サマー・オブ・ラブからウッドストックまで

`67〜`69 ロックとカウンターカルチャー 激動の3年間:サマー・オブ・ラブからウッドストックまで
 

グレイトフル・デッドの起源

[67年]シスコ、ゴールデン・ゲイト公園で行われたヒューマン・ビーイン

(略)

「みんなでアシッド・サーカスのバスに乗りこんだ。そして、そこで常識や慣習にとらわれない未知の領域、自由でいるってどういうことかを探した。それが僕たちの始まりだね」(略)

[2016年ボブ・ウィアーは]筆者とのインタビューで、デッドの起源を語ってくれた。「リーダーも作らない、ルールもいらない。とパンクでアナーキーな態度で、自分たちの本当にやりたいことを探していたのさ」

 そんな彼らを“発見”して、声をかけたのが新進作家ケン・キージーと彼のまわりに集まっていた元祖ヒッピー集団、メリー・プランクスターズ(陽気ないたずら者たち)。今はアメリカの文化遺産としてスミソニアン博物館に展示されている、原色の蛍光ペイントで塗りたくられた改造スクールバス、ファーザー(より遠くへ)号に乗ってカリフォルニア各地で、まだ合法だったLSD入りのパンチを採る意識拡大実験パーティ、アシッド・テストを催していた。

 そのパーティに参加してハウスバンドのように演奏しているうちに「混沌の中から自然に新しい秩序が生まれてくることがわかった!」とジェリー・ガルシア。それがデッドの音楽的探究、ダイナミックなグループ・アイデンティティの基盤になった。たくさんのコードを知らないことを逆手に、ひとつのキーでモーダル音階を延々と続けるうちに、彼らは“サイケデリックサウンド”と呼ばれる自分たちのスタイルを見つけたのだった。

(略)

ウィアーは答えてくれた。「でも実際のところ、もう、あの集まりの時には僕にとってピークは終わっていたね。集まった人数の多さをことさら強調したり、サイケデリックをやっている人たちに声高に語りかけ、どこかに導こうとするLSDスポークスマンもいやだったね。それまでの僕らのパーティはみんなひとりひとりが自分の何かを持ってきていたんだ。タイダイの布や服、スタンリー・マウスやアルトン・ケリーのようなユニークなポスター・アートの連中。でもビーインの頃は何も持たず、ただパーティに来たくて来るだけの連中が増えてきた。ああ、ヒッピー・ドリームはこれで終わりかなって感じた。それから音楽に集中して、長く不思議な旅を始めたのさ」

きみはどっちの側の人間だ? 

1967年のロック音楽文化の発展に寄与した功労賞なんてものがあったとしたら、それはまちがいなく25才のこのリヴァプール出身の若者に贈られたことだろう。イギリスで保守的な支配層から、若者に蔓延する麻薬撲滅の動きがひそかに始まり(略)

麻薬常用シンガー(らしい)として最初の標的にしたのがフォーク・シンガー、ドノヴァン。ポールは早速、新作「メロー・イエロー」録音中のスタジオに出かけ、タイトルソングのバックヴォーカルに加わったり、別の曲でベースを弾いたりして友情を表明。

 これは乾燥させたバナナの皮を吸うと合法的なハイ状態が得られる、と当時、世界中で流布した噂とシンクロして、アメリカではチャート2位の大ヒットになったが、どちらも違った。ドノヴァンが歌ったのは女性をめろめろにするヴァイブレイターのことだったし、バナナの皮の乾燥はいくら吸ってもハイにはならない。

(略)

[タレコミによりキース・リチャーズを張り込んだ警察は、ジョージ・ハリスン夫妻が帰宅するのを見届けガサ入れし、ミック、キースらを逮捕]

ワールド紙は実名入りで、裸だったマリアンヌと麻薬で乱交パーティをしていたかのように書き立てていた。

(略)

捜索を指揮した巡査部長、ノーマン・ピルチャー[は](略)

翌年ジョン・レノンを逮捕。その名は(略)「アイ・アム・ザ・ウォルラス」の中でセモリナ・ピルチャードとされ、ビートルズの歴史に名をとどめている。

(略)

[『サージェント・ペパーズ』発売]

多くのヒップな若者たちには、解読なんて少しも必要なかった。ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイアモンズ……3つの頭文字を並べれば、L…S…D…。メッセージは明快だった。“きみも旅立つといいのに”(略)

「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」。“アイ・ラヴ・トゥ・ターン・ユー・オン……” ターン・オンとはドラッグでストーンすること、意識の新しいスイッチをいれるという意味の言葉だ。インド旅行から帰ってきたジョージ・ハリソンがインドの民俗楽器シタールを取り入れて“きみはどっちの側の人間だ?”と精神世界への旅を示唆するように歌っていた「ウイジン・ユー、ウイズアウト・ユー」も、多くのリスナーの心の扉をノックした。

モンタレー・ポップ・フェスティバルの舞台裏

「“なんでジャズやフォークのフェスティバルはあるのに、ポップ・フェスティバルはないんだ? シスコ、ロスのミュージシャンで集まり、西海岸でも俺たちで大きな集まりをやろうぜ!”、アラン・パリザーの家でモンタレー・ジャズを観に行った帰りにそんなお喋りをしていたんだ」(略)スティーヴン・スティルスは言っていた。

 アラン・パリザーは製紙業で成功した一族に生まれ、それまでいくつかのロックイベントを企画して成功させ、ビートルズリンゴ・スターを腹心の友としてロサンジェルスの“ハイ・ソサエティ”でもよく知られた若者だった。彼が主催したイベントでMCをやって仲良しになったのが、バーズのパブリシストとなり、イギリスから家族とともに引っ越してきてこの町で活動していたデレク・テイラーだ。「次の日すぐ、アランから電話があり、これからデレクとプロモーターのベニー・シャピロに会いに行くから、一緒に来て是非、昨日のアイディアを彼に話してきかせてやってくれよ、と言うんだ」とスティルス

 こうしてシャピロはすぐにこのプロジェクトのパートナーとなり、インドのラヴィ・シャンカールを$3000の出演料でフェスへの参加をとりつけた。一方、パリザーはモンタレーに23ヘクタールの会場予定地をおさえると、資金作りに奔走し、シスコ・シーンのビッグガイ、ビル・グラハムから名前を出さないという条件で1万ドル、家族と自分の銀行口座3万ドル、計6万ドルの活動資金を捻出した。そしてフェスの看板となるメイン・アクトとして当時、「夢のカリフォルニア」の大ヒットで爆発的人気のママズ&パパスに白羽の矢をたてた。出演の依頼がてら、膨大な金額となるだろう出演料をどうやって工面したらいいかを相談しにダンヒル・レコードのルー・アドラーとジョン・フィリップスを訪ねたのだった。

「ここでハリウッドならではの宮廷乗っ取り事件が起こったのだ」と最初からの一部始終を知るテイラーはその名著「サイケデリック・シンドローム」(原題・It was 20 Years Ago Today)で少し苦しげに告白している。

 何が起きたかというと、$5000の出演依頼にアドラーとフィリップスはのらなかったが、ポップ・フェスティバルの計画には大乗り気。チャリティ・イベントにすれば出演料をカットできるといいながら、いつのまにか逆に$5万でアイディアもろともシャピロの“買い取り”をし、最初の企画創案者パリザーからすべてのコントロールを奪ったのだ。

 早速ビーチ・ボーイズブライアン・ウィルソンに“チャリティ・フェスティバル”への出演を打診すると、夏に“究極のティーンエイジ・シンフォニー・アルバム” 「スマイル」を完成して発売する予定だったブライアンは、絶好のプロモーションになると思ったのだろう、実行委員会に名前を載せることもふくめて快諾してくれた。

 ポール・サイモンも「グルーヴィー!(ごきげんだね)」と参加を表明(略)

ビートル・ポール、ミック・ジャガーが「素晴らしいじゃないか」と実行委員名簿リスト入りを承諾して、ドミノ倒し。

(略)

業界の動向に敏感なプロデューサー、アドラーはフェスティバルの成功の鍵は多くの若い一般の音楽ファンたちの信頼を得ること、それには今、話題のサンフランシスコ・グループの参加が不可欠だと感じていた。こうして、サンフランシスコに飛び、町の高級ホテル、フェアモント・ホテルでフィリップスとアドラーはジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッドらのメンバー、それに彼らの良き理解者であるサンフランシスコ・クロニクル紙のジャズ評論家、ラルフ・グリースンをオブザーバーに、最初のミーティングを行った。しかし、シスコ・グループは

(略)

アドラーの話が終わると“甘い話で釣って儲けようって魂胆だろう”、“俺たちの人気に便乗して、出演するロスのバンドの評判をあげようってわけだ”、“入場料はタダにすべきだ!”と一斉に攻撃と反論のつぶて。

「あともう少しで殴り合いになるところだった」とアドラーは後にため息まじりで回想している。洋服屋で仕立てた高級なスーツ姿のアドラーは“ビジネスしか頭にないスクエア野郎”、あの“くそいまいましいシスコを利用した人工甘味料入りの曲(「花のサンフランシスコ」)をでっち上げた”フィリップスは“コマーシャルに身売りした情けないフォーク野郎”とデッドのマネージャー、ロック・スカリーの目には映った(と彼は後の回想録に書いている)。

(略)

アドラーとフィリップスはすごすごとロスに帰っていった。 

シスコ・グループを説得してフェスティバルに参加するようにしむけたのは、これまで数多くのジャズ・フェスティバルを経験して、そのメリットを熟知していた、この年20歳のベテラン音楽評論家、ラルフ・グリーソン(略)

さらに調停役として、一役かったのは、“片足をヒッピー界に、だがもう片足はしっかりビジネス・ワールドに”をワーキング・モットーにしていたフィルモアのプロモーター、ビル・グラハムだった。

