調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝

小林克己、ハコバン

その後、歌舞伎町のディスコのハコバンもやった。(略)

 当時、俺はステージでよく悪ふざけしてたのよ。いわゆるトラ、代役のミュージシャンが来た時、突然、ありもしない架空の曲名を言ってあわてさせるってやつ。

 その日、俺が「次の曲は、「フィラデルフィアにゴミを捨てるな」!」って出鱈目なタイトルを叫んだら、そのトラのギタリストは、平気な顔していかにもそれらしいフレーズを弾き出したんだよ。馬鹿にしてるよな。そいつが、小林克己という男だった。

 その場で、小林はハルヲフォンの正式メンバーになる。前任の松本はそもそもブルースロックが好きだったし、いろいろな曲を弾きこなさなきゃならないハコバンをやるには不器用で、つぶしが効かなかったんだ。

(略)

小林の演奏能力には恐るべきものがあった。あまりにも他のギタリストの物真似が上手すぎるんで、何弾いても、聴いてるこっちは感動しないのよ(笑)。あいつこそ、「仏作って魂入れず」を意図的に極めたミュージシャンだよ。

(略)

 当時は、いろんな店のハコバンのオーディションを受けたね。

(略)

オーディション会場に出向くと、有象無象のバンドが集まっているわけ。彼らは、それまでの俺が知っていたロックの世界のバンドとは全然毛色が違った。全身から水商売の匂いを漂わせてるんだもん。あの頃の日本のロックバンドの人って、青くさいのよ。何かみんな、真面目に「ニューミュージック・マガジン」を熟読してるような感じでさ。俺らは遊び半分でやってたから、こっちの世界の方が馴染むと思ったね。

 当時は「営業バンド」「制作バンド」という分類があったの。営業バンドは、生業としてハコに入って演奏するから金にはなる。対して、制作バンドはハコはやらない。自分たちの作品の力で世間を説得するという夢があるけど、金になるかどうかは分からない。

 あまたある営業バンドの中で、群を抜く存在感を放っていたグループが「スリーチアーズ・アンド・コングラッツレーションズ」。

 グッチ裕三と宮本典子をヴォーカルに擁し、ウガンダ・トラがドラムを叩いていたバンドでさ、ギターもふたりいて、とにかくショックを受けるほどに上手いのよ。でも、ハルヲフォンは、一度ぐらいオーディションで彼らに勝ったことがあるような気がするんだよな。

ニューヨーク・ドールズバーナード・パーディ

[内田裕也がプロデュースしたジェフ・ベックを目玉とした「ワールド・ロック・フェスティバル」にプレイヤーとして参加]

 このツアーには、ニューヨーク・ドールズも招かれていた。

(略)

[記者会見で]俺は、当時こぐれひでこさんがやってた「2CV」というブランドの青いジャケットを着てたんだ。それを気に入ったドールズのメンバーが話しかけてきたことから、あっという間に俺は彼らと仲良くなったんだ。 

 話してみると、ルックスから受けるイメージとは違って、彼らはとにかく知的で紳士的なのよ。特に、ヴォーカルのデヴィッド・ヨハンセンとギターのシルヴェイン・シルヴェインとは意気投合して、在京中は、毎日のように俺が運転する車で東京を案内した。合羽橋とか築地とかに連れて行ったっけ。

(略)

 俺、この時に、ニューヨーク・ドールズへの加入の誘いも受けたんだ。「お前みたいなロックンロールピアノを弾けるやつはなかなかいないから、ニューヨークで一緒に活動しないか」ってね。

 ちょっと心は動いたけど、俺はハルヲフォンとして本格的にデビューを果たしたばかりだったから、日本で地に足を着けてやっていこうと思って、断っちゃったんだ。

(略)

[ジェフ・ベック]のバンドでドラムを叩いていたのが、手練れとして知られるバーナード・パーディ。俺が出番を終えて引き上げる時、袖でずっと演奏を観ていた彼が、声をかけてきた。

「お前のその腕前なら本場でも十分通用するよ。もしもアメリカに来る機会があるなら、仕事を紹介するから連絡をくれないか」と言って、名刺をくれたんだよね。

『COME ON, LET'S GO』

 当時の俺はT・レックスが好きだったから、その影響が如実に表れている。レコードという録音芸術においてしか表現できない人工的なサウンドのロックンロールをいかに作り上げるか。それがテーマだった。

(略)

トニー・ヴィスコンティのアレンジは、ストリングスが魅力的だったから。ただ、弦は人数が要るからお金がかかるじゃん。なのでそれはあきらめて、ソリーナっていう弦の音が出るキーボードで代用した。

