ヴェニスの商人はいかにして資本主義を

フィボナッチ

[13世紀]旅をしながら貿易を営む新しいタイプのイタリア商人があらわれた。その1人がマルコ・ポーロ(略)[もう1人が]レオナルド・ダ・ピサがその人であるが、今日ではフィボナッチの名のほうが有名だろう。[父の]赴任先のバーバリ(現在のアルジェリア)で育ったフィボナッチは、地元の市場で過ごしているうちに、アラブの商人たちが使っていた数字に夢中になった。(略)アラビア数字による算数はいまでこそ一般的だが、当時のヨーロッパではほとんど知られていなかった。代わりに、文字を書くことができる人はローマ数字を使って数を記録し、加減算のために算盤を使っていた。算盤といっても、砂で覆った板に小石を置いただけの単純なものだった。
 アラブの商人は9世紀ごろにはインドの数字を習得しており、それらを使って金利や両替の計算など、交易にかかる問題を解決していた。このインド・アラビア数字をイタリアに持ち帰り、ラテン語の著作のなかで紹介したところ、フィボナッチは、数学者として一躍その名を知られるようになった。

複式簿記為替手形

[1410年フィレンツェで死亡したフランチェスコ・ダティーニは]約50年にわたって帳簿をつけていた。そこには単式簿記から複式簿記への移行がはっきりと見てとれる。(略)
 ダティーニは為替手形も扱った。(略)これらの手形は12世紀にヨーロッパにはじめてあらわれ、新しい資金供給手段として広まった。ダティーニの時代には金利を要求することは暴利をむさぼる行為だとみなされており、融資に際して固定金利を設定することは教会により禁止されていた(略)為替手形が広まったのは、その収益に魅力があったからだけではなく、教会の目をかいくぐることができたからである。(略)為替手形は事実上、為替レートの変動に左右されるので、実際に利益が出るかどうかはわからない。そのため教会は、その利益を金利とみなさず、使用を許可したのである。とはいうものの、銀行業務全般(とくに為替手形)に対する世間の目は冷たかった。
(略)
 ダティーニは、14世紀のイタリアに誕生した国際的なマーチャント・バンカーの1人だった。彼らはロンドンからコンスタンティノープルに至る広大な領域において、貿易と信用取引のネットワークを築き、15世紀に入ると、その巨大な富を建築、芸術、学問に投じ始めた。これが事実上、ルネサンスヘの資金供給となった。ダティーニはこの新しい時代を先取りする存在だったが、現実の社会では、閉鎖的で制約の多いギルド(同業組合)という中世ヨーロッパのしくみが、貿易や商業を支配していた。ダティーテが採用していた初期の複式簿記では、新しいインド・アラビア数字ではなく、昔ながらのローマ数字が使われていた。インド・アラビア数字が会計の記録に使われるようになるのは15世紀の終わりごろになってからである。
 効率的で便利であるにもかかわらず、インド・アラビア数字がイタリアで受け入れられるようになるまでに300年という年月がかかっている。ギルドや教会に使用を禁じられることもたびたびだった。新しい数字は不正が容易で、改ざんが難しいローマ数字のほうが優れている、と考えられていたからだ。
(略)
[こうした状況の中、インド・アラビア数字を強く推奨したのが]世界初の簿記専門書を著し、複式簿記の体系化と普及に貢献した[「会計の父」ルカ・パチョーリ]

