ビートルズとアメリカ・ロック史

前日のつづき。

ビートルズとアメリカ・ロック史―フォーク・ロックの時代

ビートルズとアメリカ・ロック史―フォーク・ロックの時代

ジム・ディクソンはデモを大物プロモーター、ベン・シャピロに渡し、それを娘が聴いてビートルズみたいと興奮。翌日シャピロ邸訪れたマイルス、その話を聞くや、即座にCBSプロデューサーにデモを聴いてみろと電話。契約となるも、シングル2枚、成功すれば5年延長という厳しいもの。

[マッギン証言]ティックナーが “Birds”といったとき、私はすぐに反対した。なぜならイギリスでは“女の子”のことをスラングで“Birds”と表現していたからだ。するとティックナーは綴りを“Burds”に変えることを提案した。そこで私は、それなら“Byrds”のほうがいいといった。それで決まりだった。
マッギンの頭のなかにはアメリカの有名な探検家バード提督のことがあったともいわれる。

64年12月ツアーでロスを訪れたディランがジム・ディクソンに「なにか面白いことある?」と電話、バーズは《ミスター・タンブリン・マン》を披露。フォークロック化した自分の曲に当惑しつつも影響され一ヶ月後『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』録音。
65年1月20日バーズ《ミスター・タンブリン・マン》を録音。
CBSは社内プロデューサーに固執、ディクソンはマネージャーに回り、テリー・メルチャーがつく。バーズはマッギン、クラーク、クロスビーの三人だけが招集、しかもマッギン以外はコーラスのみ。ビル・ピットマン、ジェリー・コール、レオン・ラッセル(ミックスで消去)、ラリー・ネクテル、ハル・ブレイン等が演奏。会社は売り方がわからず放置し、3ヵ月後にようやく発売。

 メルチャーは《ミスター〜》の出来に満足しながらもスタジオ・ミュージシャンを起用したことに疑問を感じ、次のレコーディングからバーズのメンバーだけでセッションを行なう(略)[シングル2枚契約にも拘らず]メルチャーは、おそらくは独断でバーズの[アルバム用]セッションを重ね(背景に母親ドリス・デイの存在があったと思われる。彼女はCBSの株を大量に保有し、また歌手としても同社の看板スターの1人だった。つまり“お坊ちゃん”に文句が言える社員はいなかった)

65年8月英国ツアー「ビートルズに対するアメリカの回答」というプロモーターの売り方が反感を買う。18歳のロン・ウッド!がバンド名をパクられたと抗議。

[クロスビー証言]顔を上げるとジョン・レノンブライアン・ジョーンズが見えた。その瞬間、完全にパニックのようになった。信じられなかった。しかもその夜のステージは最悪だった。クリス・ヒルマンが弾いていたベースの弦は切れ、ステージは狭く窮屈で、ヒーローの前でとんだ失態を演じてしまった。

[マッギン証言]ジョンが最初にいったのは「その小さなメガネ、どこで買ったんだ?」だった。私はジョンに教えた。しばらくしてビートルズの新しい写真をみると、ジョンが私と同じメガネをかけていた。そしてそのメガネはジョン・レノンのトレードマークのようになった。だから私は別のメガネをかけるようになった。とにかく信じられなかった。
[半年前まで無名だった俺がビートルズと会話できるなんて]

  • 《恋をするなら》元ネタ



10月《恋をするなら》録音。ジョージは《リムニーのベル》のイントロとシングル《ターン・ターン・ターン》のB面《シー・ドント・ケア・アバウト・タイム》のドラミングを取り入れ完成させた。広報デレク・テイラーにその旨をバーズに伝えるよう指示。なぜなら一旦は『ラバーソウル』に収録が決定したのに、フィットしないとジョンとポールがボツに。そこでせめてバーズには伝えておきたいとジョージは考えた。

ホリーズのプロデューサー、ロン・リチャーズが同僚のジョージ・マーティンホリーズ用の新曲を打診する。マーティンはアルバムに収録されないことが決まった《恋をするなら》のアセテート盤を渡し、気に入ったホリーズは11月、次のシングル用として吹き込む。
 その後、事態は急変する。ジョンとポールは一度はその曲を除外したものの期日内に新曲を完成させることができず、窮余の策として同曲を収録することで帳尻を合わせようと考える。ロン・リチャーズとホリーズそしてジョージ・マーティンにしてみれば「話がちがう」ということになり、ホリーズのシングルを12月1目、同曲が収録された『ラバー・ソウル』をその3日後に発売することで決着をみる。

66年ラストコンサート前日の会見

「好きなアメリカのグループは?」との問いにジョンが「バーズ、ラヴィン・スプーンフル、ママス&パパス」と答え、ポールがビーチ・ボーイズ、さらにジョンが思い出したようにミラクルズをつけ加える。またこの記者会見にはクロスビーがスタッフ然として同行、記者の「あなたたちの右後方に立っている長髪の男性は誰ですか?」との質問を受けてクロスビーがカーテンの背後に身を隠す一幕もあった。ジョンが「彼は友人のデイヴ、すごくシャイなんだ」と答えている。

