デヴィッド・ボウイ 無を歌った男 田中純

デヴィッド・ボウイ 無を歌った男

デヴィッド・ボウイ 無を歌った男

  • 作者:田中 純
  • 発売日: 2021/02/18
  • メディア: 単行本
 

〈フリー・フェスティヴァルの思い出〉と〈白鳥の雛委員会〉

 〈フリー・フェスティヴァルの思い出〉のオプティミズムには、アーツ・ラボの活動にボウイが託したであろう夢や理想が投影されている。しかし、秋にこの歌がレコーディングされたとき、そこにはすでに深い幻滅が伴っていた。同じアルバムのなかでその幻滅を如実に表している曲が〈白鳥の雛委員会 Cygnet Committee〉である。

(略)

 ボウイは対抗文化や反体制活動の政治的信条を信じていない。その意味で彼は左翼的な政治革命を志向してはいない。「いったいきみは何を信じたいというのだい?」と問われて彼は、「ぼくは人びとが自分たちが何のために闘っているのか、なぜ自分たちが革命を望んでいるのかわかっていたと信じたいよ」と答えている。

(略)

しかし、このひとたち――彼らはとても無感動で無気力だ。ぼくの人生で出会ったもっとも怠惰な連中さ。彼らは自分たち自身で何をやったらいいかわからない。年がら年中、どうすればいいか彼らに教えて面倒を見てやらなければならない。彼らは言われた通りの格好をして、言われた通りの音楽を何でも聴くんだ。

 

 これはベッケナム・アーツ・ラボでのボウイ自身の苦い経験の吐露だろう。そこは結局、共同的で相互啓発的な芸術・文化創造の場ではなく、ボウイのファンなど、受け身の追従者たちの集まりにしかならなかった。この22歳の青年は、自分が関わった活動から身に沁みた教訓を伝えるように、「音楽を選ぶ能力のない人びとを教育することなど不可能だ。他人にしてやれることなどない。彼らは自分でどうにかしなければならない」と語っている。〈白鳥の雛委員会〉の疲弊した辛辣な「思想家」の姿には、ボウイみずからが味わった徒労感もまた反映しているに違いない。

(略)

同時代、同世代の大衆に絶望して、その絶望の果てにボウイが見てしまうものは、子供たちの亡骸が路上に散らばる「荒れ果てた通り」の血塗られたディストピアという破局的な光景である。そこにヒッピー的な弛緩した楽天主義は皆無であり、左右いずれの政治イデオロギーへの信仰もない。しかし、通常の意味での政治革命を退けながらも、彼が何らかの「革命」をどこかで希求していることも事実なのである

『世界を売った男』 

   この時期のボウイはアンジーと過ごす時間が多く、スタジオにはしばしば不在だったため、曲のコード進行をヴィスコンティとロンソンがまず決めてしまい、ボウイがあとからそれに歌詞とメロディを付ける場合が多かったという。したがって、スタジオでの即興による部分もまた増えることとなった。

(略)

ボウイが繰り返し唱える「ぼくはコントロールをけっして失わなかった」という言葉は、ボウイとジョーンズという分身同士の相互的な「コントロール」に関わっているに違いない。言うまでもなく、それはトム少佐から開始されたボウイにおけるキャラクター・イメージのコントロールにも及ぶ。そしてこのコントロールは「売ること」のビジネスと切り離しえない。

 ボウイにおいてキャラクター・イメージの戦略は二重化している。ドゲットが指摘しているように、すでに「デヴィッド・ボウイ」そのものが「デヴィッド・ジョーンズ」とは区別される架空のキャラクターである。「ボウイ」はさらにこのキャラクターが演じる複数のキャラクターを発明してゆく。それは付け替えられる仮面である。『世界を売った男』発売後にアメリカでなされたインタヴューで、ボウイはこんな発言をしている――

 

音楽が言っていることはシリアスかもしれないけれど、ひとつのメディアとしてはあまりシリアスに問われたり、分析されたり、受け取られたりすべきじゃない。それは安っぽく着飾り、娼婦になって、それ自身のパロディと化すべきなんだ。それは道化であり、ピエロ的メディアであるべきだ。音楽とはメッセージが付ける仮面だ――音楽とはピエロで、パフォーマーであるぼくがメッセージだ。 

『ジギー・スターダスト』

 ボウイにとってジギーというキャラクターは本来、ロック・イデオロギーに対して距離を確保するための虚構だった。彼はこう述べている――

 

要は虚構という発想、しかもそれがポピュラー・カルチャーの中でどれほど巨大に膨れ上がったかっていうことだったんだ。リアリズムだとか誠実さなどといった60年代後半に出現した物事が、70年代に入っていくにつれて、多くのすれっからしの人たちにとってはまったくうんざりするようなものでしかなくなってしまったわけでね。(略)とにかく、まったくこの世のものとも思えない非現実的な虚構を作り上げ、そしてそれを更に生きる偶像として奉ってしまったら本当に面白いだろうなと思ったんだ。ジギーのストーリーはだから、元はそういう発想から生まれたものだったわけさ。

 

 ところが、ボウイ自身がこれに先立つ『ハンキー・ドリー』で歌っていたように、銀幕としての虚構であるジギーと現実のボウイとは区別がつかない。ジギーとボウイ、虚構と現実のあいだのアイロニカルあるいはシニカルな距離は維持しえない。その差は実際には無なのである。その結果、ボウイが演じるジギー・スターダストという分身とボウイ自身とのあいだには著しい混乱が生じる。ロック・イデオロギーを信じることなくロック・スターを演じようとするボウイは、その演技によって逆にロック・イデオロギーに囚われてゆく。「自分の自我とセックスして/自分の魂のなかへと吸い込まれた」ジギーのように、ボウイはジギーという分身と自己自身との境界を見失い、両者が無限に反射し合う悪循環のなかに閉ざされてしまう。のちに語られたところでは、ジギーに夢中になったボウイはこのキャラクターに取り憑かれ、とりわけ最初の全米公演では「自分はメシアなのだ」と確信させられるまでになったという。

 1990年に行なわれたインタヴューでボウイは1970年頃を回想し、当時自分には何の実体もないように、自分を透明に感じていたと述べた――「とくに「自分」という感覚がまったくなくて。周りから部分部分を引っ張り集めては、それを自分に貼りつけていかないと自分という人間が作れないように思えてしょうがなかったんだよ」。彼はさまざまな分身をブリコラージュによって構成し、その分身という他者に同一化してゆくことで、ようやく自己同一性を獲得することができた。したがって、ジギーという可塑的な分身イメージに埋没することは、ボウイにとってむしろ避けがたい過程だったのかもしれない。

