バタフライ・エフェクト ケンドリック・ラマー伝

コンプトン、ギャング

 コンプトンは、昔から現在知られているようなコンプトンだったわけではなかった。第二次世界大戦の以前のこの街の人口は、黒人が引っ越してくることを禁じた人種差別政策があったため、過半数が白人だった。一九八四年にアメリカ合衆国最高裁判所がこれらの法律に違憲判決を下し、一九五〇年代初期までに黒人の家族が家を買い始めると、既に郊外の居留地に住んでいた白人たちは大いに落胆した。白人は人種統合によって彼らの資産価値が急落することを恐れ、この街から逃げ去った。コンプトンの黒人人口は、一九六〇年には四〇パーセントまで増加し、一〇年後には六五パーセントを占めるまでになった。失業の増大によって犯罪が増え、一九七一年にクリップスと呼ばれるギャングが結成された。これは、高校生のレイモンド・ワシントンとスタンリー・“トゥーキー”・ウィリアムズが、自分たちを悩ませていたサウスLAのギャングと闘うために、個別に存在したギャングたちをまとめようと決意し、結成したものだ。クリップスは間もなく、この街最大のストリートギャングになった。シルヴェスター・スコットとヴィンセント・オーエンズが、一九七二年にコンプトンのパイルー・ストリートに沿ってブラッズを結成し、すぐにクリップスのライバルギャングとしての地位を確立した。他の地元のグループのメンバーたちは、クリップスに襲われていて、その復讐のためにブラッズに参加したのだ。

(略)

コンプトンは南カリフォルニアにおける暴力犯罪とギャング活動の中心地となった。

 アロンゾ・ウィリアムズは、ワールド・クラス・レッキン・クルー(ドクター・ドレーギャングスタ・ラップの顔となる前にメンバーだった)を作った、DJ兼ナイトクラブのオーナーであり、今とは違う時代のコンプトンを覚えている。彼はこの街で育ち、今では危険と見なされている地域を、何の問題もなく歩いたものだった。それは一九七〇年代の、コカインがストリートを襲う前のことで、ギャングは存在していたが、彼らとの付き合いはそれほど危険なものではなかった。人びとは近所のギャングと関係を持たずに暮らすことができたし、まだ安全だと感じることができた。「コンプトンは他のどの街とも何ら変わりはなかったんだよ。落ち着いたもんさ」とウィリアムズは思い出す。「ギャングバンガーは常にいたんだ。ダンスに行けばそこにいた、でも通り過ぎるだけのことでさ。ほとんどの人びとはヤツらと一緒に野球をやったり、一緒に学校に通ったりしていたし、ギャングバンガーには一般市民には手を出さないっていう掟があった。ギャングバンガーはギャングバンガーとしか争わなかった。ヤツらは厄介ごとを起こそうとはしなかったし、人びとはヤツらに手を出したりもしないんだ」。

 しかし、クラック・コカインがすべてを変えてしまった。ギャングたちの活動は制御不能になり、金銭が新たなモチベーションになった。ウィリアムズはまた、彼のナイトクラブで状況が大きく変わるのを目の当たりにしている。彼が名高いイヴズ・アフター・ダークというパーティー会場を開いた一九七九年には、ギャングと関わっている常連客はほんのわずかしかいなかった。しかしクラックが真っ盛りの一九九〇年頃までには、彼の観客の大半はギャングと関わるようになっていた。「俺は自分の態度やドレスコードを変えなくちゃならなかった。誰もがサグになりたがり、誰もがドープを売りたがっていたんだ」とウィリアムズは言う。「誰もがタフを演じていた。誰かが怒った途端、自分たちのセット[従属するギャングの派閥]を主張した。そうやって人を追い払っていたのさ。ギャンスタになることがファッショナブルになったんだ。単に自分が住んでいる場所を理由にそうしていたし、それが主張できたのさ(略)

最近は、多くの若いヤツらがフッド[地元]出身だと主張している。(略)

多くのヤツらは別にギャングの一員じゃないのに、ギャングに惹かれていたんだ。(略)

昔は、自分がなぜ特定のセットに入ったか分かっていた。今じゃ多くのヤツらは強さを見せつけるためにやっている。ホットなことをやってるように見えるからさ」。

アンソニー・“トップ・ドッグ”・ティフィス

ケンドリックはティフィスのためにフリースタイルを披露して、その場で彼をあっと言わせなければならなかった。(略)

「トップは言ったんだ、『これが本当にお前かどうか見せてもらおうか』ってね。それから俺は二時間、頭に浮かんだことをひたすらフリースタイルでラップして、汗水垂らしてがんばったんだ」。ティフィスはケンドリックの能力に心底感服した。わずか一六歳という年齢で、まだ曲の書き方すら具体的に知らないのに、ラッパーとして十分に成長していたからだ。(略)

「俺は彼をブースに入れて、倍速のビートをかけたんだ。動揺させようと思ってね。そしたら彼はとんでもないフリースタイルを始めてさ!俺は全然気にしてないって風を装ったんだけど、それに気付いた彼は更にラップのスピードを上げたんだ。俺は『畜生、お前はモンスターだぜ』って感じで顔を上げたよ。翌日には契約書を用意したんだ」。

(略)

 二〇〇四年の時点で、ウェストコースト・ラップにはかつてのような真のキングがいなかった。アイス・キュープは俳優業にフォーカスしていた。ドクター・ドレーは音楽をリリースすることより、彼のレコード・レーベル、アフターマス・エンターテイメントを経営することにより大きな関心があった。

(略)

ウェストコースト・ラップの中心地は北へ――ロサンゼルスから、ベイエリアのサンフランシスコやオークランドヘ――と移動していた。そこではハイフィー、あるいは“クランク”・ムーブメントが真っ盛りだった。ヒップホップのトレンドは、ファンクや、激しいダンスを目的にひたすらピッチを速めた“クランク・ミュージック”など、ダンス志向の楽曲に重心が移っていた。

(略)

ゆったりとした攻撃性のあるLAギャンスタ・ラップは、ウェストコーストでは一九九〇年代以来初めて、二番手に甘んじることになった。

(略)

 ケンドリックは完全に無料で利用できるその拠点で、自身が抱える不安に向きあう時間を確保し、結果的に彼とジェイ・ロックは様々な発想を言葉にすることができた。(略)

ティファスはアーティストたちと誠実な関係を築いていた。それはビジネス上の関係というよりは、家族のようだった。トップ・ドッグは愛のむち、公平さ、揺るぎないリスペクトを通して、このスタジオに一帝国の種を蒔いたのだった。

 期を同じくして、ティフィスはもうひとりの前途有望な人物、サウンウェイヴという名でビートを作っていたコンプトン高校を卒業したばかりのプロデューサー、マーク・スピアーズにスタジオの扉を開いた。彼は、長年家族の友人だったパンチ・ヘンダーソンによって迎え入れられた。パンチはサウンウェイヴの兄と裏庭でよくバスケをしていたが、試合の合間に、当時一三歳だったサウンウェイヴが自分の部屋でソニープレイステーションのMTVミュージック・ジェネレイターをを使ってビートを作っているのを耳にした。「彼は、『おい、お前ビート作るのか?俺の従兄弟はトップ・ドッグなんだよ』って感じだった」とスピアーズ

