俺がJBだ! その3

前回の続き。

新バンド、ブーツィー・コリンズ

[ベガス公演、舞台の合間に、近くのホテルのシュープリームス公演を観る]

まさかその舞台が彼女らが一緒にやった最後のものになるとは思わなかった。ショーは素晴らしかったが、ダイアナがいろいろ話をした。どうやってみんなが一緒になったとか、モータウンでどれだけ長い間一緒にやっていたかを話していた。それから、「私たちが何をやろうと、どこに行こうと、私たちはいつも家族です」と言い、「いつか一緒になるでしょう」を歌い出した。コーラス部分になると、泣き声が聞こえてきた。確か、最初にメアリー・ウィルソンが泣き出したんだと思う。(略)それから、シンディー・バードソングが泣き出した。これを見て、ダイアナも泣いた。ダイアナの顔に涙が流れはじめ(略)みんなは気を取り直し、その歌を歌い終えた。

 舞台裏ではもっとたくさん泣いていた。ベリーがみんなを慰めようとしていた。「解散するんじゃないだろう。俺たちはみんな成長するんだ。シュプリームズとダイアナ・ロスの二つのスターになるだけだ」。

(略)

 話は違うが、その直後に俺は自分のバンドを失った。(略)バンドがもう演奏しないぞ、と脅してきた。もっと金を寄越せと言う。俺はその手の脅しには乗らない。決してな。

(略)

「バード、今まで何度か俺たちとレコーディングしたことのあるバンドを覚えているだろう。あのバンドをすぐに調達できると思うか?」

「もちろんだとも、ジェームズ。でも、なぜだい?」

「彼らと一緒にやりたいことがあるからさ(略)今すぐ契約してくれ」

(略)

 そのバンド名はペースセッターズと言い、みんなシンシナティー出身だった。

(略)

 俺のバンドは公会堂に現れ、舞台で自分たちの楽器をセッティングしていたが、俺が折れなければいまだにやらないつもりでいた。俺はバードにもう一度電話した。

(略)

「空港に行ってくれ。俺の自家用飛行機をここから迎えに出そう。お前も来てくれ」

 ペースセッターズの楽器が全部リア・ジェットに入り切らなかった場合に備えて、俺は楽器やアンプをレンタルする店に電話した。今や公会堂は客で満員になっていた。(略)舞台に出て客に少し遅れるのを我慢してほしいと話した。それから、俺はバンド全員をクビにした。

 バードが新バンドと一緒に到着すると(略)俺はバードにショーの曲目を渡し、階下に行って新グループが間違いなく演奏できるように指導してくれと言った。彼らは俺の曲を自分たちの演奏でもやっていたんで、いずれにせよ俺の曲のほとんどを知っていた。だが、即興部とか、ライブで引き伸ばす部分とかは知らなかった。バードはみんなを連れて降り、彼らのために楽譜にリックを書きたし、アレンジをすべて教えた。開始は若干遅れたが、ショーに問題はなかった。

 ブーツィーとほかのみんなは、結果としてバンドの非常に良い中核になった。彼らはスタジオ・ミュージシャンだったんで、俺がソロやなんかをハミングして見せれば、欲しい音を寄越すツボを心得てた。ブーツィーは俺からいろんなことを学んだんだと思う。(略)

俺はファンクにとっての一拍目――あらゆる小節の始まりのダウンビート――の大切さを教えてやった。曲相が激しくなるところでも、やたらめったら弾くんじゃなく、一拍目が要になることを教えた。あとは然るべき場所でやるべきことをやればいい――ただし、一拍目だけは外すな。

 巡業に出ている時、よくブーツィーを控室に呼んだもんだ。当時彼はたかだか十六歳か十七歳だったから、俺は父親みたいな気分だった。

(略)