 1947年生まれのボウイは、ビートルズのメンバーと比べれば4~7歳、ザ・フーピート・タウンゼントよりは2歳若いにすぎない。しかし、ミュージシャンとして広く認知されるまでにかかった時間からすれば遅咲きと言うべきだろう。

(略)

ボウイは遅れてやってきてしまったロック・スターである。(略)『ジギー・スターダスト』はこの遅れゆえに可能になった、メタ・ロック的なロック・アルバムであり、ロック・スターをめぐる神話の構造を意識的に活用した口ック・スター創造の実験である。

(略)

 必ずしも明確なコンセプト・アルバムではない『ジギー・スターダスト』が暗示していたジギー神話を、ボウイはのちのインタヴューで或る程度整合的に語り直している。そのような自己解説としては、1974年2月に『ローリング・ストーン』誌に掲載されたウィリアム・バロウズとの対談における発言がとくに詳しい。

(略)

 天然資源の枯渇によって、地球があと5年で終わりを迎えるという報道がなされる。ロックンロール・バンドの一員であるジギーは夢のなかで、宇宙を旅する「無限者たち」から、スターマンの到来を歌にするよう命じられる。無限者たちは〈ロックンロールの自殺者〉が演奏されているあいだにステージ上のジギーをばらばらに引き裂き、その断片を摂取することにより、元来は非物質的な自分たちの軀を実体化させ眼に見えるようにする――。

 ここで注目したいのは、この構想のなかで無限者たちがジギーに「ニュースを集めて歌え」という命令を与えている点である。ボウイはこう語っている――「〈すべての若き野郎ども〉はこのニュースをめぐる歌です。それは、人びとが思っているような、若さの讃歌ではありません。そのまったく逆です」

アラジン・セイン』 

 1972年9月、ボウイとアンジーはクイーン・エリザベス二世号でニューヨークに向かう。7月の飛行機による移動で乱気流に巻き込まれて以来、ボウイは死への恐怖から飛行機に乗ることをきっぱりと止めていた。9月下旬からはジギー・スターダストとそのバンドの全米ツアーが始まる。

(略)

ボウイと少人数の同行者は北米大陸をグレイハウンド・バスや列車、車で移動した。この旅のあいだ、時間的な余裕を得たボウイは、行く先々で曲の着想に恵まれ、次々と作品を生み出していった。たとえば、〈あの男に注意しろ〉はニューヨークでニューヨーク・ドールズのコンサートを観たあとに書かれ、〈ジーン・ジニー〉はクリーブランドからニューヨークへの移動の過程で書き始められたのち、ニューヨークで完成された。〈デトロイトでのパニック〉とはタイトルにある都市を舞台とし、〈気のふれた男優〉はロサンゼルスで書かれ、〈ドライヴインの土曜日〉はシアトルからフェニックスに移動する際に眼にした光景を着想源にしている。アルバム『アラジン・セイン』に収められたこれらの曲は、異邦人によるアメリ旅行記なのである。

(略)

1972年の11月、シアトルからフェニックスへ向かう夜行列車(略)寝付けなかった彼は、荒涼とした土地を走る列車の車窓から、月の光に照らされている17、8の銀色の巨大なドームを眼にした。それはボウイに、核攻撃によるカタストロフィののちのアメリカやイギリス、あるいは中国の光景を想像させたという。そこでは放射線が人びとの精神や生殖器官に作用した結果、彼らはもはや性の営みをもたず、セックスについて学ぶ唯一の方法は、かつてそれがどんなふうに行なわれていたのかを記録した映画(つまり、ポルノ映画)を観ることだけになっている。そこに残されているのは、〈火星に生命?〉や〈流砂〉で語られていたような、すでに繰り返し上映された映画としての現実を生きるしかない退屈な日常である。

 この歌を初披露したライヴで、ボウイはその舞台となる時代は2033年であると観客たちに告げている。

(略)

 1993年のインタヴューでボウイは、アメリカとは自分が思い描いてきた「もうひとつの世界」そのものだったのであり、彼がその世界に夢見た暴力や奇妙さ、突拍子もなさといったもののすべてを備えていた、と語っている――

 

突如として、ぼくの歌の数々がそれほど場違いには思えなくなった。ぼくらが遭遇した状況のすべて、ぼくが聞いた意見のすべて、ぼくの耳を捕らえたリアルなアメリカらしさといったものをちゃんと書き留めておいた。デトロイトのような場所の光景がまさにぼくの想像力を心底捕らえた。なぜなら、あそこはあんなふうに荒っぽい街だったし、ぼくが書き綴ってきたたぐいの場所に、ほぼそっくりだったのだから。ぼくは思った、「なんてことだ、こんな場所がほんとうにあって、ひとがそこで暮らしているなんて!」とね。「キューブリックはこの町を見たことがあるのかな」とも思った。そこは彼の『時計じかけのオレンジ』の世界を一種ヤワなものに感じさせるんだ!

(略)

「誰がアラジン・セインを愛するのだろう?」とボウイは問いかける。1920年代の「陽気な若者たち」ではなく、1970年代の「気のふれた若者(ア・ラッド・インセイン)」を愛することになるのは誰なのか、と。

(略)

ボウイが歌い始めるとともに、ガーソンのピアノもまた、グリッサンドを交えながら、より自由で華麗な展開を開始する。それが最高潮に達するのが、ほとんど1分半に及ぶ圧倒的なピアノ・ソロである。

(略)

 スタジオでこの曲を録音する際、ガーソンはボウイからとくに何の指示もないまま、まずブルース風に弾いてみたという。それはボウイに却下されてしまう。ラテン風に弾いても駄目だった。ボウイは、1960年代のアヴァンギャルド・ジャズ・シーンで弾いていたものを演奏してみてくれ、と告げる。そのスタイルで演奏したソロが〈アラジン・セイン〉に使われており、それは一音も変えることなく、まったく編集もされていないという。ガーソンはこのソロ演奏についてみずから「不協和音的、叛乱的、無調で、かつ、とても「外部的(アウトサイド)」であると語っている。

『ダイアモンドの犬たち』 

 1976年のラジオ・インタヴューでヴィスコンティは、ボウイの考えていたダイアモンドの犬たちとはこの世で最後のロックンロール・グループであり、同名の歌の映像化にあたっての或るヴァージョンでは、この犬たちが現実に人びとを喰らうか、舞台上で彼らを殺戮するか、あるいは、観客目がけてマシンガンを乱射することになっていたと語っている。「これはロックンロールじゃない――これは大量虐殺だ」という叫びの文字通りの実現である。

(略)

ボウイは1976年に、アドルフ・ヒトラーは最初のロック・スターのひとりだと語っている――

 

彼が映っている映画を見て、彼がどんな動きをしているかに注目してごらん。まったくミック・ジャガー並に素晴らしいと思うよ。(略)