(略)

一年後、サウンウェイヴが見覚えのある顔に再会したのは、ティフィスのスタジオにいるときだった。ケンドリックがソファーに座って、TDEのオーディションを待っていたのだ。

(略)

 ティフィスのスタジオはすぐに、キャリアに活を入れようとする他の若者たちにとっての聖域になった。二〇〇六年に、テラス・マーティンという名の男がこのスタジオを訪れるようになった。彼はロック高校で偉大なるレジー・アンドリュースからジャズを学んだ、自力でビートを作る並外れた才能の持ち主だった。

(略)

彼がティフィスの家の中を通って奥の部屋に行くと、ジェイ・ロックとケンドリックがスタジオのブースでラップしている声が聴こえてきたことを覚えている。「楽しかったね、毎日が創造性に溢れる共同体だったよ」とマーティンは思い起こす。

ドクター・ドレー

ドレーとケンドリックは単なるコラボレイターではなく、まるで家族のように親密な関係になった。「むしろおじと甥のような雰囲気だったよ(略)俺たちはスタジオに腰を下ろすと、お互いが暮らしてきたストリートの事情を話し合ったり、彼からは二世代若い俺でも共感できる経験談を聞かせてもらったんだ」。(略)

ケンドリックから50セント、エミネムまで、共に仕事をした者は誰もが先生[ドック]の素晴らしさを褒め讃えている。彼らはみな、ドレーは完璧主義者であり、気分が乗ればスタジオセッションが七〇時間以上にも及ぶこともあると公言している。ドレーはまた、とりわけ言葉にこだわる人物で、彼が仕事をするラップの抑揚について何百回も細かいことをうるさく言い、何百テイクもレコーディングするのだった。(略)

彼は自らリリックを書くことはなかったものの、スタジオの中でラッパーたちが彼のために書いたライムのなかに、彼の求める抑揚を反映させる指導方法を熟知していた。

「Sing About Me, I'm Dying of Thirst」

この二部構成の一二分にわたる壮大な大作で、このラッパーは、目の前で友人の弟(または兄)の死を看取った怒りと、ある年上の女性との偶然の口論がいかに彼の人生を永遠に変えてしまったかを解き明かす。最初のヴァースは、間違いなく最もハッとさせられる内容だ。ケンドリックは彼の友人で、殺されたデイヴの兄(または弟)の視点からライムをする。デイヴは殺され、ケンドリックはその現場を目にしていた。デイヴの兄(または弟)はストリートに深く関わっていたが、その生活から脱け出すための、新たな情熱を今なお探し求めている。しかし彼は、その時点であまりにストリートに深入りし過ぎていたため、どうしても方向を変えることができなかった。彼はケンドリックに懇願する。もし自分が死んだら、自分と弟(または兄)のデイヴのことを曲の中で追悼してくれ、と。そして案の定、その友人は『good kid, m.A.A.d city』が出る前に撃ち殺されてしまう。二つ目のヴァースは、二〇一〇年にリリースした『Section.80』に収録した「Keisha's Song (Her Pain)」の再訪だ。この曲は、熱心すぎる客に強姦され、殺されてしまったキーシャという売春婦のことを歌っていた。しかし再訪してみると、キーシャの妹からは、姉の話は人に明かして欲しくなかったと責められる。キーシャの妹にとって、それは悲劇的な事件だったからだ。

(略)

キーシャの妹の要求に逆らい、ケンドリックは彼女の視座から二つ目のヴァースをラップし、挑戦的だった彼の声は次第に消えていく。三つ目のヴァースでは、ケンドリックは自分の死や、それが死後の世界で何を意味することになるのかを理解しようと、彼自身の視点からラップする。その時点で、彼は探し求めていた神をまだ見つけていなかったが、死が着実に彼を追い掛けている中で、自身の抱える重荷をイエス・キリストの手の中にゆだね、手遅れになる前に比喩的な聖水を浴びていた。

(略)

三つ目のヴァースは信心深く、ケンドリックが抱える劣等感コンプレックスを知る。彼は「俺にはそれだけの価値があるのだろうか?」と自問する。「俺は十分な労力を注いだだろうか?」。ところが、曲の後半部「I'm Dying of Thirst」では、ケンドリックが求めていたカタルシスが与えられる。魅惑的なゴスペルにフォーカスしたこの曲は、心に残るコーラスのうめき声と、連鎖するベースドラムと一体になって、最初は復讐心に燃え、戦うか逃げるかの反応を差迫られる瞬間を描き出す。ケンドリックは全身で俺の友達を殺したヤツらを殺してやると主張している。しかし、ある年配者との偶然の出会いがそのすべてを変えてしまう。「彼女は信心深いとは言わないけど、人生の意味を俺たちに分かりやすく説明してくれる、スピリチュアルな女性だった」

(略)

「(略)最終的に、俺たちはある女性にばったり出会って、彼女は俺たちに、神やポジティブさ、人生、自由になること、そしてありのままの自分でいることについて、かみ砕いて説明してくれたんだ。彼女は本当にリアルなものとは何なのかを教えてくれた。なぜなら人はこの地球を離れて、崇高なる力を持つ者と話さなければならないからだ。あの曲は、洗礼を受けること、実際の水、聖水に浸されることを描いている。俺のスピリットのすべてが変わったとき、俺の人生が始まるときを描いたんだ―――誰もが今知っている俺の人生、それが始まるときをね」。

炎上発言

[ファーガソン事件について訊かれたケンドリックの返答は]

攻撃者ではなく犠牲者をせめた「オール・ライヴズ・マター」の支持者のように聞こえるものだったのだ。(略)

「マイケル・ブラウンに起こったことは、決してあってはならないことだった。絶対にね。でも俺たちが自分自身をリスペクトもしてないのに、どうやって人に俺たちをリスペクトしてもらうことを期待できる?変化は内面から始まるんだ。単に決起集会をやったってダメだ、略奪をしたってダメなんだ――それは内面から始まるものなんだよ」。この返答は、ファーガソンで起こっている苦闘というよりも、トラウマを抱えた黒人少年としての自分に話し掛けていた。

(略)

 この返答は、ソーシャル・メディアでちょっとした炎上を起こし(略)アーティスト仲間からの辛辣な批判を生んだ。(略)

キッド・カディ(略)は黒人アーティストたちに「すべての黒人たちに対して自分は神の贈り物だみたいな、黒人コミュニティを見下すこと」はしないで欲しいと求め、ケンドリックをサブツイートで間接的に批判した。さらに「The Blacker the Berry」の三ヴァース目も批判の的になった。(略)

自分たちが受けている不当な扱い――字面だけを読むと、ギャングに加入している黒人が四六時中お互いを撃ち殺しているのに、自分たちは警察の射撃に腹を立てることはできないと言っていた――について黒人を非難しているように聴こえた。ケンドリックはこの曲の最後で、こうラップする。「じゃあ、なんで俺は、トレイヴォン・マーティンがストリートで殺されたときに涙を流したのか/俺はギャングバンギンのせいでより肌の黒いヤツを殺すのに/偽善者が!」。このラインもまた、一部のリスナーの感情を爆発させた。

(略)

