ヘーゲルと近代社会・その2

 前日のつづき。

政治と疎外

ヘーゲルは単なる守旧派じゃないんですう、みたいな話)

[ホッブズの]見解は18世紀の功利主義的思想家たちにも受けつがれている。理性は今や「打算」を意味するようになり、実践理性は理性の裁定を越えている諸目的を、どのように〔理性内に〕閉じこめるべきかに関する賢明な計算である。(略)
義務の根拠は自然の中に見つけられなかった。むしろ、政治的義務は思慮(計算する理性)によって命ぜられた、君主に服従するという決心に基礎をおいていた。自己限定的主体にとっては、政務は自分自身の意志によってのみ創造されることができたのである。原契約〔社会契約〕の神話が非常に重要であるのは、ここに由来する。
(略)
[18世紀末期に起こった、功利主義に挑戦する見解]
それはカントの徹底した道徳的自律であった。この見解はある意味でルソーから始まり、ヘーゲルはそれをルソーの手柄にしている。
(略)
われわれはホッブズにおける義務の根拠を、死を避けようとする普遍的な欲望と見なすことができる。ここから、「平和のために努力する」という「自然の第一の法」が出てくる。(略)
 カントの目的はこの自然への信頼からすっかり自由になって、義務の内容を純粋に意志から引き出すことであった。
(略)
 さて、ヘーゲルはわれわれがここで略述した全発展をまとめ上げる。彼は人間が所属する大きな秩序という観念を、しかし全く新しい基礎の上に再建しようとする。だから彼は中世や初期のルネッサンスに見られたような、自然の有意味な秩序の近代的拒絶に全面的に賛成する。これらの秩序説は秩序を結局、ただ神によって与えられたものと見なした。諸存在の階層制は、それ以上は説明されることも正当化されることもできない究極のものであったし、またこの階層制の中で自分の固有の位置を占めることは、人間の義務であった。ところが、へーゲルの自由としての精神の観念は、われわれが見たように、単に与えられた何物をも受けいれることができなかった。あらゆるものは理念、精神もしくは理性そのものから、必然的に出てこなければならない。したがって、精神は最後には、単に与えられたどんなものにも反抗しなければならない。
 こうした理由のために、へーゲルは自己限定的主体の近代的肯定を必然的な一段階と見なす。そして、彼はそれの必然的な極致を、カントの徹底した自律の観念の中に見るのである。
(略)
へーゲルはカントに依拠しながら、この自律の原理を全く新しく編み庭す。彼はその原理から、この近代的意識が出発の際に拒絶したもっと大きい秩序の新しい変種を生み出す。彼はこのようにして、カントの理論が陥っている悲しむべきジレンマを克服したと信ずる。(略)

正しいことの基準は、純粋に形式的でなければならない。

道徳的自律は空無性を代償として獲得された

しかし、こういう趣旨の諸議論は非常に不安定であって、誰でもそれらに対する信頼を失うやいなや、どんなことでも道徳的に可能な行為として許せる、全く痛くもかゆくもない基準を押しつけられることになる。道徳的自律は空無性を代償として獲得されたのである。
 これはヘーゲルが決して倦むことなくカントに向けている批判である。
(略)
カントの徹底的自由の観念は、純粋に形式的であり、したがって空無であるので、徹底的自由が実現されるような政体、本来的に意志そのものの本性から引き出された諸目標に基づいた政体、それゆえすべての人に無条件に妥当するような政体について、新しい実体的透察を生み出すことができない。
(略)
われわれはそこでは、自律の理論が政治生活の問題をはっきりさせるために、功利主義まで後退しなければならないことを見た。しかし、徹底的自律の理論家たちがみずからこの欠点を痛感して、特殊的意志の闘争と妥協を乗り越えて自由の完全な表現を達成するような社会にあこがれることは、ありうることである。これこそへーゲルが『精神現象学』で描写し、また革命のジャコバン派恐怖時代に見た「絶対的自由」への推進力である。
(略)
この自由は空虚であるので、社会の新しい分節化した構造に対する根拠を与えない。それは現存する分節組織を、また起こってきそうなどんな新しい分節組織をも、破壊することを命ずるにすぎない。こうして、絶対的自由への推進力は、荒れ狂う破壊となり、「実験は最大の蛮行と恐怖に終わったのである」。
(略)
ルソーやカントが、また徹底的自律の革命的かつ自由主義的主唱者たちが、こぞって自由を人間の自由として、意志を人間の意志として定義したということである。へーゲルはこれに反して、人間は自分自身をガイストの媒介物と見なすことにおいて自分の根本的一体性に到達する、ということを示したと確信していたのである。
(略)
 これは状況を一変させる。徹底的自律の理論を悩ました空無性は、克服される。(略)
自律を実現しなければならない当の意志が、人間だけの意志ではなく、ガイストのそれであるならば、すべてが変わる。その意志の内容は、分化した世界を自分自身の中から産出する理念である。だから、行為を限定する根拠の欠如は、もはや存在しない。
(略)
ヘーゲルはこの点で異常な力業をなしとげたのである。(略)近代的主体性の革命以前には、人々は彼らの社会構造、すなわち君主制、貴族制、祭司的階層制などを、これらが神の意志とか存在の秩序とかを、要するに人間が究極的忠節心を捧げるべき諸物の基礎を、反映しているという理由によって、尊敬するように勧められた。王は神に油を注がれた者であるから、服従されるべきであった。
(略)
[ヘーゲルは]神的なものとしての国家について語る。そしてこの種のことを、われわれは保守的な、それどころか反動的な思惟の極め書きと考える。しかし、この秩序は伝来のそれとは全く異なるものである。その中には、理性自身によって明白に命令されない何物も存在しない。それゆえ、それは人間が単純に受け取らなければならない、人間を越えた秩序ではない。むしろ、それは本来の意味の彼自身の本性から出てくるものである。だから、それは自律を中心としているのである。自分自身から発する法則によって支配されることは、自由になることだからである。こうして、秩序が自律的な、理性的な個人に中心的位置を与える。へーゲルの政治論は全く先例も類例もないものである。自由主義的か保守的かの験し言葉を取り出して、それを分類しようとする試みは、ただ笑うべき誤解に導きかねない。
 そんなわけで、カントの道徳論の空無性に対するへーゲルの解答は、義務の内容を自由の理念から演繹することである。

