フランク・ザッパ自伝

フランク・ザッパ自伝

フランク・ザッパ自伝

 

『パル・レコーディング・スタジオ』

 あの当時、サン・バーナディーノの西に位置する小さな町クカマンガに小さなスタジオがあり、『パル・レコーディング・スタジオ』の看板を掲げていた。設立者は、ポール・パフという名の奇特な紳士である。(略)
[除隊後]物件を借りたパフは、アメリカ・ポピュラー音楽の流れを変えるつもりで自らの大事業に着手した。
 まず、ミキシング・コンソールがなかったので自作した。ケースに使用したのは、1940年代の古びた鏡台である。鏡はもちろん取っ払い、本来なら化粧品をしまっておく引き出しの部分に金属板を打ちつけた。金属板には、ポリス・力ーロフのフランケンシュタイン映画でよく見るようなノブがいくつかついていた。
 テープレコーダーも自家製だった。業界の標準がモノラルだった時代に、5トラック、ハーフインチという優れものだ(俺が思うに、あのころ8トラック・レコーダーを所有していたのは、ジャズ・ギタリストのレス・ポールだけだったはずだ。パフのテープレコーダーを使えば、ハードの技術ではすっと劣るものの、レス・ポールが得意としていたオーヴァーダブが実行できた)。(略)
 自作楽曲のマスター・テープを完成させると、パフはハリウッドまで車を飛ばした。キャピトル、デルファイ、ドット、オリジナル・サウンドといったレーベルに、発売権をリースするのが目的だった。
 彼の歌の何曲かは、実際に地域限定ヒットとなった。パフが全パートをひとりでマルチトラック録音した〈ティファナ・サーフ〉なんか、メキシコで長いあいだナンバーワン・シングルに居座っている。このレコードのB面は、俺が書きギターも弾いた〈グラニオン・ラン〉というインストルメンタルだった。(略)
 俺と仕事をするようになって一年ほどが経ったころだ。パフの財政状態がおかしくなり、スタジオを手放す破目に陥ってしまった。(略)
[映画『ラン・ホーム・スロー』で]そこそこのギャラを俺も回収できた。俺はその金の一部で新しいギターを買い、残りでパフからパル・レコーディング・スタジオを「購入」した。言い換えれば、マスター・テープのリース権や借金の残りを含め、一切合切を引き継いだのである。
 同じ頃、俺の結婚生活も破綻していた。俺は離婚届にサインし、G通りにあった家を出で「スタジオZ」に転がりこんだ。かくして、一日十二時間、ろくに休みもせす、狂ったようにオーヴァーダビングをくり返す日々が幕を開けた。

