俺がJBだ! その2

前回の続き。

「トライ・ミー」、新しい契約

[「ザット・ドゥード・イット」「ベッギング、ベッギング」]がまるで売れなかったんで、ネイサン氏は(略)「ジェームズ・ブラウンはおしまいだ、ポシャった。もう二度とわしのとこでは録音させん」と触れまわった。(略)

レコーディングの日程がもらえないまま八、九ヶ月過ごしたあと、俺は(略)自分で行動を起こそうと決意した。

(略)

当時俺は(略)同じ曲を違うアレンジで試して観客の反応を見、そのうえでレコーディングのための最良のアレンジを決定した。この時試していたのはとてもポップなチューンの「トライ・ミー」だった。(略)[ディー・クラークの「レインドロップス」とジェリー・バトラー&ザ・インプレッションズの「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」]を足して割ったような感じになるように書いた。

(略)

「わしの金をそんなゴミのために使う気はない」とネイサン氏。

俺は「OK、ネイサンさん。デモ用の費用は俺が払いましょう。それで様子を見てください」と言った。(略)

同時に、長い間歌っていた「ビウィルダード」も録音した。プレーバックしてみると、この曲がそれは強力だったんで、ネイサン氏には聴かせないことにした。ネイサン氏がこれを「トライ・ミー」とカップリングして、両方とも台無しにするようなことをしてもらいたくなかったんだ。

(略)

[結局、デモも気に入ってもらえず]

俺は自分の金を使った挙げ句、レコード会社に拒絶されてしまった。(略)

[自費でアセテート盤にし]コピーをつくって知り合いのDJに渡して回り、番組で流してもらった。

(略)

「(略)ラジオ局は単にこの曲を流しているだけじゃなくて、最もリクエストが多い曲の一つになってんですよ」と俺。

「証明してみろ」とネイサン氏。

(略)

 俺はDJ全員を回り、ネイサン氏に電話してこの曲がラジオ局でどのくらいの人気を得ているか話してくれるよう頼んだ。みんながネイサン氏に電話をしてくれたあと、俺は彼に会いに戻った。俺の予告どおり彼は考えを変えていた。だが、それはDJが電話したからじゃなくて、キングにすでに二万二千枚ものレコードの注文が来ているのがわかったからだった。レコードはまだ録音されてさえいないというのに。

「さてと、ジェームズ。この曲を売り出してみることにしたよ」と彼。

「けっこうですよ。ネイサンさん」と俺。

「よろしい。ところでテープはどこだ?」

「(略)あれは単なるデモ・テープで、俺が自分で金を出してつくった簡単なものなんで」

「ラジオ局はそれを流してるじゃないか」

「(略)家で聴くレコードだからちょっとは違ってないとね。アラが見えちまうんで。腕のいいミュージシャンを何人か入れてキッチリしたものに仕上げるために、録音し直す必要があると思います」。俺はワニのようにでっかくニタッと微笑ってみせた。

(略)

 ある意味で、これが俺の新しい出発であったと同時に、最後のチャンスでもあった。

(略)

[「トライ・ミー」は]発売後またたくまにR&Bチャートの一位になり、ポップ・チャートでは四十八位まで上昇した。再びすべてが変化の気運に乗りはじめた。

(略)

ネイサン氏との契約は切れていたが、俺の曲が一位になると再び提携を求めてきた。以前の契約内容はひどいもので、確か、片面につき作詞・作曲の印税として〇・五セントと演奏料〇・五セントをもらっただけだった。

(略)

 俺は新しい契約をキングの副社長ハル・ニーリーと取り交わした。一九五八年にネイサン氏が心臓を患っていた時に経営を助けるためシンシナティーにやってきた人だ。ニーリーさんはバンド・リーダーをしたことがあり、自分もトランペットを吹いたんで、音楽には理解があった。新しい契約で、印税は五%に跳ねあがった。当時は三%が相場だったから、条件のいい契約となったわけだ。ただし、新契約は「トライ・ミー」に対しては適用されなかった。「トライ・ミー」の契約は以前の契約の範疇だった。「トライ・ミー」が一位だったにもかかわらず、俺がもらった印税は三六〇〇ドルくらいだった

マント・ショーの誕生、マッシュ・ポテト

 〈アップタウン〉での出演以来、俺たちは「プリーズ」のエンディングに磨きをかけていた。俺が跪くとすぐ肩にコートがかけられた。最初の頃、このコートはそこらへんにあるものを利用していた。フレイムスのメンバーの誰かのものだった時もあれば、バンドのメンバーのものだったこともある。(略)コートのクリーニング代の請求が重なってくると、誰も自分のコートを使われたいとは思わなくなった。それで、みんなはコートの代わりに、まるでボクサーに対するみたいに俺にタオルをかけるようになった。(略)俺はこれを観客に投げてやった。客がこれを気に入ったんで、俺たちはかなりの間、タオルを投げつづけていた。(略)