義務の内容を自由の理念から演繹する

カントの道徳論は、もろもろの国家または個人が踏み越えてはならない限界を設定しながら、いわば政治論の縁にとどまっていた。対照的に、へーゲルにとっては、道徳性は政治論においてのみ、すなわちわれわれが助長し支持すべき社会の設計図においてのみ、具体的内容を受け取ることができる。
(略)
カントは倫理的義務を道徳性と同一視し、これを越えることができない。なぜなら(略)在るものと際限もなく対立する道徳的義務について、抽象的な、形式的な観念を提示するからである。(略)
われわれを一部として含むあのもっと大きい生命から後退したので、正しいことを現実的なものに永遠に対立するものと見なした。〔カントにあっては〕道徳性と自然とはつねに不和である。
(略)
ヘーゲルは、われわれが見たように、カントに従って出発し、意志と自由を自然から区別した。しかし、自由の充実は自然が(ここでは、粗野な、未発達な形態で出発した社会が)理性の諸要求に譲歩する時にある。
(略)
へーゲルは国家が個人のために現存することは否認する。言いかえれば、彼は国家が道具的機能しかもたず、国家が役立つべき諸目的は個人のそれである、という啓蒙主義功利主義的理念を拒否する。
(略)
国家は市民たちに対立する抽象的なものではないからである。むしろ市民たちは、どの部分も目的であって何一つ手段ではない有機的生命におけるように、諸契機である。……国家の本質は倫理的生命である。(『歴史における理性』)
(略)[15ページ経過](略)
 そんなわけで、しばしば信じられていることだが、社会に関するヘーゲルのとくに風変りな超個人的主体説なるものは存在しない。人間を媒介物とする宇宙的主体という非常に難解な説があるだけである。これは社会における人間論の中へ編み込まれており、この論自体は決して首肯されないものでも奇怪なものでもない。確かに、それはヘーゲル自由主義的反対者たちの誰かの原子論的考え方より、ずっとすぐれているのである。
(略)
理性に従うことは、国家のもっと大きい生命に関与することである。「国家においてのみ、人間は理性的現存をもつ」からである。十分に理性的な国家は、人々が自分の「実体」として一体となる最初の共同体ではない。これに反して、すべての重要な歴史的発展は、このような共同体において起こる。国家の外部に、例えば族長制的部族社会に生きているような人々は、歴史が本当に始まる以前にせよ、歴史の周辺においてにせよ、全く歴史の埒外にある。歴史の終わりに到来するのは、共同体そのものではなく、むしろ概念に、自由と理性に、初めて十分に相応する共同体である。
 それゆえ、歴史の歩みはこのような共同体の継起と見なされうる


[うーん、結局、どうも、?……だったw:引用者]

選挙

西洋社会の民主的実践は、われわれの時代において、第二の運命〔的死〕めいたものを経験しているようである。多くの国民は投票の正当性や周囲にある制度、選挙、議会などを、もはや社会的決定の媒介物として受けいれかねている。(略)
選ばれた代表者たちによってなされた諸決定は、まやかし、全員一致をよそおう操作という烙印を押される。集団的決定(すなわち単に国民のためにではなく、国民によってなされた決定)の規範に関するこうした規定のし直しとともに、われわれの現在の代議制度は欺瞞として描かれ始めている。そして、人口の相当部分はそれらの制度から疎外されている。

ということで、次回は、ヘーゲルの青年期の最高潮をなす事件、フランス革命への解釈。