 当時の日本のロックバンドって、大体がギター中心なんだよね。キーボード、特に生の入ってるバンドが少なかった。俺はもともとトラフィックにいた頃のスティーヴ・ウィンウッドからすごく影響を受けてたから、彼のような生ピアノを、人工的なロックンロールに採り入れたかったんだ。

 あとは、「まさかあの曲をパクってこういう曲にはしないだろう」という意外性ね。例えば「秘密のハイウェイ」は、バリー・ホワイトの「Never Never Gonna Give Ya Up」をロックンロール化したらどうなるかという発想から作られている。

 「秘密のハイウェイ」に関しては、ムロタニ・ツネ象の『地獄くん』という漫画で、主人公が霊柩車に乗って高速道路を疾走していた絵がイメージの源になっているんだ。ラブロマンスの形態を取りながら、デヴィッド・クローネンバーグの映画やJ・G・バラードの小説がはらむ不気味さを表現したつもり。

(略)

 詞も独自なものだったと思う。当時の日本語のロックには、都会的なモチーフを歌ったものがほとんどなかった。だからハルヲフォンでは、俺がずっと観察してきた東京の夜の遊び人の生態を皆様にご報告申し上げたいという気持ちが強かった。つまり、自分だけが透明人間になって、周りのみんなが遊んでるのを横で眺めてる感覚だね。

 昔から、俺が歌いたいのはあくまでも客観的な景色。自分の体験を歌いたいわけじゃないんだよね。だって、「俺が俺が」っていう歌って面倒くさいじゃん。「はいはいはい」って聴き流したくなるよ。だから、俺の書く歌詞は、たとえ一人称であっても三人称の色が濃い。そう考えると、元来、俺の体質はヒップホップ的じゃないのかもね。

 表題曲の「COME ON, LET'S GO」は、洋楽のカバー。オリジナルはリッチー・ヴァレンスだけど、俺たちはマッコイズ のヴァージョンで演奏した。恒田に「変拍子が交じってて、アルバム全体を貫くテーマになり得るような曲って何かないかな?」って水を向けたら、この曲を提案してくれたんだ。あいつ、本当に洋楽に詳しいからさ。恒田は、俺の考えに対して、全然違う角度からアイデアをねじ込んでくるんだよ。

オールナイトニッポン、『電撃的東京』

[歌謡曲にハマった小暮徹の]

強力な影響をもろに受け、ハルヲフォンは、楽器車での移動中もカーステレオで郷ひろみや平山三紀といった歌謡曲ばかりを大音量で聴きまくっていた。

(略)

[オールナイト第二部に起用される]

 俺は郷ひろみにすごくハマってたじゃん。だから、ラジオの番組やるんだったら、もうガンガン郷ひろみかけちゃおうと思ってさ。オーディション用に本番さながらに録音したテープで郷ひろみについて熱く語っていたら、それが妙にウケたらしくて、オーディション通っちゃったのよ。ロックミュージシャンが歌謡曲を歌う男の子のアイドルに詳しいなんて、当時はありえなかったからね。

 郷ひろみ特集を毎回やっていたら、スポーツ紙が大きく採り上げてくれて、俺の知名度が急に上がったんだよ。タレントとしての近田春夫をブレイクさせたのは「オールナイトニッボン」であることは間違いない。

 はっきりと物を言うミュージシャンというパブリックイメージも、あの番組から生まれたと思う。だって、「この曲嫌いだからやめよう」なんて言ったり、ひどい時には「歌はいいんだけど、顔がひどいからやめよう」とか言って曲を途中で止めたりしてたから。今だったら問題になるよな。

 とにかく、2時間にわたって、ひたすら歌謡曲をかけまくり、ハルヲフォンの高木さんと一緒に好き勝手しゃべりまくっていた。ひどい時には1回の放送で100曲ぐらいかけたから。

 番組が始まるのは午前3時なのに、前の日の午後3時ぐらいから俺と高木さんのふたりでニッポン放送に行って、レコード資料室に入り浸ってたのよ。

 あそこには、本当にカスみたいなレコードが、封も開けずに積み上げてあったんだ。「セックス」っていうタイトルのシングルとか、よくこれ本気で作ったなってのが山ほどあって、そんなのを見つけるとうれしくなっちゃってさ。まさに、今のDJが言うところの「掘る」っていう感覚だよね。

 すでに知っていたヒット曲でも、聴き直してみると「これ、今さらながらにすごいよね」という再発見もあったりしてさ。

 