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「猥褻図画作成共同謀議」

 時は1962年。俺の髪はまだぜんぜん短かったけれど、地元の連中に言わせれば長髪だった。当時、クカマンガ男性の衣類として暗黙のうちに認められていたのは、いかなる場合であれ白い半袖のスポーツ・シャツにボウタイだった。(略)Tシャツはアヴァンギャルドと考えられていた。(略)
警察はスタジオの壁にのぞき穴を穿ち、俺を一カ月近くスパイしつづけた。
(略)
オーディションを受けたあの男が、再び俺を訪ねて来たからだ。「大バカ」の役には不合格でしたと伝えてやったのだが、実生活での彼が相当な役者であったことは、すぐに判明してゆく。
 二、三週間後、またしても彼がやって来た。今回はなんと(笑うなよ)中古車のセールスマンに変装していた。彼はこう語った――仕事仲間が週末に集まってパーティーをやる。(略)みんなで観て「興奮できるようなフィルム」を作ってもらえないだろうか。(略)
フィルム制作には金がかかることを説明し、代わりにオーディオ・テープをお薦めしたのである。
 そのテープに収録すべきエッチな遊戯の数々を、彼は口頭で列挙していった。そのときは気づかなかったのだが、俺たちの会話は、彼の腕時計に仕込まれたマイクを通し、すぐそばに駐車したトラックヘとすべて送信されていたのだ(笑うなってば)。(略)
その晩、俺は居候の女の子のひとりに手伝ってもらいレコーディングを行なった。やらせの喘ぎ声とベッド・スプリングの軋む音が、合計して30分ほどできた。実際のセックスは一切なしだった。(略)
あるときは俳優志望者、またあるときは中古車セールスマン、しかしてその実態はウィリス刑事という例の男がスタジオにやって来て、俺に五十ドルを手渡した。約束は百ドルのはずだから、俺はテープの引き渡しを拒んだ。つまり、ブツは客の手に渡っていないのである。にもかかわらず、いきなりドアが開いてカメラのフラッシュが何回も閃光を発し、新聞記者がどっとなだれ込んできた。俺の両手首には、手錠がかけられていた。
 テープの録音を手伝ってくれた女の子は、俺と一緒に風俗犯罪取締班によって逮捕された。スタジオ内にあったすべてのテープとフィルムは押収され、俺の8ミリ映写機さえ「証拠」として持ち去られた。
(略)
 俺は「猥褻図画作成共同謀議」で告発された。州法によれば、猥褻図画、つまりポルノを作成することは軽罪だった。対して共同謀議は重罪であり、思わず唸ってしまうほどの懲役刑を科せられることになっていた。
(略)
 陪審員の評決は、ポルノ作成に関してのみ有罪というものだった。判決は以下のとおり。十日間の拘留に加え禁固六ヵ月。ただし、禁固刑については執行猶予三年とする。執行猶予期間中はいかなる交通違反も犯してはならないし、法的に適格な成人の立ち会いなしで、二十一歳未満のいかなる女性とも行動を共にしてはならない。
(略)
 勾留を解かれてシャバに出てくると、アーチボルト通りの拡張工事がはじまっており、俺のスタジオも取り壊されてようとしていた。俺にできることはなにひとつなく、ひどく悲しかった。(略)
 俺はクカマンガを出てロサンゼルスに移った。

初期のLAフリーク・シーン

 バンド名がザ・マザーズと正式に定められたのは、1964年の母の日だった。サイケデリックアンダーグラウンド・サーキットで、俺たちは少しずつ固定ファンを獲得しはじめていた。
 当時LAに広がりつつあった「シーン」は、サン・フランシスコのそれとは非常に大きな違いがあった。
 60年代中ごろのサン・フランシスコはとても排他的で、唯我独尊の気風に貫かれていた。
(略)
 あの当時、最高の契約金を現金で前渡しされたロック・バンドは、ジェファーソン・エアプレインだったと記憶している。二万五千ドルという前代未聞のその金額には、驚きのあまり足元がふらついたものだ。
 同じ時期のLAで、最強の切り札と見なされていたバンドがザ・バーズだった。バーズこそ「最高」だったが、ラヴと名のるバンドもまた「最高」と呼ばれた。
(略)
 俺たちが初めてサン・フランシスコに行ったのは、ザ・ファミリー・ドッグがはじまったばかりのころで、誰もが同じ衣装を着ているように見えた。まるで、19世紀末のシスコ暗黒街と、古き西部劇の世界が合体したみたいだった。つまり、男どもは往年のギャングを思わせるような立派なヒゲを生やし、女の子は、据が大きく広がったドレスを着て髪に羽飾りを刺していたのだ。対してLAのファッションは、もっと行き当たりばったりで異様だった。
 音楽的には、サン・フランシスコのバンドはいくらかカントリー色が濃かった。なのにLAは、ひたすらフォークロックだけ。どいつもこいつも、ギター・ネックのいちばん下であのクソったれた三角形のDコードを押さえ、イギリスのザ・サーチャーズがヒットさせた〈ニードルズ・アンド・ピンズ〉を典型とするような曲で指をぴょこぴょこ動かしていた。
 サン・フランシスコはごりごりのブルースを受け入れたが、バリウッドはまるでだめだった。俺が憶えているのは、ザ・トリップで演奏したポール・バターフィールド・ブルース・バンドだ。アメリカ中どこへ行ってもかれらは飛びきり熱いバンドだったのに、LAの客どもは〈ミスター・タンブリン・マン〉を聴きたがったのである。
 レニー・ブルースの姿なら、それまでにも何度となくカンターズ・デリというレストランで見かけたことがあった。いちばん手前のボックス席にフィル・スペクターと一緒に陣取って、香辛料をきかせたナックウーストというソーセージをかじっていたからだ。彼と初めてまともに話をしたのは、1966年にフィルモア・ウエストで俺たちが前座を務め、幕間にロビーで顔を合わせたときだった。俺の徴兵力−ドにサインしてくれと頼んでみたのだが――断わられた。レニーは、そんなもの触るのも嫌だったのだ。