[ツアーの後半、ホテルの]テレビでプロレスを見ていた。ゴージャス・ジョージが出ていた。(略)[試合相手]を始末してしまうと、歓声に応えてお辞儀をしながらリングを回りはじめた。トレーナーが彼を追いかけて肩にローブをかけた。ゴージャスは肩をゆすってローブを落とし、リングの別のコーナーに行って、そこでまた観客にお辞儀をした。トレーナーは再びローブをかけたが、ジョージはまた落として別のコーナーの観衆のところに行った。これを見ていて俺は「ローブを手に入れよう」と言った。

(略)後には俺がデザインして特注したケープを使うようになった

(略)

俺は長年マッシュ・ポテトをやっていたが、名前をつけたことは一度もなかった。

(略)

俺のマッシュ・ポテトはアップルジャックとドーローとスカリーホップといった、いろいろなダンスを組み合わせたものだ。スカリーホップはもともとリンディー・ホップから派生したもので、ドーローはボクシングの動きのスライドに似た、ほとんどスケートのような踊りだった。そして、こうした要素のすべてを合わせると、ジェームズ・ブラウンができあがるわけだ。加えて、俺にはからだ全体を震わせるように神経をコントロールすることもでき、そいつのせいで、人がやる以上に踊りに味が加わった。

 俺にはこの踊りのためのインストルメンタル曲がヒットするという確信があったが、ネイサン氏は信じてくれなかった。

(略)

一九五九年の終わり頃だったが、バンドと「(ドゥ・ザ・)マッシュド・ポテトズ、パート・ワン・アンド・トゥー」を吹き込んだ。俺はボーカル・パートをやったが、あとでDJのキング・コールマンを雇って、俺の声の上に彼の声をかぶせた。キング・レコードとの契約に違反しないようにするためだ(よく聴けば俺の声が彼の声の下に聞こえるはずだ)。俺たちはこのレコードをナット・ケンドリック&ザ・スワンズの名前で発売し、俺はクレジットにロージアーという名を使った。一九六〇年二月に発売を開始すると、R&Bのトップ10に入り、多くの人がマッシュ・ポテトのレコードをリリースする先駆けとなった。

規律、罰金制度

大所帯のグループが成功するためには、ビリー・ワードがドミノズで徹底させたように規律が必要だ(略)メンバーは出演時間の四十五分前までに必ず劇場内に集合(略)ビリーはグループ全員を一列に並べて、衣装と靴の点検をした。彼は長い書字板を持ち歩いて、もし衣装に皺がよっていたり、靴を磨いていなかったりすると、メンバーの名前の横に罰金を記録していった。(略)ジャッキー・ウィルソンが四、五分遅刻してきた時(略)ビリーはすぐその場で「これで二度目じゃないか。また遅れてみろ、控えにお前の代わりをやらせるからな」と怒鳴りつけた。ビリーは巡業にいつも一人余分に控えの歌手を連れていた。ジャッキーは「すまない。もう二度とこんなことはないから」と言い、それからステージに出て、素晴らしいショーを披露した。

(略)

俺も汚い衣装、磨いていない靴、遅刻などに対して罰金システムを取り入れた。(略)罰金を課す時には、俺がその金を取りあげるんじゃなく、ショーのあとのパーティー費用としてビンの中に入れた。俺は絶対に人の金を取ったりはしない。

 暇がありスタジオが近くにある時にはいつでもレコーディングした。西部を巡業している時にはハリウッドで(略)北部にいる時にはニューヨークで(略)南部と中西部にいる時にはシンシナティーのキングのスタジオに行った。(略)

一回のレコーディング・セッションは三十分から四十分の時もあれば、十二時間の時もあった。(略)吹き込もうとする曲はすでにステージやリハーサルを通してあらゆる方法で練りあげられていたものだった。たいていの場合、俺たちは一回のレコーディング・セッションで少なくとも三本のマスターを仕上げたもんだ。おかげでキングは発売用の歌の在庫を抱えていたよ。

ティナ・ターナー

カリフォルニアへの旅は初めて俺たちがアイク&ティナ・ターナーに出会ったツアーでもあった。(略)俺が「グッド・グッド・ラビン」を歌っていると、ティナが突然ステージに飛びあがって参加し、まるでこれまでずっと歌ってきたみたいに「グッド・グッド・ラビン」を歌った。フレイムスは後ろに下がって、俺たち二人にステージを続けさせた。ティナは俺にぴったりついてきた。俺がスピンすると彼女もスピンし、俺がスライドすると彼女もそれをやった。(略)