 

 これまでの2枚のアルバムが全然世間から受け入れられなかったから、拗ねたわけじゃないけど、オリジナル曲を作るのが面倒くさくなっちゃってさ。当時、俺たちが凝っていたパンクと歌謡曲、そのふたつを合体させちゃえばいいんじゃないかと思いついたわけ。

 ヒントになったのは、シド・ヴィシャスがカバーした「My Way」。あれを聴いて、どんな歌謡曲セックス・ピストルズみたいにアレンジすれば簡単に演奏できることに気づいたの。それだけの話。

『ハルヲフォン・レコード』を出して以降、ライブにおける演奏スタイルは、完全にパンクへと移行していたんだ。

(略)

 ニッポン放送の何かの番組の公開録音でも、「ブルドッグ」を演奏した。その番組の司会のおりも政夫さんは元フォーリーブスだから、あれを聴いてずいぶん驚いたらしい。

 

 その結果、78年6月にリリースされたサードアルバム『電撃的東京』は、ほぼ全曲が歌謡曲のカバーで占められることになった。

(略)

 ピストルズを聴いていろいろと研究してさ。小林曰く「「Anarchy in the UK」の♪ジャンジャンジャンジャンジャンジャンジャンジャンっていうあのギターは、同じフレーズを5回以上かぶせてるに違いない、そうじゃなきゃあんな音にはならない」。だから、その通りにダビングレた。

 後になって、何かの雑誌でピストルズのプロデューナーだったクリス・トーマスのインタビューを読んだら、小林の推理は当たってたのよ。ところがピストルズの方が、ギター重ねた回数は多かった。こっちはまだまだだったよ。

(略)

 パンクと同時に歌謡曲にも夢中だったから、ベースに関しては、歌謡界の第一人者である江藤勲さんというスタジオミュージシャンのプレイを追求した。とにかく、わけが分かんなくてすごい音なのよ。アタックのところだけものすごくピシッというのに、後の部分はブオンッと鳴る。お麩に針を刺すみたいだから、俺たちは「オフハリベース」って呼んでた。結局、あの音に到達することは叶わなかったな。

『天然の美』、楳図かずお

つまり、このアルバムが職業作家としての名刺代わりの役割を果たすことを狙ったわけ。それに加え、このやり方だと、全部の作業を自分で抱え込むのと比べたら労力が3分の1で済むなという甘い目論見もあった。

 そんなことを考え始める少し前、それまで面識のなかった細野晴臣さんと知り合ったんだ。何しろ、俺は内田裕也の一派にいたもんだから、はっぴいえんど側の人たちとはあんまり縁がなかったのよ。

 「DON DON」という雑誌の対談で顔を合わせてみたら、お互い想像していたのとは違ってすごく話が合ってさ。「今、何やってるんですか?」と尋ねると、「コンピューターで音楽を作ってるんですよ」って。正直、その場では何言ってるのか意味がよくつかめなかったんだけど、「じゃあ、そのコンピューターとやらでアレンジをお願いできますか」と頼んだら、快くOKしてくれたのよ。

 その対談の際に渡してくれたのかどうかは忘れたけど、「パシフィック」というLPがあって、俺、これにハマっちゃってさ。細野晴臣山下達郎鈴木茂が参加したインストゥルメンタルのオムニバスで、YMOの「コズミック・サーフィン」の原型が収録されてるんだ。これを、当時発売されたばかりのウォークマンで聴くとすごくよくってね。

 コンピューター音楽の何たるかをその時点では理解していなかったんだけど、ジョルジオ・モロダーは好んで聴いていたんだ。あくまでも、テクノポップというカテゴリーが生まれる前のミュンヘンディスコとしてね。後になってから、YMOとはつまりジョルジオ・モロダー寺内タケシとブルージーンズであることに気づいたんだけどさ。

 そんな経緯があって、『天然の美』には、デビュー間もないイエロー・マジック・オーケストラがアレンジと演奏で4曲に参加している。(略)あの頃はまだ、ブレイクする前の地味な時期だったからね。(略)

高橋幸宏は以前から知ってたのよ。立教高校では、ハルヲフォンの恒田の後輩で高木さんの同級生だったから。それに、幸宏のお兄さんの高橋信之さんは、俺にとって慶應の先輩だったし、成毛滋さんと一緒にフィンガーズというバンドを組んでいたしね。

(略)

