社会契約論 重田園江

わかりやすいというのは
「マルブランシュなんて聞いたこともないかもしれない。スイーツのような名前だが、18世紀のフランス語圈ではずいぶん読まれたようだ。」
なんて書き方をすることじゃないと思うけどなあ。
そもそもわかりやすく説明するには、本人が……ないと無理なわけで、どうもそうとは……。
というわけで、引用したとこだけ読んだ。

一般意志

一般意志ということばはルソーが発明したと思っている人もいるだろう。(略)だがライリーによると、一般意志という考えはアウグスティヌスを通じて中世神学に流れ込み、そこからマルブランシュによってその後のフランス哲学に影響を与えた。つまり、かなりの歴史的厚みを持ったものなのだ。(略)
 中世以来、キリスト教神学の中で問われつづけていたのは、神の完全性とこの世の不完全性という、宗教上根本的な問題だった。神がこの世界すべての創造主であるなら、なぜ世界はこんなにも悪に満ちているのか。(略)
神はなぜ完全な世界を意志しなかったのかというのは、問い自体が間違っている。(略)原罪以降、神は被造物のうち特定の者については、救済しないという意志を特つようになった。これが神の「特殊意志」である。(略)
逆に言うと、神は基調としてはつねに、すべての者の救済を意志しているということだ。そしてこの基本的な神の意志、全般的な世界についての神の思いを「一般意志」と言う。
(略)
マルブランシュはこのように、神の一般意志をこの世界全体を支配し統御する「一般法則」として理解しようとした。
 これに対して、特殊意志はあとから来る。それは永遠不変の一般意志に対して、具体的で変わりやすいものにすぎない。(略)
 神は永遠に、そして不変なやり方で、一般的な法則によってこの世を支配する。これこそ一般意志であって、一般性は法則性、規則性、変わらなさと結びついてはじめて、神の全能を適切に表現することができる。一般性は、あれこれの個物に応じて、あるいは具体的な対象や状況に応じて変わってはならない。(略)
この対比がルソーの一般意志に引き継がれる。一般意志は具体的なものに関わってはならない。一般意志は個人が自分の特殊な利益だけを考える場合には決して明らかにならない。一般意志は曇らされることがあっても、失われることはない。一般意志は誰一人例外を設けない。(略)
だがここでマルブランシュからルソーに一気につなげてしまうと、(略)理念の広がりやふくらみのようなものを捉え損ねる。
[ライリーはその間にモンテスキューを持ってくる]
ここからはライリーの論旨を離れて、モンテスキューとルソーにおける「一般性」と法との関係について説明しておく。モンテスキューにとって、法を作ること、つまり立法権力は一般意志に属する。では司法権力あるいは裁判権はどうだろう。考えてみれば分かるのだが、裁判とは、個別の事例に法を適用し、裁定を下すことだ。個々の事象や事件に適用される以上、ここで行為を生み出す意志は特殊なもの、すなわち特殊意志に属する。そしてこの区別は、そのままルソーに引き継がれる。
(略)
[モンテスキューにとって]法は特殊なものに適用されるが、法そのものが特殊であってはならない。それはマルブランシュの神の一般意志=一般法則になぞらえられるような、特殊を超えた一般性を持たなければならない。ルソーはこの一般的精神を、主権者としての人民の意志に読み替えることで、モンテスキューからその最も核心的な問いを受けとった。しかもそれを、「人民主権」という理念と結びつけた。ルソーにとって、一般性を発見するとは人民の一般意志を発見することである。ではどうやったら、人民の意志である一般意志を発見できるのか。

ロールズとルソー

ルソー論では、なんと形容すればよいのか、ロールズの体温はとても高い。ロールズはルソーの一般意志論を、原初状態に近づけて解釈しているだけではない。ルソーの「利己心」の中に、原初状態の人間がそれに従って判断する、相互性の要求と「自尊」の基盤を見出すのだ。また、『人間不平等起源論』における文明化の批判を、よき社会を構想するための出発点として、つまり社会契約が結ばれる「はじまりの場所」として理解している。つまりロールズは、少なくとも『政治哲学史講義』では、ロックよりルソーの方が自分に近いと解釈している。ホッブズについては、ロールズはその斬新な思考実験装置を借用する。けれどもホッブズ理論の中にある、どんな政府でもないよりまし、殺されるくらいならたいていのことはがまんする、という究極の選択を、ロールズはどうしても受け入れることができない。また、ヒュームがロールズと相容れないことはすでに見たとおりだ。
これとは対照的に、ルソーはカントに引き寄せて解釈される。というよりカントがルソー思想の発展として理解されている。それによってロールズは、自分の意志を一般意志と重ね合わせる人々の決定を、カントにおける熟慮や実践理性に基づく決定と結びつけていく。こうして、ルソー、カントの系譜上に、自らの正義論を位置づけるのだ。
(略)
利己心には、人の不幸を喜んだり、他者の意に反して自我を押し通さなければ気が済まなかったりといった、ゆがんだ欲求とは異なった面があるのだ。
 それは、他者と対等な立場を確保したいという欲求、あるいは、自分の目的が他者の目的同様に尊重されてほしいという欲求だ。ロールズはこれがルソーの利己心の中に含まれるという。こうした意味での利己心は、自分が他者と対等だと認められる条件で、他者もまた自分と対等であると認めることにつながる。つまり、人はこの意味での利己心を通じてはじめて、「相互性」の原理を受け入れることができる。