英国ブルース、スモール・フェイセズ

クロニクル・シリーズ ブリティッシュ・ビート (クロニクル・シリーズ)

クロニクル・シリーズ ブリティッシュ・ビート (クロニクル・シリーズ)

海外情報がダイレクトな港町だからリヴァプールサウンドが生まれたという定説以外に、地方から新しい動きが出た理由。
ロンドンで芸能界的番組がつくられ、そこでクリフ・リチャードetcの英国ロックが生まれる。

マージーサイドのアマチュア・ミュージシャンたちは、まずジャック・グッドが作ったテレビ番組を観て、「ロンドンではロックンロールがブームになっている」と信じてしまったわけだ。アレクシス・コーナーをリーダーとする“本格的なブルース/R&Bの胎動”こそがロンドンのクラブ・シーンのトレンドだったのに(略)
テレビの影響による“誤解”が北部のバンドに独特の“ポップ感覚”を与えることになるのだ。(略)
[ビートルズ以前はオリジナル曲という概念がなかったから、他と差をつけるため]
シングルのB面曲やアルバム収録曲といった、いわば“ジャスト・トレンド”ではないところに個性を求めたことが、アメリカのロックンロール/R&Bの中にあった普遍的な“ポップ”をあぶり出すことになったのではないかと思う。

英国ブルース R&Bシーンの成り立ち

英国で最初に「ブルースだ」「R&Bだ」と言い出したのはアレクシス・コーナーだった。 1940年代末期(略)
52年にジャズ研究のためにニューオーリンズを訪れたケン・コリヤーが、街頭でブルースを演奏するジャグ・バンドを面白がったときに、「ああいうのをスキッフルというんだ」と乱暴な説明を受けた(略)
アメリカのフォーク、ブルース、カントリーのナンバーを“スキッフル”の名の下に演奏する英国独自のスタイルは一気に国中に広まり(略)
最初にスキッフルを標榜したクリス・バーバーやケン・コリヤー(略)のようなブラス奏者は、音階としてのブルーノートや、それを活用した曲作りに夢中になったのだろう。一方、ギタリストでシンガーのコーナーは、ブルースの根幹は和音やリズムと捉え、アーバン・ブルースやR&Bといった進化形も含めて“ブルース”と受け取った。(略)
[50年代アンダーグラウンド・シーンにおける“クラブ”とは「店(ハコ)」ではなくいわゆるクラブ活動、同好会的“クラブ”のこと。]
コーナーは“ブルース研究の集い”としてクラブを組織し、楽器を持ってきた若いミュージシャンも参加できるセッション・ライヴを繰り広げることを思い立った(略)
[ロンドンで開催されたクラブに集まったのは125人]
すでにプロフェッショナルだったコーナーとまるでアマチュアミック・ジャガーキース・リチャーズの共演なんてことが平気で行なわれ、文字どおり“修行の場”となった

63年(ストーンズ・デビュー)辺りでブルース・インコーポレイテッドは「ジャズ的な美学が抜けなかった」コーナー派と「エレクトリックな即興」を目指すシリル・デイヴィス派に分裂。

[シリル派は]ヤードバーズ、マンフレッド・マン、プリティ・シングス、(略)ストーンズの面々はアレクシス直系とされるが、実はキース・リチャーズなどはそのプレイの粗っぽさもあって彼からは疎まれ、むしろ逆にブライアン・ジョーンズのほうがアレクシスの寵愛を得ていたともされる。
[シリルは64年に急死。やがてコーナーもジョン・メイオールにその座を明け渡すことに。]

