放たれた火炎のあとで

薄くて読み易い本です。著者(ウォルター・モズリー)自身もいい人だと思うし悪い事は言ってないけど、著者の父親の言葉の強さには全然及ばない(こう書くと自然賛美と同様の物言いになってしまうから難しいけど)。ササクレタ言論に疲れた心の清涼剤としてということで。

放たれた火炎のあとで 君と話したい戦争・テロ・平和

放たれた火炎のあとで 君と話したい戦争・テロ・平和

「ニグロをアメリカ人と考えているものなんかいない」南部で生まれた著者の父は第二次世界大戦時ヨーロッパ戦線に駆り出される。

父はこう話してくれた。「やつらはこの俺をめがけて撃ってきたんだ。風切り音が聞こえるほど弾丸は至近距離を飛んでいた。音が止み、ライフルを構えて立つと、俺は、陣地のなかで白人兵に囲まれていたんだ。戦闘が終わって、あとになってこのことを考えてみたとき、やっとわかったんだ。俺には失うものはないと思っていた。だけど、ほんとうはアメリカ人として、白人たちと同じ権利をもっている、ならば、白人みんながもっている権利を、俺ももつ資格があるんだってね。飛び交う弾丸の下で、命を危険に曝しながら俺はフランスでアメリカ人になったんだ」。

除隊後、戦場で認識を変えた黒人を受け入れない南部を出て父はロスに移り住む。

父にとっては毎日々々が新たな挑戦だった。戦地から故郷に帰ったとき、友人だった黒人兵たちはみんな元気で希望に満ちていた。ところがテキサスに残った旧友の半数以上が死んでしまっていた。知り合いだった若い黒人たちの多くが、病気か、自分自身で己の体を痛めつけて死んでしまっていた。そこで彼は気づいた。人類の歴史が始まって以来最大の戦争に従軍していた方が、テキサス州ヒューストン第五区のストリートにいるより安全だったのだ。これは、父が戦争から学んだ教訓のひとつである。

働きものの韓国人の建てたビルを誇らしげに指さす父。白人と同じ評価が欲しければ白人よりも多く働けと言う父。

わたしはこう応えた。
「でも、パパ、そんなのフェアじゃないよ」。
「フェアじゃない、そんなの常識だ」。これが彼の答えだった。
フェアであるかどうかなど、父にとっては大したことではなかったのだ。そんな彼は決まって負け組だった。だからこそ勝ったときにはいっそう嬉しかったのだ。黒人にビルを建ててもらいたい、それが彼の望みだった。だからといって、黒人より先に成功した人びとへ反感など抱きはしなかつた。
(中略)
ロサンゼルスのダウンタウンには空き地があった。父はそこをよく見つめていた。黒人がビルを建てるのはここだ、と思いながら。わたしはわたしのこころのなかを見つめる。そこには、空き地と同じく、何もない空間が拡がっている。

1965年のワッツ暴動の夜、父は酒を手にひとり泣いてた。

八歳のときから自分だけを頼りに生きてきて、もう四十九歳になっていた。彼の場合、いわば八歳のときに「お前は自由だ」と放り出されたのに等しかった。そして、四十余年を経たのち、白人が黒人を殺し、黒人が白人を殺している、そんな際限のない殺し合いを見ることになったのだ。

父は自分も一緒に外に出て闘いたいがそれはできないと語る。

「こんなものほんものの闘いじゃないんだよ、ウォルター。群れ集ったものだから、人間が大胆になって、自分たち自身の商店やコミュニティを破壊しているだけだ。この辺りでは数のうえじゃ黒人が勝っている。なのに、殺されているのはほとんどが黒人じゃないか。彼らは怒り狂って当然だし、時がくれば闘うべきだ。でも、なあ、この近辺にある店は結局のところ自分たち自身のものじゃないか。一度焼き払ったら最後、二度と新しいものは建たない。これじゃいけない、なあそう思わないか。本心をいうと、それでも俺はあいつらと一緒に暴れてやりたい。でもそれは賢い方法じゃない」。