 ケンドリックはMTVニュースのジャーナリスト、ロブ・マークマンからのインタビューで、黒人コミュニティをこき下ろそうとしていたわけではないと述べた。「これは俺の経験なんだ」とケンドリックは言った。「俺は俺の人生について語っているんだ。コミュニティに向かって語りかけているわけじゃないし、コミュニティのことを話しているわけでもない。俺はコミュニティそのものなんだよ。俺だって今でも衝動を感じるし、今でも隣に住むヤツに怒りや憎しみを……どうにかしてやりたくなる悪意が芽生えることもある。だから、音楽を作ることは俺自身にとって癒やしの効果があるんだ」。

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調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝 その2

前回の続き。

タレントになるか葛藤

 やっぱり人情として、たとえタレントとしてでも売れるのはうれしいわけ。ただ、その反面、これを続けてると、本当に自分のやりたいことに戻ってこれないんじゃないかという危惧が頭をもたげてきた。

 すごく優秀なプレイヤーだった人がコメディアンとして売れちゃったために、ミュージシャンには復帰できなくなったケースがあるじゃん。例えば、フランキー堺とかさ。

 自分の場合、少なくとも司会みたいな仕事に関してはやっていけることは分かったんだ。ボケもツッコミも両方できるから。だけど、ミュージシャンとしての道を完全に断ってまでそっちに行くべきかといえば、それは選択肢に入っていなかった。

 分かりやすく言えば、中堅どころのミュージシャン上がりでしゃべりにも長けたタレントとして、ユースケ・サンタマリア赤坂泰彦を足して2で割ったような存在になるかどうかを迫られていたわけよ。

 当時は、俺みたいに何でも小器用にこなせる隙間産業的な人間が少なかったから、結構重宝されたんだ。タレント兼ミュージシャンという肩書があるから、懐メロ番組の司会とか、そういう中途半端な仕事にはちょうどフィットするのよ。今で言えば、民放BSの番組のような感じだね。

 そういう場所で地盤を固めてやっていけば、そこそこ安定した立場のタレントさんにはなれたと思うんだ。だけど、そういう状況にありながらたまに思い出したように音楽活動を行ったとしても、世間は趣味や余技としてしか受け取ってくれない。すべてが冗談にしか見えなくなる。それが一番怖かった。

 つまり、腹をくくらなきゃいけないわけ。一度腹をくくりさえすれば、後はもう楽なのよ。だけど、果たしてそれでいいのかという葛藤は、ずーっと心の中でくすぶっていた。

人種熱

 近田春夫事務所が間借りしていたアミューズには、アマチュアのミュージシャンから膨大な数のデモテープが送られてきていた。(略)

でも、アミューズ のスタッフは忙しいからか、それらのカセットは段ボール箱に入ったまま放置されていた。俺は、ヒカシューのデモテープに衝撃を受けた経験から、ひょっとすると、こういうところに宝が埋まっているんじゃないかと感じていたんだ。

 80年のある日、ふとその箱の中に視線を向けたら、「人種熱」というバンド名が目に飛び込んできた。まずは、その造語のセンスに惹かれたんだよね。曲名もユニークだった。例えば、「さて」とかいうんだから。

 いざデモテープを聴いてみると、音楽そのものもすごく面白かった。アース・ウィンド&ファイアーとウェザー・リポートとジャパンが混ざったようなもんでさ。あの段階で、すでにリズムボックスの音源を曲の一要素として生楽器の演奏にプラスしている。そこに乗る日本語の歌詞も、バンド名や曲名同様、今まで聴いたことのない新鮮なものだった。

 ということで、興味を持った俺は、人種熱のメンバーに会う手配をつけた。

 どこかのスタジオに呼び寄せて会ってみたら、リーダーでギターの窪田晴男がすっごい偉そうなのよ。あの頃、あいつは二十歳そこそこだったんだけど、「タレントやってるチャラチャラした人がちゃんと演奏なんかできるんですか?」って態度で俺に接していた。(略)

タレントと化していた数年間、プレイヤーとしての俺は、キーボードにほとんど触れていなかった。BEEFではヴォーカルだけだったし。だからといって、さすがにアマチュアバンドの楽曲がそんなに難しいわけはないとは思うじゃん。

 高をくくってる俺に、人種熱の譜面が手渡されたんだけど、驚いたよ。おたまじゃくしで隈なく埋め尽くされた書き譜なのよ。当時のロックバンドは、たとえプロであっても現場で編曲を進めるヘッドアレンジが当たり前。せいぜいコードが決まってるぐらいでさ。

 真っ青になって、「ちょっと譜面借りて、今晩練習してくるわ」と言い残してそそくさと帰ったよ。窪田は、別にアカデミックな音楽教育を受けてきたわけじゃないんだけど、純邦楽や沖縄民謡に通じた山屋清という音楽家の甥に当たるんだ。そこから、いろいろと知識を吸収したらしい。

 そして俺は、頭を下げて、人種熱に加入させてほしいと頼んだんだ。

 ただ、人種熱単体では知名度に欠け、商売にはならない。若いメンバーたちを食わせなきゃならないから、俺が一介のキーボード奏者として参加する際には「人種熱+ 近田春夫」名義、俺がヴォーカルとして前面に立つ場合は「近田春夫&ビブラトーンズ」名義でそれぞれ活動しようということになった。

(略)

人種熱に入れてもらった時、窪田に「俺、新しくキーボード買おうと思うけど、何がいい?」って聞いたわけ。そしたら、「ローランドのジュピターがいい」って言うから、すぐにそれを買ったのよ。あれが、俺の入手した最初のシンセだったな。

(略)

ミュージシャンに専念することを心に決めた俺は、この年の夏、タレント廃業を宣言する。

(略)

『ミッドナイト・ピアニスト』では売れ線を狙った歌謡ポップ色の濃い曲が結構多かったかなという反省があったから、[平山みきの]『鬼ヶ島』では、スケベ根性を起こさずそういう甘口なものはやらないようにしようとは思った。

 だから、『鬼ヶ島』はビブラトーンズというよりは人種熱の作品に仕上がっている。

(略)

当初の約束通り(略)「人種熱+近田春夫」と「近田春夫&ビブラトーンズ」の名義を使い分けていた。

 ところが、当時の俺にはタレントさん的な意味での知名度がまだそこそこ残っていたから、やっぱりビブラトーンズ の方が需要は大きいわけよ。もともと人種熱のリーダーだった窪田が、それについて快く感じていなかったことは気づいていたんだ。今思えば、俺も内心、「その代わり、収入を保障しているからいいだろう」と驕り高ぶっていたのかもしれない。

 ある日、人種熱名義のライブの壇上で窪田は、「実は金のために嫌々ビブラトーンズをやってるんです」みたいなことを放言しちゃったんだよ。それを聞いた俺は、「俺としてはそういうつもりじゃなかったけど、自分のやっていることは本当に失礼なことだったんだな」と反省したんだ。

 だけどライブが終わったら、他のメンバーが楽屋で「あれは近田さんに対して失礼だろ」って怒り出しちゃった。しまいには、本当は仲のよかったエンちゃんと窪田が口も聞かない状態になっちゃってさ。