俺はピアノの上からステージにスプリット(股割り)で着地した。これでフィニッシュだと思った。ところが、ティナは終わらせようとしなかった。彼女はクルクル回りながら後ろに下がり、マッシュポテトをやりながらピアノのところまでいくと、ピアノに飛び乗り、それからステージに飛びおりてスプリットでフィニッシュした。その夜、俺たち二人は観客を興奮のるつぼに叩き込んだ。

ソウル・ミュージックとは

その頃、俺の頭の中には、これまでどこでも聴いたことのないサウンドが鳴り響いていた。そのサウンドには名前がなかったが、俺にはこれが今までのサウンドと違っていることがわかっていた。そう、ミュージシャンはカテゴリーなんてものを考えやしないんだ。明日ビバップを発明するつもりだとか、昨日ロックンロールを思いついた、なんて言う奴はいない。何か違ったサウンドが聞こえ、それに導かれるままについていくだけだ。名前なんかつけたい奴につけさせればいい。人々が俺たちのやっていた音楽をリズム&ブルースと呼んだようにな。俺たちがやっていたことに世間が追いつくまでずいぶん時間がかかった。だが、ようやく追いついた時に、こいつも名前を頂戴した。"ソウル"という名を。

(略)

 一九六〇年の初め頃に俺が吹き込んだレコードを聴けば、変化が現れ出していることに気づくだろう。(略)

俺自身はそれ以前から変わりはじめていたが、変化が音に現れたのはその頃のことだ。(略)

[1月の]「アイル・ゴー・クレージー」はブルースだが、ブルースと言っても違った種類のものだ。アップ・テンポで、ジャズ・ブルースの一種。[5月の]「シンク」はゴスペルとジャズを合わせたようなもので――俺たちはそいつをリズム・ホールドと呼んでいた。まさにそこがソウルの出発点だった。(略)

ソウル・ミュージックはゴスペルとR&Bが一緒になったものというようにしか語られていない。ソウルの多くの曲についてその説明は正しいが、俺の音楽について語るんなら、ジャズを忘れちゃならない。この要素があるために俺の音楽はほかと異なるものになったんであって、ソウルが終わったあとも変化し、成長しつづけたんだ。

ルイ・ジョーダン、ジャッキー・ウィルソン、アレサ・フランクリン

一九六〇年という年は、俺のそれまでの苦労がいっきに報われはじめた年だった。

(略)

[12月]すべての苦労が、〈アポロ〉の看板のヘッドラインに大きく名前が載るというかたちで現れていた。

(略)

ルイ・ジョーダンは俺たちに続いて〈アポロ〉に出演する予定だった。俺はルイに会いたくて滞在を一日延ばした。(略)ルイはかなりからだが弱っていたが、それでも素晴らしいショーを見せてくれた。ショーのあとで(略)パフォーマーとして俺にとってどんなに大切な人であるかを話した。子供の時、たぶんルイが歌ったのと同じ回数ぐらい俺も「カルドニア」を歌った、とも伝えた。ルイは立派な人だ。だが、正当な評価をいまだに受けちゃいない。

(略)

[ジャッキー・ウィルソンが女性ファンに撃たれ入院]

シフマン氏が俺たちを代わりに立てた。(略)

なぜ俺が彼らから影響を受けたと言われるのかわからない。俺はジャッキーからは影響を受けなかった。ジャッキーが俺をコピーしようとしたんだ。ジャッキーから得たものはない。彼から学ぶべきものは何もなかった。ジャッキーはポップなものを歌っていたし、俺はそんなことはやりたくなかった。

 俺がジャッキーの出演しているショーをよく見にいったんで、そのためか不必要なテンションが生まれることになった。つまりだ、俺はたちまちジャッキーに追いついてしまった。そのことはジャッキー自身も知っていた。俺のほうが彼より音楽をよく知っていた。ジャッキーよりもゴスペルの下地があったし、曲はすべて自分で書いていた。俺がのし上がってきたんで、彼は自分の人気を脅かされるようになった。そして不安になり、歌えなくなったんだ。

(略)

[62年春、ロスで]アレサ・フランクリンティト・プエンテ、チコ・ハミルトンほか数人と共演した。アレサに会ったのはその時が初めてだった。彼女のゴスペルのバックグラウンドは強固なもの(略)で、歌いはじめた時からかなりの実力だった。(略)

ショーのあとで親しくなった。まずアレサの頭の良さが気に入った。ちょっと話すだけですぐに頭の良さが伝わってきた。アレサはしばらく俺のガールフレンドだったと言ってもいいが、俺たちはお互い、年がら年中仕事をしていたんで、なかなか一緒の時間を持てなかった。俺たちはその翌年にかけて三、四回ほど会えた程度だった。