彼がベースとして使っていたのは単なる普通のギターだった――二九ドルのシルバーストーンを自分でベースに改造したものだ。緑がかった青色の変なギターでピックガードが白。見かけも奇妙な楽器だった。だが、当時の彼はそれしか買えなかった。

(略)

俺は彼を呼んで(略)ぶっきらぼうフェンダーのベースをやった。彼はこれでもかというほど礼を言ったが、本当はなんと言っていいかわからないようだった。

フェラ・クティ、ディスコ

[アフリカ・ツアー]

 ラゴスに滞在した時、俺たちはフェラ・クティとそのバンドを見に、彼のクラブ、〈アフロ・スポット〉に出かけた。彼らも俺たちのコンサートに来てくれたんで、俺たちも彼のステージを見にいったんだ。彼がミュージシャンとしてスタートした時にやっていた音楽は、ハイライフと呼ばれていたと思うが、この頃にはアフリカ音楽とファンクからアフロ・ビートを開発しつつあった。彼はアフリカ版ジェームズ・ブラウンみたいだった。彼のバンドには強烈なリズムがあった。クライドは自分のドラミングにこれを取り入れたと思うし、ブーツィーも夢中になっていた。俺のバンドが彼らのバンドから取り入れたアイデアのいくつかは、もともと俺のアイデアだったが、それでもよかった。俺たちの音楽があれだけ強烈になったんだからな。

(略)

 アフリカからヨーロッパに移動し、ロンドン、パリ、ブリュッセル、フランクフルト、ベルリン、それからもう二、三の都市でコンサートをした。(略)

ヨーロッパではすでにディスコが始まっていて、俺は当時、すごく不思議に思った。特にドイツでは馬鹿でかいディスコに人々がぎっしりつまって、レコードに合わせて踊っていた。俺たちの公演会場のいくつかも、俺たちが登場する前にディスコをやっているようだった。(略)あまりいい気はしなかった。人気がありすぎたからだ。

(略)すごく軽い音楽だったし、俺の音楽も含めたいろんな人の曲をあれこれつまみ食いして、非常にシンプルに仕立ててあった。特にリズムのあたりを。

 だが、俺は別に心配しなかった。大西洋を渡ってアメリカに上陸するとは思わなかった。ヨーロッパでは本物の音楽が充分にないから、ディスコにこれほどの人気があるんだろうと思っていた。

長男が死に、バードが去る

[長男が自動車事故死]

あの才能にあふれた、大学に行ってほしかった長男が。(略)子供の頃は一緒にいてやれなかったけれど、すごく親密になっていた。(略)

知らせを聞いて、自分の世界が崩壊したような気がした。

(略)

 俺はまるで夢の中にいるみたいに動いていた。(略)事故現場に着いた時、役人たちは俺の様子を見て、遺体の確認をさせるのは無理だと判断したほどだった。

(略)

[コンサートをキャンセルしても文句は出なかっただろうが]

俺は自分の正気を保つことを考えていた。もし、今、自分の生活をこのまま続ければ、完全に崩壊することはないだろうと考えていた。それに、俺はもし今この舞台をやらなかったら、もう一生舞台には立てないんじゃないかと、怖くなっていた。

(略)

三日間のショーのおかげで正気を保つことができた。

(略)

今でも相変わらず苦しんでいるのは、事故の直前にテディーと俺がいろいろ口論していたことだった。オーガスタでしばらく俺と一緒に暮らしていたが、その後何かにはまって、生活が乱れてきていた。学校に行きたがらない。(略)大学に行かないと言う。俺は怒った。

(略)

彼が俺を避けて、俺に会いたがってないのも感じた。会えば厳しく叱られるのを知っていたからだ。俺はただ、俺があの年齢で経験したような目にあわせたくなかっただけだ。(略)

子供の時に家庭が壊れると、子供は取り返しがつかないくらい落ち込んでしまう。まっとうにしてやれたのかもしれん。それとも悪い方向に向かわせることになったかもしれん。わからん。だが、彼は俺を避けていた。もう二度と会えなかった。