ルカ・パチョーリヴェネツィア

 いかに拒絶されようと、法律で禁じられようと、イタリア商人たちは新しい数学を受け入れ、「アバッコ(abbaco)」数学へと進化させた。パチョーリによれば、アバッコとは、算盤(abacus)とは関係なく、アラビア方式(mode arabico)という言葉から転じたものらしい。実際、この計算方法を使えば算盤は不要となる。アバッコは、インド・アラビア数字を紙に書いて四則計算を行うという、いまでは当然のように行われている計算を可能にした。
(略)
 1464年、19歳のルカ・パチョーリは、サンセポルクロの町を出て、無法者や追放者がうろつく荒廃したローマ街道をたどり、ヨーロッパ随一の国際都市、ヴェネツィアを目指した。(略)
「湿り気に満ちた空間に、点在する島々。堆積する泥に沈みかけた土地。堤防のように連なる細長い島によって外海から守られている――美しく荒廃したこの場所こそヴェネツィアの潟(ラグーン)である」。
(略)
 10代のパチョーリが到着したとき、壮麗なるヴェネツィアは依然として商業の中心地だった。1460年代の人口は約15万人で、ヨーロッパ大陸ではパリ、ナポリに続いて3番目の規模を誇っていた。(略)他の都市国家と違い、教会の支配よりも商業を優先し、コンスタンティノープル陥落から1年後には、キリスト教の敵であるオスマン帝国との講和条約に署名し、争いに巻き込まれることなくビジネスを続けた。(略)
 ヴェネツィアを動かしていたのは実利主義であり、この方針が富と権力をもたらしたと言える。繁栄への道を歩み始めたのは9世紀で、そのきっかけとなったのが、ビザンチン帝国と結んだ交易上有利な取り決めだった。1つは塩の専売権である。当時、食品を保存するための塩は金よりも需要が高かった。もう1つは海洋支配である。ヴェネツィアの存続にとって海は不可欠な存在であったため、毎年、両者の関係を祝して“結婚式”がとり行われた。997年から800年もの間、ヴェネツィアの町はドージェ(総督)の名において、アドリア海と婚姻関係を結び続けた。毎年、昇天日に、正式な婚姻衣装に身を包んだドージェが潟を渡り、アドリア海の入り口で、ダイヤモンドの指輪を海に投げ入れ、誓いの言葉を述べたという。「海よ、我らの永遠に続く真の支配のあかしとして、我らは汝と婚姻します」
(略)
巨大な富を抱えるヴェネツィアには退廃的な空気が忍び寄っていた――運河の悪臭を覆い隠す香料や香水、スパイスの匂い、マラリアやペストの流行、町に漂う倦怠感。当時のある有名な医者は、人々の健康上の問題は、過剰な性交渉、暴飲暴食、運動不足、気温の急激な変化が原因であるとした。サンマルコの聖歌隊はヨーロッパにその名をはせ、通りには音楽があふれていた。ミュージシャンによる演奏も人気を博すようになり、熱狂的なダンスも流行した。
(略)
 『算術、幾何、比および比例全書』(スンマ)は、1494年11月20日ヴェネツィアで出版された。ルネサンス期のはじめての数学全集であり、グーテンベルクが発明した印刷機による初期の1冊となった。その時代の数学と商業の知識を全部詰め込んだため、当然ながら、かなりの大部となった。(略)びっしりと印刷された615ページは、現在の一般的な書籍に置き換えれば1500ページにはなるだろう。(略)
[「誰でも」読めて、日常生活に利用してもらえるように、イタリア語で書かれていた]
 119ソルドという値段はかなり高価だったが(よく売れていたイソップ寓話は2ソルドだった)、それでもヴェネツィアフィレンツェ、ミラノなどイタリア各都市の裕福な商人や職人、貴族であれば十分に手の届く値段だった。スンマが息の長いベストセラーとなったことでパチョーリは世間に知られるようになった。著作権という概念自体が新しかった時代に、きわめて異例なこととして、初版には10年の著作権が認められた。さらに1508年に、20年間の延長を申請してこれも認められている。こうしてパチョーリは著作権を得た数少ない作家の1人となった。スンマが出版されてから10年後、簿記論の部分だけを抜き出した『商人のための完全な教育』という書籍が、パチョーリのライセンスのもと、トスカーナの版元から出版されている。(略)
スンマはイタリアで1世紀にわたってもっとも読まれる数学書となり、世代を越えて教科書として利用されるようになった。

