ロックの歴史 中山康樹

  • 1919年オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド訪英でイギリスにジャズ・ブーム。

ミック・ジャガーはブルースだけではなく、熱烈なジャズ・ファンでもあった。

「ジャズもよく聴いていたよ。ジャズに凝ってる友だちが一人いて、モダン・ジャズの世界を紹介してくれたんだ。友だちが聴かせてくれたのは、映画『真夏の夜のジャズ』にも出ていたジミー・ジュフリーとか、粋な歌とトランペットを聴かせるチェット・ベイカーバリトン・サックスのジェリー・マリガンだね。デイヴ・ブルーベックもすごい人気だったよ。イギリスではしょっちゅうテレビに出ていたから、好きな人間がたくさんいたんだ。あのころは、なんでも細かく分類しなけりゃいけなかった。クール・ジャズ、メインストリーム・ジャズ、トラディショナル・ジャズって具合にね」このミックの回想は、主に50年代を指す。その間の推移を補足すれば、デューク・エリントンルイ・アームストロングが訪英した30年代以後[音楽家組合が米音楽家の入国を禁止し、ジャズ後進国に]

キース・リチャーズは、

アート・スクール時代の音楽的な思い出を語っている。「いちばん人気があったのはジャズだった。ヒップな連中はみんなミンガスとモンクにのめり込んでいた。その次がトラディショナル・ジャズ。みんな膝の下まである大きな黒いセーターを着て、女の子は黒いストッキングをはいていた。(略)
あとはボールルームにでも出かけて(ダンス・バンドの)ネロ・アンド・ザ・グラディエイターズでも聴くしかなかった。ただし、このバンドのほうがトラディショナル・ジャズのバンドよりはずっとましだった」
 キースの発言からは、音楽的鎖国の状況にありながら、第二次世界大戦を経て、少なくとも都市部ではジャズの人気が盛り返していたことがうかがえる。
[ここでのジャズはモダン・ジャズであり、トラッド・ジャズは若者から古いと敬遠されていた]

キース・リチャーズ

俺たちは、戦争の名残の空爆の残骸と瓦礫に囲まれて育ったんだ。

ポール・マッカートニー

当時はまだ戦争の爪痕が街のあちこちで見られ、空襲で焼け野原になった空地は子供の格好の遊び場になっていた。ぼくは大きくなるまで、“焼け跡”という言葉は“遊び場”という意味なんじゃないかと思っていたくらいだ。『どこへ遊びに行くの?』『ボンビー(焼け跡)さ』というふうにね。そういえば“シェル・ショック(戦争神経症)”という言葉もよく耳にした。ぼくらは深く意味も考えず、フラフラと歩いている復員兵を見かけると、みんな『あの人どうしたの?』『シェル・ショックだよ』などと気軽に言ってたんだけどね」

  • 徴兵制廃止世代

1960年植民地撤退による人員過剰で徴兵制廃止、ビートルズストーンズ世代は「なかったはずの二年間」を手にし、音楽に熱中し英国ロックが生まれる。
キース・リチャーズ

18歳になったら髪を切って、二年間ジャガイモの皮をむくか、戦闘機のパイロットになるしかなかったんだ。ひどい喘息になるか、目をつぶすか、爪先を切り落とすか、気が狂ったふりをしない限りね。

クリフ・リチャードビートルズ登場前のスターとして年長者のイメージがあるが、実はジョンやリンゴと同い年。

「彼らの世代」から先陣を切って飛び出し成功を収めた最初のスーパースターだった。(略)
イギリスのロックは、クリフ・リチャード&シャドウズから始まった。[英国ロックギタリスト]の系譜もまた、シャドウズのハンク・マーヴィンから始まった。(略)
[ブルース・ウェルチ談]
「1958年から64年まで[つまりクラプトン登場まで]、ハンク・マーヴィンはギターの神様だった。イギリスのギタリストは、プロだろうがアマチュアだろうが、ハンクに憧れ、彼のようにギターを弾きたいと思っていた」

  • 57年ジャズ・クラブ「キャバーン」開店

軽いトラッド・ジャズ中心、ロックは邪道、エルヴィスを演奏して出禁になったスキッフル・バンド、それがジョンのクウォリーメン。59年経営者が変わりロックに方針転換。DJのボブ・ウーラーがステージの合間にアメリカ最新シングルをかけるように。「クラブDJ」、「ジャズで踊る」「アシッド・ジャズ」の先駆け。

ポール・マッカートニーはウーラーがかけた《ヒッピー・ヒッピー・シェイク》という曲を、「いまかけた曲、もうかけないで!ぼくたちのものだから!」と懇願し、ビートルズのレパートリーに取り入れた。

