考えとを、結びつけるものであった。

権力の座についたファシズム

 自由主義派のの政治家たちは、やっかいな選択に直面していた。彼らが抵抗したとしても、軍も警察もファシストと戦うことは拒否するであろう。たとえファシストが敗れたとしても、利を得るのは左翼となるであろう。ファシストは議会に少数の議席しか持っていないわけだが、しかし彼らを政府内に引き込むほうがまだましだろう、と考える点で、政界と実業界と軍部が一致した。(略)
行政当局と軍からの支持を保証されたイタリア・ファシストは、左翼の人びとを攻撃して処罰もされなかった。(略)
 1923年、カトリック政党であったイタリア人民党は、ファシスト行動隊からの攻撃と、教皇による党への支持撤回という二重の衝撃のもとで崩壊した。ムッソリーニ教皇に対して、教皇によるファシスト党支持への見返りに、教会の地位を改善する約束をしていたのである。
(略)
 ファシスト党が政府内に入った今や、左翼の弾圧と自由経済の承認で安心した保守派から、多くの者が入党した。彼らは、ムッソリーニが秩序を再建し、それによって「平常化」が実現するだろう、と期待していた。
(略)
[ムッソリーニは]1924年の総選挙でファシスト党が議会多数を勝ち取るために、まず選挙法を作り直した。(略)
1920年代末までには、ファシストのイメージとして優勢なのは、「かまうもんか」といって社会主義者に殴りかかる若い独身の男、というものではもはやなくなり、新たな国民国家建設のために九時から六時まで働く責任ある夫にして父、その妻はイタリアのために子供たちを産み育てる、というものになっていた。
(略)
党はもう一つの余計な官僚機構のようになり、党という切り札が、国家公務員における昇進の必要条件となった。(略)
ファシズム国家における権力への接近が、通常の官僚選抜や訓練といった方法だけでなく、イデオロギー的な従順さがあるか否かによって決定づけられるようになった

ドイツ、1933年3月23日

議場内部では、大統領と内閣が位置する壇上の背後に、巨大な鉤十字の旗が下がっていた。議場に入るために議員たちは、建物前の広場に密集していた鉤十字印を身につけた横柄な若者たちからの攻撃に、耐えなければならなかった。彼らは議員たちに向かって、「中央党の豚野郎」とか「マルクス主義者の雌豚」とかと、大声で罵詈雑言を浴びせかけていたからである。共産党の議員たちは、議事堂焼失に党が関与していたという難癖をつけられて、すでに投獄されていた。何人かの社会主義者も収監され、別の何人かは建物に入ろうとしたところで逮捕された。議場ではナチの突撃隊員が社会主義者の議員の背後に並び、出入り口を固めていた。(略)
議会の承認を必要としない立法権を首相に認める(略)法律は憲法改正を必然的に伴うものであったので、議員の三分の二の賛成が必要とされた。したがってナチは、保守派の支持を必要としていた。法案の説明に立ったヒトラーの演説は、議会の存続や、保守派の象徴である大統領ヒンデンブルクの地位は脅かされることはない、として、保守派を安心させるものであった。(略)
 反対演説に立った社会主義者オットー・ヴェルスは、「人間性と正義、自由と社会主義という原理」について、勇気をもって喚起した。(略)激しい感情から詰まったような声になりながら、すでに強制収容所や監獄に囚われている人たちへの思いを述べて締めくくった。夢中になってメモを取っていたヒトラーは、社会主義者こそが14年間もナチを迫害してきたではないかと非難して、激烈に反論した。(略)
社会主義派の議員からヤジが飛んだが、彼らの背後に控えていた突撃隊は、「お前ら今日こそ縛り首だぞ」と、ひそやかに呻いた。
 全権委任法は、社会主義者の94票の反対に対して441票の賛成で可決された。それは法の支配の終焉を告げ、総統の意志に基づいた新たな類いの権威に基礎を与えるものであった。(略)社会主義者たちが次の犠牲者であった。