「どの出演者もノーギャラでの出演依頼に首を振らなかったのには、本当にびっくりした」とアドラー。その分、エビや蟹、ワイン、シャンパン、美味しい食事を用意して、ていねいに心地よい最高のもてなしをするよう、アドラーたちにアドバイスしたのはグラハムだった。そして会場で、バックステージでいつも笑顔、気品ある態度でミュージシャンたち、世界中からやってきたプレス関係者(その数1100人)を出迎え、みんなから愛されたのは、あのビートルズ・ファミリーのひとり、デレク・テイラーだった。

 ミュージシャンの中で、ほとんどただひとり、その呼び名 Cross のとおり、コンスタントにローレル・キャニオンとハイト=アシュベリーの間を行き来して、ロスとシスコ・シーンの架け橋をしていたのが、デヴィッド・クロスビーだ。

「クロスビーはいつ見てもまぶしいほどに発光している、カリフォルニア文化の申し子って感じだったよ」と当時まだ18才、オレンジ・カウンティ出身のサーフィン好きの駆け出し吟遊詩人、ジャクソン・ブラウンは言っていた。「シスコの仲間たちに金持ちって思われないように、わざわざワーゲンバスにポルシェのエンジンを積みかえて走っていたんだぜ。それこそ彼そのものじゃないかい──パワーのあるヒッピー!って(笑)」

「夏の野外コンサートといえば容赦なく照りつける太陽との戦いになるのに、モンタレーはまったく違っていた」

ジェファーソン・エアプレインのディーヴァ、グレース・スリックは後に自伝『サムバディ・トゥ・ラヴ』でこの時の会場の印象をこう記していた。

「大木の緑の枝が日射しを柔らかな光線に変え、あたりはまるでディズニー映画のシャーウッドの森のような、それは実に優しい風景だった」 

Somebody To Love

Somebody To Love

  • 作者:Grace Slick
  • 発売日: 1998
  • メディア: ハードカバー
 

 メイン会場の裏には40人ほどのヒッピーが食べ物、手製のアクセサリーやジュエリーを売る出店が並び、少し未来的なデコレーションがほどこされた2番目に広いスペースには、会場の演奏の模様を巨大な白のキャンバス・スクリーンにビデオで投影するなど、どこにいても人々を和ませてくれる、視覚的なセッティングがなされていた。後で3日間の体験をエリック・バードンは「モンタレー」という曲にして、こう歌っていた。

 

ある者は聴きに、ある者は歌いに、またある者は花をあげにやって来た

若い神々は観客にほほえみかけ、生まれたての愛の音楽をかなで

子供たちは昼となく夜となく踊り続けていたよ、モンタレーで

バーズがエアプレインが空を飛び、ああ、ラヴィ・シャンカールが僕を泣かせた

ザ・フーは炎と光を炸裂させ、デッドは人々の度肝をぬき

ジミ・ヘンドリックスは世界を火にくべ、燃え上がらせたんだ

(略)

人生の真実を知りたいのなら、いいかい、音楽を聞きのがしてはいけない

3日間みんなで一緒になって動き、体揺らしながらわかりあったのさ

おまわりたちまでが、ぼくらと一緒になって楽しんでいたなんて信じられるかい

モンタレーで、モンタレーで、あの南の町、モンタレーで 

Monterey

Monterey

  • エリック・バードンとアニマルズ
  • ロック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

The Twain Shall Meet

The Twain Shall Meet

  • アーティスト:Eric Burdon & Animals
  • 出版社/メーカー: Music on CD
  • 発売日: 2018/06/08
  • メディア: CD
 

 あたりにはシャボン玉が飛び、どこにいてもマリファナの香りが漂っていたが、喧嘩もどんなぎも起こらず、ひとりの逮捕者も出なかった。地元の警察署長、フランク・マリネロは、会期前は懐疑的だったが、いざフェスが始まると若者たちのピースフルな様子に終始笑顔を浮かべ、部下たちの半数以上を帰してしまった。

「僕はヒッピーたちが好きになったよ。今度休暇になったらハイト=アシュベリーを訪ねてみよう。きっと友達になった連中にたくさん会えるだろう」

デレク・テイラーはその言葉をきくと、自分がしていたビーズの首飾りをはずし、彼の首にかけるとこう言った──「これで私たちは一緒になれましたね」

 泣いていたのは金曜日の昼のジャニスひとりだけ。(略)自分のパフォーマンスがマネージャー、チェット・ヘルムズの頑強な反対のために一切撮影されていなかったことを知った時だった。大声を上げて泣きじゃくる彼女。(略)

ディランの敏腕マネージャー、アルバートグロスマンの提案で[最終日に再出演することに]

(略)

[マイク・ラヴの猛反対で不参加となったブライアン・ウィルソン。『スマイル』もお蔵入りしノイローゼ状態に]

もし、あの時、ちょっと気持ちを変えて、出演していたら

(略)

[代わりに出演したのがオーティス・レディング]

スタックス・レコードの遺産を古い契約書を口実にすべて巻き上げたアトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラー。彼はどんな顔をしてオーティスのステージを見ていたのだろう。モンタレーは「ヒッピー・ロックは金になることに気づいた音楽業界のモンスターたちがふところに契約書をしのばせて集まってきた最初の見本市でもあった」

(略)

[ジミヘンの]燃えたギターをこの時拾って持ち帰ったステージ・スタッフから受け継いだのはあのロスの怪人、フランク・ザッパだった。改造修理をして長く大事にしてステージやレコーディングでも使っていたとか……。

 ギターの破片とか、そんなけちなものではなく、モンタレー・ポップの演奏をレコーディングしたウォリー・ハイダーらが手配したステージ・アンプを、すべてのプログラムが終了後こっそりと運び出して、近くのフェスティバル参加者の寝泊まり用のキャンプ・サイト(カレッジのフットボール場)で、フリーコンサートをやったのは、もちろんグレイトフル・デッドの面々。

 ルー・アドラーは「グレイトフル(感謝するの意)どころか、最後までアングレイトフル、感謝などまるでない連中だった」と語っていた。

「モンタレー・ポップの成功の要因のひとつは、はじまりから終わりまで消えずに残ったこうした対立がもたらした緊張感にあっただろう」とサンフランシスコ・クロニクル紙の名物コラムニスト、ジョエル・セルヴィン

終焉

8月、夏の真っ盛りに春から引き延ばしにしていた夢の訪問を実現して、ジョージ・ハリソンは愛妻パティ・ボイドと連れ立って、この町にあらわれた。だが、極上のオーズリー・アシッドをきめて、パンハンドル公園を散歩していると、めざといファンに見つかり、気がつくとまわりは物珍しげに寄ってくるみすぼらしい格好の十代の若者たちがうろうろ、ぞろぞろ。わずか5ヶ月前にポールが見た光景とは似ても似つかないバッド・ヴァイヴの場所に変貌していた。遅すぎた!と気づいて、彼はそうそうに引き上げ、シスコを後にした。もう二度とアシッドはやらないと心に決めて。

 

 秋が来て、ヒッピー見物の観光客たち、フィルモアのダンス・ライトショーでジェファーソンやデッド、ジミ・ヘンやクリーム、オーティス・レディングのステージを見て満足した若者たちの波が去ると、屑だらけのシスコの通りには、帰る家もリアリティも見失ったホームレス、ユースレス・ヒッピーたちのうつろな目が残った。最初にヒッピーを名乗り、創造的に新しい自分たちのライフスタイルを実現しようと動いてきた良質な人々は、6年の10月、「ヒッピーの葬儀」というイベントを催し、用意した棺桶にビーズやベル、バッジや花飾り、コスチューム、およそ本質とは関係のなかったこれまでの祭りの道具を投げこみ、それをかついで通りを行進すると、ゴールデン・ゲイト・パークで火をくべて、自分たちの手で現象としてのヒッピーを葬り去ってしまった。その中心メンバーだったロンとジェイのテーリン兄弟は本やポスター、店にあったすべてを欲しがる人たちにただで上げると店をたたみ、ならず者ジャーナリストを名乗り、ヘルズ・エンジェルスとヒッピーの間をとりもち、ハイト・ライフをさまざまなメディアに紹介してきたハンター・トンプソン、ディガーズのエメット・グローガン、ピーター・コヨーテ、といったロビン・フッドたちは、荷物をジープやトラックに積みこむと、東に北に南へと去っていった。

(略)

 閉じられたサイケデリック・ショップの入り口にかけられた伝言板には、こんな言葉が残されていた。

「ムーヴメントはそれぞれの頭と手の中にある。ネヴァダはきみを必要としているかもしれない。ここを離れて、それぞれの新しい場所へ行け! 散れ! 転がり続けろ!」

(略)

 そのメッセージに呼応するように、その秋、11月7日に登場した新雑誌で、21才の編集長は創刊の言葉をこう書いていた。「この新しい雑誌を世に贈る。雑誌の題はローリング・ストーン。

 五月革命──パリは燃えているか

[ミック・ジャガー談]

「やばくてあやしい時代だったよ。アメリカはベトナム戦争で国中がまっぷたつになって騒然としてたし、フランスもパリの通りがデモ行進の人波でうまり、舗道がひっくりかえされて、石のつぶてが降っていただろ」

(略)

ジャガー/リチャーズがそんな動きを見過ごすわけがなかった。こうしてできたのが、タイトルもどんぴしゃ、ストーンズのソングカタログの中でも、もっとも政治的な歌といわれる「ストリート・ファイティング・マン」だった。「絶好の時に絶好な歌ができたって思ったのさ。そりゃ刺激されたよ、かたや眠ったようにおとなしいロンドン、なのにむこうは暴動とカーニバルが一緒になった騒ぎだったろ(笑)」

 