政治と演出技術を駆使して、12年間もショーを支配掌握していくだけのものを創造したんだ。二度とああいう人間は現れないだろう。彼は一国を演出したんだ。

 

 これはボウイが「自分はファシズムを信奉している」と語り、「ロック・スターはファシストだ」と断言しているインタヴューにおける発言である。

(略)

「ダイアモンドの犬たち」ツアーのステージ・セットのキーワードのひとつがナチの党大会が開かれた都市の名「ニュルンベルク」であったことは、ヒトラーによる演出をボウイがコンサートに利用できると考えたことを示している。ジーバーベルクにとって映画がそうであったように、当時のボウイにとってロック・コンサートは、20世紀のヴァーグナー的総合芸術作品だったのではないか。そして、『ダイアモンドの犬たち』とそのツアーの構想においてボウイは、そうした総合芸術作品の理念におそらくもっとも接近していた。

 『ダイアモンドの犬たち』はそもそも『1984年』における社会主義体制下の政治的抑圧の告発から出発していた。しかし、ボウイが自分のオブセッショナルなポスト黙示録的イメージを追求しているうちに、それはナチにおける「政治の美学」に近づいてしまうような、政治的暴力や恐怖をめぐる審美的ヴィジョンを志向するようになる。

(略)

 ボウイが『ダイアモンドの犬たち』で辿り着きつつあったのは、ロックンロールには本質的にナチズム、ファシズム的な要素があるという認識だったように思われる。

(略)

「これはロックンロールじゃない――これは大量虐殺だ」というボウイの叫びは

(略)

ボウイみずからのオブセッションの内奥に潜んで蠢いている政治的情動を感じ取ったがゆえの、アルバムの内側から発せられた警告だったのかもしれない。

 だがそれは同時に、ロックンロールがロックンロールでしかないことに対する苛立ちの表現でもあったように思われる。

(略)

「ロックンロールになどまるで関心がない」と言い切るボウイという非ロック的ないしメタ・ロック的なロック・スターが「ロックンロール」なるものと取り結んできた矛盾と葛藤に満ちた関係を知るわれわれには、これがその二者間の尋常ならざる緊張関係のなかから生まれた、ロックがロックならざるものになろうとする運動を指し示す徴候であるように思われてならない。

 〈ヤング・アメリカンズ〉、フィリー・ソウル

[オレアリーは]当時のボウイにとってフィリー・ソウルは大衆の欲望に訴えかける(略)「ひとのもっとも深く激しい願望を弄ぶ野心的な都会の音楽」だったのではないかと指摘している。

(略)

ボウイが魅せられたのは、1970年代初頭の全盛をきわめていたフィリー・ソウルの、サウンドのみならず、ファッションまで含めた総合的なイメージ戦略だった。その時代背景は、黒人たちの音楽がブラック・パワーを可視化する強力なメディアとなった1960年代とはまったく異なっていた。ドゲットはその点について次のように述べている――

 

黒人解放運動が政府の秘かな干渉(ニクソン政権の悪名高いコインテルプロ活動)によって崩壊させられてはじめて、アメリカ各都市のゲットーには安物のヘロインやコカインが溢れかえり、1970年の革命は『黒いジャガー』や『スーパーフライ』といった映画におけるシックな「ブラックスプロイテイション」に再パッケージ化され、合衆国のソウル文化は現実逃避や享楽主義に後退してしまい、ファンクの正当な爆発はダンス・フロアでリズムを刻むディスコのメトロノームに取って代わられたのである。

 

 それはポスト革命期の時代性であり、そこに孕まれているニヒリズムはボウイにとっておのれの問題でもあった。そして、フィラデルフィア・ソウルがそうした革命後の文化的空虚ゆえの産物であったとして、ボウイが強く反応したのは、まさにその虚無ゆえの「輝き」であったように思われる。ボウイは自分の歌うソウルが、真正で正当なファンクの革命的爆発からはほど遠い、まがい物でしかありえず、作り物のソウルにとどまることを、その魅力ゆえの危険性を含めて自覚している。しかし、虚無から出発して虚無に帰るような、徹底した作り物として組み立てられた歌であるからこそ表わせる時代の表情を、ボウイはフィリー・ソウルの形式を通じてとらえようとしているのである。

 その成果がアルバムのタイトル・トラック〈ヤング・アメリカンズ〉である。

『地球に落ちて来た男』

ボウイ自身がそのつもりで、撮影終了後の9月以降、次のアルバム『ステイション・トゥ・ステイション』のレコーディングと並行し、映画用の音楽作りに取り組んでいる。パートナーとなったのは〈スペース・オディティ〉でチェロの演奏とストリングスのアレンジを担当したポール・バックマスターだった。12月にはそのレコーディングが行なわれ、数曲のテープが作られた。だが、ローグがこの映画のためにいかにもアメリカ的なポピュラー音楽を使いたいと考えたことを大きな理由とし、契約上のいざこざがあってボウイの側も手を引くことにしたため、彼の作曲した曲が用いられることはなかった。

 ボウイが映画のために作った曲はそのままのかたちでは公開されていない。ボウイや関係者たちによれば、『ステイション・トゥ・ステイション』や『ロウ』の〈地下の人びと〉などにその一部が用いられているという。バックマスターによれば、ボウイが歌も歌った優しく哀愁を帯びた曲があり、〈ホイールズ〉というその題名は異星の砂漠を走るモノレールの列車を意味していた。なお、のちに『ロウ』が完成したとき、ボウイはローグにこのアルバムを送り、「これが映画用に自分の考えていた音楽だ」と伝えたと言われる。

 『ステイション・トゥ・ステイション』と『ロウ』のジャケットにこの映画のスティル写真が使われていることも表わすように、『地球に落ちて来た男』はボウイの創作活動に多大な影響を与えた。

 『ステイション・トゥ・ステイション』 

あのアルバム(『ステイション・トゥ・ステイション』)と『ヤング・アメリカンズ』の大部分は、どうにも陰鬱な気持ちになるばかりだっていうのに。(略)

ぼくの精神状態はほんとうに悲惨だった。自分がまだ ロックンロールの世界にいることに、とにかく頭に来ていたんだ。

 しかも、ただそこにいるだけじゃなく、いつの間にかその中心に巻き込まれていることに対してもね。ぼくはあそこを離れなきゃいけなかったんだよ。こんなにもロックンロールに深入りする気なんていっさいなかったんだから――それなのにぼくはロサンゼルスみたいな、その真っ只中にいたんだ。

「ロックンロールが本来の約束を果たしていないことは明白だ」

『地球に落ちて来た男』の撮影中と思われる時期のインタビューで彼は、ロックの社会的役割とその終焉、ロックそのものの老化と死について明晰かつ辛辣な診断を下している。「ロックンロールが本来の約束を果たしていないことは明白だ」と彼は言う。この「本来の約束」とは何か――