 テディーが死んでからまもなく、バードが俺の下から去った。(略)

ボビーにはいくつか落胆することがあったんだと思う。母親が重体だったし、グループでの自分の仕事に見合う金をもらってないと感じていた。俺はたぶん「そうだな、どうせあいつを必要としちゃいない。これまでだって、たいしたことをしてくれたわけじゃないし」みたいなことを言ったんだと思う。ちょうどパップと俺が離れた時みたいに。だが、ホントは悲しかった。二十年間も一緒にやってきて、兄弟同然だった。喧嘩とかもなかった。一緒にいろいろ乗り越えてきて、今さら喧嘩でもなかったんだ。

(略)

事あるごとに、俺はバードを呼び戻そうと話を持ちかけた。(略)

バードは「バック・フロム・ザ・デッド」という歌でけっこういいヒットを飛ばし、マイアミのクラブに出演していた。俺は彼の舞台を見にいき――彼はブーツィーのバンドを自分のバンドにしていた――そして、彼の舞台に飛び入りした。俺たちは「トライ・ミー」を歌い、それから、俺が告げる前に、バードはバンドに「セックス・マシーン」を演奏させていた。まるで、まだ一緒に同じグループにいるようにな。楽屋で俺たちは昔のことや俺たちの過ごしてきたことやら話した。二人ともかなり感傷的になったあとで、俺はヨーロッパ・ツアーの準備をしていると話した。「一緒に来ないか、バード?」

「さあな、ジェームズ。もう一度あそこにお前と戻るってのはなあ。わかってくれよ」と彼は言った。

俺は「昔のようになるさ。なあ」と言った。

しばらくして、彼もついに同意した。

「最高だ!明日ジョニー・テリーにお前の衣装を持ってここに来させるよ」

「ジョニーも戻ってきたのか?」

「彼の靴も衣装もすべてそろってるよ」

(略)

バードは頭を振って、笑った。俺たちはヨーロッパ(略)で十一日間のツアーをした。だが、ツアーから戻るとバードは自分のバンドに戻った。このヨーロッパ・ツアーが俺たちが一緒に公演した最後のものになった。

ポリドール、ディスコとの格闘

政府は俺のビジネスにかなり打撃を与えた。かなりひどく、な。だが、俺を破滅させることはなかった。それをやったのはポリドールのほうだった。

 

 ポリドールとは最初からしっくりいかなかった。俺はかなりいいレコードをつくってやった。(略)だが彼らはその販促や配給方法がわからなかったんだ。ポリドールは基本的にはドイツの会社で、アメリカ市場がわかっちゃいなかった。柔軟性もなかった。キングのような対応ができなかったんだ。(略)

ある決まった時間までにレコーディングを終えろと言う。まるで工場みたいに。キングでは、俺たちはスタジオに行ってからアレンジをまとめ、これでいいと思うまで好きなだけ仕事した。当時のポリドールは違った。アーティストに対する尊敬もなければ、アーティストへの思い入れも、アーティストの考えへの配慮もなかった。

(略)

 俺は一つの歌を、俺がいいと思うまで――俺がこれだと思うまで――いじりまわしたが、彼らは、歌の善し悪しまで自分たちの機械に決めさせたがった。(略)

トラックが生き生きしてるとか感動的だとかはおかまいなし。点数だけが問題だった。俺のサウンドには暖かみがあり、俺はこれを維持するため、ボーカルを入れる前にインストルメンタルとしてトラックを仕上げたかった。言葉を入れる前に、サウンドがいい感じか確認したかった。

(略)