ライブ・アット・ジ・アポロ、タミー・テレル

 ネイサン氏はライブ・アルバムに猛反対した。

(略)

ベリー・ゴーディーはバートさんにアプローチし(略)モータータウン・レビューを俺のショーの一部として使ってもらえないかと訊いてきた。

(略)

素晴らしいショーだった。(略)[ミラクルズ、メアリー・ウェルズ、マーベレッツ]、コントゥアーズ、マーブ・ジョンソン、マービン・ゲイ、シュプリームズ、バンデラス、そして、当時はまだ十二歳だったリトル・スティービー・ワンダーだ。

(略)

マービンの車は俺のとまったく同じ、買いたての真っ赤なキャデラックだった。(略)[妻のアンナ・ゴーディー]が俺のものすごいファンだったんで、マービンに俺と同じ車を買わせたんだ。

(略)

 モータウンのアーティストのほとんどにとって、ツアーは初めての体験だった。ダイアナ・ロスを含む何人かは本当に子供だった。(略)彼女はものすごく恥ずかしがりやで引っ込み思案だった。だが、すでに傑出した才能の持ち主であることは明らかだった。(略)

モータウンのアーティストは確かに才能豊かな人々だったが、彼らの音楽は俺のものとは違っていた。パフォーマンスはそれほど力強くもエネルギーにあふれたものでもなかった。軽快なポップ・ソウルで、非常にソフトだった。ソフトにすることでポップ音楽市場へ楽にクロスオーバーしていった。俺の音楽は生々しく、生々しい音楽がポピュラーになった例はない。俺は常に自分の音楽ルーツに忠実だった。たとえそれが俺の音楽を新しい方向に向かわせる時だってな。

(略)

 パップが俺のマネージャーになると、俺は今すぐしたいことが二つあると話した。ライブ・アルバムをつくることと、これまでの〈アポロ劇場〉との出演契約内容を変更することだ。

(略)

 俺はライブ・アルバムの再交渉のためネイサン氏を訪ねた。しかし、また大口論になっただけだった。(略)

 こうして、俺は『ライブ・アット・ジ・アポロ』のレコード制作をポケットマネーでやることになった。五七〇〇ドルかかった。当時の俺はそんなに稼いでなかったんで、大金だった。俺のレビューのような大きなショーを巡業して回るには金がかかった。それに俺のレコードや印税の支払いはいまだにどこか変だった。

(略)

俺が〈アポロ〉で本当に人気者になる以前、シフマン氏は俺たちのことをパートナーだと言った。これは俺が、コンサートのチケット収入の純益の一定割合をもらえるってことだ。(略)

[だが〈アポロ〉で大当たりした時に]支払われた金はいつもと同じ金額だった。俺がシフマン氏に抗議すると、彼は「ああ、俺たちはもうパートナーじゃないんだ。今回は出演料だけで君を雇ったんだ」と言う。「なぁーんだってぇ?」。俺は自分の耳を疑った。

(略)

それで、パップに言った。「次にあそこでやる時には、劇場を借り切ろう」(略)

シフマン氏は貸し切り契約なんかしたがらなかったが、俺が折れなかったんで、受け入れるしかなかった。〈アポロ〉を借り切ると、俺は受付けにタキシードを着せ、売店係に制服を着せた。俺は客にジェームズ・ブラウンの公演を特別なものだと感じてほしかった。

(略)

 ネイサン氏はテープが上出来だったと聞くと、すぐにアルバムを出したがった。(略)

[俺は]キングがテープをほしいなら俺から買い取るように言った。

(略)

 ライブ・レコード制作の直後、俺はタミー・モンゴメリー(略)をレビューに加えた。[後のタミー・テレル]

(略)

 編集が全部終わり、口論の片がついて、ようやく『ライブ・アット・ジ・アポロ』がリリースされたのは一九六三年一月だった。それから、アルバムのなかのどれをシングル・カットするかの話し合いが始まった。

(略)

俺はこう言ったよ。「え、なんのことです?俺たちシングルは出しませんよ。アルバムのまま売ればいいんです」

 「ジェームズ」と彼は言った。「この業界でわしが稼いだ金はすべてシングルの売上げから得たものだ。シングルで稼ぐんだ。ラジオ局からレポートが届き次第、わしらはシングルの発売を開始するつもりだ」

(略)

 ネイサン氏は(略)ラジオ局をチェックして驚いた。DJたちの返答は、一曲だけをかけているんじゃない、というものだった。アルバム全部を流していた。アルバム一枚をまるまる途切れなしにかけるなんて、局でもそれまでなかった話だったが、黒人向けの番組を放送していた多くの局がアルバムをまるごと流していた。(略)

