初期マルクスを読む

第一章だけ読んだ。

ヘーゲル批判

 マルクスは近代批判としてヘーゲル批判をするわけですが、批判の対象となる書物としては『法哲学要綱』がもっともよく取り上げられる。もう一つ『精神現象学』があるのですが、これについては丁寧に全部読んだ上で、そこから問題を引き出すというようにはなっていないと思います。マルクスにとって、『精神現象学』は、人間の内面的な問題と、社会や歴史の問題とが混在していて、やはり扱いに困る書物であったようです。マルクスが近代批判を構想するとき、時代の社会状況、歴史的状況にこそ、最大のポイントが置かれる。そのことは、若いマルクスを考える上で、つねに留意すべき重要な視点です。
 ヘーゲルの哲学体系のなかで、社会の近代性が一番豊富に盛りこまれている作品といえば、『法哲学要綱』ということになる。だから、『法哲学要綱』が批判の俎上に載せられるのは、それがもっとも批判しやすいからではなくて、ここにヘーゲルの近代思想が、つまりヘーゲルのつかんだ肯定的な近代のイメージがしっかりとあらわれているとマルクスが理解したからです。ここを批判すれば、近代を、またヘーゲルを、もっとも根底的なところで批判することができる、というのがマルクスの着眼でした。マルクスに限ったことではなく、思想の闘いというものは一般にそういうもので、敵の弱みを突くというのでは、本当の意味で思想の闘いとはいいにくい。一番がっちりと語られていて、問題も揺るぎなく立てられているところこそが、もっとも批判に値する。もちろん批判するためには、こちらもそれに匹敵するだけの認識を提示しなければならないし、新しい社会観をなんとか作り出さなければならない。そこで、若いマルクスは、いまだヘーゲルの成熟した思想には及ばないとは知りながらも、しかし近代がこれほど肯定的にとらえられていることは、どうしても納得できない、と批判していく。結局、批判することで自分が鍛えられていくといった、そういう場としてマルクスは『法哲学要綱』を想定している。
(略)
 マルクスは、『法哲学要綱』を全体としてヘーゲルの近代観のもっとも見事な表現だとし、なかでもその最後の「共同体の倫理」の箇所にこそ、ヘーゲルの社会哲学の精髄があると考える。
(略)
 家族、市民社会が元になって、そこから国家が、あるいは国家の理念が出てくるのに、ヘーゲルでは理念や国家が家族や市民社会を生み出すことになっている。そういう言いかたでマルクスヘーゲルを批判する。
(略)
 本来は、主語が運動していかなければならないのに、ヘーゲルの場合は述語にしか運動があらわれない、と言っている。こういう批判はこの本にくりかえし出てきます。マルクスの言いかたに慣れてもらうために、もう一つ読んでおきましょう。


 ヘーゲルは対象から出発して思考を発展させるのではなく、抽象的な論理学の領域ですっかり出来上がった思考に即して、対象を発展させる。政治制度という具体的理念を発展させることが課題ではなく、政治制度を抽象的理念と関係づけることが、いいかえれば、政治制度を理念の生活史の一部に組みいれることが、課題なのだ。あけっぴろげの神秘化だ。