移籍して最初の数年はシングル・チャートでヒットを出していた。(略)俺が会社を無視して自分のやり方で強行し、自分でヒットに仕立てたからだ。創造面での全権は俺にあるはずだった。が、彼らは俺のレコードをミキシングし直しはじめた。(略)レコードが発売されると、サウンドは俺がミキシングした音じゃなくなっていた。会社はあまり重いファンクを入れたがらなかった。(略)フィーリングをレコードから除いてしまった。生のジェームズ・ブラウンを欲しがらなかったんだ。結果的に俺のサウンドを破壊してしまったんだ。

(略)

アーティスト・プロモーションも変だった。俺の見るところ、彼らはアフリカ系の男を洗練された人間として見せたくないようだった。一人前の男としてアピールしたくなかったんだ。

(略)

キングはアーティストすべてを、それぞれ個人として扱った。ポリドールは全員を、同じに扱った。(略)

キングは大スターを持つ小さな会社になろうとしたが、ポリドールは小粒のスターを抱える大会社になろうとした。

(略)

俺に言わせりゃポリドールは音楽業界出身の会社じゃない。(略)本業は電気通信とエレクトロニクスだ。しかし、会社は俺に金を払った。それは認めなきゃならない。それまでの誰よりも多額の金を払ってくれた。ネイサン氏は俺に金を払わなかった。いい人だったけど、金は払わなかった。ポリドールは払ってくれたが、ネイサン氏がくれたような自由は与えなかった。

(略)

そして、ポリドールは一度アメリカ市場へのドアが開かれるや、俺を必要としなくなったんだ。

(略)

 「ペイバック」はもともと映画『ブラック・シーザー』の続編としてつくられた映画『イッツ・ヘル・アップ・イン・ハーレム』のサウンドトラック用の曲になる予定だったが、プロデューサーはサウンドがあまりファンキーじゃないと言った。

「今、なんと言った?」

「あんまりファンキーじゃないね。これは使えないよ」

もうたくさんだった。「俺はこの曲をシングルでリリースする。見てな」

映画なしじゃこの歌はあまり意味がないのはわかってたから、俺はみんなにわかるようなストーリー・ラインを取り入れた。一九七四年二月に売り出すと、R&Bチャートの一位、ポップ・チャートの二十六位になった。

 この頃いつしか、俺はゴッドファーザー・オブ・ソウルの名を頂戴した。『ブラック・シーザー』のフレッド・ウィリアムソンがゴッドファーザー・オブ・ハーレムと言われていた。ある日俺がDJのロッキー・Gと映画について話していると、彼が「あなたはゴッドファーザー・オブ・ソウルですよ」と言った。DJたちがこれを放送で使い出して、定着したんだと思う。

(略)

 一九七五年半ばまでにディスコが大流行しはじめた。ディスコは俺がやっていたこと、もしくは俺がやっているとみんなが思い込んだいろんなことを単純化したものだ。ディスコはごくわずかながら、ファンクを含んでいる。歌の終わりの、バンプ(即興部)のような繰り返し部分だ。違うのは、ファンクではグルーブにどんどん深く入り込んで、絶対に表面に留まらないってことだ。ディスコは表面に留まったまま。つまり、連中が知っていることは、全部俺が教えてやったことなんだが、俺は自分の知っていることのすべてを教えてやったわけじゃないんだ。

 ディスコはアーティストにとっても参入しやすい分野だった。ほとんど何もする必要がないからな。ようするにシーケンサーと、一分間のビートの回数だけだ――機械でもつくれる。ディスコは欺いた音楽だったんだ。単に映画の『スーパーフライ』に出てきた衣装で飾りたて、音譜さえ演奏すれば、スターになれると思っただけだ。しかし、そういうもんじゃない。ディスコは、六〇年代に多くの人が一生懸命つくりあげてきた音楽の基礎をぶち壊してしまった。レコード会社がディスコを愛したのは、それがプロデューサーの音楽だったからだ。ディスコは、本当はアーティストなんか必要としちゃいない。アーティストが協力してくれるかどうかを心配する必要がないんだ。機械はアーティストみたいに口答えもしなれば、金を支払う必要もない。ディスコは最後には弁護士のレコーディングになった。弁護士がレコードをつくっていたんだ。