ネイサン氏には信じられないことだった。おかげで、アルバムのまま売り出しを続ける決定になった。

(略)

 この頃のいつだったか、俺はタミーをトライ・ミー・レーベルでレコーディングさせた。俺は彼女に夢中だった。だが、タミーの家族はそれを嫌がったらしい。彼女には才能があったからな。家族はタミーを俺から奪ってしまった。俺には彼女に惚れるんじゃなくて、育ててほしかったんだろう。タミーにはそばにいてほしかったが、止めることはできなかった。連れ去られてしまった。だが、タミーは機会があるごとに戻ってきて俺とよりを戻そうとした。つらいことだった。彼女は後に、俺の同棲相手にさえも「あなたは世界で最高の男と一緒にいるのよ。もし何か問題があれば、いつだって私が戻ってきて、彼を奪ってやるわ」と話したほどだ。別れたあとも俺を愛しつづけてくれた。

 タミーがマービンと一緒に(略)ヒット曲を出した時は嬉しかった。だが、彼女はまだほんの子供で、周りの人間につつきまわされ、利用されてしまった。(略)

脳腫瘍の手術が終わったばかりだというのに、ツアーに引き戻された。そして一九六七年の舞台上で、マービンの腕の中で倒れてしまった。彼女が回復に向かうよう、俺はアポロ劇場に彼女を連れてきて(略)舞台袖に楽にしていられる場所をつくってやった。彼女の容態はひどく、そんな彼女を見るのは悲しかった。それから三年後、彼女は死んだ。俺はひどくショックを受けた。今でも引きずっている。

(略)

控室に座っていると、〈アポロ〉のステージ・マネージャーのサンドマン・シムズが来て、劇場の外を見ろと言う。「なんと、客は角を曲がって一周するほどの行列だ。こりゃ見ものですよ」。(略)

ロビーに行くと、外の客が俺たちを見つけて叫んだり、金切り声をあげはじめ、狂ったようになった。正面玄関から外に出るなんて不可能だった。それで裏口に回った。裏の一二六丁目側も表と同じだった。俺たちはあせって中に入った。「行列がどこまで続いているのか見たいもんだ」と俺は言った。行列ができるなんてアマチュア・ナイトの時ぐらいだった。それに、その日はまだ金曜日で平日の昼間だ。

(略)

 『ライブ』の売れ行きが好調だとは知っていたが、これほどとは思っていなかった。アルバムはヒット・チャートに六十六週間とどまり、二位まで上がった。白人もかなりアルバムを買っているってことだ。不思議なことに白人向けのラジオ局はまるでアルバムを放送してなかった。だが、どういうわけか噂が広まっていた。このアルバムのおかげで、これまで俺が想像した以上に物事が大きく、大きく、大きくなりはじめた。

ヴィッキー・アンダーソン

アンナ・キングがレビューを離れたんで、俺はビッキー・アンダーソンにマイアミに来てレコーディングしないかと声をかけ、そのまま彼女はレビューに加わった。(略)

この世でビッキーほどうまい歌手に会ったことはない。(略)俺が知っている誰よりもうまかった。常にだ。断固としてそうだ。アレサ・フランクリンにも負けない。俺はアレサを死ぬほど愛している。アレサはソウル・シスター・ナンバー・ワンだ。だが、その彼女でさえ、歌じゃビッキーに勝てない。ビッキーはストライサンドよりうまく「ピープル」を歌えた。彼女は単に俺のレビューのなかの最高の歌手ってだけじゃない。彼女は断然ベスト・シンガーだ。

(略)

 同じ頃、俺はバンドの核になるメンバーを増やした。ギターのジミー・ノーレン、ドラムのメルビン・パーカー、アルト・サックスのメイシオ・パーカーだ。(略)

本当はメルビンだけが欲しかったが、彼が欲しければもう一人の兄弟も雇わなきゃならないと踏んだ。もちろん、メイシオも素晴らしいプレーヤーになった。積極的でダイナミックなプレーヤーで、本当の頑張り屋だ。(略)

エルヴィス・プレスリー

俺たちはお互いに業界の共通の友人を通じて連絡を保っていたが、実際に会ったことはなかった。彼は二、三度俺のショーを見にきてもいた。変装して、会場のライトが暗くなってから中に入り、ショーが終わる直前に会場を出た。(略)

『T・A・M・I・ショー』を何度も繰り返し見ているのも知っていた。(略)

エルビスが主催した大きなパーティー(略)の終わり頃に客をみんな部屋から追い出して、俺とエルビスは二人でゴスペルを歌った。二人で「オールド・ジョナ」「オールド・ブラインド・バルナバス」といった、俺が子供の頃から歌っていたゴスペルを片っぱしから歌った。エルビスはゴスペルのハーモニーも知っていた。