 

この世に登場した当時のロックンロールの本来の目的は、他のメディアに入り込んだり、影響力をもったりするための権力や利点をもたない人びとのためのオルタナティヴなメディアの声となることだった。そしてまったくダサいことに、人びとは本気でロックンロールを必要としていた。そしてぼくらが言ったのは、自分たちが置かれている状況に対抗して自分たちの強い主張を言い表わすために、ぼくらはロックンロールを利用していただけだった、ということだ。

 

 ロックンロールをスプリングボードにして、「ぼくら」は世のなかをいまの状態から変えるために何かしようと「約束」したのだ、と彼は言う。しかし、ロックンロールはもはや、あらたな「回転し続ける神」と化してしまったとボウイは断言する。それは商業的なサイクルのなかで自閉して、巨大なビジネスと化したロック産業を指す比喩であろう。いずれにしても、「ロックンロールは死んだ」

(略)

 イギリスの政治・社会状況全般においても、ロックにおいても、大きな転回点となる1975年から翌年にかけて、ボウイはいわばロックに内在する矛盾を一挙に解消することを求め、政治とロックとを半ば意図的に短絡させていた。コカインの常習による肉体的・精神的衰弱やナチへの関心と結びついたオカルトへの惑溺がボウイの挑発的発言の背景にあったことは否めない。

 

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プリンス録音術 レコーディング・スタジオのプリンス

ラジオからの影響

親戚の家をいくつか移り住んだ後、プリンスは親友アンドレの家族に引き取られた。

(略)

安定した生活を手に入れると、プリンスは落ち着きを取り戻した。

(略)

アンドレの母、バーナデッドはその後のプリンスにとって、最も「権威ある存在」になったという。「プリンスの人生の中でも、本当に素晴らしい出会いだった。彼女はみんなの母親だったんだ。勝手な行動はせず、手伝いをすることっていうのが彼女のルールだった。(略)

プリンスは『ミュージシャン・マガジン』誌で認めているように、昼夜を問わず、自由にミュージシャンとしての夢を追うことができた。しかしその代わり、普通のティーンエイジャーとしてのスケジュールに従わなければならなかった。「(略)あの家に住み続けた唯一の曲由は、アンドレのお母さんだ。彼女は僕に好きなことをさせてくれた、『あたしが気にしてるのは、あんたが学校を卒業することだけ』と言ってくれてたんだ」。家の地下に寝室兼練習場所をつくることをバーナデッドに許されると、プリンスとアンドレは最初のバンドを結成した。(略)当初、バンドはフェニックスと名づけられたが、その後グランドセントラルに改名される。アンドレは改名について、「プリンスの提案だったと思う。彼はグランド・ファンク・レイルロードに夢中だったんだ」と語っている。(略)

ジャクソン5を真似しようとしたんだ。プリンスは “I Want You Back”を歌っていて(略)ジャクソン5は大きなインスピレーションだったね。同年代だったし、自分たちは彼らに勝てると思ってた。(略)プリンスはスライ・ストーンとか、もっとへヴィなものも好きだった。プリンスが一番影響を受けていたのはスティーヴィ・ワンダーだ。スティーヴィの作品を愛していたけれど、『これなら俺だってできる!』なんて言ってたな。スライについても同じだ。

(略)

[プリンスはラジオからの影響についてこう語っている]

ミネアポリスは半年ほど流行から遅れていたけれど(略)夜の十二時を過ぎると、素晴らしい曲がたくさん聞けたんだ。いつも徹夜で聴いていたよ。そこでカルロス・サンタナやマリア・マルダー、ジョニ・ミッチェルを知った。影響を受けたかって?もちろんだ。当時はカルロスやボズ・スキャッグスみたいにギターを弾こうとしていたよ。(略)ジェイムズ・ブラウンは、僕のスタイルに大きな影響を与えた(略)もうひとりはジョニ・ミッチェル。色彩やサウンドについて多くを学んだから、彼女にはすごく感謝している」

セカンド・アルバム

[セカンド・アルバムのエンジニア、ゲイリー・ブラント談]

「プリンスは頭の中で全てをつくり上げていた。各パートのアレンジについても把握していたから、あとはテープに録音するだけの話だった。(略)

彼の楽曲はシンプルだったから、トラックの数はあまり必要なかった(略)」

(略)

驚いたことに、プリンスは二十四トラックあるブラントのスタジオで、十六トラックしか使わなかった。(略)

「ドラムが一番上手かった(略)圧巻のポケット・ドラマー (素晴らしいリズム感を持つドラマー)だった(略)」

プリンスのレコーディング方法は、その演奏と同様にユニークだった。(略)

「ピアノの下にブランケットを敷いて寝そべると、顔の真上にマイクを置くよう言ったんだ。彼のヴォーカルはすごく軽かった。

(略)

 プリンスは、レーベルにアルバムを提出する準備をしながら、末永く続くキャリアを見据えていた。「僕がビジネスマンであることをワーナー・ブラザーズに証明するために、金を稼がなくちゃいけなかった。ファースト・アルバムではスタジオで金を使いすぎてしまったから、レーベルには『子供が大人の仕事をしようとしてる』なんて思われていた。僕はとことん頑固だし、最高を目指すから、二度目こそはベストを尽くして、最小限の予算でヒットを出してやろうと努力したんだ。セカンド・アルバムには三万五千ドルかかったけれど、ファースト・アルバムはそれの四倍もの金がかかっていたよ」とプリンスは後年、『エボニー』誌に語っている。

『Dirty Mind』

 音楽的には恍惚を味わっていたプリンスだが、気分的には落ち込んでおり、レコーディング中にひとりで引き篭っていたのは、そのせいでもあると同じインタヴューで語っている。「『Dirty Mind』の頃、僕は鬱に陥り、体も壊してしまった。鬱の状態から抜け出せるよう、助けを求めなきゃならないほどだった。もう大丈夫だけどね

(略)

 サード・アルバムで、リリシストとして自分本来の声を見つけたプリンスは、クリエイティヴなパワーを感じていた。「『Dirty Mind』をレコーディングすることでわかった(略)思ったこと、経験したことをそのまま書けばいいってことと、何も隠す必要はないってことに気づいたんだ。ニュー・アルバムの歌詞は、僕の心の中を率直に表現している。

(略)

セックスやオーラル・セックスについて語る時、言葉を濁してばかりじゃいけない。それじゃ、ただ戯言をいうだけになってしまう。僕がさらけ出したいのは、そういう偽善だ。男も女もみんなが考えてはいるけれど、言えないことを僕は大声で言う(略)僕の曲は、セックスよりも愛のことを歌っている(略)自分のことは、素晴らしい詩人だとも、モーゼのような預言者だとも思っていない。わかっているのは、自分は思ったことを言おうとしていることと、それができる立場にあるってことだけだ」。(略)