 ディスコにはいろいろひどい目にあわされた。俺はいいハードなファンクのレコードをつくろうとしたが、ポリドールはこれをソフトにしようとした。(略)

ディスコの連中は俺の音楽をコピーし、俺を追い出し、若い奴らとやろうとした。そりゃダメだ。オリジナルに戻らなきゃ。ディスコはライブ・コンサート全般にも打撃を与えた。黒人アーティストのコンサート・ビジネスはすでに痛手を受けていた。レコードの売上げは大きくても、コンサートには白人がちっとも来なかった。黒人アメリカ市場は深刻な不況になっていた。

(略)

 どっちにせよ、この頃には俺は半分引退していたようなもんだった。ヨーロッパ、アフリカ、日本ではまだ大きなコンサートをやっていたが、アメリカでのコンサートは大幅に減らしていた。俺は腹を立て、疲れ、うんざりしていた。税金問題が俺の活動を難しくしていたし、俺はいつもレコード会社と喧嘩し、音楽業界はすべて一つの方向に向かっていた。(略)

俺は押さえ込まれ、ついに終わっちまうんじゃないかと思うようになった。

ペイオラ、エルヴィスの死

それから、ペイオラ(賄賂)がらみの公判に引きずり込まれた。(略)大手ラジオ局で番組編成ディレクターとして働いていたフランキー・クロッカーが、偽証のためニューアークで有罪になった。罪状は彼が独立系レコード・プロモーターから受け取った一万ドルと、フィラデルフィア・インターナショナルのプロモーション担当者から受け取ったはずの金について、真実を証言しなかったことだ。

(略)

当時、WBLSで自分のレコードをかけてもらえれば、それはニューヨーク地区で売上げ二〇万ドルになることを意味したんだ。

 俺のマネージャーの一人、チャールズ・ボビットがこの検事側証人として召喚され、彼は俺のレコードをクロッカーにかけてもらうため、約七〇〇〇ドル支払ったと証言した。(略)

俺は、自分がフランキーに支払った金は、唯一俺のショーの司会をやってもらった時だけだ、と証言した。レコードをかけてもらうために金を払うのはやりすぎだが、自分のショーに出てもらうために払うのは大事なことだと思う。(略)

思うに、ボビットさんは、彼が業界に入る以前からみんながやってたことのスケープゴートにされたんだ。後に彼の証言は法的見地から無効になった。

 ペイオラがらみのすべてはいかさまだ。ラジオ局の経営体制がああだったから、そういうことになる。ラジオ局の経営者は、従業員に安い給料しか払わず、それが嫌なら外部からの袖の下で埋め合わせるべし、ということにしちまう。多くの黒人向けのラジオ局では、常に黒人のDJが苦しい思いをし、白人の重役がのうのうとしていた。そもそも、何をペイオラと考えるかで違ってくる。もし安月給のDJに食料品を買いな、と言って五〇ドルやったら、それはペイオラだ。もし大手レコード会社が、七五〇ドルのテレビをクリスマス・ギフトとしてばらまいても、ペイオラにはならない。俺はいつもDJたちに自分のショーに出てもらい、合法的なかたちで金を払った。こうすれば、誰もが事情を理解したからだ。ちょうど政治家に選挙資金の出所を明らかにするよう法律で決まっているのと同じことだ。

(略)

 こういったすべての出来事のおかげで、俺はビジネスからさらに手を引き、ディーディーが望んだようにもっと家で過ごすようになった。当時の写真があるが、生涯でちっとも俺らしく見えない唯一の写真だ。この写真を見るだけで、俺がいかにショー・ビジネスから遠ざかっていたかわかる。(略)そこに写っているのが誰だか自分でもわからないほどだ。俺は自分がどこに向かっているのかまるでわからなかった。

