規則より思いやりが大事な場所で 物理学者はいかに世界を見ているか

ブラックホール Ⅱ:無が発生する熱

ホーキングは、何も落ちていかない穏やかなブラックホールもやはり熱を持っていることを示した。ブラックホール自体が熱いのだ。

 誰も、その熱を観測したことはない。弱すぎて、どんな望遠鏡を使っても拾うことができず、わたしたちが目にしているブラックホールの場合は、間断なく落下し続ける物質のすさまじい熱に紛れてしまう。現時点ではホーキングの予測はあくまで理論上のもので、実験で確認されているわけではない。だが彼の計算はさまざまな方法で追試され、常に同じ結果が得られている。そして科学界は、その結論には説得力があると考えている。つまり十中八九、黒い穴はそれほど黒くない。穏やかな熱源なのだ。もしもまったく星のない天空の真ん中にブラックホールがぽつんと一つだけあったなら、黒くはなく、ぼんやりと光を放つ小さな球のように見えるだろう。

 これには誰もが驚いた。(略)ブラックホールからは何も逃げ出せないはずだ。となると、熱はどのようにしてブラックホールから放出されるのか。

 その鍵は、ホーキングの計算に量子力学が含まれている、という点にある。ブラックホールに入ることはできても決して出て行けないという予測は、アインシュタイン一般相対性理論だけに基づいているのだが、この理論は、量子現象を無視した不完全なものなのだ。ホーキングの計算のおかげで、アインシュタインの理論だけでは限定的な記述しかできなかった現象をよりよく理解することができるようになり、ブラックホールから何かが――かすかな熱が――逃げ出していることが明らかになったのだ。

 ブラックホールの熱には、ブラックホールそのものを記述する一般相対性理論と、量子理論が関係している。(略)ブラックホールの熱を手がかりにすれば、二つの理論をうまく組み合わせる方法がわかるかもしれない。つまりこの熱は、二〇世紀の二大物理理論の統合という課題を解決するすべての試みに対する理論的な尺度なのだ。ブラックホールは、天空に実際に存在する驚くべき天体であるだけでなく、わたしたちの空間や時間や量子を巡る着想を理論的に検証するための実験室でもある。

(略)

いったい何がブラックホールの表面に熱が生じるような大騒ぎを引き起こしているのか――そこには何も存在しないのだが……。

 一つ考えられるのが、基本的な空間の量子がこの熱を生みだしている、という答えだ。(略)きわめて強い重力が、ブラックホールの表面にまるで巨大アンプのように作用して、空間の基本粒子のきわめて小さな身震いを曝いてみせる。ブラックホールの熱はいかなる物質の熱でもなく、重力によって増幅された空っぽな空間そのものの熱――つまり、無が元来持っている熱量――なのだ。(略)

ブラックホール Ⅲ:中心の謎

(略)

一つの小さな問いが残されている。「でも、あそこに見えるブラックホールに落ちていっているものは、いったいどこに行っちゃうの?」。

 話はここからややこしくなる。アインシュタインの理論は、ブラックホールの内側も数学的に正確かつ優美に記述する記述する。つまり、ブラックホールに落ちたものが辿るべき経路を指し示すのだ。物質はどんどんスピードを増しながら落ちていって、ついに中央の点に到達する。そしてそれから……そこからは、アインシュタインの方程式がいっさい意味をなさなくなる。もはや何も語ることなく、日の光を浴びた雪のように溶けてしまう。変数の値は無限になり、すべて意味を失う。なんてこった!

(略)

 この問いの答えへと向かう路は、今までのところどれもかなり挑戦的だ。ひょっとすると、その物質はたとえば別の宇宙に現れるのかもしれない。ひょっとすると、わたしたちのこの宇宙自体が、その前にあった宇宙に開いたブラックホールから現れたのかもしれない。ひょっとすると、ブラックホールの真ん中ではすべてが融け合って確率の雲となり、そこではもはや時空も物質も意味を成さなくなるのかもしれない。あるいは、ひょっとするとブラックホールが熱を放っているのは、何千億年もの時間をかけて、中に入ったものがどういうわけか熱に変わるからなのかもしれない。