(略)

俺のバンドをレコーディングに使いたいと言った。ホーンやなんかをバックにおいて、バック・バンドを力強いものにしたいとのことだった。エルビスは最初B・Bやなんかのコピーから始めたが、結局そこには彼の求めるだけのパワーはなかった。だから、エルビスは独自の音楽を追究しはじめた。エルビスは偉大だった。世間はいまだに彼が真似をしている、と言っていたが、エルビスには独特のスタイルがあったんだ。エルビスはロカビリーだった。彼はロックンロールじゃなく、ロカビリーだった。実際にはブルースを学んだヒルビリーだったんだ。

 白人が黒人の音楽を学んでいるのに文句をつける輩がいつもいる。(略)誰にだってこれを学ぶ資格はあるんだ。盗むべきじゃないが、これを学び、演奏する資格は誰にでもある。(略)

エルビスの歌は彼独自の歌い方で力強い霊的な感じにあふれていた。俺たちはその夜長い間二人で歌いつづけたよ。

オーティス・レディング、ラジオ局買収

ボスマン(オーティスはいつも俺をそう呼んだ)、いいことを思いついたんだが、手助けしちゃもらえないだろうか(略)一緒に黒人エンターテイナーの組合を結成したいんだ。(略)」

「そんなことしてどうする?」

「そうだな、業界で力が強まる。白人のプロモーターやマネージャーやレコード業界の奴らの好き放題にされないですむだろ」

「いや、オーティス。そいつはやりたくないな。ミュージシャンの組合が白人と黒人のと二つに割れた時のことを覚えているか。俺たちは二級市民に終わっただけじゃないか。また同じリスクを冒すべきじゃない」

(略)

ボスマン、そうはならんよ。もしビッグ・スターががっちり組めば、もっと多くの黒人エンターテイナーが仕事をもらえて、平等に扱われるよう目を光らせることができるだろ」

「俺にはできないよ、オーティス。俺は分離主義を信じてないんだ。それをやったら後退することになる。加担したくない」

 オーティスはこの話題をあきらめ、ツアーやいろんな計画の話をした。俺は新しいジェット機を買う予定だと話した。彼は自分の使っている双発機、ビーチ18の操縦法を習おうと思っていると言った。

「そんなことしなくていいじゃないか。飛行機のことは操縦士と副操縦士に任せとけばいいんだ。俺は長いこと飛ばしてきたからわかってるんだ。彼らにやらせとけ」

 それが彼と話した最後だった。それから数日後、彼の飛行機はウィスコンシン州のマディソンで吹雪の中を湖に墜落してしまった。(略)

飛行機のことではずっと彼に警告してやったのに。あの最後の朝も「あの飛行機はお前がやっていることに耐えられるほど大きくない。あんなたくさんの人や機材は運べない。あんまり飛行機に無理させんな」と話した。

(略)

 誰かがオーティスを騙しやがったんだ。オーティスは双発機で、俺がリア・ジェットでやっているのと同じことをやろうとしていた。あの飛行機は古い型で、バッテリーが悪かったし、メンテナンス上の問題も多かった。あんな天候の中をそもそも飛ぶべきじゃなかったしな。

(略)

 オーティスが死んだのと同じ頃(略)タミーが重体だという知らせを聞いた。脳腫瘍の初期で、このため彼女は三年後に死亡する。(略)二人ともとても若く、まさに絶頂期を迎えようとしていた時だったし、俺は二人を愛していた。

(略)

 こうした悪いニュースが、"奇妙な"一年の締めくくりだった。暴動、殺し、運動上の争いが続き、音楽もミュージシャンも、何か大きな流れに巻き込まれているようだった。(略)一九六七年ほど奇妙な年はないだろうと思ったが、まだまだ事態は悪化していった。

(略)

 一九六八年は、最初のラジオ局買収で明けた。(略)俺は公民権じゃなく、人権を信じていた。(略)俺は国を愛していた。(略)黒人たちを代表して語りたいことがあった。(略)黒人にはプライドと経済力、そして何よりも、教育が必要だと思った。(略)

局を買ったのは金儲けのためじゃなかった。まず、黒人コミュニティーには(略)黒人の声を代弁するラジオ局が必要だった。(略)

ソウルとゴスペルとジャズ、つまり黒人音楽の全分野に絞った番組編成をした。トーク・ショーもあったし、ニュース論説や、子供たち向けに学校をドロップアウトするなと指導する番組もあった。(略)