 レコーディングはとにかく大変だった。機材が未熟だから、今だったら5分でできちゃうことが、3日ぐらいかかるわけ。8割方の作業は、コンピューターやシンセサイザーに関する準備やトラブル解消に費やされた。

 プログラマー松武秀樹さんがずーっといろいろいじってるから、しびれを切らして「そろそろですか?」って聞くと、「まだ音が出ないです」って言うんだもん(笑)。もう人間が演奏しちゃった方が早いからって、坂本が手弾きしたことがずいぶんあったよ。

(略)

「エレクトリック・ラブ・ストーリー」(略)編曲は、A面がYMOで、B面が若草恵さん。(略)

 若草さんに関しては、加苗千恵の「東京チカチカ」という曲に衝撃を受け、仕事をお願いしてみた。「東京チカチカ」がいろんな要素を盛り込みすぎた変な曲だったんで、これはふざけた人に違いないと思って会ってみたら、普通に折り目正しい人でさ。あの編曲は、大真面目にやってたことが判明した(笑)。

 それで、「可能な限りくどいアレンジにしてください」と頼んだら、真っ正面からこちらの意を汲んで、本気で手間のかかった、音数の多い曲に仕上げてくれた。さすがにあのスコアは、本物のプロじゃなきゃ書けないよ。俺、いまだに心からすげえと思うもん。

(略)

[楳図かずおと縁が生まれたのは『まことちゃん』]一家がテレビを観ているシーンで、ブラウン管にイルカとクールスとハルヲフォンの演奏シーンがよく映し出されるのよ。この3組が好きって、バランスがどうもおかしいじゃん(笑)。

 すごく気になったから、ハルヲフォンが杉並公会堂で最初のワンマンコンサートをする時に、楳図さんにゲストに出てもらったんだ。(略)

最初に楳図さんの作詞家としての才能に驚かされたのは、75年に発表された『闇のアルバム』を聴いた時のこと。全編、作詞・作曲・歌唱は楳図さん本人で、その世界は、まるでデヴィッド・ボウイが歌うような虚無感に覆われている。

 その次の年、またもや楳図さんの詞にうならされたのが、郷ひろみの「寒い夜明け」。これってつまり、ナンパか何かして引っかけた女の子と円山町辺りのラブホテルに泊まった後に、渋谷駅まで彼女と歩いてそのまま一夜限りの関係で別れちゃう翌朝の情景を、男の視線から都合よく奇麗事として描いている。この絶望感ったらたまらないのよ。よくこんなつらい世界を描けるなと思うよ。

 だから、自分がソロを作る時は、絶対に楳図さんに歌詞を書いてもらいたいと考えていた。「エレクトリック・ラブ・ストーリー」は曲が先にできた。何の意味もない曲名はあらかじめ俺が決めていたんだけど、それにぴったりの素晴らしい歌詞をはめてくれた。自分の確信は間違ってなかったと思ったよ。

(略)

さて、『天然の美』を聴いたレコード会社のディレクターたちから、俺に作詞や作曲、編曲のオファーが押し寄せるようになったかというと、別段そんなことはなくてさ。しかも、レコード評を読んでも、アルバムのコンセプトを理解してくれるものは皆無だった。残念ながら、誰もそこには興味がなかったんだよな……。 

ジューシィ・フルーツ」 

『天然の美』で世間の手応えをつかむことができなかった俺は、改めてバンドを組みたいと思い立ち、その直後に「近田春夫&BEEF」というグループを結成する。

(略)

ところが、目の前にひとつ、問題が横たわっていた。俺はキングとの契約期間満了を待たずにコロムビアに移ったんだけど、そういう場合は会社間に紳士協定があって、移籍後半年間は新しい所属先からレコードが出せないことになってたんだよ。「じゃあ、とりあえずバックのメンバーだけを使ってレコード出して、その後でバンドを組み直してデビューすればいいじゃん」と言い出したのが、コロムビアの担当ディレクターだった三野明洋さん。(略)

ちなみに三野さんは後年、JASRAC の独占市場に風穴を開ける形で、イーライセンス(現・NexTone)という著作権管理会社を設立することになる。それで、イリア、沖山、高木、柴矢の4人が「ジューシィ・フルーツ」を名乗って一足先にデビューすることが決まった。

(略)

 俺は、ジューシィにはプロデューサーの立場で関わることになり、ヴォーカルには、急遽イリアさんを立てることになった。彼女、前のバンドの時は歌ってなかったのよ。(略)