 わたしが所属するマルセイユの研究グループでは(略)もっと単純で理に適ったシナリオの可能性を探っている。そのシナリオによると、物質は減速して、中心に達する前に止まる。とことん凝縮したためにすさまじい圧力が生じて、最終的な崩壊は阻止される。これは、ちょうど電子が原子のなかに落ち込むのを防ぐ「圧力」のようなもので、ある種の量子現象なのだ。物質は落ちるのをやめて、とほうもなく密で極端に小さい星のようなもの――「プランク・スター」――になる。そして、こういう場合につきもののことが起きる。つまり、跳ね返るのだ

 プランク・スターは、床に落とされたボールのように跳ね返る。ボールのように、落ちてきた軌跡に沿って元に戻り、時間は巻き戻され、かくして黒い穴そのものが(専門用語でいう「トンネル効果」によって)正反対の白い穴になる。

 ホワイトホールだって?なんだ、それは?(略)わたしが持っている大学の教科書には、「そんなものは現実の世界に存在しない」と書かれている……何一つ入れないが、いろいろな物が出てくる空間領域だ。いうなれば、時間を巻き戻したブラックホール、破裂する穴なのだ。

 でもそれならなぜ、物質がブラックホールに落ちるところは見えても、すぐさま跳ね返ってくるところは見えないのか。答えは――ここがこの問題の決定的なポイントなのだが――時間の相対性にある。時間は、どこでも同じ速度で流れているわけではない。海抜ゼロメートルの場所では、すべての物理現象が山の上よりゆっくり進む。低いところ――つまり重力が強いところほど、時間はゆっくり流れる。ブラックホールの内部では重力がひじょうに強く、したがって時間の流れはきわめて遅くなる。すぐそばで見ている人には(略)落ちたものがすぐに跳ね返るのが見える。ところが外にいる人にとってはすべての動きが減速する。とほうもなく緩慢になるのだ。物が消えて無くなるのが見えてから、とんでもなく長い時間が過ぎる。外から見ていると、何百万年ものあいだ、すべてが凍り付いたように固まっている。まさに天空のブラックホールがわたしたちの目には静止して見えるのと同じように。

 だが、とほうもない時間といっても無限ではない。だからわたしたちが十分長い間待っていれば、物質が出てくるのを見ることができる。結局のところブラックホールは、つぶれては跳ね返る恒星でしかないのだ――外から見ると、きわめてゆっくりした動きではあるが。

 このようなことは、アインシュタインの理論ではあり得ない。だがそれをいえば、アインシュタインの理論は量子効果を考えに入れていない。量子力学があるからこそ、物質はこの暗い罠から逃げ出すことができるのだ。

(略)

ここまでの話をすべて繋ぎ合わせると……太陽のような(略)大きな恒星がすべての水素を使い果たして燃え尽きると(略)自重でつぶれ(略)ブラックホールができて、そこに落ち込む。太陽くらいの大きさ(略)の星なら、直径が一キロ半くらいのブラックホールになる。(略)

さらに内側にどんどん深く進み、途方もなく圧縮されたあげく(略)跳ね返って破裂しはじめる。(略)巨大な重力場によって時間が猛烈に引き延ばされているので、物質が再び外に現れる頃には、宇宙のそのほかの場所では何百億年もの時間が過ぎている。(略)

ナボコフの青い蝶

(略)ナボコフ自身は、まったく別の分野で名を馳せたいと思っていた。「蝶を見つけて」と題するその詩は、こんなふうに始まっている。「蝶を見つけ、名前を付ける。(略)一匹の虫の名付け親、その最初の記述者に。ほかには何の名誉もいらない」。蝶こそが、彼の情熱だった。「ロリータ」が書かれたのは、毎年ナボコフアメリカで行っていた西への旅――貪欲に蝶を追い求める旅――の最中のことだった。

(略)

数年前に、もっとも権威ある科学雑誌の一つ、「ロンドン王立協会紀要」に、ナボコフのもっとも大胆な仮説が裏付けられた、という記事が載った(略)彼の名は、科学の年代記に永遠に残るだろう。「青いイカルス」(略)ことイカルスヒメシジミが渡りを行うことを最初に理解した人物として。ナボコフは、まさにこのような名声を求めていた。

(略)

[ナボコフは]これらの蝶がアジアで進化し、一千万年の間に五つの波となってベーリング海峡を越えて北米大陸に到着した、という説を一九四五年に発表したのである。しかし当時は誰もまともに取り合わなかった。(略)だが、ナボコフは正しかった。現代のDNAシーケンシングの技術によって、この種の系統を辿ることが可能になり、彼の仮説が正しかったことが裏付けられたのだ。