 俺としては、本心から窪田に謝って事を収めたかったものの、それではエンちゃんの顔が立たない。本当に悩みに悩んだ末、泣いて馬謖を斬るみたいな気持ちで、あいつが練習するスタジオまで行って、「いろいろ考えた上で言うけれど、やっぱりお前に言われたことは失礼だと思うから、今日限りで俺はお前と絶交する」と告げたわけ。

 その後、窪田とは関係を断っていたんだけど、あいつがパール兄弟としてデビューする前後の時期に、たまたま出席した共通の知人の結婚披露宴で隣り合わせちゃってさ。「おめでたい席でめぐり合ったわけだし、今日から元の仲に戻さないか」って俺から提案したのよ。そしたらあいつもブスッとした顔で「いいっすよ」と答えてくれてさ。

 そこでいったん過去がリセットされて、今日に至るまで、ずっと深い付き合いになっていると思う。

「東京フリークス」、「PINK」

 ビブラトーンズが『VIBRA-ROCK』を発売した82年11月から、毎回10組以上のバンドが登場する定例イベント「東京フリークス」がスタートした。(略)

遠藤賢司S-KEN、東京ブラボー、サニー久保田とクリスタル・バカンス、有頂天、ポータブル・ロック、そして岸野雄一加藤賢崇のいた東京タワーズなんかが登場してくれた。

 主目的はビブラトーンズの販促だったんだけど、いろんなバンドがいたらお客さんも楽しんでくれるかなと思ったんだよね。

(略)

 「東京フリークス」を触媒としてバンド同士の交流が盛んになって、新しいユニットが生まれることもあった。そのひとつが、ビブラトーンズのエンちゃんを中心とする「おピンク兄弟」。この名前は、『星くず兄弟の伝説』から採ってるんだよ。

(略)

このグループは、「PINK」に発展し、84年にデビューすることになる。おピンク兄弟の段階じゃメンバーはまだ流動的で、ジューシィ・フルーツ沖山優司や、天才ギター少年として知られていた鈴木賢司が参加していたこともあった。

ロックからディスコへ 

 この当時の俺は、ロックという表現形態の行く末について悲観的な考えを抱いていた。縮小するのか拡大するのかはともかく、今後は再生産しか道はないと思えたわけ。

 実際、ロックと称する音楽が、いわゆる売れ線のポップスと変わらないスタンスでヒットを狙う例が増えてきていたんだ。

 ひとつは、ピーター・フランプトンみたいに、テクニックのみならずルックスにも恵まれたミュージシャンを積極的に売り出すパターン。(略)

 もうひとつは、外見としてはお洒落からほど遠いんだけど、とにかく技術には長けているというパターン。その代表が、トム・ショルツのやっていたボストンだよ。

 俺がイメージしていたロックというジャンルは、もっとリアルな心情を表出するものだったわけ。ところが、それはいつしか、スタジアム規模の興行にうってつけのコンテンツとしての見世物へと変わっていった。その最たるものが、キッスだったと思うんだ。

 80年代を迎えると、「産業ロック」と揶揄されるようになったその類の音楽が、ロックのメインストリームとして定着してしまう。

 そこで気づいた。自分の中では「ロックンロール」と「ロック」は違うものなんだと。

 ロックは、次第に無難な商業音楽の分野のひとつとして受け入れられ、他のジャンル同様、技術の向上が尊重されることとなった。それに比べると、ロックンロールは、上手とか下手とか一切関係なしに、ハッタリが効きさえすればそれでいいじゃん。その究極の例が裕也さんなわけよ。

 やっぱり、最近のストーンズのライブの映像観ても、ミック・ジャガーはいまだに歌上手くなってないもんね。うれしくなっちゃうよ(笑)。

 非アカデミックなものがアカデミックなものに勝つというその瞬間こそ、「ロックンロール」の醍醐味である。俺は昔からそう定義してきた。パンクやヒップホップに形を変えながら、その精神はずっと受け継がれていったと思うんだ。

 ロックに関する幻想から覚め始めた時、ディスコというジャンルが自分の中で存在感を増してきた。ディスコは、最初っから人を踊らせるための商業音楽という目的がはっきりしてるじゃない?その機能性がいっそ潔いなと思ってさ。

実はディスコって、ちゃんとした楽典的素養がないとアレンジできないジャンルなんだよ。結構、弦とか管とかが入るからさ。

 歴史をたどれば、ディスコというサウンドは、MFSBの「ソウル・トレインのテーマ」が元祖。あそこで、ドラマーのアール・ヤングが四つ打ちというものを発明したんだ。

 少し遡るけど、当時、ディスコに関する考え方としてものすごく共鳴したのが、元ニューヨーク・ドールズデヴィッド・ヨハンセンが78年にリリースした「Funky But Chic」。パンクとディスコを融合させた試みだよね。もうひとつが、同じ78年にエドガー・ウィンター・グループを脱退したダン・ハートマンが発表した「Instant Replay」。これ、アメリカのダンスチャートで1位を獲っちゃったんだ。

 自分が気にかけていたミュージシャンが、こぞってダンスミュージック的な方向に舵を切った。その事実には刺激を受けたね。そして心の底には、ロックはもう遊び人の音楽じゃなくなっちゃったなという淋しい気持ちがあったんだと思う。

 ただ、アメリカと日本では、ディスコという音楽のとらえ方が決定的に違ってたのよ。六本木の「ソウル・エンバシー」とか、ああいう店でかかっているのはモータウンかスタックスかJBって感じで、サルソウルみたいな音楽はあんまりウケてなかった。

 その後、日本では、78年に公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の余熱がずっと続いていたわけ。つまり、白人っぽい甘口なものが受け入れられていた。

 一方では、「ジンギスカン」を始めとするノベルティソングや、ハービー・マンやジョージ・ベンソンみたいなジャズの人がお手軽にこしらえた曲がヒットしたりしてさ。キャメオとかリック・ジェームスとか、テレビ映えするタイプも人気があったよね。

 あと、何と言ってもアースよ。アース・ウィンド&ファイアー。日本中のディスコをアースが席巻しちゃった。つい最近まで、歌謡曲・ポップス系のアレンジャーが作るディスコはみんなアース調だったもん。そういった日本独自の感覚が、後のユーロビートのブームまで脈々とつながってると思う。

 まあ、そもそも自分は長らくハコバンやってたぐらいだし、ロックよりディスコが好きだったことは事実なんだよね。この時期の俺は、バンドの作る音楽よりも、DJが発信する音楽の面白さに大きく惹かれていた。

(略)

 確かに、当時、六本木や新宿のディスコなんかに行っても、いいDJは観てるだけで楽しかったんだよ。宇治田みのるとか松本みつぐとかさ。

『クラッシュ・グルーブ』を観てラッパーに

[86年のある日、高木完藤原ヒロシが事務所に『クラッシュ・グルーブ』のビデオを持ってきた]

 俺はちょうどその頃、日本語の歌詞を作る上での新しい方法論を模索してたの。

(略)

 日本語で複雑なことを伝えようとするがため、俺の書く歌詞は、どうしても16分の符割りばかりになっていった。ただ、日本語の単語は強弱じゃなくて高低でアクセントを効かせるから、1番と同じメロディに2番の歌詞を乗せると、意味が通じなくなる場合がある。

