アメリカニズム

アメリカニズム―言葉と気質 (1979年) (岩波新書)

アメリカニズム―言葉と気質 (1979年) (岩波新書)

草の根とは分捕り主義

「人民」の揺れ動く影はまだつづく。『草の葉』の詩人ホイットマンが『民主主義展望』(1871年)を書き、政治の腐敗を激しく弾劾してから間もなく、偶然か皮肉か、こんどは草の根民主主義 grassroots democracy なるものが叫ばれるようになった。この語自体が屈折した影をひいている。今日の意味、「大衆の間から盛り上がった」とは似て非なる、あちこちの草の根の下からいつ何どき金銀が転がり出るかもしれぬ時代に直面しての機会均等主義を求めたのが、この語の発端だったのである。機会均等主義とは、実は気の利いた者、コネのある者、早い者勝ちの分捕り主義にほかならない。それはまた不法占拠を正当化するsquatter sovereignty(居住者主権)の考えでもあり、牛を丸ごと焼いて好き勝手に喰い合うあの”バーベキュー″の巨大版だ。この主張で人気を取った”イリノイ小さな巨人″ダグラスに対して、リンカーンが必死の論戦を試みたことも歴史に名高い。しかし、西部発展の基礎づけが、このような機会均等主義にあったこともまた事実であった。この”草の根ボナンザ”(金鉱当て)の熱が冷めて、やがて人民側の主張は、「はじめに」に書いた populism へと移ってゆくのである。
米国憲法はその前文で、「われら合衆国の人民は」と声高らかに謳っているように見える。だが、人民の範囲の規定はどこにもない。

"let alone"が南北戦争の係争点

西欧伝統の通商の自由放任主義 Laissez-faire もアメリカにくると、独立と個人主義のニュアンスをもつ口語 let alone(放っておけ)に置き換えられた。こう訳したのはコモンセンス哲学のフランクリンで、いかにも彼らしい才覚である。(略)
英国側がホッブズ主権国家論を持ち出し、植民地支配の妥当性を主張したとき、フランクリンは「自由の子らよ、この腐敗を去り、運命の手に委ねよ」と、一見無責任のような応酬をしているけれども、宇宙秩序の自己発展を信ずる彼には、let aloneが自由と個人主義の標章に見えたのではなかったか? のちの歴史に照らしてみると、「連邦」の大義をかざす北部と州権主義に立てこもる南部が対立した南北戦争直前の情勢をまったく逆転させたものになっている。どちらも論争が体制の死活にかかかる深刻なものだっただけに、言葉というものの持つ端倪すべからざる様相を思わずににいられない。
事実、このlet aloneこそ、奴隷制度と「自由な准州」(とくにキャンザス)をめぐる抗争に端を発した南北戦争の精神的な係争点だったのである。この時代のsine qua non(必須条件)はまるで「放っておけ」にあったような観を呈する。のちに南部同盟の大統領となったジェファスン・デーヴィスはその就任演説の結びに、All we want is to let alone.といった。

本来の「中道」は長州イズムど真ん中

裏切られた南部派ポピュリストはまったくの非妥協派と化し、両政党はおろか自党の東部派、西部派のいずれにも与しない、「道のまん中」政策を標榜したのだった。そして、最後のポピュリストたちが(かつての西部派は民主党に吸収、統合され、彼らだけが徹底的ポピュリストとなったわけで)、孤塁を守りつづけ、ようやく1912年にその運動は終息するのである。通算40年の歴史であった。
そこで、このパトワの意味を時代にもっとも密着して収録した1918年のセンチュリー辞典は、次のように説明する。


「Middle‐of‐the‐road ポピュリストのうち、とくに1896年の大統領選挙戦で自派から候補者を出すこと、および民主党の指名者を受け入れることを拒否することを主張するー派をいう。(略)西部の一部にあった習慣に由来するものといわれる。待ち伏せしている敵による襲撃から身の安全を守るために、道のまん中を歩くという習慣がそれである〔米、政治用スラング〕)


明らかに、裏切られた南部人の、右をも左をも依り頼まぬ、護身と非妥協の姿勢を示すとともに、第三党としてわが道を往かんの気概を示すものだ。当代の地方語辞典は、この語だけでan out-and-out Populist(徹底的ポピュリスト)を示すと書き、"狂信者″だとも書く。