(略)

子どもの頃は、よく蝶を追いかけたものだった。きわめて裕福なロシア貴族の長男として幸せな幼少期を過ごし、八歳の時に政治的な理由で父が投獄されたときは、幼いナボコフがその独房に一頭の蝶を届けたという。一家はロシア革命で財産を失うと、ヨーロッパに逃げたが、やがて父は殺されてしまう。その数年後ナボコフは、二作目の小説で得た金を使ってピレネー山脈に赴き、蝶を採集した。

 しかしナチスが権力を握ったために、ヨーロッパからも逃げざるを得なくなった。昆虫学への情熱はアメリカでも衰えることなく、やがて腕の良い在野の研究家、さまざまな種の蝶を描写できる人物として認められるようになった。ナボコフ自身も、余暇に昆虫を採集する十九世紀貴族という絶滅寸前の種の最後の標本だったのだが......。

(略)

アインシュタインのたくさんの間違い

 アルベルト・アインシュタインが二〇世紀最大の科学者の一人であることは、間違いない。(略)

 じつは、彼ほどたくさん間違えた科学者は稀なのだ。あんなにしょっちゅう考えを変えた科学者も、めったにいない。

(略)

 いくつか例を挙げてみる(略)ジョルジュ・ルメートル師は、アインシュタイン自身の理論を用いてこの事実を突き止めると、その発見をアインシュタインに伝えた。これに対してアインシュタインは、そんな考えは愚にもつかない、と反論したが、三〇年代に宇宙が実際に膨張していることが観察されたので、結局は前言を撤回することになった。アインシュタインの理論からはもう一つ、ブラックホールが存在する、という結論が得られる。ところが彼はこのテーマに関する誤った論文を何本かまとめ、宇宙はブラックホールの縁で終わっていると主張した。重力波の存在もアインシュタインの理論から導かれる結論の一つで(略)アインシュタインは、はじめはこれらの波が存在すると述べていたが、じきに存在しないといいはじめた。自身の理論の解釈を間違えたのだ。それからさらに考えを変えて、正反対の、重力波が存在する、という正しい結論を受け入れることにした。

 特殊相対性理論をまとめたとき、アインシュタインは「時空」という概念を使っていなかった。「時空」というのは、いわば時間と空間を含む四次元連続体の概念で、じつはヘルマン・ミンコフスキーに由来する。彼が、この概念を用いてアインシュタインの理論を書き直したのだ。この書き直しを知ったアインシュタインは、数学のせいで自分の理論が無駄に複雑にされた、と主張した。ところがすぐに一八〇度考えを変え、まさにこの時空の概念を用いて一般相対性理論をまとめたのだった。

 アインシュタインは、物理学における数学の役割に関する考えも一生のうちに何度も変えて、互いに矛盾するさまざまな着想を支持した。

 自身の主要な業績である一般相対性理論の正しい方程式に辿り着く前に、すでに何本かの論文を発表していたのだが、それらはすべて間違っており、それぞれに異なる誤った方程式が示されていた。しかも、この理論はシンメトリーではないはずだ、とする複雑で詳細な論文まで発表した。……後になって、そのシンメトリーを自身の理論の基礎に据えることになったのだが!

 晩年には、なんとかして重力と電磁気を統一する理論をまとめようと粘ったが、じつは電磁気学がより大きな理論(電弱統一理論)の一部であることには気づいていなかった(この事実は、アインシュタインの死のすぐ後に判明した)。したがって、重力と電磁気を統一せんとするアインシュタインの企てはまったくの的外れだった。

 アインシュタインは、量子力学を巡る大論争でも繰り返しその立場を変えた。最初は、この理論は自家撞着していると主張した。その後、矛盾がないという考えは受け入れたうえで、不完全な理論であって自然のすべてを記述するものではない、と主張することにした。

 一般相対性理論に関しては長い間、物質が存在しなければその方程式は解を持ち得ない、したがって、重力場は物質に依存しているはずだ、と確信していた。ところがウィレム・ド・ジッターをはじめとする人々が、それが間違いだと明確に示したことから、結局は、重力場自体が自律的な実在であって物質とは無関係に存在する、と解釈するようになった。