 ということで、正確に内容を伝えることを優先するため、自分が作る曲は、歌うというよりはしゃべるようなイントネーションに変わっていった。(略)

 その矢先に『クラッシュ・グルーブ』を観たもんだから、衝撃を受けたわけよ。それまで、シュガーヒル・ギャングみたいなパーティラップは耳にしたことがあったけど、あれは日本に置き換えるなら七五調の言葉遊びみたいなもんじゃん。ところが、デフ・ジャムをはじめとする一連の新しいラップは、特に韻も踏まずに、ビートに載せてとにかく言いたいことを無骨に畳みかけている印象があった。

 これは、当時の自分が試みていたことと近いかもしれないなと思ったの。俺がやっていたことは、ロックというアートフォームの中で理解するより、ヒップホップとして捉え直した方がいいんじゃないかと。

(略)

天啓を受けたように「そうだ、俺はラッパーになろう」と心に決めたのよ。

ビブラストーンズ、ハウス

 ビブラストーンを始める時に思ったのは、ジェームス・ブラウンフランク・ザッパを足して二で割ったようなものを作ろうってこと。

 よくフェラ・クティの影響も指摘されるんだけど、そこはOTOの趣味なんだ。俺さ、アフロファンクとレゲエはあんまり好きじゃないのよ。何というか埃っぽくてさ。

 OTOに関して言えば、俺、じゃがたらからは相当刺激を受けたんだよ。アングラ嫌いの俺がじゃがたらのことを好きだなんて意外だと驚かれるんだけど、俺の考えでは、じゃがたらはとにかくモダンだったんだ。特に、日本語とリズムとの関係において、それまでにはなかった新しいものを感じた。

(略)

 この時期の自分は、俄然、ハウスに興味を引かれるようになっていた。

 日本にヒップホップが入ってきてから、ハウスが入ってくるまでの間って、大してタイムラグはなかったと思うんだ。だから、こっちじゃどちらも黒人発のダンスミュージックとして一緒くたにとらえてたけど、実際にアメリカに調査に行った人間の話を聞くと、その両者に接点はまったくなかったという。

 確かにそうでさ、まったく違う文化なんだよね。ハウスはゲイカルチャーから生まれたけど、ヒップホップの世界にはゲイがいなかった。ヒップホップ側の人間って、ゲイっぽい価値観をあからさまに嫌うじゃん。

 技術的なことを言うと、ヒップホップよりも、ハウスみたいな四つ打ちの方がビートを作るのは難しいんだよ。四つ打ちって、拍の頭に必ずキックが鳴るじゃん。ベースも一緒に鳴るじゃん。そこだけ突出して低音が膨らんじゃう。それが厄介なんだ。全体をミキシングする際、そこに圧縮を施すと、ハウスっぽい感じが出ない。

 ヒップホップの場合は、シンコペーションが多いから音圧を分散させることが可能なのよ。でもハウスにはシンコペーション、つまりリズムのずれがないから、グルーヴというものを生み出すことがものすごく難しい。

 ハウスの祖に当たるディスコは基本的に生演奏だから、バランスを取りやすい。でも、ハウスみたいに全部機械で打ち込むとなると、音のバランスが取りづらいんだ。

 ということで、ここはいっそハウスを極めてやろうと思ってさ、機材を使いこなすことに関心が向いてきた。

『Vibra is Back』

 マネージャーのKに去られた俺は、当時、SFC音楽出版(現ウルトラ・ヴァイヴ)という会社を経営していた高護さんにお願いして、ビブラストーンのマネジメントを引き受けてもらうことにした。(略)

 そして、89年12月、SFCが手がけていたインディレーベルであるソリッドから、近田春夫&ビブラストーンのデビューアルバム『Vibra is Back』がリリースされる。

 このアルバムは、高さんの提案で、全曲DAT一発録りのライブ音源を集めたものとなった。

(略)

 俺はそれまで、レコーディングとライブは別物だと思っていて、ライブ盤を出した経験がなかったから、これはちょっとした挑戦と言ってもよかった。

 でも、結果として本当にいいものができた。この時点で、もうバンドとしてほぼ出来上がっちゃってるんだよね。実は、この後にポニーキャニオンから出るアルバムより、ずっといいと思ってるぐらい。ひょっとすると、近田春夫の全キャリアを通しても、一番好きなアルバムかもしれない。

プロデューサー業

 81年には、サンタクララという夫婦デュオのシングル2枚をプロデュースした。

 このふたりを知ったのは、NHKのオーディション。たまたま足を運んだら、「男と女」って曲を歌っててさ、それが本当にカッコよかったのよ。まあ、エスター・フィリップスの「What a Difference Day Makes」そのままなんだけど(笑)。下世話な水商売の匂いに衝撃を受けたよ。

 その印象を「POPEYE」の連載に書いたら、向こうからプロデュースを頼まれたってわけ。それで、「人に言えないラブシーン」というシングルを提供した。B面の「ふるさとトワイライト」ともども俺の作詞・作曲。編曲は、当時ビブラトーンズを一緒に始めたばかりの窪田晴男に任せている。

(略)

 82年にビブラトーンズとしてアレンジと演奏に参加したのが、三上寛の『このレコードを盗め』というアルバム。

 このレコードは、一応キャリア初のベストアルバムを謳ってるんだけど、全曲、オリジナルとはアレンジが変わってるのよ。

 俺たちは「なかなか~なんてひどい唄なんだ」という曲をリメイクしている。初めて聞いた時に、あまりにも前衛的な歌だったので驚いてさ。これもまた、「POPEYE」で紹介したら、それが先方の目に入ってオファーが来たんじゃなかったかな。

 三上寛という人は、一般には情念的なフォークの歌い手だととらえられているけれど、その一方で、非常にモダンな感覚を持っている人ですよ。

 

 80年代にプロデュースを行ったアルバムで、一番自信を持っているのが、85年にリリースされた風見りつ子のアルバム『Kiss of Fire』。

(略)

 この頃、自分の中では、作詞・作曲・編曲・演奏のすべてを自分で手がけたいという気持ちが強まってきていた。そんなところに舞い込んできた仕事だったんだよ。

 ここでは、まず徹底的に打ち込みだけで作り込んで、そこにギターをはじめとするいくつかの楽器の音を挿した。そして、有機的なコーラスを過剰なまでに多用したんだ。

 このアルバムを作るに当たって影響を受けたのは、スイスのテクノポップグループ、イエローの「Pinball Cha Cha」という曲と、マット・ビアンコのファーストアルバム『Whose Side Are You On?』 

 

調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝

小林克己、ハコバン

その後、歌舞伎町のディスコのハコバンもやった。(略)

 当時、俺はステージでよく悪ふざけしてたのよ。いわゆるトラ、代役のミュージシャンが来た時、突然、ありもしない架空の曲名を言ってあわてさせるってやつ。

 その日、俺が「次の曲は、「フィラデルフィアにゴミを捨てるな」!」って出鱈目なタイトルを叫んだら、そのトラのギタリストは、平気な顔していかにもそれらしいフレーズを弾き出したんだよ。馬鹿にしてるよな。そいつが、小林克己という男だった。