俺も王様をやっつけろって大声で叫んでみたいぜ

でもこの眠ったようなロンドンタウンでは

ストリート・ファイティング・マンの出る幕なんてありゃしないのさ

 

(略)

「なあにたいした曲じゃねえよ。歌詞だって曖昧だしな!」

 キース・リチャーズは煙草の煙を吹き上げながら、相変わらずの怪気炎。(略)

「それなのにシカゴのラジオ局に行ったら、DJのやつ、暴動を始動する曲は流せませんなんてぬかしやがる。あまりにも破壊的な内容だからって。ああ破壊的だよ、ステージ観に来いよ、レコードより、もっと破壊的だからな!。そう言ったら、嬉しそうな顔して、コンサート会場に来て大喜びしてやがるんだ。あそこの町の連中は腐ってるぜ、まったく!」

(略)

[シングル発売]のわずか2日前には、シカゴ民主党大会の報道に集ったメディアの目の前で、全米からやってきたベトナム反戦のデモ隊がシカゴ市長の指示で、重装備で待ち受けていた警官隊、州兵に襲いかかられ、逮捕者多数、流血の大惨事。(略)4月のマーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺。6月のロバート・ケネディ上院議員の暗殺事件

(略)

アメリカ各地のラジオ局は、シスコの進歩的FM局KSANなどをのぞき、その影響をおそれて、いっせいにこの曲の放送を自粛(略)

発売はされたものの「ストリート・ファイティング・マン」はヒット・チャートの40位にも届かなかった。(略)

[だがミックは]

「なあに、だいじょうぶさ。若い連中はかえって放送禁止なんかになると、喜んで飛びついてくるものさ。前に放送禁止にされた曲はミリオンセラーになったからね……」

 今度もそのとおりになった。シングルも、年末に発売されたアルバムも100万枚を売り上げたのだ。

ウッドストック伝説

 40万人の下水処理に出動したバキュームカーが、人波で会場を出られなくなり、仕方なく、シャベルカーで30メートルの溝を掘り、そこに流しこんだという。その丘の上には翌年、トウモロコシが大豊作だったとか……その伝説は本当だ。

フェスティバル後の世界

いったいあの頃どれだけの野外フェスティバルが行われたのだろう?(ウッドストック・フェスに先立つこと1週間、日本では第1回・中津川フォーク・ジャンボリーが開催されていた。これはちょっと誇らしい!)。ロンドンでは出所したあのホッパーが、ノッティングヒルカリブ海系移民たちの野外フェスティバルを始めていた。

(略)

 大きなヒッピー集会、反戦デモ、ゲイ解放行進には必ずその姿を見せる、あの髭の詩人アレン・ギンズバーグは、デモ学生たちを襲わないようにと、単身ヘルズ・エンジェルスの本部へ乗りこんで行き、“あのオカマのユダ公は度胸のある大した野郎だ!”とそのリーダー、ソニー・バーガーをうならせ、逮捕されては釈放、また逮捕……と忙しい日々を送っていた。

(略)

LSDの研究でティモシー・リアリーとともにハーバード大学を追われた学者、リチャード・アルパートがインドに旅してグルに会い、その覚醒的体験をババ・ラム・ダスの名で発表した「ビー・ヒア・ナウ」がベストセラーとなり、若者たちの関心はドラッグ・ハイから精神世界へ、インディアン文化や禅やインド哲学など、スピリチュアル・ワールドへとシフトしていた。イェール大法律学校の教授、チャールズ・ライクが、子供たちから大人世代が学ぶ。意識Ⅲという新しい意識伝達のスタイルが産まれていると、対抗世代を讃えた社会科学書『緑色革命』も世界中で大絶賛。グラハム・ナッシュがそれをわかりやすい言葉で歌にした「ティーチ・ユア・チルドレン」も映画『小さな恋のメロディ』に使われ世界的に大ヒットした。ちなみにこの頃、ゼミの教室に仲良く並んでライク教授の講義を受けていたのが、後に42代合衆国大統領になったビル・クリントンとヒラリーのふたり。

(略)

バロウズ? 彼は法皇そのものよ!」(略)

パンク女性詩人、パティ・スミスが感嘆の声をあげたのは(略)スターマン、デヴィッド・ボウイにも大きな影響を与えたビート世代の幻覚貴族作家、ウィリアム・バロウズだった。“ヘヴィーメタル”も“スティーリー・ダン”も彼の小説から生まれた名前。

(略)

「ドラッグの問題はドラッグそれ自体にあるのではない(略)

ドラッグをやって、いとも簡単に自分を失い、忘れてしまうような人間は、政府や官僚体制、権力のビッグ・マシーンがしかける意識コントロールの罠にも、たやすくはまってしまうだろう。ドラッグ問題の本質はそこにある、問題なのはそれを使う人間なのだ」

 殺人事件が起こると火の粉がふりそそぐのを恐れ、後始末をツアー・マネージャーに押しつけ、翌朝すぐ逃げるようにロンドン行きの飛行機に乗ってとんずらを決めたストーンズ。ひとり孤立無援で後に残された彼、サム・カトラーはその後、救いの手を伸ばしてくれたジェリー・ガルシアたち、グレイトフル・デッドのマネージャーとなって活躍。 

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ブローティガン『東オレゴンの郵便局』翻訳比較

平石貴樹が「アメリカ短編ベスト10」を選んで自身で翻訳してるのだけど、その中の「東オレゴンの郵便局」が藤本和子訳と印象が違うので、比較のために並べてみた。長文なので引用括弧はなし。『東オレゴン~』に関しては平石訳の方が好み。

アメリカ短編ベスト10

アメリカ短編ベスト10

 

平石貴樹訳) 

『東オレゴンの郵便局』ブローティガン

 東オレゴンをドライヴしていく。季節は秋、猟銃は後部座席に、弾はダッシュボードというのかグラブボックスというのか、まあどっちでも好きなほうに入っている。
 山ばかりのこの里へ鹿狩りにやってきた大勢の少年の、ぼくも一人だ。ぼくたちは遠くから来た。きのう暗くなる前に出発して、それから一晩中走って。
 今では陽射しが車の中までギラギラ照って、虫みたいにうるさい。外へ出られなくてフロントガラスにぶんぶんぶつかるハチかなにかみたいだ。
 ぼくはひどい眠気の中で、隣りの運転席に巨体を押しこんだジャーヴ叔父さんに、この地方の動物たちについて質問している。ぼんやりジャーヴ叔父さんを見やる。ハンドルが叔父さんにすごくくっついて見える。叔父さんの体重は、軽く一〇〇キロを超えている。車は叔父さんにはちょっと窮屈だ。
 眠気の薄もやの中で、ジャーヴ叔父さんは噛みタバコのコペンハーゲンを噛んでいる。いつもそうなのだ。むかしコペンハーゲンはだれからも愛されたものだった。至るところに広告の看板が出ていた。今はもうそんな看板も見あたらないけど。