 現代宇宙論の基礎となった一九一七年の非凡な仕事では、宇宙が三次元球面であり得ることを理解して、今では実証済みの宇宙定数を導入したが、ここで、物理界に鳴り響くとんでもない間違いを犯した。宇宙は時間とともに変化するはずがない、というのである。そしてさらにもう一つ、数学においても特大の間違いをやってのけた。自身の導いた解は不安定で現実の宇宙を記述し得ない、ということに気づかなかったのだ。その結果、この論文は革命的で重要な新しい着想と多数の深刻な間違いが奇妙に入り交じったものとなった。

 これらすべての間違いや意見の変遷によって、アインシュタインに対するわたしたちの敬愛の念は目減りするだろうか。とんでもない!むしろその逆だ。思うにこれらの過ちはわたしたちに、知性の本質に関する何かを教えてくれる。知性とは、自分の意見を頑なに堅持することではない。喜んで変化し、それらの意見を捨てる覚悟が必要なのだ。

 この世界を理解するには、間違いを恐れずに着想を検証する勇気、自分の意見を絶えず更新してよりよく機能させようとする勇気が必要だ。

 誰よりも多く間違ったアインシュタインはまた、誰よりもよく自然を理解することができたアインシュタインでもあって、じつはこれらは互いを補い合う、同じ一つの深い知性にとって不可欠な側面なのだ。大胆に考えて、勇敢にリスクを取り、広く受け入れられている考えを――たとえそれが自分の考えでも――決して信じ込まないこと。

 間違える勇気、一度ならず何回でも自分の考えを変える勇気があれば、発見できる。理解に至ることができるのだ。

 正しいかどうかが重要なのではない。理解しようとすることが重要なのだ。

錬金術ニュートン

 一九三六年にサザビーズで、アイザック・ニュートン卿の未発表文書のコレクションが競売にかけられた。落札価格は低かった―――たったの九千ポンド。同じシーズンに落札されたルーベンスレンブラントの作品各一枚についた十四万ポンドという値と比べれば、じつに微々たるものだ。ニュートンの文書を落札した人物の一人に、著名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズがいた。ニュートンを大いに尊敬していたのだ。ケインズはすぐに、落札した文書のかなりの部分が、およそニュートンが関心を持つとは思えないある主題に関するものなのに気がついた。錬金術だ。そこでケインズは、ニュートン錬金術に関する未発表の文書をすべて入手しようとした。そしてじきに、この偉大な科学者が錬金術というテーマに、「ほんの一時興味をそそられて、ちょいと手を出した」だけではなかったことに気がついた。錬金術へのニュートンの関心は生涯続いていた。そしてケインズは、「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、最後の魔術師だった」と結論した。

 ケインズは一九四六年に、自身が所蔵するニュートンの未発表文書をケンブリッジ大学に寄贈した。

(略)

大方の歴史家たちはこの問題に近寄らないことにした。

(略)

 ニュートンが科学から逸脱したこのような錬金術研究を推し進めたのは、早熟で精神が脆弱だったからだ、という説がある。

(略)

 じつはもっとずっと単純なことだ、とわたしは思っている。

 鍵となるのは、錬金術に関するこれらの文書をニュートンがいっさい発表しなかった、という事実だ。これらの文書を見ると、ニュートン錬金術に対する関心がひじょうに広かったことがわかるが、それらは一つも公にされていない。発表されなかったのは、イギリスでは十五世紀には早くも錬金術が違法とされていたからだ、というのがこれまでの解釈だった。しかし、錬金術を禁ずる法律は一六八九年にはすでに廃止されていた。それに、もしもニュートンが法律や慣習に逆らうことをそこまで恐れていたら、あのニュートンにはなっていなかったはずだ。ニュートンは時には、途方もない究極の知識をあれこれ拾い集めて独り占めしてさらに強い力を得ようとする悪魔的な人物として描かれてきた。しかし、ニュートンは実際に途方もない発見をしたのであって、決してそれらを独り占めしようとはしなかった。事実、『プリンキピア』をはじめとする偉大な著書でそれらの知識を公開している。そしてそこに載っている力学方程式は、今でもエンジニアたちが飛行機や建物を作るときに使われている。成人後のニュートンは名をあげて、広く尊敬を集めた。じっさい、当代一の科学機関、英国王立協会の会長になったくらいで、知的な世界はニュートンの成果を待ち望んでいた。では、なぜ錬金術を巡る活動の結果をまったく公表しなかったのか。