[マット“ドクター”フィンク]は、プリンスの雑多な音楽的影響について、「彼の自宅には、ワーナー・ブラザーズからタダでもらったレコードが大量に積まれていた(略)彼はあらゆる音楽を聴いていたんだ」と語っている。

『Controversy』

[サンセット・サウンドのエンジニア、ロス・パロン談]

「あのアルバムのサウンドを実現した大きな要因のひとつは、テープ・コンプレッションだ。(略)プリンスはメーターを完全に無視していた。ミキシングの時、曲の最初から最後まで、全てがいつもレッドの領域に入っていた。(略)

テープの場合は、シグナルを詰め込みすぎると独特のサウンドが出るんだ。プリンスは、わざとテープに過重負荷をかけていただけでなく、ミックス・コンソールにも過重負荷をかけていた。つまり、テープ・コンプレッションと、コンソールの過重負荷、そしてオーラトーンのスピーカーで鳴らしてヴォーカル・トラックを録音していたことで、『Controversy』の彼のヴォーカル・サウンドがつくられたということなんだ」。

 プリンスは、ヴォーカルのレコーディング同様、ヴォーカルのミックスもひとりで行うことを好んだ。

(略)

ミックスダウン中のスタジオは、レコーディングの時と同様の雰囲気だった。「プリンスは、キャンドルをいくつか点けて、スタジオをすごく暗くしていた。満足の行くミックスができるまで、何時間も暗いスタジオの中で作業していたよ」

音楽と色彩

プリンスは(略)『ミュージシャン・マガジン』誌には、曲を書き、レコーディングしている最中は、音楽が色で見えることがあると話している。「作品に入れるサウンドは、たくさんの愛を込めて選んでいるし、どの色がどの色と合うかってことをいつも考えている(略)歩いている時、絵画で最初に使う色がひらめくように、ふとメロディが聞こえてくることがある。最初の色が正しいと信じられたら、そこから曲をつくることができる。音楽は宇宙のようだ。惑星、空気、光はうまくかみ合っているだろ(略)僕は、そうやってひとつひとつ曲をつくっていく。色や言葉が頭に浮かんだら、頭の中で聞こえている曲になるまで、各要素を入れ替えていく。それから、最初の色と交わりたいという色を重ねるんだ(略)

この赤ん坊は、自分と一緒にいたいから生まれてくるんだって確信しながら、子どもを産むようなものだね。曲を産んでいるんだ(略)例えば、リスナーをうっとりさせるような、ひとつのキーを持つ曲があるとする。そういう曲は、きちんと構成されたメロディをつけるよりも、曲の色を最も引き立てる、スピリットから湧き出たサウンドをつけた方がいい。これこそが、ファンクのルーツだと僕は思っている。僕が選ぶ楽器は曲によって異なる。色によって違う。全てが違って聞こえる。奇妙な話だけれど、僕はオリジナルな作品をつくろうと、多くのサウンドを使ってきたけれど、さらに新しい楽器、サウンド、リズムを求めている。みんなを驚かせるアイディアなら、たくさん用意しているよ(略)全てを教えるつもりはないけどね」。

『Parade』

 プリンスはベッドに寝そべって歌詞を書いていたかもしれないが、アルバムの制作を不休で続け、ほとんど眠ることはなかった。一九八五年四月十七日のレコーディング初日、プリンスは“Christopher Tracy's Parade”、“New Position”、 “I Wonder U”、 “Under The Cherry Moon”のベーシックなインストゥルメンタル・トラックをつくった。猛烈なペースだった。凄まじい勢いでレコーディングするプリンスについて、エンジニアのスーザン・ロジャーズは当時の思い出を語っている。「全てをセットアップした後、プリンスはきちんと準備ができてはいるか、私に確かめさせたの。一度スタートしたら、止まりたくないからってね。プリンスは『これからドラムを叩く。僕が演奏をやめても、テープは止めないで、そのまままわしておいてくれ』と言うと、ドラムの前に座り、目の前の譜面台に歌詞を貼りつけた。私たちがテープ・マシンの録音ボタンを押すと、彼は四曲分のドラム・トラックを連続して演奏した。四曲分を一度に!全てファースト・テイクでね。私たちが曲の合間にカットインすることはなかった。そのままを録音しただけ。そして、プリンスは戻ってくると、『よし、行くぞ!僕のベースはどこだ?』と言って、四曲全てのオーヴァーダブを始めた。こうして、すごい勢いでアルバム制作が始まったの」。

(略)

[リサ・コールマン談]

「彼はドラムからスタートするけれど、既に頭の中で曲が出来上がっていて(略)マシンの録音ボタンを押して、ドラムに駆け寄ってるから、プリンスが何かを飛び越えたり、ケーブルにつまずいたりしている音が聞こえるんだけど。それからドラムの前に座り、カウントを取って叩き始めていた。歌詞をノートの切れ端に書いていることもあって、頭の中の曲を歌おうとしてた。ドラム・トラックに合わせて、ブツブツ歌ってる時もあったし。それから頭の中で、ベース・プレイヤーの尻を蹴飛ばすって、プリンスは言ってた。ドラムを叩いている時は、他の楽器を演奏しているミュージシャンの尻を蹴飛ばすんだって。他の楽器を演奏しているミュージシャンというのももちろん、プリンス自身のことなんだけど、そうすることで負けちゃいられないって、予想外の演奏が引き出されるらしいの。すごくクールだった。

クレア・フィッシャー

 伝説的なオーケストラ・コンポーザー/アレンジャーのクレア・フィッシャーは、『Parade』で初めてプリンスのストリングスを手がけた。

(略)

フィッシャーは長年にわたってプリンスと仕事をし、絶対的な信頼を置かれたが、Housequake.com に意外な事実を明かしている。

「プリンスに会ったことはないんだ(略)私と会うかどうか訊かれた時に、プリンスは『会いたくない。今のままで十分上手くいっている』と言ったそうだ

(略)

プリンスと私の関係は、プリンスがルーファス・アンド・チャカ・カーンでの私の仕事を聞いていたのがきっかけだ。

(略)

 プリンスが、フィッシャーをどれほど高く評価していたかがわかる逸話がある。当時プリンスは、フィッシャーにストリングス・アレンジの決定権を譲ってくれたそうだ。「まず彼は、とことん自由にやらせてくれた。誰かを雇った後は、その仕事に口出しをしない賢い男だ。

(略)