ジョン・ウェイン

 1965年のハロウィーンの夜だった。最後のステージを控えた休憩中、俺はアクションの正面階段に腰かけていた。(略)
 店の前で停まった車から、ふたりのボディガードともうひとりの男、それにイヴニング・ガウンを着たふたりの女を従えて、タキシード姿のジョン・ウェインが降りてきた。全員がべろべろに酔っていた。
 階段までたどり着いたウェインは、俺の腕をつかんで立ち上がらせると、俺の背中をぽんぽん叩きながらこう怒鳴った。「あんたをエジプトで見たぞ。すごかったなあ……ぶっ飛んだぜ!」
 俺は一瞬にしてこの男が大嫌いになった。(略)
ステージに上がった俺は、まず客に向かって次のように挨拶した。「みなさんもよくご存じのとおり、今夜はハロウィーンであります。俺たちは今夜、非常に特別なゲストをお迎えするはずでした。アメリカ・ナチ党の党首、ジョージ・リンカーン・ロックウェル氏であります。残念ながら、党首は今夜おみえになれませんでした。でもその代わり、ジョン・ウェイン氏がいらっしゃっております」
(略)
ボディガードのひとりが[演説を始めた]ウェインの腕をつかみ、もとの椅子に座らせた。ボディガードの残りのひとりが、マイクを俺に返しながら「いい加減にしとけよ」と言った。さもないと、どえらいことになるそうだ。(略)
 店から出るには、ウェインのテーブルの脇を通るしかなかった。俺が通りすぎようとすると、ウェインが立ち上がり、俺の帽子のてっぺんをぐしゃりと押しつぶした。俺は帽子を脱ぎ、もとどおりに押し戻した。やつはかっとなってわめいた。「貴様の中折れ帽を直してやったのが、そんなに気に喰わないのか?中折れ帽なら、俺は四十年もかぶってるんだぞ」俺が帽子をかぶりなおすと、やつがまた押しつぶした。「あんたが詫びを入れたいと言っても、俺は聞く耳もたないからな」これだけ言い残し、俺は店を出た。

サイモン&ガーファンクル

 1967年のある雨の日、俺はニューヨークのマニーズ楽器店にいた。濡れそぼった小柄な男が店に入ってきて、ポール・サイモンだと自己紹介した。今夜、自宅での夕食に俺を招待したいと言う。(略)
[家に行くとステレオ・セットの前で四つんばいになって]スピーカーに耳をくっつけてポールが聴いていたのは、ジャンゴ・ラインハルトのレコードだった。
 それからすぐ――特にこれといった脈絡もなしに――ポールは愚痴をこぼしはじめた。今年は所得税を60万ドルも納めなければいけないので、すっかりまいっていると言う。聞かせて欲しくもない他人事だが、俺はついこう考えてしまった。いつの日か、俺も60万ドル稼いでみたいものだ。これだけの金額を所得税として払うには、いったいいくら稼がなければいけないんだろう?そのうちアート・ガーファンクルもやって来て、俺たちは雑談に興じた。
 ふたりはもう長いことツアーをやっておらず、「懐かしいあのころ」の追憶に耽っていた。ふたりが昔トム&ジェリーと名のっていたなんて俺は初耳だったし、その名前で〈ヘイ・スクールガール〉というヒット曲を出していたというのもまったく知らなかった。
 俺はふたりに言った。「ツアーの歓びをもう一度経験したいという君たちの気持ちは、俺にもよくわかる。だからひとつ提案させてくれ……[明日内緒でS&Gの曲は一切無しで前座出演しないか]
(略)
 かれらはトム&ジェリーとして前座をやり、M・O・Iも自分たちのショーをこなした。アンコールで、俺は観客にこう言った。「ふたりの友人を改めてステージにお招きし、もう一曲やってもらいたいと思う」かれらが登場し、〈サウンド・オブ・サイレンス〉を歌いはじめた。ここに至って、客はようやく気づいた。このふたり、唯一無二にして最高無比の、サイモン&ガーファンクルだったんだ。