フィル・メイ(プリティ・シングス)2004年電話インタビュー

[元祖パンクなスタイルは保守的ブルース愛好家から批難されましたが]
俺たちは若くてお門違いのパンクだったんだよ。だって、ブルースの福音をリスペクトしていなかったんだから。ブルースは、ラリったり単に聴いている分には素晴らしいけど、スピード感のあるもの、そして興奮が欲しかった。(略)
黒人音楽は大好きだけど、ただのコピーはしたくなかった。それを吸収した上で、自分たちのやり方を見つけたかった(略)
[ブルース・インコーポレイテッド派に]属していたけど煙たがられてたな。キース・リチャーズもそうだったよ。コーナーの功績は認めるさ。でも、彼はステージでもレコードとまったく同じテンポでプレイしていたし、声の抑揚もまったく同じだったんだ。どうしてあんな風に歌わないといけないんだい? 俺には理解出来なかったね。英国人なんだから、英国人っぽく歌ってなにが悪い? ブルースを使って独自のスタイルを築くほうが創造的だろ?だって俺たち、ミシシッピーに生まれたわけじゃないんだぜ。(略)あの頃の英国でのブルース・ブームは、あたかも“ブルース教会”――それこそ神聖にして侵すべからず――のような存在に思えたよ。
(略)
[セカンドアルバムで]オリジナル曲を書くことになったのさ。ま、手持ちのブルース・コレクションが底をついてしまったってのもあるけどね(笑)。ちなみに俺は新曲だけを20曲も書くようなバンドは信用していない。幅に限りがあるからだ。周りからの影響を取り入れて曲にした方が、もっとずっとたくさんの色を使って色合いを出すことが出来る。そしてしまいには、そのバンドなりのオリジナルなものが出来るんだ

レイ・デイヴィス(1999年インタビュー)

人々がサンフランシスコ風の格好をして僕の家に来るようになった時、僕は、それは間違っていると感じた。彼らはサンフランシスコに住んでいないんだから。ただのファッションなんだよ。なんでLSDも経験してないイギリス人がヒッピーの真似事しなくちゃならないんだい?(笑)サイケデリアは非常に滑稽だと感じたね。(略)
僕達も花柄のシャツを着ていたよ。そういうファッションには好きなものもある。そういうこともやらなかったとは言わないよ(略)
[テープ・ループや逆回しを使ったりもしたが]
ビートルズにしろ、多くは表面的なものだったと思うんだ。<ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー>は、ああいったサウンド・エフェクトがなくても、やっぱり素晴しい曲だよね。<ペニー・レイン>だってそうだ。楽曲そのものの質は変わらない。そこが重要さ。エフェクトは当時流行していた表面的なものに従うだけだから、僕はあまりやらないことにしたんだ。……当時、僕は22歳だった。気難しいだけだったかもしれない。世の中がサイケだ、フラワーだ、ヒッピーだって浮かれてる中、僕は惨めな22歳だったってわけさ(笑)

ピーター・フランプトン(2002年インタビュー)
ハード→ハンブル・パイ経緯

僕はスモール・フェイセズの大ファンだったし、ある時期から彼と行動を共にすることが多くなった。やがて僕はスモール・フェイセズに入れて欲しいと頼んだ。スティーヴ・マリオットは喜んでくれたし、ほかのメンバーを説得しようとしてくれたけれども、彼らは受け入れなかった。そしてスティーヴは、代わりにジェリー・シャーリーを紹介してくれた。その後、グレッグ・リドリーとスティーヴも僕たちに合流し、ハンブル・パイが生まれたわけだ

P.P.アーノルド(2002年インタビュー)
スモール・フェイセズ

ティーヴ・マリオットとロニー・レインは本当にヤンチャで手がつけられなかったわ。もう、いつもハラハラさせられっぱなし。でも、それがとても楽しくて、しかも彼らは純粋でキュートだった。そういった面も含めて、スモール・フェイセズは最高のバンドだったと思うわ。子供みたいなスティーヴとロニーがいる一方で、ケニー・ジョーンズみたいな常職人もいて…しかも、その橋渡し的存在のマック(イアン・マクレガン)もいたわけだし。彼らと出会えただけでもイミディエイトにいられて良かったと思うわ

イミディエイト崩壊後

ロッド・スチュワートとは、その後、彼がスーパースターになってからテレビで共演したの。リハーサルの前まで彼は私に気づかなくて取り巻きやファンの女の子たちとおしゃべりばかりしていたわ。でも、私のコーラスを聴くやいなやビックリした表情で後ろを振り返り、“君だったのか! ご無沙汰しちゃっててごめん”ですって(笑)。とにかく、どんなに贔屓目に見ても、ハンブル・パイとかスティーヴとのコラボレートが私にとっては一番思い入れ深いの。ハンブル・パイで再び一世を風靡したときも、その後、人気が衰えてからも、いつだってスティーヴはスティーヴその人だったわ。甲高い声で“これからスタジオに入るから手伝ってくれよ!”――例によってテンションはハイで、こっちの都合なんてそっちのけ、いきなり呼び出されるの。それでも憎めなかった。私は嬉々として駆けつけたものよ。