 プリンスは、自分と同じような創造面での自由をフィッシャーにも感じてもらおうと思っていた。そのため、出費を惜しまず、フィッシャーが自由に能力を発揮して、最高のアレンジが出来るよう取り計らった。これでフィッシャーに、予算の制約という重荷がなくなった。「(略)書くのは非常に楽しいけれど、レコーディング・スタジオ絡みの問題は、ミュージシャンに対するギャラだ。低予算のために、大規模なストリング・セクションを雇えないんだ。でもプリンスは十分な金を送ってくれたから、私は小さなストリング・アンサンブル用ではなく、ストリング・セクション向けのアレンジを書くことができた」とフィッシャーは語っている。

『The Black Album』

[お蔵入りの]については、ファンの間で多くの意見が飛び交ったが、実際の制作については、そこまで謎めいてはいない。当時、プリンスの第一エンジニアを務めていたスーザン・ロジャーズは、こう明かしている。「“When 2 R In Love”を除いて、私は『The私Black Album』全曲のエンジニアリングを担当した。曲は雑多で、どれも休日にやるような曲だった。(略)『The Black Album』は、プリンスが寝ながらでもつくれるようなアルバムだった。考える必要すらなかった。プリンスにとって、ファンクはすごく簡単なものだった。だから、ほとんどラフ・ミックスの曲もあって、プリンスはリリースするつもりもなかったの」。

(略)

シ ーラ・E は、“2 Nigs United For West Compton”、“Bob George”、“Le Grind"といった楽曲のインスピレーションとなった。ロジャーズによれば、三曲ともシーラの誕生パーティでかけられるよう、パーティの前に一回のセッションでレコーディングされたものだという。「プリンスは、彼女のために他愛のないパーティ・ソングをレコーディングしたかったの。特に深く考えずにつくっていて、曲をレコーディングすると、バーニー・グランドマンのところへ行きマスタリングして、その夜にDJがプレイできるようアセテート盤をつくった。それだけのこと。アルバムに収録するつもりはなかった」そうだ。

(略)

 明るく楽しい場面もあったが、レコーディング中のプリンスの気分は、『The Black Album』というタイトルが示唆するように、ダークだったという。プリンス自身、『ローリング・ストーン』誌に対し、「あの頃、僕は怒ってばかりいた(略)それがあのアルバムにも反映されている」と語っている。

(略)

[ロジャーズ談]

「彼はずっと不機嫌だったから、多くのスタッフが彼との仕事に疲れ果てていた。私たちの多くが彼と長年働いてきたけれど、彼との距離はこの頃が一番遠くなっていた。彼はペイズリー・パーク・スタジオができて喜んでいたけれど、自分の人生については満足していなかったみたい。スタジオの雰囲気も良くなかったし、昔のように一緒に楽しく仕事ができなくなっていた。当時の彼は、自分のキャリアに満足していなかったんだと思う。そうした怒りや絶望感から、『The Black Album』が生まれたの」

(略)

プリンスはこの頃、自身のキャリアで初めてラップのヴァースを楽曲に組み込んだ。その理由について、ロジャーズはこう語っている。「私たちは、ラップが今後も存続するかどうか、議論していた(略)彼はあまりラップが好きじゃなかったけれど、何らかの形で取り込むべきだってことには気づいていた。でも、どうやったらいいかはわかっていなかった。彼には本物の音楽をつくっているという自負があって、歌えない人たちや、歌の下手な人たちのことは好きじゃなかった。それでも、ラップが一時的な流行じゃなく、新たなムーヴメントだってことが、この頃にははっきりしつつあった」。

Batman

 プリンスのアイディアはいつも完全に形づくられており、わずか一、二テイクで曲が完成してしまう。ツウィッキーは、そうして次から次へと曲を仕上げていくプリンスの音楽的な意思決定プロセスを目撃したわけだが、時を経た現在でも、当時を思い出しては不思議そうに首を振る。「トラックのつくり方は、とにかく一貫していた。彼はコンソールの前に座って手を伸ばし、フェイダーを押し上げると、『ここにベースが欲しい』なんて言っていた。それぞれのトラックに何が入るか、彼にははっきりとわかっていたんだ。もうひとつ、見事なまでに一貫していたのが、プリンス作品の二十四トラック・マスターは全て、トラック1が必ずハンドクラップだったことだ。彼がリン・ドラムから録音していた、数少ない個別のアウトプットのひとつ、それがハンドクラップだった。トラック1に他の楽器をプリントしたこともあるんだけど、テープが破損してしまい、プリンスはそれに業を煮やすと、ハンドクラップよりも重要なパートをトラック1に入れなくなった。テープのトラック1とトラック24は、フランジング効果のためにローエンドはあまり入らない。つまり、内側のトラックには両側に余白があるんだけど、端のトラックには片側にしか余白がないんだ。だから、トラック1はいつもハンドクラップで、トラック2はキック・ドラム、トラック3はスネア、トラック4はギター・ペダルを通したドラム・マシンのモノ・アウトプットだった。生のドラムがなければ、これだけだ。“When Doves Cry" 以降のドラム・マシンが入っているプリンスの曲は、ドラム・マシンで4トラックを使っている。それから、フランジングをはじめとするエフェクトは、ギター・ペダルを通してテープにプリントされた。例えば、トラック9はベース・ギターで、トラック16はリード・ヴォーカル、トラック17から24はバックグラウンド・ヴォーカルのパートと決まっていたんだ」。

 『Batman』のサウンドトラック制作中、プリンスは新たに曲のアイディアを出すほかにも、伝説的な自身のヴォルト(テープ倉庫)から未発表曲を出してきて、インスピレーションを得ていたという。プリンスからの信頼を得ていたツウィッキーは、この仕事を任された。「特に面白かった仕事は、ヴォルトに入って、リリースされていないどころか、まだミックスすらされていなかった曲をミックスしたことだ。こうして僕は数週間で、放置されていた百三十五曲くらいをミックスした。彼は過去に遡りたかったんだと思う。一九七八年に録音した古いテープもあったよ。こうしたテープに関わるのは楽しかった。

(略)

僕が知らない曲ばかりだった。彼が他のアーティストにあげた曲だったんだ。だから時々、アシスタントがやって来て、『あ、これはあのレコードに入ってる曲……』なんていうこともあった。そういった時はミックスを止めたけれど、それでもスタジオの人たちが『わあ、八十年代前半のヴァージョン (リリースされたもの)とは違って、すごくパンチのある大きなサウンドだな』なんて言うのを楽しんで聞いていたよ。『Batman』のサントラ制作を通じて、プリンスは何かの音が頭に浮かぶと、『あのテープをここに持ってきてくれないか? ストリングのパートをサンプリングしたい』なんて言ってきた。プリンスは、『Batman』をいつもとは違ったプロジェクトとして捉えていたのかもしれないな。彼にとって、自分が主演していない作品向けに音楽をつくるのは初めてのことだった。だから制作当初、彼は自分が過去につくったものを聴き返し、より大局的に自分自身を見ようとしていたんだと思う」。