シカゴの石膏型取屋

 俺がシンシア・プラスター・キャスターと会ったのは1968年、シカゴのアンフィシアターでクリームの前座をマザーズが務めたときだった。クリームは解散の直前で、三人のメンバーは互いに憎みあっていた。ロード・マネージャーからリムジンまで、すべてが三つずつ準備されていたくらいだ。
 バックステージで雑談をしていると、エリック・クラプトンが俺に「プラスター・キャスターという名を聞いたことがあるか」と質問してきた。ないと答えると、彼が言った。「ならショーのあと一緒にきてくれ。ちょっと信じられないほどの娘だから」俺たちは連れ立って彼のホテルヘと向かった。(略)
ひとりは小さなスーツケースを持っており、その側面には楕円形に切ったボール紙製のワッペンが貼りつけてあった。「シカゴの石膏型取屋(プラスター・キャスター)」と言いてある。もうひとりの娘は茶色い紙袋を抱えていた。(略)
ふたりが取り出したのは、何体かの小さな「石膏像」だった。「これがジミ・ヘンドリクスので、こっちがノエル・レディング、そしてこれが、どこそこのバンドのローディー……」
(略)
 二時間か三時間、俺たちはふたりと話しこんだ。俺もエリックも、自らの姿を「永遠に」残してもらおうとはしなかった。(略)
 シカゴの石膏屋たちの段取りを説明しておこう。ひとりがアルギン酸塩を水に溶かしているあいだ、もうひとりが男にフェラチオを施す。ご想像に違わず、この種の作業は科学者なみの正確さで実行されねばならない。どろどろになった液体の入っている容器が、男のセガレにかぶせられるジャストのタイミングで、フェラチオ担当者は男から身を離す。溶液係は、アルギン酸塩が充分に固まって立派な型が取れるまで、容器をそのままの姿勢で保持しつづける。シンシアは溶液を担当しており、フェラチオはもうひとりの女の子の仕事だった。
 逆に、「型を取られるほう」にもそれなりの集中力が要求される。勃起を持続させられなければ、その男の立派な型は完成しない。
 シンシアから聞いたのだが、ヘンドリクスは溶液のネバリがえらく気に入ってしまい、自分の型と一発やったそうだ。

解散

 1969年になると、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルの興行主であるジョージ・ウェインが、東海岸を回るジャズのパッケージ・ツアーにマザーズを加えたら面白かろうと考えた。俺たちは、ローランド・力−ク、デューク・エリントンゲイリー・バートンの三組に合流
(略)
 出番を待っているとき、俺は、十ドルの前借りを必死になって頼んでいるデューク・エリントンの姿を見てしまった。気が滅入るにもほどがある光景だった。自分たちのショーを終えたあと、俺はみんなにこう言った。「もう終わりにしよう。バンドは解散だ」
 いくつかの変遷を遂げながらも、あの時点での俺たちは五年ほど一緒に活動していた。しかし、俺の眼の前で、突然すべてがお先真っ暗になったのだ。あのデューク・エリントンでさえ、バックステージでは、ジョージ・ウェインの子分からたった十ドルを恵んでもらわなければいけない。それなら俺は、ロックンロール――あるいはロックンロールらしきもの――を演奏しようとする十人編成のバンドを率いて、いったいなにをやってきたんだ?
 メンバー全員に、俺は二百ドルの週給を払っていた。仕事があろうとなかろうと、年間を通じて毎週だ。仕事があるときは、宿泊費と旅費もすべて俺が出した。メンバーたちは、まるで生活保護が打ち切られたかのように激怒したが――あのとき、俺はすでに一万ドルの赤字を背負いこんでいた。

次回に続く。

 

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