 叔父さんは高校時代、地元で有名なスポーツ選手だったし、そのあとはまた伝説の遊び人だった。一時期はホテルの部屋を同時に四つ借りて、それぞれにウィスキー壜を忍ばせておいたけど、そのときの人たちはみんないなくなってしまった。叔父さんも歳をとった。
 叔父さんは今では落ち着いた、思索的な暮らしをしている。ウェスタン小説を読んだり、毎週土曜の朝にはラジオでオペラを聞いたり。でもコペンハーゲンだけは口から離さない。四つのホテルの部屋と四本のウィスキー壜は消えたけど、コペンハーゲンは叔父さんの運命となり、永遠の符牒となったのだ。
 ぼくはダッシュボードの中の二箱分の三〇口径弾のことを、わくわく思いやる大勢の少年の一人だった。「山ライオンはいるの?」とぼくは尋ねる。
「クーガーのことかい?」とジャーヴ叔父さん。
「うん、クーガー」
「いるさ」と叔父さんは言う。叔父さんは赤ら顔で髪も薄め。美男だったことは一度もないのだけど、それでも女性たちは叔父さんを好きになるのをやめなかった。ぼくたちは同じ小川を何度も何度も渡った。
 少なくとも十回は渡ったのだが、その小川に出くわすのはいつも新鮮だった。長くて暑い乾期のせいで、水かさも低くなったその川が、ところどころ伐採された山あいを縫っていくのは、なんとなく気持ちがよかった。
「オオカミもいるの?」
「すこしはね。もうすぐ町に着くぞ」と叔父さんは言った。一軒の農家が見えた。だれも住んでいなかった。楽器みたいに捨てられている。
 農家の脇には大きな薪の山があった。幽霊たちが薪を燃やすのだろうか。それは幽霊しだいだろうけど、薪は何年もたった色をしていた。
「山ネコは?山ネコには賞金がかかってるんでしょ?」
 ぼくたちは製材所を通りすぎた。小川のむこうに、丸太用の小さな堰き止め池があった。二人の男が丸太の上に立って、一人は手に飯ごうを持っていた。
「二、三ドルな」とジャーヴ叔父さんが言った。
 ぼくたちは町に入った。小さな町だ。家や商店は時代がかって、もうさんざん風雪に耐えたように見える。
「クマはどうなの?」とぼくは言ったが、ちょうどそのとき車は道なりに角を曲がって、目の前には小型トラックが停まり、二人の男がトラックの脇に立ってクマを下ろしていた。
「このあたりはクマがいっぱいさ」と叔父さんは言った。「ほら、そこに二ひきいるだろ」
 本当に、まるで仕組まれたように、男たちはクマを持ちあげて、そろそろと、まるで黒い長い毛のはえた大きなカボチャを扱うみたいに丁寧に、トラックから下ろしていた。ぼくたちはクマのそばに車を停めて降りた。
 周りに集まってクマを見ている人たちがいる。ジャーヴ叔父さんのむかしの仲間だ。みんな一斉に叔父さんにむかって、やあ。どこへ行ってたんだい。
 そんなに大勢の人たちが一斉にやあ、と言うのをぼくは聞いたことがなかった。ジャーヴ叔父さんは何年も前に町を出ていた。「やあ、ジャーヴ。やあ」ぼくはクマたちまでやあ、と言うんじゃないかと思った。
「やあ、むかしの悪ガキのジャーヴ。ベルトみたいに腰に巻いてるのは、そいつはなんだい、グッドイヤーのタイヤかい?」
「はっはっ、クマを見ようじゃないか」
 クマは両方とも子グマで、重さ二、三〇キロといったところだ。ここから北の「サマーズ爺やの川」と呼ばれる川のあたりで仕留められたのだった。母親グマは逃げ延びた。子グマたちが死んでしまうと、母親は藪に駆け込んで、ダニにやられながら隠れて見ていた。
 サマーズ爺やの川だって!そこはぼくたちが狩りに行こうとしている場所ではないか。ぼくは今まで行ったことがなかった。クマがいるのか!
「母グマは荒れてるだろうな」と集まった男の一人が言った。ぼくたちはその人の家でやっかいになる予定だった。クマを撃ったのはその人だった。ジャーヴ叔父さんの親友だ。大恐慌時代に、同じ高校のフットボール・チームで活躍した。
 女の人が一人やってきた。両手で食料品の袋を抱えている。立ち止まってクマたちを見ようと、ぴったり近づいて前かがみになるので、セロリの先端がクマの顔をつんつんと突いた。
 クマは運ばれて、古い二階建ての家の玄関ポーチに置かれた。その家は辺りという辺りに白い板飾りがほどこしてある。まるで前世紀のバースデーケーキだ。ロウソクみたいに、ぼくたちはそこに一晩泊まることになった。
 ポーチの周りの格子の柵には、なんだか変な種類の蔓草が育っていて、そこに咲いた花はさらに変だった。蔓や花は見たことがあったけど、人家の周りではない。それはホップだった。
 家でホップを育てているのを見るのははじめてだった。花の趣味としてなかなか興味深い。でも慣れるのにはしばらくかかる。
 陽射しは前から照りつけ、ホップの影がクマにかかって、クマ(ベア)は二杯の黒ビール(ビア)みたいだった。壁にもたれてクマたちはそこにすわらされている。
──いらっしゃい、みなさん。なにをお飲みになりますか?
──ベアを二杯。
──冷えてるかどうか、冷蔵庫を見てみましょう。しばらく前に入れといたんです。……よし、よく冷えてます。
 クマを撃った男は自分では欲しくないと言ったので、だれかが言うには、「町長さんにあげたらどうだい?あの人はクマが好物だよ」町の人口は、町長もクマも加えて三五二人だった。
「ここにいるクマをさしあげますって、おれが町長に伝えてやろう」とだれかが言って、町長を探しに出ていった。
 ああ、あのクマたちはどんなにおいしいだろう。焼いても、揚げても、茹でても、スパゲティに入れてもいい。イタリア人が作るようなクマのスパゲティだ。
 だれかが保安官のところで町長を見かけたという。一時間ぐらい前のことだ。まだそこにいるかもしれない。ジャーヴ叔父さんとぼくは出かけて、小さなレストランに昼ごはんを食べにいった。網戸のドアがひどく傷んでいて、押すと錆びた自転車のような音がした。ウェイドレスが注文を訊いた。ドアの脇にはスロットマシンがいくつかある。このあたりの郡では、賭け事が許されていた。
 ぼくたちはローストビーフのサンドイッチとグレーヴィをかけたマッシュポテトをとった。ハエが何百ぴきもいた。天井のあちこちからハエ取りの長い紙が、縛り首の縄みたいにぶらさがっている。そこにつかまってゆっくりくつろいでいるハエもたくさんいる。
 老人が一人入ってきた。牛乳をくれと言う。ウェイドレスが持ってきた。老人はそれを飲むと、帰りがけにスロットマシンに五セント硬貨を入れた。それから首を横に振った。
 食事が済むと、ジャーヴ叔父さんは郵便局へ行って葉書を出す用事があった。歩いていってみると郵便局は意外に小さな建物で、掘っ立て小屋というのが一番ぴったりだ。網戸を押して中に入る。
 郵便局らしい物がたくさんある。カウンター、それに古時計。海の中の人のヒゲみたいにだらりと長い振り子が、なんとか時間に遅れないように、ゆっくり左右に揺れている。
 壁にはマリリン・モンローの大きなヌード写真が貼ってあった。郵便局でそんなものを見るのははじめてだ。マリリンは大きな赤い布の上に横たわっている。郵便局の壁に貼るのは変だと思ったけど、考えてみるとぼくのほうが、この土地では変なよそ者なのだった。
 郵便局員は中年の女の人だった。一九二〇年代に流行したような唇の色やかたちをまねている。ジャーヴ叔父さんは葉書を買って、カウンターの上で、コップに水をそそぐような調子で葉書を淡々と埋めていった。
 それには一、二分かかった。半分ぐらい書いたところで、叔父さんは手をとめて、マリリン・モンローを見あげた。見あげる叔父さんの目には、色気めいたものはなにもなかった。マリリンが山と森の写真でも、きっと同じだっただろう。
 叔父さんがだれに葉書を書いたのかは覚えていない。たぶん友達か親戚だったのだろう。ぼくはただそこに立って、マリリンのヌード写真を一生懸命見つめていた。それから叔父さんはその葉書を出した。「おいで」と叔父さんは言った。
 ぼくたちはクマのいる家に戻っていったけど、クマはいなくなっていた。「どこへ行ったんだろう?」とだれかが言った。
 大勢の人たちが集まってきて、みんないなくなったクマのことを話し、そこらあたりをちょっと探したりした。
「もう死んでるんだからさ」とだれかがみんなを安心させるために言ったけど、やがてみんなは家の中も探しだして、女の人はクローゼットの中まで調べるために入ったりした。
 しばらくすると町長がやってきて言った。「腹ぺこだぞ。わしのクマはどこかな?」
 跡形もなく消えちゃったんですよ、とだれかが説明すると、町長は「ありえんことだ」と言い、出ていってポーチの下を覗きこんだ。クマたちはそこにもいなかった。
 一時間ぐらいたつと、みんなクマ探しをあきらめた。陽がかたむいていった。ぼくたちは玄関ポーチにすわっていた。ここはむかしむかしクマさんたちがいました、といった感じになっていた。
 男の人たちは大恐慌時代に高校でフットボールをした話にふけり、自分たちが歳をとって太ったことについて冗談を言いあった。だれかがジャーヴ叔父さんに、あのホテルの部屋四つとウィスキーの壜四本はどうなったんだい、と尋ねた。叔父さんを除いてみんな笑った。叔父さんはほほえんだだけだった。夜になりかけたころ、だれかがクマたちを見つけた。
 かれらは脇道に停めた車の前座席にすわっていた。一ぴきはズボンをはいて、チェック模様のシャツを着ていた。おまけに赤いハンチング帽をかぶり、口にパイプをくわえ、二本の前足をハンドルにかけて、むかしの大レーサーのバーニー・オールドフィールドみたいだった。
 もう一ぴきのほうは、男性雑誌の後ろの広告ページに出ているような白い絹のネグリジェを着て、両足にはフェルトのスリッパがはめられていた。頭にはピンクのボンネット帽が結ばれ、膝にはハンドバッグが置かれている。
 だれかがそのハンドバッグを開けてみたけど、中身はからっぽだった。みんながっかりしていた。でも、なにを見つけるつもりだったのか、ぼくにはわからない。死んだクマがハンドバッグの中になにを入れておくというのだろう?


 不思議なのは、このクマの話をそっくりぼくが思い出したきっかけである。それは新聞で見たマリリン・モンロー、若くて美しく、いわゆる人生の望みのものをすべて手に入れた身の上なのに、睡眠薬自殺をしてしまった彼女の死の写真なのだ。
 写真とか記事とかなんだとか、新聞中がこの事件でいっぱいだ。黒っぽい毛布に包まれて、台車で運ばれていくマリリンの遺体。この写真を壁に貼る東オレゴンの郵便局はあるだろうか。

 写真では、付き添い人が台車を外へ押しだそうとしている。陽射しが台車の下まで伸びている。ブラインドと、それから木の枝々も写っている。

 

芝生の復讐 (新潮文庫)

芝生の復讐 (新潮文庫)

 

  (藤本和子訳)

 東オレゴンを車で走る。秋。後座席には銃、ジョッキー・ボックスあるいはグローヴ・コンパートメントには榴散弾。
 わたしはこの山岳地帯で鹿狩りにでかけて行くひとりの子供にすぎなかった。もうずいぶん遠くまできていた。日暮れ前に出発して、そして夜どおし走って。
 いまではもう、虫のように、暑い陽ざしが車のなかで輝いて、うっかり閉じこめられてしまった蜂かなんかのようにぶんぶん唸ってフロントガラスにあたる。
 わたしはとても睡くて、前座席のわたしの隣に押しこめられていたジャーヴ叔父にその界隈のこと、動物のことを訊ねていた。わたしはジャーヴ叔父のほうを見た。彼は運転していたが、ハンドルが不自然な近さにあった。彼は体重が二百ポンド以上もあったのだ。彼は車からはみだしそうだった。
 睡たさの薄明りにジャーヴ叔父がいて、彼の口にはコペンハーゲンがあった。いつも噛んでいた。昔はみんなコペンハーゲンが奸きだったのだ。買え、買えと、そこらじゅうに広告があったものだ。もうこの頃ではあの広告は見られなくなってしまった。
 ジャーヴ叔父はかつて、高校生のときにはその地方では名の知られた運動選手だったし、その後は伝説的な遊び人になった。ある時期には、同時にホテルの部屋を四室も借りていて、各室にウィスキーが置いてあったものだったが、でも、そいつらはもうなくなってしまった。彼が歳をとってしまったからだ。