 一九七七年八月にエルビスが死んだ時、俺は自分の先行きが見えたような気がした。なぜか、エルビスの死はひどくショックだった。俺たちはいろんな点でよく似ていたどっちも田舎出身の貧しい少年で、ゴスペルとR&Bを聴いて育った。「ハウンド・ドッグ」と「プリーズ」は同じ年に発売された。

(略)

 彼が死んだ時、俺はこう言った。「あれは俺の友達だ。行かなきゃな」。その夜のうちにグレースランドへ行った。(略)

俺は彼の胸の上に手を置き、涙を流しながらこう言った。「この野郎、どうして俺を置き去りにしやがった?なんだってこんな目にあわす?どうして逝っちまったんだ?」

 変な話だが、死んだ人間に触れたのはそれが二度目だった。あの偉大な、偉大な才能がもったいないと思い、自分の人生はどうだろう、なぜ何もかもうまくいかないんだろう、と考えずにいられなかった。その頃は、まるで出口が見つからなかった。ちょうど、エルビスが、死ぬ以外に出口を見つけられなかったように。

(略)

[妻が二人の娘を連れて家を出ていき]

ニューヨークのある新聞は(略)「あの人は今どこに」のなかで俺の話題を取りあげていた(略)

ハーレムの実業家グループが〈アポロ劇場〉を買収し(略)再開しようとした時、俺は〈アポロ〉出演に同意した。

(略)

二度目のショーを終えて舞台から降りると、連邦保安官が(略)法廷侮辱罪で発行した逮捕状を持って、ベンチで俺を待っていた。

(略)

[三日間拘留]

 俺はラジオ局を管財人に任せなければならなくなった。すでにノックスビルのWJBEは売却していたし、WRDWも一カ月前に火事でひどく打撃を受けて、すでに終わりは見えていた。俺は保釈金を積んで、拘置所から出た。

 一方、〈アポロ劇場〉では俺なしにショーが続いていた。それで俺は思い知らされた。(略)出口がまるで見えなかった。人生で初めて、俺は自分が口にするとは思ってもみなかったことをつぶやいた。「もう、どうでもいい」

カムバック

 俺みたいにスポットライトから離れると、もう二度と戻れないんじゃないかと考えるもんだ。実際にカムバックできなかったエンターテイナーは多い。舞台を離れ、しばらくしてカムバックしたいと思っても戻れない。俺もそうなるんじゃないかとチラッとは思った。(略)

今や俺は完璧にタオルを投げる気でいた。カムバックできなくても、どうでもいいや、というところまで来ていた。どのみち、カムバックする気はなかった。金輪際な。

 レオン・オースティンが来た。俺に初めてピアノのコードを教えてくれた子供の頃からの友達(略)口調は軟らかかったが、非常に力強く、根気強く話した。「やめちゃだめだ。投げたらだめだ」

(略)

「疲れたんだ、レオン。政府やレコード会社やラジオ局と戦うのに疲れたんだ」と俺は答えた。

(略)

レオンはいかに俺が落ち込んでいるかがわかったんで、引退について話すのをやめ、霊的なことを話しはじめた。彼は最近自分の人生に神を再び迎え入れ、人生が変わったと言った。別に俺に説教したわけじゃない。ただ、すごく静かに、神が個人的に自分にとってなんであり、どれだけ自分の心に平和を与えてくれたか話しただけだ。

 俺はいつも信心深かった。(略)ずっとゴスペルを歌ってきた。ゴスペルは刑務所で俺を救い、そこから出してくれた。(略)でも、なぜだか最近は惰性でやってるような感じだった。

 そうだ、俺が人々とコミュニケートする方法や、特にその内容の多くは、教会から得たものだ。舞台で、俺がやろうとするのはただ一つ。人々に喜びをもたらすことだ。ちょうど教会みたいにだ。

(略)

