ロックを生んだアメリカ南部

以前やった本とダブるところは飛ばして、ついでにそうじゃないとこも飛ばして、まあそんなこんなでテキトーに。ロックの話は全然出てきません、スマンソン。

NHKブックス(1071) ロックを生んだアメリカ南部 ルーツミュージックの文化的背景

NHKブックス(1071) ロックを生んだアメリカ南部 ルーツミュージックの文化的背景

奴隷の方が安全だった

奴隷たちは所有者にとっては財産だから、多少なりとも危害から守られていた。同じような理屈で、小作人の収穫の多寡が気になる地主は、従順に働く小作人たちが私的制裁に合わないようにかばうところがあった。ゆえに、従順な小作人と比べるとより危険に晒されているのは自立して農業を営んでいる黒人たちで、彼らには盾となってくれる白人は皆無といってよかった。それよりさらに大きな危険に晒されていたのは、白人の世話にはならずに食っていくだけの稼ぎのある、各地を転々とする黒人たちであった。
ブルースマンはまさにこういう黒人たちであった。

娯楽化したリンチ

初期のリンチは、人気のない所で闇にまぎれて行われる傾向があったが、二〇世紀の初めころになると、陰惨な変化を示しはじめた。リンチに集まる群衆の数が増え、その中に女性や子どもも混じるようになった。リンチは、私的な制裁というよりは一種の儀式、娯楽と化していったのだ。驚くほかないのは、集まった群衆の反応だ。黒人の犠牲者が悪鬼さながらの拷問にさらされている。指が一本ずつ切り落とされ、トーチランプで焼かれ、肉体の一部が切断され、最後は縛り首にされるか生きたまま焼き殺される。その光景を、群衆は、ゆで卵を食べ、レモネードで喉をうるおし、ウィスキーをあおって見ている---その現場をとらえた衝撃的な写真が残されている。
この群衆の暴力が黒人にとっていっそうおぞましいのは、止める人々がほとんどいなかったことだ。

囚人派遣労役制度

当初は増え続ける犯罪者に対応する、新しい刑務所ができるまでの一時しのぎの方策であった。農園主や企業経営者は州政府と契約を交わし、刑務所の外で囚人たちの衣食住を保証し、監視して健康状態に気をつけることを約束した。それと引き替えに、囚人たちを働かせ、その労役から得られた利益を手にすることができた。実態はひどいもので、刑期を務め上げるために刑務所に入ったはずの囚人が、鉱山、製材所、鉄道工事の飯場、綿花畑などに送り込まれ、毎日14時間から16時間も厳しい労役を強いられた。また、ミシシッピー川沿いの湿地帯を開墾する仕事や、洪水を防ぐための大堤防築造、新しい綿花栽培用の土地の耕作などの仕事もあてがわれた。(略)
この派遣制度がいかにお互いにとって都合がいいかに気づくと、囚人を増やすために州政府も、農園生や経営者も「黒人の不法行為」の摘発に積極的に乗り出していった。(略)
[法改正して逮捕者は4倍に増加]
白人保安官の中には、特定の経営者と結託して、急に労働者が必要になったときに囚人を送り込み、その謝礼として賄賂をふところにする者もいた。保安官たちは、ギャンブルをはじめとして、風紀を乱した、騒ぎを起こした、何らかの損害を与えた、といった些細な罪から密造酒販売などを理由に黒人を逮捕して囚人に仕立て上げ、急に必要になった労働者を経営者に調達し、私腹を肥やした。

バング・ザ・ドラム

南部の奴隷所有者に、西アフリカ系の黒人にとって太鼓がいかに有効な武器になるかを知らしめる事件が起きた(略)1739年にサウスカロライナ州で起きた「ストーノ反乱」である。これはアンゴラ出身の奴隷が80人ほどの奴隷を率いて起こしたもので、当時スペイン領だったフロリダのセント・オーガスティンを目指して武器を手に南進した。移動しながら、彼らは激しく太鼓を叩いて近くの農園にいる奴隷を呼び集め、その数を増やした。奴隷たちは鎮圧しようとした軍隊と戦い、白人を20人近く殺したが、彼らも約半数が殺されて反乱と逃亡の悲劇は終わった。