 その頃のジャーヴ叔父はウェスタン小説を読み、土曜日の朝にはきまってラジオのオペラを聴いたりして、もう物静かに自省的な暮しを送っていたのだ。いつも口にはコペンハーゲンがあった。四つのホテルの部屋と四本のウイスキーはあとかたもなく消え去った。コペンハーゲンが彼の運命、永劫の状況となったのである。
 わたしはジョッキー・ボックスにしまってある二箱の30/30口径銃用の榴散弾のことを考えて楽しくなっているひとりの子供にすぎなかった。「マウンテン・ライオンはいるの?」とわたしは訊ねた。
「クーガーのことかい?」
「そう、クーガーのこと」
「いるとも」ジャーヴ叔父はいった。彼の顔は赤くて、髪が薄くなっている。彼はもともとハンサムではなかったのだが、女たちにはいつも人気があった。わたしたちは同じクリークを幾度も幾度も渡った。

 すくなくとも十数回は渡ったのだが、それでもそのたびになんだかうれしくてはっとするのだった。川は長い暑さのために水かさが滅っていて、部分的に伐採された土地を流れていた。

「狼はいるの?」
「すこしな。もうすぐ町だ」とジャーヴ叔父がいった。農家が一軒あった。誰も棲んでいない。楽器みたいにうちすてられていた。
 家の脇に、たくさんの薪が積んであった。亡雲たちが薪を焚くのだろうか?そりゃあ、焚いたとしても彼らの勝手だけれど。薪は長い歳月の色をしていた。
「山猫はどうなの?山猫を捕るとほうびがもらえるんだろう?」
 わたしたちは製材所を通りすぎた。クリークの向うは、水を堰きとめて丸太用の貯水池になっていた。丸太の上に、男がふたり立っていた。ひとりは弁当の箱を手に提げていた。

「ニ、三ドルだよ」とジャーヴ叔父がいった。
 もう町だった。小さな町だ。家々も店もチャチなもので、三年の雨風にさらされてきた様子をしていた。
「熊はいるの?」とわたしは角を曲がるときに訊いたのだが、ちょうどその時、わたしたちの目前に一台の小型トラックが見えて、車から熊を降ろそうとしてふたりの男がトラックの傍に立っていたのだ。
「この辺りは熊だらけよ」とジャーヴ叔父がいった。「ほら、そこにも二頭いるぜ」
 なんと、まあ……まるでそれが予定のことだったみたいに、長い黒い毛に覆われた巨大なかぼちゃでもあつかうようなやりかたで、男たちが熊を車から降ろそうとしているところだったのである。
 熊の傍に車を止めて、わたしたちは降りた。
 熊を眺める人々が集っていた。みんなジャーヴ叔父の知り合いだ。みんながジャーヴ叔父にやあやあといった、どうしてた、えっ?と。
 それほど多勢の人たちがいちどきにやあ、やあ、というのを聞いたのははじめてだった。ジャーヴ叔父がその町を去ったのはずいぶん昔のことだった。「やあ、ジャーヴ、やあ」わたしは熊たちもやあというのではないかと思った。
「やあ、ジャーヴ、相変らずのしみったれ。ベルトのかわりに腰に巻いているのはなにかね、えっ?車のタイヤか?」
「へっ、ふざけやがって。どれどれ熊を見せてもらおうか」
 二頭とも、五、六〇ポンドの小熊だった。
「サマーズ爺のクリーク」のところで射たれたのだ。母親熊は逃げた。小熊たちが死んでしまうと、母親熊はやぶに逃げこみ、だにどもとともにじっと身をひそめていたのである。
「サマーズ爺のクリーク」のほう!まだそこへは行ったことがなかった。熊たち!
「母親熊は容赦しないだろうぜ」とそこに集まっていた男たちのうちのひとりがいった。その男の家にわたしたちは泊まることになっていた。彼が熊を射ったのだ。ジャーヴ叔父と仲が良かった。大恐慌のころ、高校フットボールで一緒だったのだ。
 女がひとり通りかかる。腕に食料品の袋を抱えていた。立ち止まって熊を眺める。態たちのほうにずっとからだをかしげるようにしてずいぶん近くまで寄った。セロリーの葉を熊たちの顔にぐいと押しつけるようにして。

 連中は熊たちを運んで行って、二階建ての古い家の正面のポーチに置いた。家のへりにはずうっと木の飾りが菓子のようについている。前世紀のバースデー・ケーキだ。わたしたちはその夜そこに泊る蠟燭だった。
 ポーチをかこむ格子垣には奇妙なつたが絡んでいたが、それにはさらに妙な花が咲いていた。そのつたの葉も花もわたしはそれまでに見たことはあったが、家にそんなふうにして絡まっているのははじめてだった。ホップだった。
 家にホップが絡まっているのを見るのははじめてだった。花はおもしろい味がする。でも、その花の味になれるのにはちょっと時間がかかった。
 家の表側に陽ざしがあたって、ホップの影が熊に落ちかかり、熊たちはまるで二杯の黒ビールみたいだ。彼らは壁にもたれて、そこに坐っていた。
「イラッシャイマセ。呑ミ物ハナニニナサイマス?」
「二頭ノベあヲ」
「冷エテマスカドウデスカ、冷蔵庫ヲシラベマショ。チョット前ニ入レタバカリダモンデ……アア、ダイジョウブ、冷エテマスネ」
 熊を射ち殺した本人は熊は欲しくないというので、「じゃあ、市長にやったらいいや。市長は熊が好きだからね」と誰かがいった。その町の人口は、市長と熊たちをいれて、三五二人だった。
 「熊をあげますよ、と市長に伝えてくるよ」と誰かがいって、彼は市長を探しにでかけた。
 ああ、この熊たちはどんなにうまいことだろう。蒸し焼きにしても油で焼いても茹でてもいいし、スパゲティにしてもいい。そう、イタリア人たちが作る熊スパゲティみたいに。
 保安官のところで市長に会ったよ、という者がいた。一時間前のことだ。まだそこにいるかもしれない。ジャーヴ叔父とわたしは小さなレストランヘ行って昼食をとった。そこの網戸はぜひとも修繕が必要で、開けると錆びついた自転車のような音をたてた。ウェイトレスがなににしますかとわたしたちに訊ねた。扉の傍にスロットマシンが何台か置いてあった。そこらでは博奕は堂々と合法だった。
 わたしたちはローストビーフのサンドイッチとマッシュ・ポテトと肉汁を食べた。店には何百匹も蝿がいた。かなりの大群がそこここにひっこきみたいに吊してあった蝿取り紙を見つけて、そこでくつろいでいろのだった。
 じいさんが入ってきた。牛乳をくれといった。ウェイトレスが彼に牛乳をだした。それを飲むと、彼はでがけに五セント玉をスロットマシンに入れた。そして、首を振った。
 食事がすむと、ジャーヴ叔父が郵便局へ行って葉書を出すのだといった。歩いて行ってみると、郵便局は掘立て小屋というのが相応しいような小さな建物だった。網戸を開けて、なかに入る。
 郵便局らしい物がいっぱいあった。カウンターがあって、海底の髭のようにたれ下がる針をつけた時計が、時代に遅れをとるまいとゆるやかに揺れていた。
 壁に、マリリン・モンローの大きなヌード写真があった。郵便局でそんなのを見るのははじめてだった。彼女に大きな赤い色の上に横たわっていた。郵便局の壁に貼るには変じゃないかと思ったが、でもわたしはそこではよそ者だったのだから。
 郵便局員は中年の女性で、一九二〇年代に流行した例の口の形を彼女の顔の上に描き写していた。 ジャーヴ叔父は葉書を買うと、さながらコップに水を満すような調子で、カウンターの上で葉書を字でうめた。
 あっという間のことだった。半分ほど書いて、ジャーヴ叔父は手を休め、マリリン・モンローをちらりと見上げた。見上げる彼には肉欲的な感じは微塵もない。まるで、彼女が山や木の写真であるみたいだった。
 誰に宛てて葉書を書いていたのか、わたしは憶えていない。きっと友人か親戚の者だっただろう。わたしはわたしなりにマリリン・モンローのヌード写真をじっと見つめて立っていた。ジャーヴ叔父が葉書を投函した。「さあ、おいで」と彼がいった。
 熊のいた家へ戻ってみると、熊の姿がなかった。「どこへ行っちまったんだい?」と誰かがいった。
 多勢の人たちが集ってきて、誰もかれもいなくなった熊のことを話して、あちこち隈なく探しているみたいだった。
「死んでるんだぜ」と励ますようにいった者があって、それから間もなくわたしたちは家のなかを探した。熊を探すのに押入れを全部調べた女のひともいた。
 しばらくすると市長がやってきて、「腹ペコだ。俺の熊はどこかね?」といった。
 誰かが市長に熊は蒸発してしまいましたよと告げると、市長は「そんなことは不可能だ」と答えて、ポーチの下まで行って覗いてみる。でも、熊はいない。
 一時間もすると、もう皆は熊探しを止めてしまい、日も落ちた。わたしたちは、かつては熊がいた正面ポーチに腰を下した。
 男たちは大恐慌の頃の高校フットボールのことを語り合い、いまは年をとって太ってしまったことについて冗談をいい合っていた。誰かがジャーヴ叔父にホテルの四部屋とウィスキー四本について訊ねた。ジャーヴ叔父をのぞいて、みんなが声を上げて笑った。叔父はただ顔に笑みを浮かべただけ。熊が見つかったとき、夜はまだはじまったばかりだった。
 熊たちは脇路で一台の自動車の前座席に坐っていたのだった。一頭はズボンをはいて、格子柄のシャツを着ていた。赤いハンチング帽を被り、目にパイプをくわえて、バーニー・オールドフィールドみたいに両前足をハンドルの上にのせていた。
 もう一頭のほうは白い絹のネグリジェを着ていた。男性雑誌の裏表紙などによく広告されているようなものだ。足にフェルトのスリッパをひっかけていた。頭にはピンクのボンネット帽、そして膝の上にはハンドバッグ。
 ハンドバッグの口を開けてみた者がいたが、なかにはなにもなかった。なにが見つかると思っていたのかはわからないが、連中はとにかく失望した。それにしても、死んだ熊はハンドバッグになにを入れておくものなんだろう?

