ミシシッピ=アメリカを生んだ大河

出版側は複雑な気分でしょうけど、まさにタイムリー。
とりあえずハリケーン関連から。

堤防により湿原が消滅

いまではミシシッピ川を追ってバトンルージュまで外洋航行船が来るのだが、船の水路を確保するための浚渫と、農地を洪水から守るための堤防の建設によって、南ルイジアナの湾岸地域の自然環境は変貌しはじめている。(略)
人口の堤防が築かれると、上流から運ばれてきたシルト(沈殿)はバイユーやアチャファラヤ川流域の沼沢地に流れ込まなくなった。(略)
沿岸の湿原はやがて消え失せ、ルイジアナの海岸はフロリダ州ミシシッピ州のような不毛の砂浜と化してしまうだろう。

湿原の消滅により高潮直撃。

カトリーナを警告。

暴風雨が砂洲島(海岸線に並行する砂の島)や沿岸の湿原を通過すると、高潮の勢いはそこで減殺される。湿原が幅4キロメートルあれば、そこで高潮は30センチメートル分吸収されると推定されている。(略)
ニューオーリンズはすでに、平均して海面下240センチメートルに位置している。一世紀前、この町は、メキシコ湾の海岸線までおよそ80キロメートル続く湿原によって、ハリケーンから守られていた。湿原がハリケーンと高潮の衝撃の大半を吸収してくれたのである。ところが現在、ニューオーリンズとメキシコ湾とのあいだの湿原の幅は35キロメートルしかなく、しかもそれが急速に縮小しつつある。もしニューオーリンズがハリケーンの直撃を受けたら、どうなるだろうか。この町から脱出するための大きな橋が三つしかないことを考えると、壊滅的な打撃をこうむるのは避けられないだろう。手立ては一つしかない。連邦政府と州政府が協力して、ミシシッピ川の流れの一部を変え、ふたたび土壌を肥やして湿原を甦らせ、少なくともこれ以上の陸地の水没は阻止すべきなのだ。それ以外には、メキシコ湾のハリケーンが今後しばらく南ルイジアナを襲わないよう、天に祈るしかないだろう。

春の増水時の堤防

トロールのかつての理由

  • 穴を掘る動物(ザリガニですら)
  • 自分の側が助かるために、対岸の堤防を爆破しようとする動きを警戒

堤防が高くなればなるほど危険は高まっていく。(略)
初期のニューオーリンズの堤防はたった90センチメートルの高さであったが、いまでは洪水を防ぐために7メートル近い堤防を必要としている

1926年の水害の際には

黒人は避難させてもらえなかった

4月21日、今度はミシシッピ州マウンズランディングの堤防が決壊し、津波と化した水流がデルタ地帯に広がり、東は80キロメートル先のローム層の丘陵地帯まで、南は160キロメートル先のヴィクスバーグまで突き進んだ。一帯は深さ6メートルの水に浸されたのである。これは、合衆国史上最悪の自然災害となった。何千頭もの家畜が死に、数百人が命を落とし、イリノイ州ケイロからメキシコ湾岸までのあいだに架かっていた橋のすべてが破壊された。
不名誉なことにデルタ地帯のプランターたちは、黒人のシェアクロッパーたちが安全な土地へ避難することを水が引くまで認めなかった。プランターたちは、黒人たちがいったんこの土地を離れたら二度と戻ってこないにちがいないという理屈で、その行為を正当化しようとした。だが、その結果、きわめて多くの黒人の命が奪われたのである。

南部人が「デルタ」と言うとき

彼らの頭にあるのは、ニューオーリンズの南に広がるミシシッピ川の扇形の河口のことではない−そちらは「ミシシッピ・デルタ」と呼ばれている。「デルタ」とは、ミシシッピ州北西部に約二万平方キロメートルにわたって広がる、木の葉の形をした沖積平野を指している。

フランスの探検家ラ・サールが1682年にルイ14世に敬意を表して「ルイジアナ」と命名
1718年ビヤンヴィルがルイ15世の摂政であるオルレアン公に敬意を表してヌーヴェル・オルレアンと命名したものが英語化してニューオーリンズ
ジェファーソンの時代にアメリカがフランスから購入したルイジアナミシシッピ川全流域の「航行の自由」を確保し、西への移住の重要な中継地となる。

一世紀半前までニューオーリンズには、白人、「有色の自由人」、黒人奴隷の三層からなる、ほかの都市には見られない独自の社会が存在した。さらに言えば、この三つの階層のいずれに属する人びとも、ほかの南部の都市とは異質であった。第一に、ニューオーリンズの住人は、英語ではなくフランス語を話していた。第二に、彼らはプロテスタントではなくカトリックであった。この二つは、19世紀初頭以降にイギリス系の人びとがやってきてからもニューオーリンズの住人の際立った特徴でありつづけた。第三に、三つの階層間に存在した厳然たる壁にもかかわらず、はじめのうち、肌の色の違いによる抑圧はほかの地域よりもずっとゆるやかだった。ニューオーリンズの奴隷は、南部のほかのどの地域の奴隷よりも、はるかに豊かな自由を享受していたのである。