 レオンは俺にそういうことを考えさせ、俺が必要としていた精神的な支えを与えてくれた。俺たちはみんな、精神的な支えを必要としている。人間なんて、それ以上にはなれないんだ。そんなものはいらない、と思った時は、まずいことになってるんだ。それに、人は誰かを信頼する必要がある。何か自分自身よりも大きなものを。俺もそうした。だから、俺は再び自分を神に捧げた。生まれ故郷近くの小さな田舎の教会で、俺は再び洗礼を受けた。(略)俺は突っ張るのをやめて、すべてを神の御手にゆだねた。

 最終的な転機は、ある日家の外に散歩へ出た時、親父が散歩道に跪いて仕事をしているのを見た時だった。日蔭に入っても三〇度くらいはある日だった。

(略)

「父さん、暑いだろう。そんなことしなくてもいいのに」

「誰かがやらなくちゃな、ジュニア」

「どういうこと?」

「俺たちにゃ、人を雇うほどの金がないってことだ」

 俺は親父のそばに跪いて、草取りを手伝った。すぐに汗をかいた。汗をかけばかくほど、ますます一生懸命に作業した。親父と同じように。親父にはほかの誰よりもエネルギーがあった。親父は生涯五日と仕事をあけたことがなかったし、親父を雇ったことのある人は、誰でもすぐにまた親父に声をかけた。親父のそばに跪いている間、何かが起こった。親父は俺の苦しみを理解してくれて、俺の迷いを払ってくれた。

「お前はラッキーだよ、ジュニア。お前が雑草を抜いているこの庭は、お前の物だからな」と親父は言った。

 親父は生涯働きつづけた。テルペンチン、重機械工作、給油仕事、野菜の収穫といった仕事もたいして親父の生活を楽にすることはなかった。それが彼の生涯だった。そして、その息子は舞台で仕事をした。神が俺を導いてくれたんだ。そして立ちあがり、舞台に戻る時だと悟った。(略)

だが、まだ建て直すべきことは多く、戦いもたくさん待ち構えていた。

(略)

 ポリドールは『サタデー・ナイト・フィーバー』と『グリース』の二本が大当たりし、どちらのアルバムも一千万から一千二百万枚売るチャンスに恵まれたが、一方俺は十から二十万枚くらい売るのがせいぜいだった。この大当たりがポリドールを駄目にした。それ以後のポリドールは、大ヒットだけを狙うようになったからだ。

(略)

 ポリドールは外部からプロデューサーのブラッド・シャピロを呼んできて、俺にディスコをやらせようとした。(略)俺はディスコに反対して戦ったが、最終的に妥協した。ポリドールはアルバムを『オリジナル・ディスコ・マン』と名づけた。完全なディスコというわけじゃなかったがそれでも俺は大いに不満だった。それから、またブラッド・シャピロのプロデュースでアルバム『ピープル』をやらされたが、俺としては日本でのライブ・アルバムを出したかった。

 カムバックの決意をした時、戦うことも決意していた。ウィリアム・クンストラーという弁護士を雇った。(略)

一九七九年十一月、俺たちは記者会見を開き、ポリドールに対して印税のごまかしを理由に訴訟を起こした。俺たちは全米ネットの広告主の差別のおかげでラジオ局二つを失ったことを訴え、連邦政府がFBIとIRSを通じて嫌がらせをしているとぶちまけた。

(略)

 俺はポリドールで、レコード業界とはなんの関係もない、多国籍企業内の勢力争いに巻き込まれていたんだと思う。(略)ユダヤ人勢力はジェームズ・ブラウンに成功させたがったが、ドイツ人勢力がこれを拒んだというわけだ。

 一方、俺はアメリカ国内でもライブ・パフォーマーとして活動を再開した。俺をオールディーズのショーに入れたがる人もいたが、断った。「俺はコンテンポラリー・アーティストだ」と言ってやった。ベスト盤も、ゴールデン・オールディーズとは呼ばせなかった。"ソウル・クラシックス"って言うんだ。