権力への上昇

 ヒトラーが権カヘの道を見出すのにムッソリーニよりも長いことかかったという事実は、ナチズムを単に危機と、人びとの「方向喪失」との産物なのだとするような見方に、警鐘を鴇らす。
(略)
 それでもヴァイマル共和国は存続していた。主要な政治勢力が支持していたからである。イタリアの場合とは違って、ドイツの社会主義者たちは共和国体制を擁護し、労働者たちのゼネストカップ一揆の失敗を確実なものにした。一揆が成功するには軍の支持が肝腎であったが、その軍部は、英仏がドイツにおけるナショナリズム体制を容認しないであろうと知り、当面、民主主義を受け容れたのである。
(略)
ヴァイマルの政治はなんでもありの状態に頽落し、各利害集団がそれぞれ他の集団に対して、国民的な利害を(ということはすなわち自分たちの主張する利害を)優先していないではないか、として非難するという事態になっていった。ナチ党が勝利したのは、彼らこそは個別の諸利害をネイションのために従属させることができるのだと、幅広い有権者たちを納得させられたからであった。(略)
[1929年大恐慌で]
 600万の労働者たちの多くは、貧困をもたらしてしまったように思われた現体制を断念して、共産主義へと(いくらかの場合には褐色シャツのナチズムヘと)乗り換えた。共産党は、ナチ党と並んで票数を上げた。議会による統治は不可能となり、1930年から、政府は政令によって行動せざるをえなくなった。もはや連合国を恐れなくなった軍部は、つねに政治に介入するようになった。ドイツの民主主義は、ヒトラーが権力を掌握する以前から、すでに死にかかっていたのである。
 1923年の一揆に関わったことで収監されている間に、ヒトラーは、自分自身の失敗に照らしてイタリアの事例を考え直し、権力を勝ち取れるのは投票箱を通じてでしかない、という結論を得ていた。はじめのうち選挙プロパガンダは、主に工業労働者に向けたものであった。共産党から彼らを引き剥がそうと、望んだのである。
 しかし1928年の選挙では、農業危機にひどく苦しんでいたプロテスタント系の農民たちから、予期しない支持を得ることができた。この時からナチ党のプロパガンダは、よりいっそう保守系の投票者たちを狙ったものとなり、それによって、1930年選挙での躍進に成功したのである。
(略)
ナチの運動は、社会主義者からも、少数ながら意味ある得票を勝ち取った。それは、多かれ少なかれ男女同等に訴えかけるものであった。1932年7月の選挙では、ドイツの労働者階級の四分の一ほど、とくに小都市の小さな企業の労働者たちが、ナチ党に投票したと見なされている。
(略)
1933年3月5日の選挙でナチ党は、期待されたほどの成果はあげられなかったが、ドイツ国家国民党の支持を得て、全権委任法を成立させることができた。
 続く数週の間に、労働組合は禁止され、ナチではない右翼諸政党は自主的に解党し、そしてユダヤ系の国家公務員は解雇された。一般の人たちは、反対意見を述べた場合に待っている運命がよくわかっていた。この事実は、はたしてドイツ人は皆がナチ支配に同意したのか、それとも単に大衆集会でヒトラーを讃えただけなのか、という問題への見解を示唆するであろう。
(略)
 ナチの急進的な態度は、とくに政治面で明白であった。法の支配の破壊は、単に恣意的な弾圧や強制収容所への拘束、あるいは処刑を意味しただけでなく、規則に基づいた統治・司法・行政の、まさに基盤そのものの腐食を意味していた。公務員は強制的に解雇され、党の諸機構と親衛隊とが並列的に行政を担当したが、それらの要員は、公務上の手続きによってではなしに、イデオロギー的な基盤と党への貢献によって採用された。それまではあり得なかったような経歴を持った人びとが、影響力のある地位に上昇した。
 イタリアにおけるファシズムの場合と同様に、労働組合の急進派や、ナチズムが女性の地位をもっと平等にすると期待していた人びとは、権力の座についたナチズムにまったく失望した。
(略)
 ヒトラーのたいへんな人気は、共産主義を破壊してドイツの国際的な地位を復活させたことから来ていたが、それはまた、各地区でユダヤ人が被っていた運命への無関心とも対になっており、反ユダヤ主義者たちに計画を実行する絶好の機会を提供した。
(略)
 ドイツの軍部や公務員、大学教授団(略)体制のさまざまな構成要員たちは、ヒトラーの行動計画を実現することを熱心に、相互に競い合った。ある活動家が語ったように、彼らは「総統の方を向いて」仕事をしたのである。ヒトラーにとっては、細部にわたってまで政策を語る必要はなかった。(略)
 さまざまな権力が入り乱れた状態だったので、政策立案者たちは、道義や法による拘束を気にしなくなっていた。統治の原理は不確実なものとなり、体制の犠牲者たちは救いなく放置された。

チャンドラ・ボース

 インドでは、国民議会の左派的リーダーであったチャンドラ・ボースが、はじめのうちイタリア・ファシズムを、19世紀のイタリア復興、すなわちリソルジメントの後継者とみなして、魅力を感じていた。1926年に彼は、ファシズム共産主義の新たな総合をインドは実現するであろう、と主張したので、イギリス当局は彼を明白なファシストと見なした。
 しかしボースは、議会内で反ファシストたちから圧力を受け、自分の見解を穏やかなものに切り替えていった。それには、ヒトラーが、人種論に基づいたイギリスによるインド統治を正当だと発言したことも、いくらかの理由として関わっていた。ボースは、今度はケマル・アタチュルク社会主義的な権威主義へと関心を向けた。しかし彼は、イギリスの敵がインドの独立達成の助けとなるという期待を、最後まで捨てなかった。1941年、彼はベルリンに向けて脱出し、そこで捕虜〔北アフリカ戦線で戦ったインド兵〕の間から募ったインド軍団形成に助力し、ついで、日本軍の捕虜〔イギリス領マラヤシンガポールで戦ったインド兵〕から形成されたインド国民軍に期待を寄せたのである。