木田元のカンタン哲学講座

よくある「〜でもわかる哲学」の類ってちっともわからないというか、わかりたいところが書いてなくて、この本の前半の木田によるカンタン哲学講座の方がずっとわかりやすい。ここらへんだけまとめて新書にしたら売れそう。

精神の哲学・肉体の哲学 形而上学的思考から自然的思考へ

精神の哲学・肉体の哲学 形而上学的思考から自然的思考へ

ソクラテス

あんなにまで否定作業をしなきゃいけなかったのは[ポリス時代の末期だったからで](略)
 もともとポリスっていうのは、一種の精神的共同体のようなところがあり、そのうえ共同防衛組織でもあったわけです。つまり個人が全体のためにかなり自分を犠牲にしなきゃ成立しないような組織だったわけですけれど、どうもソクラテスの時代には、それこそソフィストなんて連中がやってきていい加減な詭弁術を教え、それを使って市民の一人一人が自分の権利を不当に主張するようになり、そういった精神的共同体としてのポリスというものが崩壊する寸前だったにはちがいなさそうです。(略)
[衆愚政治]のままじゃ、つまり成りゆきまかせの政治じゃどうにもならないって、ソクラテスはたぶん思ったんだと思うんですね。ソクラテスがそこまで考えたかどうかは分からないけれども、ポリスというのははっきりと理念をもってつくられなきゃ、形成されなきゃいけないものだと、少なくともプラトンはそう考えたんです。(略)
すべてのものがつくられたものであり、なおつくられるべきものである、つくりつづけられるべきものなんだという一般的な存在論のようなものを展開して、その上で、だからポリスもそうなんだと言わなければ、どうも説得力に欠けるんですね。ですから、どうもプラトンはそういう政治哲学のようなものを基礎づけようとして、「つくる」ということを正当化するイデア論なんていうあの超自然的な原理を立てるものの考え方をもち出してきたんだろうと思うんです。

デカルト

僕はどうもね、デカルトにおける「近代的な自我の覚醒」なんていう話は、なんだかいい加減だなと思うんですけれどもね。[それより数学的自然科学の基礎付けの方が肝心](略)
ケプラーにしたって、ガリレオにしたってね(略)自然研究の結果得られた経験的な法則のようなものを数学的に表現してみたら、どこにでも適用できそうな一般的公式がつくれた、やってみたらうまくいった、といった程度のものだったのだと思います。(略)
ところがそれを、たとえば自然法則というのは数学的な表現に適するようにできているんだというふうに原理的に論証してみせた。これがデカルトの功績なんだろうと思いますね。(略)
[それまでの自然観は]すべては生きて生成するんだというね。こういうカップのような無機物にも「実体形相」なんていう芯になる一種の微弱な魂みたいなものがあって、それが外に発現してこういうふうな形を形成しているんだなんていう考え方をしていた。(略)[デカルトはそんな考え方を御破算にして]自然というのは幾何学ですっかり割り切れるような、縦、横、高さだけの空間的な拡がりでできているんだと主張してみせた。

「方法的懐疑」

理性というものは、神様の理性の出張所のようなものだと考えて、その理性はたしかにわれわれの内にはあるけれども、人間のものではない。(略)神の理性は世界創造の設計図のようなものですから、その写しのようなものをわれわれは与えられているわけなんですが、これをうまく使いさえすれば、世界の存在構造をちゃんと捉えることも可能なわけですよね。
 ただ、そのためには感覚的な経験によって手に入れたようなものを、そこに混ぜこませない必要があるわけです。なるべくそういうものをひっぱがしていく。デカルトがまず主張する「方法的懐疑」というのは、そういう感覚的な経験のようなもの、身体に由来するようなものを全部否定していって、その上で理性とか精神というものは身体がなくてもそれだけで存在できるし、機能できる。むしろそれだけでものを考えたときにこそ、世界の本質的な存在構造のようなものを「洞察」できるということなんです。