 その場で、小林はハルヲフォンの正式メンバーになる。前任の松本はそもそもブルースロックが好きだったし、いろいろな曲を弾きこなさなきゃならないハコバンをやるには不器用で、つぶしが効かなかったんだ。

(略)

小林の演奏能力には恐るべきものがあった。あまりにも他のギタリストの物真似が上手すぎるんで、何弾いても、聴いてるこっちは感動しないのよ(笑)。あいつこそ、「仏作って魂入れず」を意図的に極めたミュージシャンだよ。

(略)

 当時は、いろんな店のハコバンのオーディションを受けたね。

(略)

オーディション会場に出向くと、有象無象のバンドが集まっているわけ。彼らは、それまでの俺が知っていたロックの世界のバンドとは全然毛色が違った。全身から水商売の匂いを漂わせてるんだもん。あの頃の日本のロックバンドの人って、青くさいのよ。何かみんな、真面目に「ニューミュージック・マガジン」を熟読してるような感じでさ。俺らは遊び半分でやってたから、こっちの世界の方が馴染むと思ったね。

 当時は「営業バンド」「制作バンド」という分類があったの。営業バンドは、生業としてハコに入って演奏するから金にはなる。対して、制作バンドはハコはやらない。自分たちの作品の力で世間を説得するという夢があるけど、金になるかどうかは分からない。

 あまたある営業バンドの中で、群を抜く存在感を放っていたグループが「スリーチアーズ・アンド・コングラッツレーションズ」。

 グッチ裕三と宮本典子をヴォーカルに擁し、ウガンダ・トラがドラムを叩いていたバンドでさ、ギターもふたりいて、とにかくショックを受けるほどに上手いのよ。でも、ハルヲフォンは、一度ぐらいオーディションで彼らに勝ったことがあるような気がするんだよな。

ニューヨーク・ドールズバーナード・パーディ

[内田裕也がプロデュースしたジェフ・ベックを目玉とした「ワールド・ロック・フェスティバル」にプレイヤーとして参加]

 このツアーには、ニューヨーク・ドールズも招かれていた。

(略)

[記者会見で]俺は、当時こぐれひでこさんがやってた「2CV」というブランドの青いジャケットを着てたんだ。それを気に入ったドールズのメンバーが話しかけてきたことから、あっという間に俺は彼らと仲良くなったんだ。 

 話してみると、ルックスから受けるイメージとは違って、彼らはとにかく知的で紳士的なのよ。特に、ヴォーカルのデヴィッド・ヨハンセンとギターのシルヴェイン・シルヴェインとは意気投合して、在京中は、毎日のように俺が運転する車で東京を案内した。合羽橋とか築地とかに連れて行ったっけ。

(略)

 俺、この時に、ニューヨーク・ドールズへの加入の誘いも受けたんだ。「お前みたいなロックンロールピアノを弾けるやつはなかなかいないから、ニューヨークで一緒に活動しないか」ってね。

 ちょっと心は動いたけど、俺はハルヲフォンとして本格的にデビューを果たしたばかりだったから、日本で地に足を着けてやっていこうと思って、断っちゃったんだ。

(略)

[ジェフ・ベック]のバンドでドラムを叩いていたのが、手練れとして知られるバーナード・パーディ。俺が出番を終えて引き上げる時、袖でずっと演奏を観ていた彼が、声をかけてきた。

「お前のその腕前なら本場でも十分通用するよ。もしもアメリカに来る機会があるなら、仕事を紹介するから連絡をくれないか」と言って、名刺をくれたんだよね。

『COME ON, LET'S GO』

 当時の俺はT・レックスが好きだったから、その影響が如実に表れている。レコードという録音芸術においてしか表現できない人工的なサウンドのロックンロールをいかに作り上げるか。それがテーマだった。

(略)

トニー・ヴィスコンティのアレンジは、ストリングスが魅力的だったから。ただ、弦は人数が要るからお金がかかるじゃん。なのでそれはあきらめて、ソリーナっていう弦の音が出るキーボードで代用した。

 当時の日本のロックバンドって、大体がギター中心なんだよね。キーボード、特に生の入ってるバンドが少なかった。俺はもともとトラフィックにいた頃のスティーヴ・ウィンウッドからすごく影響を受けてたから、彼のような生ピアノを、人工的なロックンロールに採り入れたかったんだ。

 あとは、「まさかあの曲をパクってこういう曲にはしないだろう」という意外性ね。例えば「秘密のハイウェイ」は、バリー・ホワイトの「Never Never Gonna Give Ya Up」をロックンロール化したらどうなるかという発想から作られている。

 「秘密のハイウェイ」に関しては、ムロタニ・ツネ象の『地獄くん』という漫画で、主人公が霊柩車に乗って高速道路を疾走していた絵がイメージの源になっているんだ。ラブロマンスの形態を取りながら、デヴィッド・クローネンバーグの映画やJ・G・バラードの小説がはらむ不気味さを表現したつもり。

(略)

 詞も独自なものだったと思う。当時の日本語のロックには、都会的なモチーフを歌ったものがほとんどなかった。だからハルヲフォンでは、俺がずっと観察してきた東京の夜の遊び人の生態を皆様にご報告申し上げたいという気持ちが強かった。つまり、自分だけが透明人間になって、周りのみんなが遊んでるのを横で眺めてる感覚だね。

 昔から、俺が歌いたいのはあくまでも客観的な景色。自分の体験を歌いたいわけじゃないんだよね。だって、「俺が俺が」っていう歌って面倒くさいじゃん。「はいはいはい」って聴き流したくなるよ。だから、俺の書く歌詞は、たとえ一人称であっても三人称の色が濃い。そう考えると、元来、俺の体質はヒップホップ的じゃないのかもね。

 表題曲の「COME ON, LET'S GO」は、洋楽のカバー。オリジナルはリッチー・ヴァレンスだけど、俺たちはマッコイズ のヴァージョンで演奏した。恒田に「変拍子が交じってて、アルバム全体を貫くテーマになり得るような曲って何かないかな?」って水を向けたら、この曲を提案してくれたんだ。あいつ、本当に洋楽に詳しいからさ。恒田は、俺の考えに対して、全然違う角度からアイデアをねじ込んでくるんだよ。

オールナイトニッポン、『電撃的東京』

[歌謡曲にハマった小暮徹の]

強力な影響をもろに受け、ハルヲフォンは、楽器車での移動中もカーステレオで郷ひろみや平山三紀といった歌謡曲ばかりを大音量で聴きまくっていた。

(略)

[オールナイト第二部に起用される]

 俺は郷ひろみにすごくハマってたじゃん。だから、ラジオの番組やるんだったら、もうガンガン郷ひろみかけちゃおうと思ってさ。オーディション用に本番さながらに録音したテープで郷ひろみについて熱く語っていたら、それが妙にウケたらしくて、オーディション通っちゃったのよ。ロックミュージシャンが歌謡曲を歌う男の子のアイドルに詳しいなんて、当時はありえなかったからね。

 郷ひろみ特集を毎回やっていたら、スポーツ紙が大きく採り上げてくれて、俺の知名度が急に上がったんだよ。タレントとしての近田春夫をブレイクさせたのは「オールナイトニッボン」であることは間違いない。