 

小林信彦 萩本欽一 ふたりの笑タイム

読んでないはずないけど、読んだ記憶がなくて、読んでみたけど、やっぱり読んでなかったみたい。

「飛びます、飛びます」

萩本 ぼくが結婚コンサルタントで(略)二郎さんに「びっくり結婚式とかいろいろありますよ」って説明していく。二郎さんは「派手な結婚式がしたい」って言うんで(略)「豪華船をだしまして、その上にジェット機を4機飛ばします」と。

小林 二郎さん、「食べものはなにがでるんですか?」とか聞くんですよね。

萩本 そうそう。「費用はいくらでもだせます」って言ってるわりに、「お弁当のなかにはコブが入ってますか?」とか、二郎さんはお弁当のことしか関心がないの。

(略)

で、最後に「じゃあ飛行機を飛ばすところをやってみましょう」って、手で飛行機をつくるんだけど、二郎さんはそれをいきなり飛ばそうとする。「管制官に『飛びます』って伝えてから飛べ」って言ったら、二郎さん、演技じゃなくほんとに恥ずかしがってね。ち~さな声で「飛びます、飛びます……」って。あの恥ずかしそ~な感じが、二郎さんの素敵なところですね。でもそのとき二郎さんは、手でつくった飛行機を口元にもってきて「飛びます、飛びます」って言うもんだから、またぼくにしつこくつっこまれる。(略)

「飛行機を口元にもってくるな!」って言うとやり直すんだけど、どうしても手が口元にきちゃう。それがやけに受けたもんだから、二郎さんは何度も「飛びます、飛びます」ってくり返して、そのうちあらゆるところで「飛びます、飛びます」って言うようになったんですよ。「飛びます、飛びます」がだんだん訛って、最後には「といやす、といやす」って言ってましたけどね。

不条理コント

萩本 (略)ファンレターが1日に200通もきたり、アイドルみたいになっちゃった時期はありましたね。公開放送にも若い子とか子どもがいっぱいくるようになって、そこからコント55号は変わっていったんです。コメディアンて、そこにいるお客さんがいちばん喜ぶことに反応するから、客席に子どもがたくさんいると舞台でコケたり、わかりやすい笑いになっちゃう。反対に大人の観客ばっかりだと単純なことでは笑わないですから、言葉を選ばなくちゃいけない。「コント55号は子どもから大学教授まで観ている」なんて雑誌に書かれたりすると、大学教授でも笑えるネタをつくらなくちゃと思って急に勉強し始めたり。そんなことをやってるうちに、自分がやりたいものと舞台やテレビで観てくれる人が期待するものとのズレを感じて、悩んだ時期もありました。

小林 その頃だったのかな、ぼくのうちにきたことがあったよね。

萩本 そうです。(略)「小林さんだったら、笑いについてぼくの知らない話をしてくれるんじゃないかな」と思ったの。それで確か、無理やりおうちにお邪魔したりしたんだと思います。

(略)

ぼくね、小林さんと会ったあとは、いつも1時間とか2時間とか歩いてました。刺激的な話を聞いたあとは必ず歩くんです。歩きながら聞いたばかりの話を頭に叩き込んだり、それをもとにしてコントを考えたりしてた。

(略)

小林 うちにきたときだったか、『ダム・ウェイター』の話をしましたよね。ハロルド・ピンターが書いた殺し屋ふたりがでてくる有名な芝居で、ダム・ウェイターっていうのは料理屋で料理を上げ下げする小さなエレベーター。そのダム・ウェイターで「殺害リスト」が送られてくるっていうんで、殺し屋はそれを待ってる。ふたりでしゃべったり蹴り合ったりしながらひたすら待ってるだけっていう話で。結局実現はしなかったけど、それを翻訳で読んだとき、「こういう不条理の世界をコント55号がやったらおもしろいんじゃないかな」と思ったわけ。

萩本 あっ、不条理の世界!「55号のコントには不条理の世界が入っている」って解説した人がいたんですよ。取材でもときどき、「どうしてああいう不条理コントをやるようになったんですか?」って聞かれてたんですけど、当時のぼくはさっぱりわかんなくてね。だいたい「不条理」なんていう言葉、55号でデビューした頃はぼくの頭のなかには入ってなかったから、「どっからでてきたんでしょうねえ。二郎さんがもともとおかしい人だから、自然とそっちのほうへ行ったんじゃないですか?」なんてごまかしてた(笑)。ああ、な~るほど、やっと今日わかりましたよ。小林さんから「不条理の世界」っていう話を聞いて、コントづくりのヒントにしたんでしょうね。(略)

小林 だけど55号のコントは、ぼくが日劇で観たときから「不条理コントだな」と思ってましたよ。だってさ、ただ道を聞きにきただけの二郎さんに、なんか気になるようなことを言って何度も引きとめたりしちゃうんだから。

萩本 ああ~、確かにそういうパターンは初めの頃から多かったですね。見ず知らずの人が歩いてるところをつかまえて、「今お帰りですか? 一緒に帰ろうか」って言ってみたり(笑)。コンビでやるコントの基本パターンて、ふたつあるんですよ。ぼくたちコメディアンの言葉で言う「天丼」と「先後(せんこう)」。天丼ていうのは、ぼけが失敗するんでつっこみが修正しようとするんだけど、何度やっても失敗する。

(略)

「先後」は先輩後輩のことで、女の子に声をかける方法を先輩がモテない後輩に指導するのが原型。道路に丸と三角を描いて、先輩が「おまえは丸の位置にいて、女の子が三角の位置にきたら声をかけろ」って言うんだけど、後輩は丸と三角の位置に固執してなかなかうまくできない。関西じゃ「先後」じゃなくて「丸三角」って言うらしいけど、55号のコントはこの先後と天丼の2パターンで回してたんです。そのなかに自然と少し不条理の要素も入ってたんだろうけど、小林さんから「不条理の世界」っていう話を聞いて、それを強烈に意識するようになったんだと思う。不条理ってぼくは好きだな、って感じて。

(略)

小林 二郎さんはいたって普通の人なんだけど、いつもあなたに巻き込まれて追いつめられて、ずいぶん走らされてたよね。それも必ず笑いながら走ってるんだから、おかしいですよね。

萩本 あっ、二郎さんが笑ってるときは、つぎの動きや言葉を考えてるときなの。「イ~ヒヒヒッ……」って言いながら、つぎはどの方向へ行こうか計算してる。

(略)

[活動期間は]

萩本 そう、実質5年ぐらいかな。(略)その5年間のことって、記憶が定かでないんです。なんだろう、操り人形みたいに、だれかに動かされてた感じがする。

(略)