 答えはきわめて単純だ。(略)納得いく結果が一つも得られなかったからだ。そう考えると、すべての謎が解ける。今では簡単に、錬金術の理論的・実験的な基礎があまりに脆弱だった、というこなれた歴史的判断に寄りかかることができる。だが十七世紀には、そのような判断を下すのは簡単なことではなかった。錬金術は広く実践され、多くの人々が研究しており、ニュートンも本気で、そこに真の知が含まれているかどうかを理解しようとした。もしも錬金術のなかに、自身が推し進める合理的で実験的な研究手法を用いた精査に耐えるものが見つかっていたら、ニュートンは間違いなくその結果を発表していたはずだ。

(略)

 それはそもそも空しい望みだったのか。始める前に放棄すべき計画だったのか。いいや、それどころか、錬金術が提起した種々の重要な問題や、展開したかなりの数の手法は――とりわけさまざまな化学物質の別の化学物質への変化に関する問いや手法は――じきに化学という新たな分野を生み出すことになった。ニュートン自身は錬金術から化学へと向かう決定的な一歩を踏み出すには至らなかったが、次世代の科学者たち――たとえばラヴォワジエ――が、その役割を引き継いだのだ。

 インディアナ大学がウェブで公開している文書からも、このことは明らかだ。そこで使われている言語は、比喩やほのめかし、不明確な言い回しに奇妙な記号など、確かに典型的な錬金術の言葉であるが、述べられている手順の多くは単純な化学反応でしかない。たとえばニュートンは、「硫酸塩の油」(硫酸のこと)、硬い水(硝酸のこと)と「塩の魂」(塩酸のこと)の製造について述べていて、その指示に従えば、これらの物質を合成できる。ニュートンがこの試みに「チミストリー(chymistry)[chemistryとは一字違い]」という名前を付けたのも、いかにも暗示的だ。ルネサンス以降の後期錬金術は、着想を実験で確認することに強くこだわった。すでに、近代化学のほうに向かい始めていたのである。ニュートンは、錬金術の処方の混沌とした瘴気のなかから(「ニュートン的な」意味での)近代科学が生まれようとしていることに気づき、産婆になろうとしていた。そのために膨大な時間を費やしたが、結局は混乱を解きほぐす糸口を見つけることができなかったので、何も公にしなかったのだ。

 ニュートンの奇妙な情熱と探求の対象となったのは、錬金術だけではなかった。その手稿からはもう一つ、さらに面白そうなテーマが浮かび上がってくる。彼は、聖書の年代記を復元することに膨大な労力を費やしていた。あの聖なる書に記された出来事の正確な日付を突き止めようとしていたのである。手稿から見る限り、ここでもたいした成果は得られなかった。じつは科学の父は、この世界がほんの数千年前に始まったと考えていたのだ。ニュートンはなぜこの作業に没頭したのか。

(略)

近代の歴史家が重要な仕事をする際には、ありとあらゆる資料を考慮に入れて、各々の信頼性を評価し、得られた情報が妥当かどうかを判断する必要がある。そうやって資料を評価し、それぞれの重みを勘案しながら統合することで、もっとも理に適った復元が可能になる。量を用いて歴史を記述するこの方法は、じつはニュートンの聖書年代記を巡る仕事に端を発している。ここでもニュートンのやり方はきわめて近代的で、自分の手元にある不完全で信頼性もまちまちな大量の資料に基づいて、古代史の日付を合理的に復元する方法を探った。そして、後に重要になる概念や方法をはじめて導入したのだが、自分にとって満足いく結果が得られなかったので、結局何も発表しなかった。

 これら二つの例はいずれも、従来の合理主義的なニュートンという描像から外れていない。それどころかむしろ逆で、この偉大な科学者は、真に科学的な問題に取り組んでいたのだ。ニュートンが、検証されていない伝統や権威や魔法と優れた科学を混同した形跡はいっさいない。それどころか彼は先を見通すことができる近代の科学者であって、優れた判断力を持って科学の新しい分野に向き合い、明確で重要な結果が得られればそれを発表し、得られなければ何も発表しなかった。ニュートンは有能な、きわめて有能な人物だったが――限界はあったのだ。他のみんなと同じように。