      *
 このこと、つまり熊のことをわたしに思い出させたのは奇妙なことなのだ。それは若さと美しさにめぐまれていたのに睡眠薬で自殺してしまったマリリン・モンローの新聞にでていた一枚の写真なのだ。

 新聞はもうそのニュースでもちきりだ。記事や写真はそういうもので、荷車で屍体が運びさられる、ありきたりのつまらない毛布にくるまれた遺体。マリリン・モンローのこの写真を飾るのは東オレゴンのどの郵便局だろうか。

 死体置場の職員が扉の外へ荷車を押して行く、荷車の下に陽ざしが輝く。ベネシアン・ブラインドが写真にうつっている、木の枝々もうつっている。

 

 

 ついでに他の『芝生の復讐』収録小説を少し紹介。

「天の鳥たち」

[つけでテレビを買いに来た話が二ページほどあって]

「なにも心配はいりませんよ」と彼女はいった。ほんとにすばらしい声だ。「テレビジョンはあなたのもの。ちょっと入って下さいな」
 と彼女はいい感じのする扉のついた部屋を指した。扉は、じつは、なかなか胸のわくわくするようなものだった。重い木の扉で、すばらしい木目が流れるように見える。砂漠の日の出を横切って走る地震の亀裂のような木目。木目には光があふれて。
 把手は純銀。ヘンリー氏がかねがね開いてみたいと思っていた扉なのである。海で幾百万年が過ぎ去って行く間に、かれの手はその扉の形を夢見ていたのである。
 扉の上に標示があった。
 鍛冶屋
 扉を開けてなかへ入ると、ひとりの男が彼を待っていた。男がいった。「靴を脱いで下さい」
「用紙にサインするだけなのに」とヘンリー氏はいった。「堅い仕事なんだし。期限どおり払いますよ」

「そのことはいいから」と男がいった。「ただ靴を脱げゃいいんですよ」
 ヘンリー氏は靴を脱いだ。
「靴下も」
 彼はいわれたとおりにしたが、それをべつに変だとも思わなかった。なぜなら、いずれにしろ彼にはテレビを買う金はないのだったから。床は冷たくはなかった。
「身長はどのくらい?」と男は訊ねた。
「五フィート一一インチ」
 男はファイル用キャビネットのところへ行って、五フィート一一インチと記された抽斗を開けた。ビニールの袋をとりだして、抽斗を閉じる。ヘンリー氏は男に話してきかせたい笑い話を思いついたが、あっという間に忘れてしまった。
 男は袋を開けて、巨大な鳥の影をとりだした。それがズボンかなにかであるみたいに、男は影をひろげる。
 「なんです?」
 「鳥の影さ」と男は答えて、ヘンリー氏が腰かけているところへやってきて、彼の足のかたわら、床の上に影を置いた。
 それから、男は不思議な形の金槌を手にしてヘンリー氏の影から釘を技いた。影をからだに止めていたその釘をだ。男はていねいに影をたたむ。ヘンリー氏のそばの椅子にそれを置く。
「なにをしてるんです?」ヘンリー氏は訊ねた。怖かったわけじゃない。ただ好奇心から訊ねた。
「影をとりつけてるんですよ」と男は答えて、彼の足に釘で影をうちつけた。すくなくとも、痛みはなかった。
「さあ、これでいい」と男はいった。「テレビの支払いをするには二四か月ありますからね。払いが済んだら、影をとり替えます。なかなか似合うや」

 ヘンリー氏はじぶんのからだから鳥の影がさしているのを見下していた。悪くないや、とヘンリー氏は思った。
 部屋をでると、机のところにいたあの美しい娘がいった、「まあ、お変りになって」
 ヘンリー氏は彼女が話しかけてくれるのがうれしかった。長い結婚生活の間に、性というものがいったいどのようなものであったかを忘れてしまっていたのである。
 ポケットに手をつっこんで煙草を探したが、全部吸ってしまったことがわかった。ひどくうろたえてしまった。娘はなにか悪いことをした子供を眺めるように、じいっとその彼を見つめるのだった。 

アーネスト・ヘミングウェイタイピスト

 もうまるで宗教音楽みたいなんだ。わたしの友人がニューヨークから帰ってきたのだが、彼はそこでアーネスト・ヘミングウェイタイピストにタイプを打ってもらったのだ。
 彼は売れてる作家だから、最高のタイピストを頼んだのだが、それがなんとアーネスト・ヘミングウェイのタイプを打ったという女性なのだ。はっと息をのむような話、沈黙がきみの肺を大理石に変えてしまうような話ではないか。
 アーネスト・ヘミングウェイタイピストだってさ!
 彼女はすべての若き作家たちの正夢だ、ハープシコードのような手、完璧にはりつめた熱情的な視線、そして、それらすべてのあとに彼女のタイプの深遠なる音が続くのだ。
 彼は彼女に時間給一五ドルを払った。これは鉛管工や電気技師の賃金よりも多い。
 一日一二〇ドル!タイピストで!
 彼女はなんでもやってくれるんだ、と彼はいった。原稿を渡すと、まるで奇跡が起ったみたいに、それは見目よくも正しい綴りに直されて、泣けてくるほどにすばらしい句読点をつけられ、ギリシャの神殿のようにも見える段落を持って戻されてくる。彼女は文章を終らせてもくれるのだ。
 彼女はアーネスト・ヘミングウェイ
 彼女はアーネスト・ヘミングウェイタイピストだ。

「庭はなぜ要るのか」

 行ってみたら、またしても連中はライオンを裏庭に埋めていた。例のごとく、大急ぎで掘られた墓で、ライオンを入れるには小さすぎて、無能をきわめた掘りかただ。連中はいい加減な小さな穴にライオンを押しこめようとしているのだった。
 ライオンは例のごとくかなり平然としていた。過去二年間に少なくとも五〇回は埋められてきたので、ライオンは裏庭に埋められることになれてしまったのだ。
 はじめてライオンが埋められた日のことをわたしは思いだす。なにがどうなっているのか、ライオンにはわからなかった。そのとき、彼はいまより若いライオンだったから、恐怖におののき、頭も混乱してしまった。でもいまでは、あのときより年もとっていたし、もう幾度も埋められた後だったから、どういうことなのかちゃんと承知していたのだ。
 連中が彼の前足を胸の上で組んで、それから順に土をかけはじめると、ライオンはなんだか退屈しているような様子だった。
 どだいだめなのだから。その穴はライオンには小さいのだ。裏庭に細られた穴がちゃんとした大きさだったことは以前にも一度もなかったし、先にもそうなることはないだろう。連中はどうしてもそのライオンを埋めるのにじゅうぶんな大きさの穴を掘ることができなかったのである。
「やあ」とわたしはいった。「穴が小さすぎるねえ」
「やあ」と連中はいった。「そんなことないさ」
 わたしはライオンを埋めようと汗だくになっている連中を眺めて一時間ほどそこに立っていたけれど、連中はライオンの1/4を埋めることしかできなくて、ついにすっかり嫌気がさして諦めた。そして、穴がじゅうぶんな大きさに掘られていないということで、互いに貴めあうのだった。
「来年はここを庭園にでもしたら?」とわたしがいった。「この土だったら、いい人参なんかが育つんじゃないかな」
 連中はわたしのことばをとても面白いとは思わなかった。

「一九三九年のある午後のこと」

 四歳になるわたしの娘にわたしがいつもいつも話してやる話がある。娘はその話からなにかを得るらしく、繰り返し繰り返し聞きたがるのだ。
 寝る時間がくると娘はいう、「おとうちゃん、子供のときに、岩のなかに入った話、してちょうだい」
「いいとも」
 娘はあたかもじぶんの意志で自在になる雲でも扱うように、毛布をからだにぴったりと引き寄せ、口に親指をつっこんで、それからじっと聴き入る青い目でわたしを見る。
「むかしむかし、わたしは子供で、ちょうどきみの歳でありました。わたしのおとうさんとおかあさんがレニアー山ヘピクニックに連れて行ってくれたのです。古い自動車に乗って行きましたところ、道路のまんなかに一頭の鹿が立っているのでした。
 やがて、わたしたちは野原へやってきましたが、そこでは木立の蔭に雪があったのです。お陽さまがささないところには雪があったのです。
 野原には野生の花が咲いていて、きれいでした。野原のまんなかには大きなまあるい岩がひとつありましたので、おとうちゃんはその岩のところまで歩いて行ってみました。すると、岩のまんなかに穴が見つかりましたので、なかを覗いてみたのです。岩はまるで小さなお部屋のようにガランドウでした。