 神秘化とは、ものごとを曖昧にするものなのに、ヘーゲルはそれをいわば大っぴらにやっているという。皮肉たっぷりの言いかたですね。(略)有名な『資本論』の序文にある、ヘーゲル弁証法は頭で立っている弁証法だという言いかたと符合します。現実から抽象がおこなわれて理念が生み出されるのではなく、あらかじめ理念が作り上げられていて、それに事象を当てはめていくような、そういう哲学の構成の仕方なのだ、と。これを読むと、「そうか、だからヘーゲルは駄目なんだ」と思いがちですが、ヘーゲルがそんなことをしたわけがない。現実から理念へ、そして理念から現実へ、何度も行ったり来たりしながら理論を作り上げていく。それがヘーゲルのやりかたです。しかし、マルクスの目から見れば、ヘーゲルが観念的に逆立ちしているように見えることは、これまた嘘ではない。思想と思想が出会うとき、とくに異質な思想がぶつかるときには必ずこういうことが起こるのですね。相手の理論に強い不満を抱いたときには、だれでもこういう言い回しをするもののようです。
(略)
家族、市民社会というものは矛盾に満ちたものなのですが、以後に国家が大きく覆いをかけて、すべての矛盾を解決する、といった展開になっている。ヘーゲルは、そのように国民国家、近代国家というものは、社会の矛盾を新たに秩序立てるだけの力をもっていると考えていた。時代はそのようにして、国民国家に向かうと考えていた。
(略)
もちろん若きマルクスには、国家というものがいかに矛盾をはらんでいるかを理論的にきちんと解明することはできない。もっとあとにならなければ、いやあとになっても、マルクスは国家論をきちんと展開はできなかった。展開できないまま、ヘーゲルの国家論には強い違和感を覚え、鋭く批判する。つまり、主語と述語が入れ替わっているとか、市民社会と国家の間がそんなにうまく統一されるわけがないといった批判です。

 市民社会は、人間が欲望のままに動いている生々しい現実的な動きとしての社会であり、その上に政治的な国家がもっと抽象化された存在としてある。さらにその上に、次の『ユダヤ人問題のために』で出てくるのですが、宗教がある。マルクスの目から見れば、このように民衆(人間)、市民社会、政治的国家、宗教というように、だんだんと抽象度が高まりつつそれぞれが層をなしている。(略)
そうなると当然、現実的であろうとすれば、もう一度、この民衆や人間のレベルに帰っていかなければならない。それがマルクスの考えです。それにたいしてヘーゲルの論理は、理念的にしだいに高まっていき、政治的な国家へ、そして宗教へとたどりつけば、そこで社会全体がきちんと統合されたしあわせな共同体になるという具合に話がまとまっていく。マルクスの思いからすれば、それはちがう、ということになります。
(略)
 しかし、ヘーゲルヘーゲルで、国民国家がきちんと成立すれば、だれもかれもがしあわせになるなどといっているわけではない。
(略)
人びとの生きかたを、社会全体として大きく見たときに、平均的にしあわせ度といったものが向上していく。つまり、国家的な施策が社会の矛盾にきちんと対応できていれば、社会全体がしあわせになっていくというふうに考えるのか。それともむしろ、国家というものが、多数がしあわせである社会を作りあげていく上で阻害要因として働いていると考えるのか。そこはものの見かたとして大きく分かれるところです。

ユダヤ人問題のために』

ここでもユダヤ人問題とは、いわゆるユダヤ人ないしはユダヤ教徒をめぐる問題圏と、少しずれたところに設定されています。
(略)
ここでのユダヤ人の像としては、マルクスがいっているわけではないのですが、シェイクスピアの『ベニスの商人』に出てくるシャイロックを思い出すのが自然ではないかという気がします。つまり、この世の中を動かしているのは金銭であり、金銭があらゆる権力もふくめて、人を動かすときのもっとも根にある力である、という考えを強くもつ人です。(略)金銭の合理性を社会に貫くことに価値を置くような人です。
 おそらくこの時代のユダヤ人は、国家というものを背負っていないのですから、個人としてアイデンティティなり、生きかたなりを確立するためのもっとも重要な基盤ないしは要素として、強烈な金銭的価値観というものをもっていたと思われます。それにたいしてマルクスは、そういう価値観が社会的に根拠をもつことを認めつつ、それをどう乗り越えていくかを考える。ここで問題となっているのは、そういうことです。
 その意味で、問題とされているユダヤ教というものを、あまり宗教的なところでは考えないほうがいい。さきほど触れた市民社会と政治的国家とがいかに非連続的かということを、ユダヤ人の金銭感覚ということに即して、マルクスがもう少し明確に展開したいと考えていた、と、そう考えたほうがいいと思います。

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