 思うに、ニュートンの天才たる所以は、まさにこれらの限界を深く認識していた点にある。自分が何を知らないのか、その限界を知っていた。そしてこれこそが、彼がその誕生を後押しした科学の基本なのだ。

チャーチルと科学

 ウィンストン・チャーチルははじめて科学顧問というポストを設立した英国首相である。彼は、電波天文学の父バーナード・ラヴェルをはじめとする科学者と定期的に顔を合わせていて、彼らと話すのが大好きだった。公的な資金を使って研究や望遠鏡の製造や実験室の開設を後押しした結果、第二次世界大戦後の科学のいくつかの重要な発展が――分子遺伝学から、X線を使った結晶学に至るまで――もたらされた。戦争中は、チャーチルが英国での研究支援を断固として推し進めたおかげでレーダーや暗号学が開発され、軍事活動における成功に決定的な役割を果たした。

 チャーチルその人にも、決して広範とはいえないが、しっかりした科学の素養があった。若い頃はダーウィンの『種の起源』を読み、物理学の入門書を学んでいた。(略)さらに、並々ならぬ関心を持って科学の発展をフォローし、一九二〇年代から三〇年代には科学に関する啓蒙記事まで書いている。

(略)

 アメリカの天体物理学者であり作家でもあるマリオ・リヴィオは「ネイチャー」誌の記事のなかで、一九三九年にチャーチルが書いた――そして五〇年代に手を入れた――未公開の文書を紹介している。チャーチルはその文書で、今日の科学とも大いに関わりがある問題を論じていた。この宇宙の何処か別の場所――地球に似た惑星――に生命が存在する可能性を巡る問題だ。彼の分析は驚くほど明晰で、科学的な概念を操るずば抜けた力を持っていたことがわかる。チャーチルは(略)地球上の生命に似た形の生命が他の惑星で進化するのに必要ないくつかの要素を突き止めた。母星からの距離が、水が液体でいられるようなごく狭い幅の温度を保てる範囲にあること。そしてもう一つ、十分に濃い大気を維持できるだけの質量があること。

 そして、特に印象的な一節が続く。チャーチルはまず、惑星系の形成に関する当時もっとも信頼されていた理論――二つの恒星が接近することで惑星系ができるという説――では、この条件が満たされる可能性はきわめて小さくなり、生命もめったに存在しなくなる、と述べる。そのうえで、この結論が正しいかどうかは、恒星の接近による惑星系の生成という理論が妥当か否かにかかっていて、必ずしもこの理論が正しいとは限らない、と指摘するのだ。この偉大な政治家には、自分の知り得た科学的知識がどれくらい重要なのかを判断する力だけでなく、どこまで不確かなのか、その限界を察知する鋭い感覚があった。やがて恒星の近接接近(ないし近接通過)の理論は間違っていたことが明らかになり、今では惑星は別の仕組みで(小さな欠片がぎゅっと集まって)できたことがわかっている。チャーチルの主たる結論は、今日わたしたちが得ている結論に近い。

 

 星雲(銀河)は何十億もあって、それぞれに何億もの太陽が含まれているのだから、生命が存在しうる惑星を含む星雲がたくさんある可能性は高い。

 

 それに続くコメントは、わたしにいわせれば、英国精神を完璧に捉えたものだ。

 

 わたしにすれば、われわれの文明の成功にきわめて強い印象を受けているわけではない。したがってこの広大な宇宙の中で、命があって思考するものが存在する唯一の片隅を代表しているのは自分たちなのだとか、自分たちこそがこの広大な空間と時間のなかで精神的肉体的にもっとも高いレベルに進化しているのだ、とは思えない。

 

 チャーチルには明らかに、科学の限界が見えていた。彼は一九五八年に、「この世界には科学者が必要だ」と記している。さらに、「しかし、科学者のために世界が必要なのではない」としたうえで、「もしもわれわれが科学によって持ち得たあらゆる方策を以てしても、この世界の飢餓に打ち勝つことができないのであれば、わたしたち全員が責められるべきだ」と書き添えている。しかし彼は深いところで、科学的な思考が人間性にとって中心的な役割を果たすことに気づいていた。政治がそれを支えることの重要性、科学に耳を傾けて、科学を使うことの重要性を痛感していた。そして何よりも、科学的な思考を行うことで、事実に基づく政治的な決定が可能になる、という大きな利点に気づいていた。(略)

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