 おとうちゃんは岩のなかへ這って入って、そこに坐ると、青い空と野の花々をじっと見ていました。おとうちゃんはその岩がすっかり気に入ってしまいましたので、そこを家だと考えることにして、その日の午後はずっと、その岩のなかで遊びました。
 おとうちゃんは小さな石を拾ってきて、大きな岩のなかへ持ちこみました。小さな石はかまどや家具やなんかだということにして、野の花を使って食事の用意をしたのです」
 それで話はおしまい。
 すると、娘は深い青さをたたえた目でわたしを見上げ、岩のなかで野生の花を挽肉にして、それを小さなかまどのような石ころの上で焼いている子供としてわたしを見るのだ。
 娘はこの話をいくらしてもらってもまだ聞きたりない。もう三、四〇回も聞いているのに、まだまだ話してくれというのだ。
 彼女にはとても大切な話なのだ。
 娘は、まだ子供で彼女の同時代人であった頃の父親を見出すためのクリストファー・コロンバス的な戸口として、この話を聞くのだ、とわたしは思う。 

「伍長」

わたしは栄光の軍歴に終止符を打ち、アメリカの、紙のように空しい幻滅の、影の領域へ踏み入った。アメリカ、そこでは挫折とは不渡り小切手のこと、あるいは悪い通信簿のこと、あるいは恋の終わりを告げる一通の手紙や読む人々を傷つけるすべてのことばのことである。 

「装甲車 ジャニスに」

 わたしはベッドと電話のある部屋に住んでいた。それしかなかった。ある朝のこと、ベッドに横になっていると、電話が鳴った。窓の日除けが下りていて、外はどしゃ降りの雨だった。まだ暗い。
「もしもし」とわたしはいった。
「ピストルを発明したのは誰だ?」と男が訊ねた。
 電話を切るより早く、わたしじしんの声がアナーキストみたいにわかしのからだを脱出して答えてしまった、「サミュエル・コルトだ」
「あっ、薪が当りましたよ」とその男がいう。
「きみは誰?」とわたしは訊ねた。
「これはコンテストでね」と彼はいった。「あなたは薪を当てたんですよ」
「ぼくにはストーブ、がないからね」とわたしはいった。「下宿してるんだ。暖房はない」
「薪のほかになにか欲しいものがありますか?」と男はいった。
「うん、万年筆がいい」
「わかりました、お送りしましょう。住所は?」
 わたしは住所を告げて、コンテストの主催者は誰かと訊ねた。
「そんなことはどうでもいいんですよ」と彼はいった。「明日の朝、万年筆が郵便で届きますよ。あっ、そうそう、とくに好きな色がありますか。忘れるところでした」
「ブルーでいいですよ」
「ブルーのは一本も残ってないんですよね。ほかの色ではどうです?グリーンなんか、どうです?グリーンの万年筆はたくさんありますから」
「そう、じゃあ、グリーンでいいや」
「明日の朝、郵便で届きますよ」と彼はいった。
 それは届かなかった。その後も全然届かなかった。
 わたしがこれまでに当てて、そして実際に受けとったことがあるものはただ一つ、それは一台の装甲車である。(以下略) 

「カリフォルニア1964年において高名であること」

 名声が、きみを圧し潰している岩の下にかなてこを差し入れ、ぐいと持ち上げ、七匹の甲虫の幼虫と一匹のわらじ虫ともども、きみに光をあててくれる、これはなんともすばらしい。

 そうするとどんなことになるか話してあげよう。

(略)

「きみの小説でぼくはなにをするんだい?」とわたしは訊ね、すばらしいことばが聞けるだろうと待った。

「ドアを開けるんだ」と彼はいった。

「ほかにはなにをするんだい?」

「いや、それだけだ」

「そう」とわたしはいった。名声を傷つけられて、わたしはいった。「もうちょっとなんとかできなかったのかい?二つのドアを開ける、とかさ?誰かに接吻するとか?」

「そのドアひとつでじゅうぶんなんだ」と彼はいった。「きみには非の打ち所がなかった」「ドアを開けたときには、なにかいったかい?」わたしはまだ希望を棄てていなかった。

「いわなかったよ」 

ファンク 人物、歴史そしてワンネス その3

前回の続き。

ファンク 人物、歴史そしてワンネス

ファンク 人物、歴史そしてワンネス

 

『Mumbo Jumbo』

 こうして、ファンクは望ましいものとなった。が、それだけではなくっていた。実を言うと、アメリカ全土を感染させるほどの力があったのだ。イシュメイル・リードという作家が 1972年に『Mumbo Jumbo』という画期的な小説を出したが、これは、ぷんぷん臭う強烈なリズム感を持った黒人文化の本質と呼べるものが伝染病のようにアメリカに広がっていくという奇想天外な構想で書かれた、荒削りで汚穢趣味の小説だった。リードによって「ジェス・グルー」という名を与えられたファンキーな流行病は、ハイチ(略)からの最初の上陸地ニューオーリンズを(マルディ・グラで)大いに荒らした後、(1920年代のジャズの時代に)さらに北のセントルイスやシカゴへと広がり、第二次世界大戦前にビ・バップが生まれるのにちょうど合わせるようにしてニューヨークに攻めいっていくのだ。

 リードは(マーク・トゥエインが読んだら卒倒してしまいそうな俗語をふんだんに使って)、謎に包まれた黒人の闇世界を再構築するという困難な過程を乗りこえ、当時主流となっていた黒人小説の手法を根底から覆した。黒人の生活や文化が、アメリカ白人の侵略を受けてばらばらに分断されてしまったため、黒人文学は、ずっと長きにわたって、そのことがいかに耐えがたいかということをもっぱら焦点にしてきた。が、リードはこの主題を180度転換し、アメリカを感染させる謎の現象であるジェス・グルーの持つ非情なまでの破壊性がけっして失われないのだということを明示してみせたのだった

(略)

 リードによれば、黒人ダンス音楽が持っているリズミカルで官能的な本質がジェス・グルーなのであり、アメリカ白人は飽きることなくこのジェス・グルーを求めずにはいられないので、衰退していくというわけだ。

(略)

『Mumbo Jumbo』が象徴的な意味でもたらした衝撃は強力なものだったが、現実的な意味でもたらした衝撃も底の深いものだった。70年代後半に宇宙を舞台とする一大ファンク運動の仕掛人となったジョージ・クリントンは、発想の上で大いに参考になったと言って『Mumbo Jumbo』を絶賛している。ファンクが宇宙に広まるという構想をどうやって思いついたのかという質問を1985年に筆者がクリントンにしたときにしたときに、返ってきた答は「『Mumbo Jumbo』って読んだことあるか?」だった。 

マンボ・ジャンボ (文学の冒険シリーズ)

マンボ・ジャンボ (文学の冒険シリーズ)

 

オハイオ・プレイヤーズ

 1973年春まで、オハイオ・プレイヤーズと言えば、身体に鎖を巻きつけた坊主頭の黒人女性をアルバムのジャケットに載せている変態っぽいブルーズ・ロックのバンドという程度の認識しかされていなかったが、「Funky Worm」がラジオでかかった瞬間、その認識は完全に改められることとなった。変な「おばあちゃん」の語りやウォルター“ジュニー”モリスンの凄いキーボードのリフも耳を捉えるものがあったが、何よりも、ゆっくりと脈打ちながら揺れる振幅の大きなリズムが目立っていた。これは、それまでずっとゴッドファーザーの縄張りで、誰一人として足を踏み入れたことのない領域だった。

 「Funky Worm」の発表でプレイヤーズの知名度は全国的なものとなり、キーボード奏者兼作曲者であるウォルター“ジュニー”モリスンの才能があまりにも光っていたため、ウェストバウンド・レコードは「ジュニー」単独で契約を交わし、オハイオ・プレイヤーズを手放した。その後オハイオ・プレイヤーズのほうは、1970年代半ばのファンクの音を決定づける重要バンドに成長するが、“ジュニー”モリスンは、きてれつで楽しいアルバムをウェストバウンドから次々と出し、ソロのアーティストとして名前を確立する。さらに、1977年にはPファンク軍団に参加して、「One Nation Under a Groove」、「Aqua-Boogie」、「(Not Just) KneeDeep」といったファンク史に残るヒットを共同生産した。

 後にマーキュリー・レコードでオハイオ・プレイヤーズがヒットを連発するため、「Funky Worm」は影が薄くなって忘れられたも同然になるのだが、今日では、都会のぴりぴりした空気を描く鋭い音の代表として、西海岸ヒップ・ホップ界でさかんに再生されている。アイス・T、ドクター・ドレアイス・キューブ、N.W.A.らに見られる音数の少ない雰囲気を生み出した源の中心は、虫がくねくね這っている様子を表した「Funky Worm」の耳につくシンセサイザーなのだ。 

Funky Worm

Funky Worm

  • provided courtesy of iTunes
Pleasure

Pleasure

  • アーティスト:Ohio Players
  • 出版社/メーカー: Westbound Records Us
  • 発売日: 2007/03/13
  • メディア: CD
 

 

クール&ザ・ギャング

玄関の外で赤ん坊達が泣いている

この上なく頼りなげに

夜の淑女が

きみの頭を自由にしてくれる

ゲットーで育って

木を1本も見たことがない

きみにこの歌詞が分からないのなら

きみと俺とで一緒に分かっていくようにしよう

クール&ザ・ギャング

「This is You, This is Me」(1973年)

 

クール&ザ・ギャングには、言いたいことが山ほどあり、演奏したい音楽も山ほどあった。「Heaven at Once」という曲は、ジャズの実験を試みている上に聞く者を考えさせる曲だが、歌詞に「『どうやって良くしていくの?』と言う子ども…。ほら、俺達は音の科学者。数字のように正確に演奏している」と言っている部分がある。クール&ザ・ギャングは活動が長くなっていくにつれ、常識外れの突拍子もない奇妙な試みを見せるようになるが、多彩な曲のどれをとっても、このグループ独特の理想主義、かっこいいスタイル、素晴らしい音楽性は光を放ちつづけていく。(現在はカリス・バイヤンと改名した) リーダーのロナルド・ベルは、このバンドが持っていた実験性について1974年にこう言っている「音楽的なを伸ばすために、いつも勉強している。それに、一緒にいるときには、色々な考えを試してばかりいる。うまくいく考えもあれば、駄目なものもあるけれど、とにかく考えを探すことに飽きたりはしないんだよ」。