身体は無くても精神は存在できるしし、ちゃんと機能できるんだ、むしろそんなものは無いほうがいいんだ、なるべく身体の働きなんかは介入させないで、精神を精神だけで純粋に働かせれば、それこそが神をたたえる道、信仰の道につながるんだ、と主張するんです。そうすれば、肉体的な感覚器官に与えられる質なんていうものは全部捨象されて、精神が洞察する量的な関係だけですべてを処理できる。この世界はそういう精神が洞察する量的な関係だけから成っているんだというふうに考えれば、それは自然研究の成果を数学的に表現できて当然だという考え方につながる。

カント

これが『純粋理性批判』の成果なんですが、カントにしてみると、本当に言いたかったのは実はこれではなかったんですね。カントは、わりに信仰心の篤い人だったんです。(略)
「信ずる」ということは、もうひたすらに神を信ずることであり、「知る」ということとはまるで違う心の働きなんだ、と言いたかったんです。ですから、「知る」という心の働きはどの程度のものなのかを決めて、その範囲を制限し、「信ずる」という心の働きの活動の余地をそっくり残しておこうというのが、カントにしてみると、自分の哲学の本当のねらいだったわけなんですね。
 神と言えば、あくまで信仰の対象であって、認識の問題じゃないんだ。神が存在するかしないかを「知る」なんていうのは、問題外。神というのは、そういう心の働きの対象じゃない、ということを主張したかったんです。だからカントにしてみると、『純粋理性批判』を書いた後、『実践理性批判』で「信ずる」という心の働きを究明してみせるつもりがあった。これをするために、それに先立つネガティヴな作業として認識という心の働きの活動範囲を限定しようとして『純粋理性批判』をまず書いた、ということになります。そして、ドイツ観念論の時代になんかは、『純粋理性批判』よりも『実践理性批判』のほうがずっと重視されていたらしいんですね。僕たち現代人には、そのあたりよく分からないところがあるんですが。
[『純粋理性批判』が扱う現象界は因果でがんじがらめ、レイプ殺人等道徳的責任を問うには自由意志、それを扱うのが『実践理性批判』]

われわれが認識しているのは、あくまでも現象として現れてくるかぎりの物でしかない。物それ自体ではないんですよね。(略)
道徳的な行為がおこなわれる場面は、物自体としての僕と物自体としての他者とのあいだ、これが実践理性の発動する場面ということになります。ここではわれわれは因果関係で縛られてはいない、自由意志の活動しうる場面ということになる。
 ところが、それでは因果関係で縛られている現象界か、自由が大手を振って歩ける物自体の世界かの、この二つしかないかっていうことになると、ちょっと困ったことになる。(略)判断力が活動する場面を確保しなきゃならないっていうんで、それを問題にしたのが、『判断力批判』なんです。

ヘーゲル
ニュータイプw、時はキターw)

[我国は統一もままならぬのに隣国フランスでは革命の報に、二十歳そこそこのヘーゲルたちは大興奮]
隣の国から、本当に世界の大転換じゃないか、人類の夢の実現じゃないかと思われるようなニュースが次々に入ってくるもんだから、自分たちは人類の精神が絶対精神に、絶対的自由を獲得した精神になろうとしている、その終幕に立ち会って、それを見ているんだ、と思った。あるいは思おうとした。
 だから、その人類の精神がこれまでの苦難の過程を全部振り返って、もう一回、これを整理し直す場を自分たちが提供してやろうというんで書いたのが『精神現象学』ということになるわけです。だからあの本は本当に人類の精神が絶対精神に成り出でる、絶対精神に現象していくその過程を描いたつもりのものなんですね。(略)
今まで外からきた材料だと思っていたものも、実は自分たちが発動させてきた形式なんだ、ということに気がつく。(略)もう何ものによってであれ、外から制限されることのない絶対的な自由を味わうことのできるような精神になる。つまり絶対精神としての自覚に達する。

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