ヘーゲル『法の哲学』に学ぶ

スミスとヘーゲルのちがい

スミスの中では、貨幣を介した交換が導き出す世界は人々の自然的な欲望を否定してしまうという意識が強く、そのため貨幣は注意深く背後に隠されているところがあった。その結果、人々の自然的欲望が作り出す世界は、貨幣が作り出すそれとは明確に区別されていた。これに対してヘーゲルの場合、貨幣が作り出す世界は、人々の自然的欲望が作り出す世界を覆うように構想されている。そして一方には有用物としての個別的な商品が、そして他方には普遍的な価値物が、それぞれに重なり合って動いている。そして、この二つの世界をつないでいるのが貨幣存在だとも言える。それゆえヘーゲルが構想する世界では、人々は市場での商品交換を通して、いつのまにかこの二重の世界を生きていくことになる。

商品という存在

近代に入って新たに歴史の前面へと躍り出た商品という存在は、人々をどこに導いていくのか。その先にあるのは誰も今まで知ることがなかった夢のような共同性なのか、それともそのまったくの反対物なのか。誰もが真剣に問い続けていた。その中の最もスケールの大きな二つのモデルがスミスとヘーゲルのそれだったとも言える。スミスは貨幣を後ろに隠して彼のモデルを作ったが、ヘーゲルはあえて貨幣を再び持ち出してきて、その普遍的性格に賭けたのかもしれない。しかしマルクスはこの二人をさらに乗り越え、商品そのものの存在を否定しようとしていた。

貨幣

価値物の交換というところで市場を考えるヘーゲルにとって、それゆえ貨幣存在のもつ意味はきわめて大きい。これはスミスの市場認識の中では意図的に隠されていたものではあるが、ヘーゲルはこれをジェームス・スチュアートを介して自分のものにしていた。価値物としての商品交換の場合、一方ではどこまでも無限に広がる均一な価値的世界があるのに対して、他方ではそれとは対照的に、人々のますます多様化する欲望に対応するため、様々な種類の商品が生み出され市場に登場してくる。均一化と多様化、これがヘーゲルが見ている世界市場の質だともいえる。そしてこのまったく反対の方向に向かっていくニつの流れを一つに捉まえているもの、それが貨幣存在ということになる。そしてヘーゲルの構想は、この貨幣を介した市場の構図をもとに練り上げられていたと言える。

共同性形態論としての君主

私人としての欲望の前にともすれば蔑ろにされがちな公民としての意識を形あるものに仕上げるため、共同性そのものが姿を現わしたものとしての君主という規定が構想されてくる。いわば、価値形態論ならぬ共同性形態論とでもいえるようなものが、この君主だと言える。
(略)
ヘーゲルの国家の構想からは、近代という、それぞれに矛盾しあう質を常に併せ持って動いていく世界の中で、価値と有用性、均一化と多様化、共同性と自由といった互いに反発しあう両極を一つに捉まえておこうという努力の跡を読むことは出来る。しかし貨幣が価値と有用性を捉まえているからといって、上のように構成された君主が共同性と自由を捉まえられるかといえば、それは必ずしも可能だとは言えない。貨幣が力をもてるのは、それが絶対的な存在だからでしかない。

自由と国家

ヘーゲルの場合、自由への問いを、単に特殊的意志という個人の領域で処理するのではなく、それを国家の領域にまで引き上げてきて、そこで最終的な答えを導き出そうとしていたことは事実である。そのため、彼の試みが単に国家というものに特別な意味を与えるためだけのもののように受け取られてしまったことも否めない。しかし彼が国家の中に込めていた意味は、決してそんな小さなものではない。いわんや、プロシャ絶対王政を弁護するためだけのものなどでもない。彼が国家に込めていた意味は、歴史の継承という課題をそれに担わせることであり、と同時にこの課題をそこでの人々に意識させ、それによって国家を、彼ら一人一人の特殊的意志の自由がそこで実現されるような近代的な制度として整備していくことにあった。
(略)
単に抽象的な存在としての個人などではない。具体的に種々の文化や歴史を背負ってそれぞれの地域で生活する人々である。それらの人々が、自らに与えられた生活の中で、その社会的あるいは歴史的規定から出発し、それにもかかわらず自らの自由を実現すること、ヘーゲルが構想する自由の実現とは基本的にはそのようなものでなければならなかった。(略)
そしてヘーゲルの中では、そこに実現されるはずのものが、この『法の哲学』の最後におかれた立憲君主制としての「国家」だったとも言える。