 はっきりと物を言うミュージシャンというパブリックイメージも、あの番組から生まれたと思う。だって、「この曲嫌いだからやめよう」なんて言ったり、ひどい時には「歌はいいんだけど、顔がひどいからやめよう」とか言って曲を途中で止めたりしてたから。今だったら問題になるよな。

 とにかく、2時間にわたって、ひたすら歌謡曲をかけまくり、ハルヲフォンの高木さんと一緒に好き勝手しゃべりまくっていた。ひどい時には1回の放送で100曲ぐらいかけたから。

 番組が始まるのは午前3時なのに、前の日の午後3時ぐらいから俺と高木さんのふたりでニッポン放送に行って、レコード資料室に入り浸ってたのよ。

 あそこには、本当にカスみたいなレコードが、封も開けずに積み上げてあったんだ。「セックス」っていうタイトルのシングルとか、よくこれ本気で作ったなってのが山ほどあって、そんなのを見つけるとうれしくなっちゃってさ。まさに、今のDJが言うところの「掘る」っていう感覚だよね。

 すでに知っていたヒット曲でも、聴き直してみると「これ、今さらながらにすごいよね」という再発見もあったりしてさ。

 

 

 これまでの2枚のアルバムが全然世間から受け入れられなかったから、拗ねたわけじゃないけど、オリジナル曲を作るのが面倒くさくなっちゃってさ。当時、俺たちが凝っていたパンクと歌謡曲、そのふたつを合体させちゃえばいいんじゃないかと思いついたわけ。

 ヒントになったのは、シド・ヴィシャスがカバーした「My Way」。あれを聴いて、どんな歌謡曲セックス・ピストルズみたいにアレンジすれば簡単に演奏できることに気づいたの。それだけの話。

『ハルヲフォン・レコード』を出して以降、ライブにおける演奏スタイルは、完全にパンクへと移行していたんだ。

(略)

 ニッポン放送の何かの番組の公開録音でも、「ブルドッグ」を演奏した。その番組の司会のおりも政夫さんは元フォーリーブスだから、あれを聴いてずいぶん驚いたらしい。

 

 その結果、78年6月にリリースされたサードアルバム『電撃的東京』は、ほぼ全曲が歌謡曲のカバーで占められることになった。

(略)

 ピストルズを聴いていろいろと研究してさ。小林曰く「「Anarchy in the UK」の♪ジャンジャンジャンジャンジャンジャンジャンジャンっていうあのギターは、同じフレーズを5回以上かぶせてるに違いない、そうじゃなきゃあんな音にはならない」。だから、その通りにダビングレた。

 後になって、何かの雑誌でピストルズのプロデューナーだったクリス・トーマスのインタビューを読んだら、小林の推理は当たってたのよ。ところがピストルズの方が、ギター重ねた回数は多かった。こっちはまだまだだったよ。

(略)

 パンクと同時に歌謡曲にも夢中だったから、ベースに関しては、歌謡界の第一人者である江藤勲さんというスタジオミュージシャンのプレイを追求した。とにかく、わけが分かんなくてすごい音なのよ。アタックのところだけものすごくピシッというのに、後の部分はブオンッと鳴る。お麩に針を刺すみたいだから、俺たちは「オフハリベース」って呼んでた。結局、あの音に到達することは叶わなかったな。

『天然の美』、楳図かずお

つまり、このアルバムが職業作家としての名刺代わりの役割を果たすことを狙ったわけ。それに加え、このやり方だと、全部の作業を自分で抱え込むのと比べたら労力が3分の1で済むなという甘い目論見もあった。

 そんなことを考え始める少し前、それまで面識のなかった細野晴臣さんと知り合ったんだ。何しろ、俺は内田裕也の一派にいたもんだから、はっぴいえんど側の人たちとはあんまり縁がなかったのよ。

 「DON DON」という雑誌の対談で顔を合わせてみたら、お互い想像していたのとは違ってすごく話が合ってさ。「今、何やってるんですか?」と尋ねると、「コンピューターで音楽を作ってるんですよ」って。正直、その場では何言ってるのか意味がよくつかめなかったんだけど、「じゃあ、そのコンピューターとやらでアレンジをお願いできますか」と頼んだら、快くOKしてくれたのよ。

 その対談の際に渡してくれたのかどうかは忘れたけど、「パシフィック」というLPがあって、俺、これにハマっちゃってさ。細野晴臣山下達郎鈴木茂が参加したインストゥルメンタルのオムニバスで、YMOの「コズミック・サーフィン」の原型が収録されてるんだ。これを、当時発売されたばかりのウォークマンで聴くとすごくよくってね。

 コンピューター音楽の何たるかをその時点では理解していなかったんだけど、ジョルジオ・モロダーは好んで聴いていたんだ。あくまでも、テクノポップというカテゴリーが生まれる前のミュンヘンディスコとしてね。後になってから、YMOとはつまりジョルジオ・モロダー寺内タケシとブルージーンズであることに気づいたんだけどさ。

 そんな経緯があって、『天然の美』には、デビュー間もないイエロー・マジック・オーケストラがアレンジと演奏で4曲に参加している。(略)あの頃はまだ、ブレイクする前の地味な時期だったからね。(略)

高橋幸宏は以前から知ってたのよ。立教高校では、ハルヲフォンの恒田の後輩で高木さんの同級生だったから。それに、幸宏のお兄さんの高橋信之さんは、俺にとって慶應の先輩だったし、成毛滋さんと一緒にフィンガーズというバンドを組んでいたしね。

(略)

 レコーディングはとにかく大変だった。機材が未熟だから、今だったら5分でできちゃうことが、3日ぐらいかかるわけ。8割方の作業は、コンピューターやシンセサイザーに関する準備やトラブル解消に費やされた。

 プログラマー松武秀樹さんがずーっといろいろいじってるから、しびれを切らして「そろそろですか?」って聞くと、「まだ音が出ないです」って言うんだもん(笑)。もう人間が演奏しちゃった方が早いからって、坂本が手弾きしたことがずいぶんあったよ。

(略)

「エレクトリック・ラブ・ストーリー」(略)編曲は、A面がYMOで、B面が若草恵さん。(略)

 若草さんに関しては、加苗千恵の「東京チカチカ」という曲に衝撃を受け、仕事をお願いしてみた。「東京チカチカ」がいろんな要素を盛り込みすぎた変な曲だったんで、これはふざけた人に違いないと思って会ってみたら、普通に折り目正しい人でさ。あの編曲は、大真面目にやってたことが判明した(笑)。

 それで、「可能な限りくどいアレンジにしてください」と頼んだら、真っ正面からこちらの意を汲んで、本気で手間のかかった、音数の多い曲に仕上げてくれた。さすがにあのスコアは、本物のプロじゃなきゃ書けないよ。俺、いまだに心からすげえと思うもん。

(略)

[楳図かずおと縁が生まれたのは『まことちゃん』]一家がテレビを観ているシーンで、ブラウン管にイルカとクールスとハルヲフォンの演奏シーンがよく映し出されるのよ。この3組が好きって、バランスがどうもおかしいじゃん(笑)。

 すごく気になったから、ハルヲフォンが杉並公会堂で最初のワンマンコンサートをする時に、楳図さんにゲストに出てもらったんだ。(略)