レオナルド・ダ・ヴィンチエラスムス

刊行後すぐにスンマを入手した42歳の技師がいた。この技師の強い勧めで、当時ミラノを統治していたルドヴィーコスフォルツァがパチョーリを宮殿に招いたのである。(略)1496年、ルカ・パチョーリミラノ大学数学学部の初代学部長に就任した。(略)
[その]技師こそ、レオナルド・ダ・ヴィンチだった。(略)
ダ・ヴィンチがミラノの宮廷に紹介されたときの職業は、技師でも画家でもなく、音楽家だった。「彼は手製の竪琴を携えていた。それは馬の頭蓋骨をかたどった斬新なデザインで、ほとんど銀でできており、豊かな音を響かせた」。
(略)
パチョーリがスフォルツァ城でダ・ヴィンチに会ったとき、ダ・ヴィンチの関心は数学、水力学、建築学、工学に寄せられていた。(略)2人の男は算術と幾何学に夢中で、ダ・ヴィンチが言うように、「これらの科目が宇宙のすべてを支配し、これらがなければ何も成し得ない」と信じていた。
 このとき、ダ・ヴィンチは2つのプロジェクトに取り組んでいた。ルドヴィーコの父を称えるためのブロンズの騎馬像と、城から徒歩で10分ほどのところにあるサンタ・マリア・デッラ・グラツィエ教会の巨大なフレスコ画である。食堂にいる修道士たちを、食堂にはつきもののテーマで描くように命ぜられた。『最後の晩餐』である。(略)すでにパチョーリの著作で算術を学んでいたし、パチョーリ本人から、超写実的な『最後の晩餐』をつくりあげるために必要な遠近法についての助言ももらっていた。
(略)
[1508年]『神聖比例論』と、自らがラテン語に翻訳したユークリッドの『原論』の印刷に取りかかった。(略)ユークリッドの第5巻を紹介する講演会を行ったところ、500人が集まったという。(略)
ちょうどヴェネチアに滞在し、エウリピデスの翻訳本と古代の格言集の印刷を指揮していたエラスムスも足を運んだようだ。エラスムスは1509年にイタリアを離れてから、有名な『痴愚神礼讃』を書いており、そのなかで数学を使って聴衆をだます学者のことを嘲笑っている。パチョーリがユークリッドについて語った講演を風刺したものだった。「無教養な大衆を馬鹿にするときの彼らのやり口とは、まず三角形、四角形、円などいろいろな図形の類を次から次へと持ち出して混乱させてから、御託を並べ、すぐに順番を入れ替えて繰り返す。そして、右も左もわからない人々を暗闇に放り込むのである」。エラスムスは、学者、商人、聖職者と誰かれ構わず、特別な知識をひけらかそうとする人を取りあげては、その鼻をへし折ろうとしていた。

 ルカ・パチョーりの『計算および記録に関する詳説』も、否応なしに印刷革命の波に飲み込まれた。ヴェネチア式の簿記はヨーロッパ中に広まり、わざわざリアルトまで学びに行く必要はなくなった。16世紀に、イタリア、ドイツ、オランダ、フランス、イングランドで出版された簿記の本はすべて、パチョーリのこの著作をベースにしてつくられている。そして、これらの本に影響を受けた複式簿記の教科書が、1800年までにヨーロッパで150タイトル以上も出版された。(略)
 パチョーリが示した3冊の帳簿――日記帳、仕訳帳、元帳――を使う方法は、これ以降出版されるすべての会計の本に登場するようになった。

ウェッジウッド

工場で働く労働者の給与を計算したり、大規模な投資を管理する手段として、複式簿記が活用できることを最初に示したのは、イギリスの北部で“女王陛下の陶工”として名をはせたジョサイア・ウェッジウッドだった。
(略)
[急増する需要に合わせて企業規模を拡大するため]
ウェッジウッドは1772年に複式簿記を導入し、あらゆる勘定科目と仕事の流れを精査した。すると、多くの発見があった。たとえば、根拠なく値付けが行われている、次々と新商品を出していて効率が悪い、原材料や労務費が予想外に大きな支出となり、生産を拡大するための資金回収が追いつかない、といったことだ。さらに、固定費と変動費の違いに気づき、それが経営にどのような影響を与えるかが理解できた。もっともコストがかかっている部分――型の製作費、賃貸料、燃料費、人件費――は変わらない。「これらの費用はかならずかかるもので、製造する商品の数量にかかわらず、ほぼ一定」だ。どれだけ生産を増やしても固定費が変わらないのであれば、たくさん生産すればするほど、1単位当たりの固定費は安くなる。つまり、「一定の時間で最大量を生産できるようにすることが重要」なのである。ウェッジウッドは、複式で記録した帳簿を精査することにより、大量生産の意義を見つけ出したのだった。

マルクス

 複式簿記の影響力の大きさに最初に気づいたのは、あまり知られていないが、19世紀のイギリスの簿記に特別な関心を寄せていたマルクスだった。
(略)
エンゲルスとやりとりした大量の手紙からは、マルクスが、イギリスにあるエンゲルス家の紡績工場で実践されている複式簿記に並々ならぬ関心を示していたことがうかがえる。マルクスエンゲルスにこう依頼している。「もしそれほど面倒でなければ、イタリア式の簿記の見本を説明とともに送ってくれないだろうか」。(略)
「資本回転率はどうやって計算しているのか。基本原則は単純だが、実際にどのように行われているのかを知りたい」。(略)
簿記を生産プロセスを管理する理想的なしくみだと考えていた。生産プロセスの規模が大きくなり、複雑になればなるほど管理が重要になる。当時のイギリスの工場のように、生産が「社会的な規模になるにつれて、個人の特性は失われていく」からである。マルクスにとって、会計は生産工程、とくに付加価値が生み出される動きを可視化するためのものだった。

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