 この業界に入って初めて、ニューヨークの〈ローン・スター〉〈アービング・プラザ〉や〈スタジオ54〉のようなロック・クラブを回った。(略)

 デイビスさんとガーナーさんは、新しいファン層の開拓のため、クラブこそが俺を見せる絶好の場所だと考えた。それに、俺もヨーロッパでアリーナやスタジアムでコンサートをやっていて、自分に疑問を持つようになっていたんで、クラブでショーをやりたかった。大ステージのように客から離れたところだと、客にちゃんと伝わってるのか不安になってきた。クラブに出ることで、俺は客とまた触れ合えるようになった。

(略)

レコード会社とあれだけ問題を抱えていたんで、俺のレコードを派手に販促してもらえる可能性はなかった。唯一期待できたのが映画だった。そんな俺の心を読んだ人がいたんだろう。クラブに出るようになってまもなく、俺は、本当に状況を大躍進させてくれた二人と関わるようになった。ジョン・ベルーシダン・エイクロイドに。

ブルース・ブラザーズ

 ジョンとダンはニューヨークのクラブの一つで俺を見て、俺がカムバックしたという事実を確認したんだろう。(略)

俺はアフリカ系アメリカ人の描かれ方が不安で、[『ブルース・ブラザーズ』のシナリオに]なかなか目を通さなかった。だが、一読して、これは世間が過去の遺物にしようとしたブルースとR&Bのアーティストを復活させることになるだろうとわかった。

 彼らはシナリオを書きはじめた時点から、俺にゴスペルを歌う説教師の役をしてほしいと思っていた。俺はカリフォルニアに飛行機で向かう間、機中で自分の説教と台詞を覚えた。(略)

おかしなもんで、あれほどゴスペルを歌ってきたけど、映画で使うために選ばれた歌は一度も聴いたことがなかった。だが、本物の古いゴスペルなんだ。ダニーが三〇年代のレコードから見つけてきた歌だった。(略)

[二人は]俺の出番のすべてに立ち会って、それは素敵に俺を扱ってくれた。

(略)

[最初はローブを脱ぎ捨てることになっていたが、それではジェームズ・ブラウンを演じることになる]

映画のキャラクターがぶち壊しだと思った。議論の末、監督のジョン・ランディスも同意した。あとで、みんな俺の言うとおりにして良かったと思ったはずだ。踊る時も(略)俺はゴスペルに留めて、からだを左右に動かしただけだった。

(略)

この映画がそれまで俺を一度も見たことが若者にアピールしてくれた。俺はまたステージに出ずっぱりとなった。

(略)

[ベルーシがオーバードーズ死]

[追悼の催しに]絶対に行かなきゃと思った。飛行機に飛び乗り、時間をかけて自分が何を言うべきか一言一句まで考えておいたんだが、着いた時には気持がたかぶって、一言も出てこなかった。だから歌うことで自分の気持を伝えた。

(略)

[ダニー]は『ドクター・デトロイト』という題名の映画に取りかかっていて、俺にも出てほしいと言った。俺は即座に承知した。次に彼に会ったのは、撮影現場でだった。彼はジョンの死で消耗し、ものすごく落ち込んでいた。

(略)

 パートナーを失い、ダニーは今後業界でやっていけるかどうか自信がない様子でもあった。俺は「あんたはすごく才能に恵まれている――シナリオも書けるし、演技でもなんでもできる――だから今度はそれを一から証明しなおさなきゃならない。世間はジョンなしにあんたがやれるかな、と思ってるところだ。俺が思っているくらいあんたが強ければ、できるはずだ」と言ったんだ。俺は彼を抱きしめた。ジョンがひどく恋しかったし、ダニーが気の毒だった。二人は、本当に兄弟みたいだった。二人の最後はホントにブルースになっちまったんだ。

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