 そんなわけで、俺はイリアさんが歌うのを聴いたことがないままデビューシングルの「ジェニーはご機嫌ななめ」を書いちゃったから、彼女がいざ歌おうとしたらキーが高すぎた。これからカラオケ作り直すのも大変だなと思って、地声じゃなくファルセットで歌ってもらったんだ。ずいぶん杜撰な話だよ(笑)。

(略)

元ネタがいっぱいある。まずはブロンディの「One Way or Another」。〈ゲチャゲチャ〉〈ミチャミチャ〉と聴こえるところを〈イチャイチャ〉に引用している。そして、シンセのリフはT・レックスの「Telegram Sam」のギターのリフを移し替えている。サビの〈抱き合って眠るの〉というメロディーは、沢田研二の「恋のバッド・チューニング」から。そして、間奏のツインギターは、エアプレイのジェイ・グレイドンがひとりでギターを被せるあの感じを表現してみた。当時、ジェイ・グレイドンがプロデュースしたマンハッタン・トランスファーの「Twilight Zone/Twilight Tone」っていう曲がすごく好きでさ、BEEFのライブでもカバーしてたんだ。

 だから、「ジェニーはご機嫌ななめ」はしばしばテクノポップみたいに言われたけど、テクノでも何でもないわけよ。実際は、オールディーズにちょっとフュージョンを混ぜただけなんだよ。

 あの曲が思いがけずヒットしたもんだから、ジューシィはそのまま続けていくことになり、BEEFの構想は頓挫しちゃったんだ。

田原俊彦

 この辺から、歌謡曲の職業作家としての仕事が増えてくる。ジューシィ・フルーツのヒットが評価されたゆえのことだと思う。

 80年の夏には、トシちゃんこと田原俊彦のデビューアルバム『田原俊彦』収録の2曲において作詞・作曲・編曲を行っている。ここには、「田原と近田春夫のパンク・ジョーク」というおしゃべりも収められているんだ。

 ただ、トシちゃんがブレイクする直前のこの時期はジャニーズ の低迷期だったから、売れっ子の作家が仕事を引き受けてれなかったんじゃないかと邪推してるんだよ。だって、打ち合わせのため、ジャニーさんとメリーさん本人がわざわざ俺ごときの作業してるスタジオまで来たんだから。どれだけあの事務所が停滞してたか分かるでしょ(笑)。

ベンチャーズ

 この時期、サポートミュージシャンとして行った仕事の中で思い出深いのは、80年夏に開催されたベンチャーズ の日本公演に参加したことだね。

 このコンサートは、同年にリリースされた『カメレオン』という日本独自企画のアルバム発売に伴う興行だった。加藤和彦さんがプロデュースしたこのLPでは、YMOの3人や鈴木慶一、梅林茂、今井裕竹田和夫らが楽曲を提供している。巻上公一をヴォーカルに迎えたヒカシューの「パイク」のカバーも収められているんだ。

 そのツアーの数本に、俺はハモンド奏者として迎えられたわけ。何しろ子どもの頃からベンチャーズの大ファンだったから、とにかくまあ、うれしかったよ。

 セットリスト中に、「Hawaii Five-O」というヒット曲が含まれていた。ホーンセクションが主旋律を奏でるため、ライブではそのパートだけをテープで流すんだけど、恐ろしいことに、その音源にはただ単にホーンのメロディーしか入っていない。なのに、ドラムスのメル・ティラーは、ヘッドフォンもつけず、クリック音も聴かずに、楽勝でビートをキープしちゃうんだよ。

 メンバー全員、最初から最後まで演奏がずれなかったからね。リズム感が異常に優れてるのよ。今のバンドって、イヤーモニターで音を取らないと演奏できないじゃん。

 楽屋でいろいろと話が聞けたのも楽しかったな。彼らは日本全国を隈なく回ってるから、地方の美味しいものに詳しいわけよ。日本人の俺でも知らない各地のグルメ情報を伝授してくれたね。

(略)

[ベンチャーズが楽曲提供した]渚ゆう子の「京都の恋」に関して、興味深い事実を教えてくれたんだよ。

 あのメロディーは、ローリング・ストーンズ の「Paint It, Black」をパクったっていうんだ。考えてみれば、♪ラシドレドシラ~って、確かに一緒なんだよ。それを、ベンチャーズのメンバーが目の前でニコニコとギター弾きながら説明してくれる。これ、一生忘れられない経験だよ。

 俺、どの曲がどの曲をパクったかに関しては誰よりも目端が利く人間だと自負してたから、こんな大ネタ中の大ネタに気づかなかったことが悔しくってさ。鼻っ柱をへし折られた気がしたな。

次回に続く。