二番目の理由は、俺のラジオ局を黒人がDJ以外の仕事にも手を出せるよう、メディア・トレーニングの場にしたかったからだ。広告や番組編成、マネージメントと、あらゆるレベルでの仕事を学んでほしかったんだ。三つ目に、経営者となることで、俺は黒人起業家のシンボルになりたかった。そして、この三つの理由の根底に、教育という目的がある。教育こそが真のブラック・パワーだったからだ。最終的に俺はもう二つラジオ局を買収した。一つはボルティモアのWEBBで、もう一つはオーガスタのWRDWだ。(略)

WEBBの意味は「俺たちは黒人であることを楽しんでいる(We Enjoy Being Black)」と冗談を言ったもんだ。WRDWは俺の故郷にあり、俺にとって本当に特別のものだった。

マディソン・スクエア・ガーデン〉、カウント・ベイシー

パップは俺たちが一緒にいて本当に気を許せた初めての白人だった。彼が手がけたすべてのスターのなかで、パートナーを組んだのは俺だけだ。(略)

次の町に着くまでホンキー・トンクを弾いたり、話したりした。(略)

何が起ころうと、俺は自分の悲しみを裡に抑えていた。(略)拘置所に連れていかれた時にも泣かなかったし、刑務所に連れていかれた時も泣かなかった。(略)

パップのことを聞いた時は泣いた。(略)俺はパップのことを一生忘れない。

(略)

 パップが死んでまもなく、IRS(国税局)とのトラブルが始まった。

(略)

新装された〈マディソン・スクエア・ガーデン〉で大コンサートの準備をしていた。新聞に「大声で言おう、俺は黒人でそれを誇りに思っている」という大見出しをつけて、でかい広告を出した。多くの人は見出しだけを見て、その下に書かれていることは読まなかったと思う。見出しの下には俺の人生の物語りが書かれ、「ジェームズ・ブラウンはブラック・パワーを全面的に支援しているが、それはライフルの銃口を通してではなく、教育と経済的な成功により成しうるものだ」とあった。俺のキャリアやビジネスの活動が説明され、終わりに「ジェームズ・ブラウンは闘争に勝利したが、それだけでは充分ではない。彼は現在魂の兄弟たる黒人たちのため戦っている。形勢は厳しいが彼は負けない」と結んだ。だが、なんと書いてあっても関係なかった。人は自分の取りたいようにしか取らない。つまり、この広告一つで、世間は混乱した。エンターテイナーは普通、そんな政治的コメント付きのコンサート広告をしなかったからな。

 〈ガーデン〉にはカウント・ベイシーとラムゼイ・ルイス・トリオが出演した。俺のコンサートがカウント・ベイシーの演奏でオープニングを飾れるのは光栄だった。(略)俺たちはみんな、舞台裏で最敬礼していた。だが、それもほんのわずかの間にすぎなかった。彼が(略)ものすごくフレンドリーな人だったからだ。(略)

「ここであなたと一緒に立っているだけで嬉しいです(略)子供の時にいつも『ワン・オクロック・ジャンプ』をピアノで弾こうとしました。一度もうまく弾けなかったけど、あなたの音楽をいつも崇拝してきました」

 彼は「君はいいジャズ・プレーヤーになれるよ。君の音楽を聴いたよ」と言った。

「ジャズでは私は金を稼げませんよ」

 彼は笑った。「君の言うことはわかるよ。だがな、このコツはわしのように名物になることだ。わしは死ぬまでジャズができる。たとえこの先レコードなんか出さなくてもね。君もそうすべきだ――名物になるんだ」

 彼の舞台はそれは素晴らしいもんだった。それに、バンドもきっちりしていた。俺のバンドのプレーヤーたちは棒立ちで、彼らに見入っていた。まるで自分のルーツを見ているようだった。

故郷オーガスタの暴動

きっかけは(略)リッチモンド群立拘置所で十六歳の黒人少年が[看守に]殴り殺されたことだった。俺が十六歳を迎えた、同じ拘置所だ。(略)

保安官は(略)同じ房にいた二人の囚人が(略)殺したと言った。黒人住民は、たとえそうだとしても、それを看守が監督しなかったのは、当局の落ち度だと言った。

(略)

デモが市役所に着くまではなんの問題もなかった。(略)学生の一人がジョージア州旗を引きずりおろして火をつけた。それで警察が乗り出し、投石が始まり、事態が手に負えなくなった(略)略奪が始まり、銃砲がとどろいた。火事が起こった。(略)

その夜は、あたり一面火事になり(略)最終的に州兵が(略)マシンガン装備の装甲車で乗り込んできた。(略)

 俺は早朝のうちにバードとリア・ジェットで現場に着いた。上空から炎と煙の雲が見えた。ベトナムでヘリコプターから見た光景にそっくりだった。俺は親父の家に行き、状況について説明を聞くため郡保安官に会う準備をした。俺が車に乗ろうとしていた時に警察が現れ、パトカーで案内すると言った。俺は「いや、そうしたらみんなもっと怒るだけだ。パトカーを俺に近寄らせないでくれ。拘置所への道なら知ってる。誰も俺の邪魔なんかしないから」と言った。