最初に楳図さんの作詞家としての才能に驚かされたのは、75年に発表された『闇のアルバム』を聴いた時のこと。全編、作詞・作曲・歌唱は楳図さん本人で、その世界は、まるでデヴィッド・ボウイが歌うような虚無感に覆われている。

 その次の年、またもや楳図さんの詞にうならされたのが、郷ひろみの「寒い夜明け」。これってつまり、ナンパか何かして引っかけた女の子と円山町辺りのラブホテルに泊まった後に、渋谷駅まで彼女と歩いてそのまま一夜限りの関係で別れちゃう翌朝の情景を、男の視線から都合よく奇麗事として描いている。この絶望感ったらたまらないのよ。よくこんなつらい世界を描けるなと思うよ。

 だから、自分がソロを作る時は、絶対に楳図さんに歌詞を書いてもらいたいと考えていた。「エレクトリック・ラブ・ストーリー」は曲が先にできた。何の意味もない曲名はあらかじめ俺が決めていたんだけど、それにぴったりの素晴らしい歌詞をはめてくれた。自分の確信は間違ってなかったと思ったよ。

(略)

さて、『天然の美』を聴いたレコード会社のディレクターたちから、俺に作詞や作曲、編曲のオファーが押し寄せるようになったかというと、別段そんなことはなくてさ。しかも、レコード評を読んでも、アルバムのコンセプトを理解してくれるものは皆無だった。残念ながら、誰もそこには興味がなかったんだよな……。 

ジューシィ・フルーツ」 

『天然の美』で世間の手応えをつかむことができなかった俺は、改めてバンドを組みたいと思い立ち、その直後に「近田春夫&BEEF」というグループを結成する。

(略)

ところが、目の前にひとつ、問題が横たわっていた。俺はキングとの契約期間満了を待たずにコロムビアに移ったんだけど、そういう場合は会社間に紳士協定があって、移籍後半年間は新しい所属先からレコードが出せないことになってたんだよ。「じゃあ、とりあえずバックのメンバーだけを使ってレコード出して、その後でバンドを組み直してデビューすればいいじゃん」と言い出したのが、コロムビアの担当ディレクターだった三野明洋さん。(略)

ちなみに三野さんは後年、JASRAC の独占市場に風穴を開ける形で、イーライセンス(現・NexTone)という著作権管理会社を設立することになる。それで、イリア、沖山、高木、柴矢の4人が「ジューシィ・フルーツ」を名乗って一足先にデビューすることが決まった。

(略)

 俺は、ジューシィにはプロデューサーの立場で関わることになり、ヴォーカルには、急遽イリアさんを立てることになった。彼女、前のバンドの時は歌ってなかったのよ。(略)

 そんなわけで、俺はイリアさんが歌うのを聴いたことがないままデビューシングルの「ジェニーはご機嫌ななめ」を書いちゃったから、彼女がいざ歌おうとしたらキーが高すぎた。これからカラオケ作り直すのも大変だなと思って、地声じゃなくファルセットで歌ってもらったんだ。ずいぶん杜撰な話だよ(笑)。

(略)

元ネタがいっぱいある。まずはブロンディの「One Way or Another」。〈ゲチャゲチャ〉〈ミチャミチャ〉と聴こえるところを〈イチャイチャ〉に引用している。そして、シンセのリフはT・レックスの「Telegram Sam」のギターのリフを移し替えている。サビの〈抱き合って眠るの〉というメロディーは、沢田研二の「恋のバッド・チューニング」から。そして、間奏のツインギターは、エアプレイのジェイ・グレイドンがひとりでギターを被せるあの感じを表現してみた。当時、ジェイ・グレイドンがプロデュースしたマンハッタン・トランスファーの「Twilight Zone/Twilight Tone」っていう曲がすごく好きでさ、BEEFのライブでもカバーしてたんだ。

 だから、「ジェニーはご機嫌ななめ」はしばしばテクノポップみたいに言われたけど、テクノでも何でもないわけよ。実際は、オールディーズにちょっとフュージョンを混ぜただけなんだよ。

 あの曲が思いがけずヒットしたもんだから、ジューシィはそのまま続けていくことになり、BEEFの構想は頓挫しちゃったんだ。

田原俊彦

 この辺から、歌謡曲の職業作家としての仕事が増えてくる。ジューシィ・フルーツのヒットが評価されたゆえのことだと思う。

 80年の夏には、トシちゃんこと田原俊彦のデビューアルバム『田原俊彦』収録の2曲において作詞・作曲・編曲を行っている。ここには、「田原と近田春夫のパンク・ジョーク」というおしゃべりも収められているんだ。

 ただ、トシちゃんがブレイクする直前のこの時期はジャニーズ の低迷期だったから、売れっ子の作家が仕事を引き受けてれなかったんじゃないかと邪推してるんだよ。だって、打ち合わせのため、ジャニーさんとメリーさん本人がわざわざ俺ごときの作業してるスタジオまで来たんだから。どれだけあの事務所が停滞してたか分かるでしょ(笑)。

ベンチャーズ

 この時期、サポートミュージシャンとして行った仕事の中で思い出深いのは、80年夏に開催されたベンチャーズ の日本公演に参加したことだね。

 このコンサートは、同年にリリースされた『カメレオン』という日本独自企画のアルバム発売に伴う興行だった。加藤和彦さんがプロデュースしたこのLPでは、YMOの3人や鈴木慶一、梅林茂、今井裕竹田和夫らが楽曲を提供している。巻上公一をヴォーカルに迎えたヒカシューの「パイク」のカバーも収められているんだ。

 そのツアーの数本に、俺はハモンド奏者として迎えられたわけ。何しろ子どもの頃からベンチャーズの大ファンだったから、とにかくまあ、うれしかったよ。

 セットリスト中に、「Hawaii Five-O」というヒット曲が含まれていた。ホーンセクションが主旋律を奏でるため、ライブではそのパートだけをテープで流すんだけど、恐ろしいことに、その音源にはただ単にホーンのメロディーしか入っていない。なのに、ドラムスのメル・ティラーは、ヘッドフォンもつけず、クリック音も聴かずに、楽勝でビートをキープしちゃうんだよ。

 メンバー全員、最初から最後まで演奏がずれなかったからね。リズム感が異常に優れてるのよ。今のバンドって、イヤーモニターで音を取らないと演奏できないじゃん。

 楽屋でいろいろと話が聞けたのも楽しかったな。彼らは日本全国を隈なく回ってるから、地方の美味しいものに詳しいわけよ。日本人の俺でも知らない各地のグルメ情報を伝授してくれたね。

(略)

[ベンチャーズが楽曲提供した]渚ゆう子の「京都の恋」に関して、興味深い事実を教えてくれたんだよ。

 あのメロディーは、ローリング・ストーンズ の「Paint It, Black」をパクったっていうんだ。考えてみれば、♪ラシドレドシラ~って、確かに一緒なんだよ。それを、ベンチャーズのメンバーが目の前でニコニコとギター弾きながら説明してくれる。これ、一生忘れられない経験だよ。

 俺、どの曲がどの曲をパクったかに関しては誰よりも目端が利く人間だと自負してたから、こんな大ネタ中の大ネタに気づかなかったことが悔しくってさ。鼻っ柱をへし折られた気がしたな。

次回に続く。