Heaven at Once

Heaven at Once

  • クール&ザ・ギャング
  • R&B/ソウル
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
This Is You, This Is Me

This Is You, This Is Me

  • クール&ザ・ギャング
  • R&B/ソウル
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
Wild & Peaceful

Wild & Peaceful

  • アーティスト:Kool & The Gang
  • 出版社/メーカー: Island / Mercury
  • 発売日: 1996/03/19
  • メディア: CD
 

  

 Pファンク 

やたらとメンバーの出入りがあったり、なかなか金銭の所在が明らかにならなかったり、責任者が判明しにくかったりしたせいで(略)大きな規模の混乱も生まれた。マネージャー/プロデューサーのロバート・ミドルマンは、Pファンク軍団に入った当初の「自分の仕事は、ギャラが出ない理由をミュージシャン達に説明することだった」と言っている。(略)

このような状況だったにもかかわらず、当時のPファンクによるアース・ツアーは一見の価値があるものだった。

(略)

オハイオ・プレイヤーズ、コモドアーズ、アース・ウィンド&ファイアの莫大な人気は白人にもおよんでいたが、Pファンクの場合、部外者の目には、ディスコ音楽とヴードゥー教がごっちゃになったようなものとしか映らなかった。カサブランカ・レコード重役のニール・ボガートとセシル・ホームズの支援を得たクリントンは、大胆にも、キッスやローリング・ストーンズといったロック・バンドの舞台装置を手がけた経験のあるジュールズ・フィッシャーという舞台デザイナーを使えるよう話をまとめた。(黒人音楽史上最高である) 275,000 ドルの予算で、パーラメントは(略)マザーシップを舞台に着陸させた。ニューヨーク州北部の空港にある飛行機格納庫で念入りなリハーサルがあった(略)

あらゆる点についてクリントンは途方もないことをやらかしてやろうと考えていて、みずから張りぼての車に乗ってピンプとして舞台に登場するところから始まり(略)バップ・ガンを持ったゲイリー・シャイダーが宙吊りになって飛ぶかと思うと、次から次へと大画面のアニメイションが登場したり衣装替えがあったり、最後には轟音をとどろかせてマザーシップが舞台に下りてくるといった具合だった。

(略)

Pファンク・ネタを使うことで有名な西海岸のラップ・スターの中には、当時アース・ツアーに行ってファンクのクローンとなった者が大勢いる。

(略)

興味深いのは、大成功まっただなかの1978年に、わざわざはクリントンはバンドを連れて「裏ツアー」を行っていて、大がかりな装置や衣装抜きの演奏を小さなクラブで行い(略)ひたすらジャム演奏に専念したということだ。ともかく、グループに綻び気配が見えてはいたものの、1980年のあいだは成功が持続した。

絶頂から崩壊へ

[「Flashlight」「One Nation Under a Groove」がR&B1位となり]

 普通の音楽好きな連中までもが、パーラメントファンカデリックについて怪しむようになっていた。あいつら何者なんだ?

(略)

[カサブランカは豪華付録&ジャケのアルバムを許可し]
『Motor Booty Affair』は、二つ折りのジャケットの内側に描いてあるアトランティス島の漫画が飛び出す絵本式に立てられるようになっていて、さらに多くのPファンク・キャラクターも切りぬいて立てられるようにしてあった。また、バービー人形で有名なマテル社が(ファンケンスタイン人形、ブーツィー人形、スター・チャイルド人形という)Pファンクの主要キャラクターの人形のセットを作ろうとして、実際に交渉も始まった。ただし、各キャラクターのイメージに関する権利と特許権使用料の点で同意に到らなかったため、この企画は却下された。とはいえ、どう見てもPファンクは凄かった。かなりのケチで通っているあのワーナー・ブラザーズさえもが[LP『One Nation Under a Groove』への7インチを付属を許可した]

(略)

驚異的な成功を収めるまで、Pファンクのメンバーは、旅も麻薬も愛情も、創造も演奏も生活も一緒にして、家族のようだった。ところが、成功と同時に、取り巻き連中、より強烈な麻薬、そして弁護士が現れるようになる。(略)

1981年頃には、内外から崩壊の動きが出て、グループは、強力な音楽を作ってラジオで生き残るための力を一気に失っていく。バンドの評判だけを売りにして誘われたメンバー達は、ギャラの支払いもないままツアー先や見知らぬ町で、お払い箱となった。

(略)

 1978年という早い段階で既にグループを抜けたメンバーは、公然とジョージ・クリントンを非難する内容の音楽を作った。中でも一番怒りをあらわにしていたのは、脱退後にミューティニー(謀反/反乱)というグループを作ったジェローム・ブレイリーで、最初に出した力作『Mutiny on the Mamaship』はクリントの自分勝手さをとことん愚弄した内容だったが、ミューティニーのフォンクがP印であることは歴然としていた。

(略)

 1982年にカサブランカが倒産してニール・ボガートが癌で死亡したことにより、最高に強力で気前のよい味方をクリントンは失ってしまう。また同じ頃、クリントンワーナー・ブラザーズから何かと厄介なことを言われ[前 2 作が100万枚売れたのに、二枚組の予定だった『The Electric Spanking of War Babies』を一枚にされ、男根を描いたジャケットも修整させられた](略)

いっぽう、ブーツィーズ・ラバー・バンドも、1971年にカントリー・ロックをやっていた同名のグループがいるということで、「ラバー・バンド」の名称をめぐって降って湧いたような裁判沙汰に巻きこまれることとなった。そして、信じられないことに敗訴となったため、ブーツィーは所属先のワーナー・ブラザーズに対して275,000ドルの借金を負うこととなり(略)後に発表するアルバム収益は直接ワーナー側のものとなってしまった。この契約から解放されるまで5年待った 1988年に、ようやくブーツィーは個人名義のアルバム『What'spootsy Doin'』をコロムビア・レコードから発表する。

 ほぼ一夜にしてパーラメントファンカデリックを失い(、また同じくほぼ一夜にして流行遅れとなり)、Pファンクは急降下して地面にめりこんだ。(略)

[ロジャー・トラウトマンは]不吉な兆しを見てとり、ブーツィーとクリントンの力を得てザップのデビュー・アルバムを出せるところまでこぎつけてから脱走を遂げ、P印の財政危機をうまく回避して独自の超弩級ファンクを録音する。

 「コカインが教会代わりになるまでコカインをやる」

 ジョージ・クリントンは、伝統的な黒人キリスト教家庭に育っているものの、キリスト教への関心は薄かった。麻薬を体験したことによって信条が変わったのだそうで、「1963年にLSDをやるまで本気で宗教を信じてはいなかった。それまでは、十戒も耳に入ってこなかった」と語っている。極端な話、クリントンの使命は「コカインが教会代わりになるまでコカインをやる」ことだったのだ。クリントンは、精神的表現を身につけるために型破りな方法をとり、精神性とのあいだにある境界線をPファンクという手段によって──真の普遍救済論者として──とり除いたのだ。

ゴー・ゴー・バンド

 トラブル・ファンク、E.U.、レア・エッセンス、レッズ&ザ・ボーイズ、そしてこれらのグループの師匠にあたるチャック・ブラウン&ザ・ソウル・サーチャーズといったゴー・ゴー・バンドは、一見やかましくて大所帯なだけのR&Bグループにしか見えないのだが、80年代最高に強力で熱くて本物の超弩級ファンクを演奏していた。ワシントンD.C.のクラブ・シーンでは、パーカッションを存分に駆使して1曲に2~3時間かけるのも当たり前というほどジャム演奏を延々続けるタイプの音楽が突如として盛りあがり、80年代初期、この種の音楽が演奏されていたのがD.C.にある (ブラック・ホールやコロシアムといった)ゴー・ゴー・クラブだったため、もっぱらゴー・ゴーという名で知られるようになった。

 ゴー・ゴーのビートは、ハード・コアなファンクだ──厚みがあってゆったりしたベースのグルーヴがあり、さらにそのグルーヴに加えて、ティンバレスやコンガが情け容赦なくカウンター・パンチを浴びせてきたり、ホーンがジャズ風のブレイクをきめたりするかと思うと、観客も一緒に歌ったり、誰でも知っている有名なダンス・ヒットの歌詞やリフを使ったりという具合に、すべて荒削りな迫力があるものばかりで、ラジオでかかっている80年代R&Bのディジタル性をまっこうから否定するような音だった。ゴーゴーは、都会の黒いファンクが炸烈したビートを持っていたが、音楽に対する考え方という点では、むしろレゲエやカリプソサルサといったアフロ・カリビアンのダンス音楽に見られるような延々と続くリズムと関連が大きい

(略)

ゴー・ゴーというビートを突き動かしていた最大の力は、コロンビア特別地区(District of Columbia) で苛酷な状況に取り巻かれている黒人社会(=ゴー・ゴーの聴衆)と連邦政府の重要機関である議事堂やホワイト・ハウスとが隣りあっているという強烈な皮肉だった。

(略)

ゴー・ゴー・ビートのゴッドファーザーは、1968年以来ソウル・サーチャーズというバンドを率いているチャック・ブラウンだ。疲れることを知らないブラウンは、際限なく続く単純でファンキーなグルーヴを確実に維持し、そのグルーヴを土台にして自由に遊んだり即興演奏をするという独特なR&Bを作りあげ、毎年々々クラブで数多くの演奏をこなして有名になっていった。「ずっとドラムの奴らには、あの独特なグルーヴをとにかく長く演奏させようとしてきた。あまりに単純なビートなんで、叩きたがらない奴がほとんどだ」と、ブラウンはジャーナリストのアダム・ホワイトに言っている。