ヘーゲルと近代社会 チャールズ・テイラー

メモ代わりにザックリ引用するので、意味が通らないところは現物にあたって下さい。
あと、著者の主旨は「なぜヘーゲルの哲学が、たとえ彼のガイストの存在論はほとんど信じられないとしても、今日でも依然として興味があり適切であるのか」なので、「ガイスト」のあたりで「無茶苦茶じゃー」と匙を投げないで次回を読んで下さいw

カント倫理学「私は徹底的な意味において自由」

 もし人間も内省においてにせよ外的観察においてにせよ、客体化された自然の一片として扱われるべきであるならば、人間の動機づけは他のすべての出来事のように、因果的に説明されなければならないであろう。この見解を受けいれた人々は、これは自由と両立しないものでもない、なぜなら自分自身の欲望によって動機づけられる時には、どんなに因果的に決定されていても、人は自由ではないのか、と論じた。
 しかし、自由についてもっと徹底した見方をする立場からすれば、これは受けいれられなかった。道徳的自由は、道徳的に正しいことのために、あらゆる傾向に逆らって決定することができる、ということを意味しなければならない。もちろん、このもっと徹底した見解は同時に道徳性に関する功利主義的定義を拒絶した。道徳的に正しいことは幸福によって、したがってまた欲望によって規定されるはずがなかった。
(略)
 さて、この徹底的自由の革命における大立者は、疑いもなくイマヌエル・カントである。
(略)
私は徹底的な意味において自由であり、自然的存在としてでなく、純粋な、道徳的意志として自己規定的である。
 これがカント倫理学の中心をなす、爽快な気分にさせる考えである。道徳的生活は道徳的意志による自己規定というこの徹底的な意味において、自由と同意義である。これは「自律」と呼ばれる。それからのどんな逸脱も、ある外的な考慮による意志のどんな限定も、ある傾向も、それが大変うれしい親切でも、またある権威も、それが神自身と同じほど高いものでも、他律として非難される。道徳的主体は正しく行為するばかりでなく、正しい動機から行為しなければならず、そして正しい動機は道徳法則そのもの、彼が理性的意志として自分自身に与えるごとき道徳法則、に対する尊敬でしかありえない。
 道徳的生活に関するこの見方は、自由についての気分を陽気に引き立たせたばかりでなく、また敬虔もしくは宗教的畏怖の感情を一変したのである。(略)だから人々は、崇拝する時ではなく、道徳的自由の中で行為する時に、神的なものに、無条件な尊敬の念を起こさせるものに、最も近づくと考えられたのである。
 しかし、この厳格な、人を奮い立たせる学説は、代償を強要する。自由は傾向と対照して定義されており、明らかにカントは道徳的生活を永久の闘争と見なしている。
(略)
彼はむしろ、われわれは完全性に近づくために苦闘する果てしのない課題に直面していると考えていた。しかし、彼の後継者たちにとって、これは激しい緊張の限界点となった。

へーゲルの精神、ガイスト(Geist)

[人間は]宇宙的精神が自己表現――その最初の企てはわれわれの眼前の自然である――を完結させる際の媒介物である。
(略)
自然が精神を、すなわち自己意識を実現する傾向にあるのにひきかえ、意識的存在としての人間は、自然を精神として、また自分自身の精神と同じものとして見ようとする自然把握に向かう。この過程において、人々は新しい自己理解に到達する。彼らは自分自身を宇宙の個々の断片としてだけでなく、むしろ宇宙的精神の媒介物として見るのである。
(略)
ヘーゲルがついに打ち出したのは、この種の考えであった。へーゲルの精神、すなわちガイスト(Geist)は、しばしば「神」と呼ばれているけれども、またへーゲルはキリスト教神学を純化していると公言したけれども、伝統的有神論の神ではない。(略)それは精神として人々を通してのみ生きる精神である。(略)しかし同時に、ガイストは人間に還元されるものではない。それは人間の精神と同一ではない。それはまた宇宙全体の根底に横たわる精神的実在であり、精神的存在として、それはもろもろの意図をもっていて
(略)
大成したへーゲルにとって、人間はついに、自分自身を自分より大きな精神の媒介物と見なす時、自分自身に到達する。
 こうした見地にとって、へーゲルの綜合はロマン主義的世代の根本的熱望の実現と見なされることができる。(略)
[だがヘーゲルはロマン派の人ではない]
 ヘーゲルを同時代のロマン派の人々から引き離すのは、綜合が理性によってなしとげられることを、彼が執拗に主張したことである。ロマン主義的世代の多くの思想家には、これは不可能な要求のように思われた。なぜなら、現実を分かりやすいものにするために、それを分析したもの、分断したものこそ、理性であったからである。