ゴスペルは楽譜の中にはない

[南北戦争後できた黒人のためのフィスク大学の学生による]
フィスク・ジュビリー・シンガーズは「霊歌」ではなく、ヨーロッパ風に編曲をほどこして歌う感傷的な曲を演目に選んだ。霊歌は、忘れたいと思っている奴隷制時代を思い出させる音楽でしかなかった。実際、ふたりを除けばメンバーのほとんどが元奴隷であった。彼らは学問を身につけてどん底の奴隷の生活から這い上がり、将来は中流の豊かな生活を目指していた。むしろ彼らは霊歌が象徴するような貧困と屈辱の世界から抜け出そうとしていたのだ。
[ところがたまたまやった霊歌がウケた]
ヨーロッパでも大きな成功を収め、1873年のイギリス公演では宮殿に招かれ、ヴィクトリア女王の前で特別に演奏を行った。公演の収益によってフィスク大学は潤沢な研究教育資金を得たばかりでなく、大学の名前も国の内外に知れ渡った。
フィスク・ジュビリー・シンガーズの歌を聞いた当時の聴衆はこれこそが黒人霊歌と思って熱狂したが、実はそれは本来の黒人霊歌ではなかった。(略)彼らが歌ったのは、ヨーロッパ音楽を聞き慣れた人向けにクラシック音楽風に編曲した霊歌だった。奴隷たちが歌っていた霊歌はソロでもカルテットでもなく、「訓練」やリハーサルからは生まれないし、当然楽譜などに書き表すことのできない、荒々しいハーモニーだった。

白い稲妻、バーボン

北部の植民地に定住した人々はビールやリンゴ酒を作ったが、アパラチアを開墾した人々は山間部の痩せた土地を耕して作ったトウモロコシで「白い稲妻」という異名を持つ自家製のウィスキーを作った。(略)
大恐慌が終わるころまで、密造ウィスキーを作るか鉄道の枕木を作る以外にほとんど現金を得る方法はなかった。
[ジョージ・ワシントンは財源確保のために酒税導入]
かつてイギリス軍と戦った山男たちは、今度はアルコール税を払うのを拒否して新政府に反旗をひるがえした。(略)
酒の蒸留は個人の権限で行うもので、政府であれ何であれ、他人が口を出すことではない(略)
自分の土地を耕し、穀物を育て、その穀物を使って作るウィスキーに、なぜ税金を払わなければいけないのだ(略)
ワシントン大統領がいわゆる「ウィスキー反乱」(1794年)を鎮圧し、酒税の取立てのためにペンシルヴァニア山地に軍隊を送り込むと、密造酒の製造者たちは次々と逃走した。彼らが逃れた先はアパラチア山脈の南西部で、そのひとつがのちにケンタッキー州のバーボン郡となる地域であった。ケンタッキー・バーボン・ウィスキーはこうして誕生した。

宣言したもの勝ちの著作権

一曲につき50ドル、さらに著作権を取れる曲については印税を支払うという条件でレコード会社からふたたび録音の話が持ち上がると、A・P・カーターは各地を回ってレパートリーに加える曲を集めてきた。すでにいくつかの曲は楽譜の出版社が版権を管理するようになってしまっていた。A・Pは何度か自分で曲を書いて著作権を取ることもあったが、多くの場合、彼は曲を探し出してきて、カーター・ファミリーのスタイルに合うよう改作していた。曲の各部分はよく知られたものなのだが、カーター・ファミリーの手によってまとめられると、曲は新たな生命を吹き込まれるのだった。
だれが曲を作ったのかという著作権の問題は、南部において、どのジャンルの音楽でもはっきりした答えを出すことはできない。たいてい曲の作者は不詳であり、伝承されながら変更、改作が繰り返される。そしてあるときだれかが「自分のもの」と主張することになる。多くの曲は個人ではなく公に属するのだが、最初に著作権の申請をした者が、この曲は自分のものだと主張できるようになるのだ。長年の間、どれだけ多くの人々が歌詞や曲に貢献してきたとしても、印税を得るのは著作権の申請者というわけだ。(略)
黒人ギタリストのレスリー・リドルはカーター・ファミリーが音楽を作る上で大きく貢献した。彼は長年にわたって多くの時間をヴァージニアでカーター・ファミリーと過ごし、またA・Pの旅にも同伴した。A・Pとリドルはおよそ15回、歌を採集する旅に出ている。A・Pは歌詞や曲を聴いて覚えるのがあまり得意ではなかったのだが、その点でリドルはすぐれていた。「わたしは覚えるのが早くてね」とリドルは回想している。「目の前で歌ってもらえば、わたしもすぐ歌えるようになる。A・Pのテープ・レコーダーみたいなものだね。A・Pはわたしを一緒に連れていって、だれかを見つけてきては歌ってもらったんだよ。」

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