ふたつのアメリカ史

 

先例はアイルランド侵略

イングランド人にとって、他民族領土を植民地化する重要な先例となったのは、アイルランドでの経験だった。アイルランドで初めて、イングランド人は他民族の支配や土地収奪の方法を学んだのだ。(略)海を渡ったイングランド人の野心の前に立ちはだかった唯一の障壁は、100万人にのぼるアイルランド住民という邪魔な存在であった。(略)入植者たちは、どんなに貧しい出自であろうと、アイルランド人に対しては優越感を持っていた。彼らはアイルランド人を怠け者で、ふしだらで、迷信的で、知性に欠けた民族であると見なしていた。

ピューリタン移民は

核家族(夫婦とその未婚の子女)という家族構成で新天地へとやってきた。このような移住形態は、バージニアに移住した集団とはまったく異なるものであった。そして、田舎に散り散りに居を構えるといったことはせず、都市にまとまって居住することにした。それが、後の自治制度の建設へと引き継がれていったのである。(略)
冬のニューイングランドでは感染病を肺に受けた熱帯アフリカからの移民を引き入れることは非常に危険であることがわかった[ためあまり奴隷導入がなされなかった]。(略)
そうした厳しい環境を生き抜くためにピューリタンがとった手段は、外部の労働に頼るのではなく、自らの家族の絆を深め、広くしていくことであった。

タウンミーティングとは「説得と妥協」

フィッシャー教授はまた、北部の「タウン・ミーティング」としてよく知られている統治形態は、「多数決による決定」と解釈されがちであるが、実際はそうではなかったと指摘している。ミーティングの目的は、「説得と妥協」とによるコンセンサス(同意)の形成にあった。投票をして決めるといったことは滅多に行われず、決定事項が議事録に「町の意思として」と記されるだけであった。この制度はニューイングランドに特有のもので、イギリス領アメリカの他のどの地域にも見られなかった。

リバティの概念は南北で異なる

「自由」の概念は南北の各植民地ごとに意味がまったく異なっていた。ピューリタンにとっての「自由」とは「共同(collective)」を意味する。つまり、それは個々人がもつものではなく、共同体全体による価値であるととらえられていた。さらにこの「規範的な自由」は個人を厳しく制約することも当然あると考えられてきた。
基本はあくまでも共同体であり、個々人は自分の発意のままに行動することができなかったのである。
一方南部の、ヴァージニアはイギリスの少数のエリート階級を惹きつけた。彼らは、最初は貧しい奉公人を大規模に雇い入れることによって、後にはアフリカ人を隷属化させることによって富を築いてゆく。

第二の北部文化を担うクエーカーの「自由」は

クエーカーが信じていた「自由」とは、人類すべてに対する「共済的な自由」であり、「自分がして欲しいような態度で他人に接しなさい」といった単純な黄金律に表されるようなものであった。(略)
クエーカー以外の者に対しても、あらゆるキリスト教的良心は保護されるべきであると信じるようになったのである。こういった寛大な態度は、彼らの迫害の経験に根ざすものであった。彼らは新しい土地で、自分たちが受けたような宗教的迫害が起こらないようにすることを誓ったのである。

ヴァージニア移民は

エリートであれ年季奉公人であれ、極端な排外主義者であった。これは自分たちが「文化的亡命者」であることからきている。つまりイギリスこそが宇宙の中心であり、この遠く離れた植民地社会では自らは「部外者」であると感じることからくる不安心理から発したものだろう。彼らはイギリス以外のあらゆる国家を憎み、他民族すべてを蔑んでいた。彼らは反ユダヤ主義であり、大陸系ヨーロッパを見下し、カソリックピューリタン、クエーカーなどといった「英国国教会以外の宗教はすべて無用」と見なしていたのだ。
フィッシャー教授が指摘しているように、こうした態度はイギリス紳士が伝統的に保持していた態度だが、ヴァージニアのそれは、部外者である不安、ノスタルジア、文化的欠乏からさらに増幅されたものと考えられる。
こういった不安心理から発生する偏見や、騎士道精神に固執する態度から、ヴァージニア移民は他の人間を自分たちのために使用するようになり、最終的には大規模な奴隷制度を展開させていくようになるのだ。

えー、この後、南北戦争に至る経緯がまた面白いのですが、まあそれはこの本でなくてもいいのかなあってことで。