城壁の外の野原で日曜黒人奴隷が集まり市場をひらき歌い踊った。

1760年には、この広場は「コンゴスクウェア」という新しい名で呼ばれるようになっていた。奴隷制度の初期にこのような文化的な避難所をアフリカ系住民に許した町は、北アメリカ大陸にはほかにひとつもなかった。また、黒人たちに故郷の言葉を使い、故郷の習慣を保持する機会を与えた町も、ほかにはなかった。それどころか南部のほかの地域では、アフリカの踊りや歌は英米のスタイルに変容させられるか、禁じられるかであった。大西洋沿岸地域の奴隷所有者たちは暴動をひどく恐れ、黒人が大人数で集まることを禁止していた。また、奴隷同士が連絡を取り合うことのないよう、ドラムを使うことも禁じていた。つまり、コンゴスクウェアはきわめて例外的な存在だったのである。

ジャズが生まれた理由

[長い音楽の伝統があり]南北戦争米西戦争のあと、軍楽隊がしばしばニューオーリンズで解散し、楽団員たちがランパート・ストリートの質屋に楽器を売り払ったのである。最初のうち、これらのヨーロッパの楽器--コルネットクラリネットトロンボーン、トランペット--は、正規の訓練を受けた白人ミュージシャンが買い取っていたが、やがて、生計を立てようとして必死になっている黒人ミュージシャンの手にも渡るようになった。
以上のような条件を考えれば、最初”jass”(よく言えば「情熱」、悪く言えば「性的奔放」を意味する)と呼ばれ、のちに“jazz”と呼ばれるようになった音楽を創造することが、なぜニューオーリンズのみに可能だったのか理解できるであろう。つまり、この町にのみ、ふさわしい人材と機会のすべてが揃ったのである。

ケイジャン」の由来。

先住民の言葉で「豊饒の地」を意味する、カナダ東端の入植地は仏語で「ラカディ」英語で「アケイディア」となった。他とは異なり先住民とも友好関係を結び強固なアイデンティティを築いていたが、やがてイギリス勢に追われ定住地を求め彷徨。

1765年には、アケイディア人の最初の一団がルイジアナに定住するようになった。ルイジアナはフランス語を話すカトリック教徒をこころよく迎え入れた。同胞が安住の地を見つけたという噂は大西洋沿岸に広まり、カナダやフランス、またカリブ海北アメリカ大陸南部のイギリスの植民地から、アケイディア人が移住してくるようになった。(略)「アケイディアン」という名前は次第に「ケイジャン」へと変わっていった。

同化しなかったベトナム難民

これまでケイジャンの社会に同化しなかった民族集団は、おそらく1975年のサイゴン陥落以来、近海で小エビ漁をしているベトナム人だけであろう。ベトナムを脱出しアメリカにたどり着いた難民たちは、当初、国中に散らばるように移住先を見つけた。だが、やがて大勢の難民が南ルイジアナに引き寄せられることになった。住民がカトリックでフランス語を話すこの地域はベトナム人には親しみやすく、故郷と同じように漁で生計を立てられる点も好都合だったのである。こうした難民たちは安住の地を見つけはしたが、地域社会に同化することはなく、独自の生活様式を守りながら、ケイジャンや他の住民と共存しているように見受けられる。

『自己犠牲の名誉』を感じるため

南北戦争を再現する人々

数年前、南北戦争の再現が人気を集めていることをはじめて聞いたとき、私はおおかたのアメリカ人と同様に、歴史マニアや、白人優位の時代を懐かしむ人種差別主義者だけがそのような催しに参加するのだろうと思っていた。

トマスは腹立たしげに言う。「再現者は戦争を美化しているなどと言う連中がいます。だが、一晩じゅう地面の上で眠り、10時間から12時間も行進し、水筒の水が凍りつく寒さのなか、『撃たれた』あと何時間も地面に横たわって衛生兵を待つ体験をした者は、戦争がロマンチックだなどとは思わないものです。人種差別主義者だという批判も受けますが、私は煽動屋は大嫌いです。なぜいつも南軍旗はその手の狂った煽動屋と同じ目で見られてしまうのでしょうか? 南軍旗は勇敢な兵士の象徴なのです。黒人への憎悪の象徴などではありません。キーワードは名誉です。現代人は『自己犠牲の名誉』を忘れています。だから、週末に『日常生活から離れて』過ごすことで、原点に立ち帰ることが大切なのです。