(略)

[事情を聴き]拘置所から出ると、テレビ・カメラが待ち受けていて、俺は全オーガスタ市民を前にテレビに向かった。「メンツを保つんじゃなく、町を保つんだ。突っ張ったってなんにもならない。みんな、一丸となるんだ。汝の欲するところを他人にもなせ、だ」と俺は話した。

(略)

マドックス州知事との会見は丁重で、ビジネスライクだった(略)

「(略)暴動に加担した人間が共和党であろうと、民主党であろうと、黒人でも、白人でも関係ない。私の目的は平和を維持することで、それは断固としてやります」

「おっしゃることはよくわかります」と俺は言った。

「だが、それにはあなたの助けが必要です。私がこの話をしても、黒人社会には伝わらない。あなたならできます。あなたがラジオ局を通して放火や襲撃をやめるように呼びかけてくれれば、秩序回復にたいへんな貢献になると思うんだが」

(略)

「私もこれ以上命が失われるのを見るのは嫌です。だから、単なる呼びかけ以上のことをしましょう。ラジオでの呼びかけは二十四時間ぶっ通しでやります。街頭にも出ていくつもりです。この暴動が収まるまで、必要なだけ話をするつもりです」

 俺はすぐにラジオに出て、みんなに自分たちが何をしているか考えるよう頼んだ。俺はボストンとワシントンで言ったように、自分たちの住居を焼き払うのは無意味だ、と説得しようとした。「この町はみんなの町じゃないか。この国は白人の国であると同時にみんなの国でもある。誰にも俺たちの国じゃないなんて言わせるな」。(略)

同時に、政府はオーガスタの黒人市民の声をもっと聞くべきだとも言った。

(略)

 俺たちは二十四時間放送した。(略)バードもラジオに出て、白人や黒人の友達の名前を呼んで、みんなに局へ来い、と呼びかけた――ラジオに出てもらって、彼らが事態をどう思っているか、どんなに残念に思っているかを話してもらうんだ。

(略)

WBBQが中継車を貸してくれたんで、通りから俺の局を通じて放送を続けられた。俺はほとんどストリートに出っぱなしだった。暴動地区を車で回り、群れて走りまわっている奴らを見つけては、車から出て話しかけた。「お前らみんな、何をやってるんだ。お前らは黒人が所有している店を焼き払っているんだぞ。良くするどころか、黒人をもっとひどい状態に追い込んでいることがわからないのか?」。ほとんどが聞いてくれた。そして解散して、通りからいなくなった。だが、なかには聞こうとしない奴らもいて、俺が止めようとしていることに腹を立てた。それに、俺に消えてほしいと思ってる分子もいたと思う。(略)警察には、わずかだが私服の黒人警官がいて、俺を護衛してくれたが、もし誰かが俺を狙撃しようと思えばそれを阻止する術はなかった。

(略)

保安官の部下の話では、KKK一派みたいな武装した白人もいて、事態をめちゃくちゃにしようとしていた。彼らは州兵が、願わくば警察も合わせて、アフリカ系アメリカ人に宣戦布告するのを望んでいたんだ。

(略)

[黒人社会からの情報で]

非常に過激な政治組織――そいつらの名前やグループ名は言いたくない――がオーガスタに向かっていた。これだけは絶対に避けたかった。(略)

 俺はその情報を確認するや否や、保安官の事務所に話をした。彼らは緊急警護の名目で空港とバスの駅を閉鎖した。続く一週間、ジョージア州オーガスタには一台のバスも、飛行機も入れなかった。変な話だが、当時、郡保安官の補佐だったウォーレン・マーティンによると、同じ情報を俺よりあとに、FBIから得たそうだ。FBIがトロいだけなのか、それとも連中、俺を盗聴してこの情報を得たのかもな。

 すべてが完全に落ち着くまで、その後約二週間かかった。

(略)

暴動の終わった後の九月に『セックス・マシーン』のアルバムをリリースした時、アルバム・カバーに「故郷、ジョージア州オーガスタで、ヒズ・バッド・セルフとともに録音」と入れた。これを録音した〈ベル公会堂〉は、俺と町の関係を物語る場所でもある。子供の時、そこでバトル・ロイヤルに出た。後にそこで、人種別に席を分けたコンサートをした。そして、黒人/白人合同の場所にした。それから、ライブ・レコーディングをした――このレコードを『セックス・マシーン』と呼んだ。だからいい意味でも悪い意味でも、どう考えても、ジョージア州オーガスタの〈ベル公会堂〉は俺のものなんだ。

次回に続く。