へーゲルにとって、絶対者は主体である。根底にあって自分自身をすべての現実の中に現わすもの、スピノーザにとって「実体」であったもの、そして「疾風怒濤」に示唆された人々にとって万物を貫いて流れる神の生命と見なされるようになったものを、ヘーゲルは精神と解したのである。しかし、精神もしくは主体性は必然的に具体化している。したがって、ガイストもしくは神は、それがささえ、それが現われる宇宙から切り離されて現存することはできない。これに反して、この宇宙はそれ〔精神、神〕の具体化であり、この具体化がなくてはそれは、私が私の具体化〔身体〕なしには存在しないであろうと同様に、存在しないであろう。
(略)[13ページ程経過](略)
理性的主体としてガイストは、理性的必然性に従いながら、自分自身の本性よりほかの何物にも従っていないからである。
(略)
唯一の出発点は、主体性を存在させよ、という要望である。
(略)
実際に現存するとおりの世界の全構造は、この要望から理性的必然性に従って生じているのである。
 われわれは余りにも安易にここで起こりかねない誤解を避けなければならない。へーゲルは現存し生起するあらゆるものが必然的に生じてくるとは言っていない。彼は諸物の根本的構造、諸存在の水準の連鎖、世界史の一般的輪郭について語っている。これらは必然性の現われである。しかし、この構造の中には偶然性を容れる余地があるばかりでなく、偶然性がいわば必然的に現存するのである。なぜなら、われわれは存在のすべての水準が独立に現存することを知っているからである。
(略)
カントのように、それはわれわれに、われわれの心の限界について何かを語る、と論ずることもできる。しかし、世界はガイストによって理性的必然性、すなわちこのような極限概念によって押しつけられた必然性、に従って定立されていると考えるヘーゲルは、これらの極限概念をむしろ宇宙の輪郭を描くものと見なしている。
(略)
われわれは理性的主体性を存在させるという目標の中に、出発点がなければならないことを見たからである。
(略)
 しかし、ヘーゲルはそれをこのようには見ていない。ガイストが自分自身についてもつ透察の中には、絶対的出発点は存在しない。むしろ円環がある。
(略)
ヘーゲルは有限な現実から出発しながら、理性的必然性に従って世界を定立する宇宙的精神の現存を論証することができると主張する。

対立の克服

[人間と自然の対立]人間は知る主体としても行為者としても自然から引き離されることになる。(略)
 人間と自然との間の認識論上の裂け目は、その最も有名な形では、カントの現象と物自体との区別の中に表現されている。(略)へーゲルはカントの物自体に強力な論駁を加える。(略)どうして知識を越えている、すなわち心もしくはガイストを越えている何かがありうるのか、その証拠に、ガイストは結局、全体もしくは現実と同一になるではないか。
 もっとはっきり言えば、世界に関するわれわれの知識が最後にはガイストの自己知識に変わるという事実において、対立は克服されているのである。(略)
思弁哲学のもっと高い透察では、世界は思惟にとって他者であることを止め、主体性は有限性を乗り越えるのであり、したがって両者は合致する。
(略)
カントの物自体(Ding an sich)の説に対するヘーゲルの答えは、有限な主体の知識を無限な主体の自己知識へと登りつめさせながら、人間と世界との間の障壁を取りこわすことである。しかし彼はこの障壁を、主体と客体とが最後には一種の名状しがたい統一直観において合致することが感得されるロマン派の〔理性〕放棄によって、突き破ることはしない。
 むしろヘーゲルは、自由を失わずに有限な精神を無限な精神と合体させる問題を、彼の理性の観念によって解決する。
(略)
われわれがガイストの媒介物として十分な役割を引き受けるようになる時、われわれの何物も放棄されはしないのである。

なぜヘーゲル

なぜヘーゲルの哲学が、たとえ彼のガイストの存在論はほとんど信じられないとしても、今日でも依然として興味があり適切であるのか
(略)
資本主義経済の冷酷なもろもろの帰結を緩和するために招来された、社会に関する補足的考え方の多くは、例えば平等、個人への再分配、弱者の人道主義的保護の諸観念は、それら自身が啓蒙主義から生まれ出たものであった。もちろん、ロマン主義的諸観念も近代の文明に貢献した。例えば、各人の充実は独特であって、他の誰によっても予見されず、まして命令されない、という表現主義的観念は、現代の個人の自由に対する信仰の本質的部分である。
(略)
近代文明は集団的構造の増大する合理化と官僚化、自然に対するあからさまな収奪的姿勢のほかに、私的な生活と充実に関するロマン主義的見解の急増を見たのである。こう言ってもよいと思うが、近代社会は、その私的な想像上の生活においてはロマン主義的であり、その公的な実際上の生活においては功利主義的もしくは道具主義的である。
(略)
これらの集団的構造が私的なロマン主義を日ごとに圧倒することは、産業回転の輪を保つために、〔自己〕充実というロマン主義的イメージを収奪することに、例えば現代の多くの広告に明らかである。
(略)
 ヘーゲルが今日重要であるのは、われわれが原子論的、功利主義的、道具主義的人間観と自然観から起こる展望の幻想と曲解を批判する必要を繰り返し感じているのに、同時にそれらがロマン主義の反=幻想をしぼませながら、絶えずそれを生み出しているからである。ヘーゲルがまさにこうした批判をすることに、しかも洞察の例外的な深さと看破力を備えて、絶えずたずさわっているからこそ、たとえ理性の必然的展開に関する彼自身の存在論が、彼の攻撃する諸学説のあるものと同様に、われわれには幻想的に思われるにしても、彼はわれわれに語るべき何事かをもっているのである。

次回につづく。

 

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