自分のでたテレビも観てなかった。でも、たまに観て気になるところを見つけると、「つぎからあれを気をつけよう」と思って、そこばっかりに注意が向いちゃうんですよ。それで本番終わってから、「いけねっ、直すところだけに気をとられて、お客さんを笑わすの忘れちゃった」っていうことがあったり。活字も途中から読むのが怖くなりましたね。55号について少しでも否定的なことが書いてあると、そのあと1週間ぐらい言葉が浮ついちゃう。「あ、あの、ぼっ、ぼく..…」ってなっちゃうんです。

クレイジー・キャッツ

小林 (略)その頃クレイジーは新宿のジャズ喫茶なんかにでていて、入れ替え制じゃなかったから、コーヒー1杯で2ステージも3ステージも観られた。(略)

スパイク・ジョーンズがやってた「冗談音楽」のような音楽ギャグですね。

(略)

萩本 (略)そういう笑いって日本では初めてでしたよね。クレイジーより前に川田晴久さんたちの「あきれたぼういず」が音楽もやってましたけど、彼らの場合は音楽ギャグと言うより「うた」で笑わせてましたから。(略)

クレイジーがでてきたとき、ぼくはまだコメディアンの修業中でしたけど、「なんか新しい笑いがでてきた」ってぞくぞくしました。音楽とともにある笑いってすごくオシャレな感じがして、浅草でぼくたちがやってる笑いが泥臭く思えてきた。浅草の先輩コメディアンも、みんなそう思ってたんじゃないですかね。それまで浅草のコメディアンがテレビに呼ばれると「浅草出身です!」って胸を張って言ってたみたいですけど、クレイジーが登場してからテレビに進出した人たちは、「浅草出身って言わないようにしよう」っていう気配がありましたもん。

谷啓

萩本 ぼくが[日テレの]齋藤(太朗)さんに聞いた話では、谷さんがでっかい車に乗ってて信号で止まったとき、隣の車の人が「だれだろう、こんなでっかい車に乗ってんのは?」って言ったのが聞こえたんですって。谷さん、その言葉に耐えられなくなって、そぉ~っと車を降りて反対側に回って、「ばっかやろ~、こんな車に乗りやがって!」って、自分の車を自分で蹴ったって言うの。

(略)

谷さんのうちにはすごいプールがあったんですよ。「谷さん、このプールすごいね」って言ったら、「俺、ほんとはやなんだよね。『おまえはテレビにでてるスターなんだからプールをつくれ』って青島(幸男)さんに言われて無理やりつくったんだけど、プールで泳いだことないんだよ。つかわなくても水は入れとかなきゃなんないから大変でね、これ、いらねえなあ~って思ってんだけど」って。その頃に乗ってたでっかい外車のことも、「これも『スターはでっかい外車に乗るもんだ』って青島さんが言うから買ったんだけど、目立つから乗ってるの辛いんだよね」って言ってました。

(略)

おもしろいのはね、青島さん、ぼくには正反対のことを言ったんですよ。青島さんの家に遊びに行ったとき、「人間の価値っていうのは、でっかい家とか外車っていうんじゃなくその人の歴史にある!」みたいな話をしてくれたんで、ぼくはすっかりその影響を受けちゃった。

 実はその頃、コント55号で人気がでたからいい気になって、高い腕時計とかイタリア製のブーツなんか買っちゃってたんですよ(笑)。「スターになって貧乏生活から抜けだしたい」って思ってたから、思いっきりギンギラギンのかっこをして、でっかいうちを建てるのが夢だったの。でも青島さんの話を聞いたらそんなことを考えてた自分がすごく恥ずかしくなって、それ以来時計もしないし、外車にも乗ってないし、うちも自分で建ててないですから。

 まあ、ぼくの場合は青島さんのおかげで自分に似合わないことはしなくてすんだけど、谷さんの話を聞いてぶっ飛びましたよ。青島さん、結局普通の生活をしたい谷さんには贅沢を勧めて、派手にしようとしてたぼくには地味な暮らしを勧めてただけなんだってわかって。

小林 谷さんの家、1回火事で焼けたでしょう。そのとき河野洋さんがすぐ駆けつけたんだって。そしたら谷さん、家がまだくすぶってるのに、庭で家族とマージャンをやってたって言うの。知ってる人がお見舞いにきたとき、火事ぐらいではびくともしてないとこを見せようっていうんで。谷さんのお父さんもすごくてね、消防署の人に「あの軒んとこが気に入らなくて壊しちゃおうと思ってたので、焼けてちょうどよかたった」とかなんとか言ってたって。

タモリ

小林 (略)話してる途中、赤塚さんが「タモリも呼ぼう」って呼んだらね、タモリは神父のかっこで店に入ってきた。当然店のなかにはぼくたちのほかにもお客さんがいたんだけど、タモリは聖書をもってその人たちのところに行って、「あなたは落ちぶれることがわかっております」とかなんとか説教し始める。それを各テーブルに行ってやるから、ぼくは驚いちゃってさ(笑)。今まで観たことないからね、そんなの。

萩本 あっ、そういうことがタモリさんにとっては修業になったんでしょうね。浅草みたいに先輩にしごかれながら修業するんじゃなくて、酒の席でシャレっぽく。

(略)

タモリさんはぼくのうちのすぐ近くに住んでたときがあるんですよ。うちから10メートルぐらいのアパートに。

(略)

ある日コンコンってドアを叩く音がしてたんで、うちの若いやつが見に行って、あわてて戻ってきたの。で、すごい緊張した顔して、「げっ、玄関の前にタモリがいます!」(笑)。「えっ?」って行ってみたら、ほんとにタモリさんがいてね。ぼくもすごくびっくりしちゃって、「な~に、どしたの?」って聞いたら、「いや~、近くに住んでるんで、おもしろそうだからピンポンしたの」って言うから、「あ、そう。じゃあ、そんなとこにいないで上がんなよ」って。その頃、ぼくのうちにはパジャマ党という放送作家集団がいたんだけど、タモリさんがきたらみんな大喜び。またタモリさん、人懐っこいし、しゃべりがおもしろいし、人を惹きつけるのが抜群にうまいの。うちの作家連中はまだ若かったし、浅草で古い修業してきたぼくとは違うスマートなタモリさんのほうに、スーっと寄っていく感じでしたよ。

(略)

「ちょっとお邪魔します」なんてかしこまって入ってくるんじゃなく、冗談ぽくスルッと入ってきて、作家集団を3時間以上笑わせっぱなし。もうシャレとしては最高!ぼくもパジャマ党のみんなも、いっぺんにタモリさんのこと大好きになっちゃった。感覚的にすごく優れてますね。