  • 「マイ・ボニー」

62年当時流行のツイストにあやかって「マイ・ボニー・ツイスト」としてトニー・シェリダン&ビート・ブラザーズ名義で日本発売。ヒットしなかったが、漣健児の耳に入り、「恋人は海の彼方に」というタイトルで日本語ヴァージョンが作られ、スリー・ファンキーズ飯田久彦がカヴァー。
64年、ビートルズ名義で新装発売。

  • 「ラブ・ミー・ドゥ」

[当時のライヴァル、ブライアン・グリフィス談]

「私が『なんだ、あの曲は?まるでカントリー&ウエスタンじゃないか!』とこき下ろしたら、ジョンは『ほんとうにそう思ってるのか?まあいいさ。ぼくが選んだ曲じゃない。彼らが選んだんだ』と平然といってのけた」

  • ただ聴き

キャヴァーン出演の合間に、「ないレコードはない」を謳うエプスタインのレコード店ネムズ」へ。

[ピート・ベスト談]「ぼくたちはカウンターで働いている女の子たちと仲良くなった。試聴コーナーに行くと、彼女たちは最新のレコードを何枚も聴かせてくれた。気に入った曲があれば、急いでコード進行を書きとめ、レコードを買わないでさっさと帰った。忘れてしまう前にリハーサルをして曲を覚えるためだった。ブライアン・エプスタインはイヤな顔をしていた。店主としては当然だろうね」

ブラック・ミュージック

ポール・マッカートニーの次の発言は、ビートルズが早々にブラック・ミュージックの影響圏外に身を置いた、つまりは撤退宣言とも受け取れる。
「デビュー曲の《ラヴ・ミー・ドゥ》では、ぼくらなりのブルースをやろうとした。でも、いつもそうだけれど、より白人っぽく仕上がってしまう。ぼくらは白人で、ただのリヴァプール出身の若いミュージシャンだ。黒っぽいサウンドを正確に出すには、ぼくらは繊細さに欠ける。それでも《ラヴ・ミー・ドゥ》は、ぼくらがブルース風のものに挑戦した最初の曲だった」
 いいかえれば、ビートルズは自分たちが「何者であるか」ということを知っていた。しかしのちにローリング・ストーンズとして活躍する若いミュージシャンをはじめとしたロンドン組は、そうした問いを発する前に、ブラック・ミュージックにのめり込んでいた。そのなかには、「自分たちもアメリカ黒人のようになれる」という幻想を抱いていた者も少なくなかった。そして一方には、ブラック・ミュージックに傾倒しつつも、自分たちの音楽性を確立しようと考えた一群が存在した。その中心にいたのが、アレクシス・コーナーとシリル・デイヴィスが率いるブルース・インコーポレイテッドだった。

マディ・ウォーターズ
58年のロンドン公演は素朴なフォーク・ブルースを期待した保守的ファンからブーイングを浴びた。

少数の若い支持者を圧倒したのは、マディ・ウォーターズが弾くエレクトリック・ギターの衝撃力だった。(略)「ブルース」を大きく超越した、最新にして「かっこいい」ブラック・ミュージックにほかならなかった。(略)
[ジミヘン談]
「ギタリストとして最初に意識したのは、マディ・ウォーターズだ。まだガキのころ、マディの古いレコードを聴いてびっくりした。死ぬかと思うぐらいに。『ウワー、なんだ、これは? すごいなー!』って」ヘンドリックスが聴いたマディ・ウォーターズのレコードは、おそらく『ベスト・オブ・マディ・ウオーターズ』だったのだろう。同作には、マディ・ウォーターズが40年代後期から50年代中期にかけて吹き込んだ曲を収録、シカゴに拠点を置くチェス・レコードから発売された。(略)《口ーリン・ストーン》も含まれている。現在では、マディ・ウォーターズを一ギタリストとして評価する視点は失われつつあるが、少なくとも50年代末期において、マディ・ウォーターズが奏でるエレクトリック・ギターは(略)「未知のサウンド」として響き渡った。そしてブルース・インコーポレイテッドに吸い寄せられるように集まった若い世代のギタリストは、エレクトリック・ギターを新たな武器として装備した。

イアン・スチュワート談

当時は、リズム&ブルースといえばジャズのような音楽のことだと思われていた。サックスが二本という古臭いイメージだった。ところがローリング・ストーンズを聴きにきた連中は、エレクトリック・ギターが二本にエレクトリック・ベースということに心底驚いていた。連中は『これがリズム&ブルースだって?ロックンロールと同じじゃないか!』と騒いでいた」

次回につづく。


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