ダイヤモンド・スカイのもとに

前日ネタに関連して、下書き欄に眠っていた本を。
分量が少ないから、他の本と一緒に紹介しようとして忘却……、だったんじゃないかなあ。

ダイヤモンド・スカイのもとに

ダイヤモンド・スカイのもとに

インテリフォークがロックしてサイケ

[ビートルズ上陸でフォークが見捨てられる]
 パロアルトでジェリー・ガルシアは光明を見い出した。(略)「おれたちはブルース志向のローリング・ストーンズふうのバンドだったから、最初のギグ(一晩限りの出演)の契約がもらえたんだ」とガルシア。「なぜサイケデリックが生まれたかについては音楽理論上のもっともな理由があるんだ」とカントリー・ジョー&フィッシュのバリー・メルトンが『ギター・プレイヤー』誌で語っている。「サイケデリック・ミュージックはドラッグによって誘発されたものというよりむしろ、それは生真面目なフォーキーの音楽理論かぶれの連中が作ったものなんだ。連中は、町のはずれでガムをくしゃくしゃ噛んできちんとしゃべれないやつら、つまりロックンロールのプレイヤーと力を合わせて、ブルースとブルーグラスを演奏したってわけさ」。

モントレーは商業主義

「現在あちこちでいいかげんで、けちな集会などが計画されているが、なかでもモンテレーのポップ・フェスティバルは最低だ」とロック・スカリー[グレイトフル・デッドのマネージャー](略)
 ゴールデンゲート・パークのヒューマン・ビー・インに誘発されたモンテレーのポップ・フェスティバルは、ハリウッド式のあまりにも目に余る金儲け主義のはるかに活況を呈しオーガニックなミュージック・シーンの尻馬に乗る試みではないかと、ベイ・エリアのバンドに感づかれていた。
(略)
作家カール・ゴッドリーブは言う。「(略)北と南は分裂してたんだ。南カリフォルニアは北にいたわれわれに、本物を真似ていると思われていたんだ。われわれは真剣な生き方をしていたから優越感を持てた。これに反して、ロスの連中から見れば、サンフランシスコの若い女はわきの下の毛を剃らず、われわれはみな、連中は健康食中毒だと思ってたんだ」
(略)
もっと冷静で皮肉な見方をする部外者の目から見ると、モンテレーのフェスティバルは急速に広がりつつある音楽産業のための見本市にしかすぎなかった。
(略)
モンテレーが世間一般から見て、アシッド時代の始まりだとすれば、それはサンフランシスコ自体の終わりの始まりだった。スターが生まれ、商取引が行なわれた。だが、モンテレーのフェスティバルはベイ・エリアのボールルームが持つ無垢さ、イノセンスを永遠に汚してしまったのである。

スライ&ザ・ファミリー・ストーン

[サイケとマントラがあふれた69年にサンタナがラテンで突出]
同じポリリズムの領域に大胆にも踏み込んで来たのはスライ・ストーンで、オータム・レコード社の入口にやってくる無数のバンドを彼の苛立った迫力で威嚇していた[←スライはオータムでプロデューサーをやっていた]。バンドをフルタイムで率い、スタジオの苦役から逃げたいというのがスライのひそかな夢だった。ヘイト・アッシュベリーのフリーキングな営みに加わって突出し、ラジオで意欲的にロックとソウルをミックスしたため、スライ&ファミリー・ストーンは必然的に並のバンドではなくなった。事実彼のバンドは他人種のヒッピー・ソウルを奏で、ヘイトと、ブラック・パンサー誕生の地オークランドとの間の溝をつなぐ架け橋となったのである。