 本書の流れに沿えば、トム・ウイルソンからジム・ディクソンヘと受け継がれた「フォーク・ロックのトーチ」は、ルー・アドラーに手渡される。着のみ着のままでロサンゼルスにやってきたママス&パパスは(略)ルー・アドラーの慧眼によって夢の破片を手中にする。
 ルー・アドラー、1933年、イリノイ州シカゴに生まれ、ロサンゼルスで育つ。59年、友人のハーブ・アルパートとともにジャン&ディーンの《ベイビー・トーク》等のシングルをプロデュース(略)62年には女優シェリー・フェブレーが歌う《ジョニー・エンジェル》をプロデュース、それが縁で結婚する。
 アルパートと別れたのちの64年(略)[ジョニー・リヴァースと出会い、ダンヒル・レコード設立]
第1回発売アルバムは、P.F.スローンとスティーヴ・バリによる架空のグループ、リンコン・サーフサイド・バンドによる『サーフィン・ソング・ブック』、2作目が当時もっとも売れていたセッション・ドラマー、ハル・ブレインの『ドラムス!ドラムス!ア・ゴー・ゴー』(略)3作目のアルバムがバリー・マクガイアの『明日なき世界』となる。

ダンヒル第五弾マクガイア『ディス・プレシャス・タイム』にコーラスとして起用され、《夢のカリフォルニア》はリードVoマクガイアで録音される。

This Precious Time/ The World's Last Private Citizen

This Precious Time/ The World's Last Private Citizen

マクガイアの《夢のカリフォルニア》は、具体的な指摘はできなかったものの現場にいた(マクガイアを除く)誰もが「なにかがおかしい」という感覚を抱いていたという。P.F.スローンがバーズの《ミスター・タンブリン・マン》を強く意識して編曲(略)ヴェンチャーズの《ウォーク・ドント・ラン》からヒントを得たリズム・ギターを弾いている)(略)
予算は限られている。アドラーは、マクガイアとママス&パパスがレコーディングしたテープからマクガイアのリード・ヴォーカルを削除、ドハーティのリード・ヴォールをオーヴァーダビングする。[マクガイアのハーモニカをバド・シャンクのフルートに差し替え]

[マクガイア証言]
私は《夢のカリフォルニア》を2枚目のシングルとして出すことを主張した。ところがジョン・フィリップスがやってきて、自分たちもレコーディングをしていいかと聞いた。私は「もちろん!君が書いた曲じゃないか」といった。(略)
まさか自分が録音したテープから自分の歌が消され、おまけにハーモニカ・ソロまで跡形もなくなるとは思いもしなかった。私はママス&パパスが最初からレコーディングをやり直すものと思っていた。とくにハーモニカを消されたのは痛い。私は真昼間だというのにありったけの感情を注いで吹いた。しかし、よく聴けば私の声が残っていることに気づくだろう。最初のフレーズを歌い出す瞬間の左チャンネルに注意してほしい。かすかに私の声が聴こえるはずだ。もっともそれを発見したのは私の息子なんだが。

アドラーとジャズ

換言すればママス&パパスとは、[アドラーが傾倒した]ジョージ・シアリングと(フィリップスが影響を受けた)フォー・フレッシュメンのフォーク・ロック的融合ということができる。(略)
[アドラー談]ジョージ・シアリングを聴きながら育ったせいだろう、私はピアノやハープシコードをリズム・セクションとして使うのが好きだった。(略)[キャロル・キングの《イッツ・トゥー・レイト》]ではピアノが最初から最後までずっと鳴り響いている。

  • 霧の8マイル

フォーク・ロックの終焉とサイケの到来を明確にしたのは、66年9月に全米ヒットしたドノヴァン《サンシャイン・スーパーマン》だが、バーズ支持者は四ヶ月前の《霧の8マイル》にそれを見る。

マッギンはコルトレーン『アフリカ/ブラス』に衝撃を受ける。クロスビー曰く、マッギンはサックスを12弦ギターに置き換えた。
初期ヴァージョンは65年12月RCAスタジオで録音され、エンジニアはデイヴ・ハッシンガー、ストーンズ《サティスファクション》と同じ環境。
RCA録音ヴァージョン

  • モンタレー・ポップ・フェスティヴァル

 ビートルズの元広報担当デレク・テイラーは、ビートルズを出演させようと交渉に乗り出す。4月9日、折からデンバーに滞在していたポール・マッカートニーフランク・シナトラ所有のリア・ジェットでロサンゼルス到着(略)[ライヴ活動停止中の]ビートルズ出演は不可能、しかし実行委員として名前を連ねることを承諾、出演者としてジミ・ヘンドリックスを推薦すると同時にポスター用にイラストを描くことを約束する(ポールは翌日、ブライアン・ウイルソンの自宅を訪ね、「もうすぐビートルズの新しいアルバムが出る。君も急いだほうがいい」と伝える。翌々日、ロンドンに向かう機内で“マジカル・ミステリー・ツアー”のアイデアと歌詞の断片をメモ用紙に記す)。
(略)
 8月8日、ジョージ・ハリスンとパティ夫妻、物見遊山気分でヘイト・アシュベリーを訪れる。案内役はデレク・テイラー。アコースティック・ギターを抱えていたためヒッピーから歌をせがまれ、《ベイビー・ユアー・ア・リッチ・マン》の一節を歌う。
[8月18目、ママス&パパス解散。ラストコンサート前座はジミ・ヘン。9月下旬、バーズ、クロスビーを解雇。11月、雑誌「ローリングストーン」創刊。新聞形式の1面には、映画『僕の戦争』撮影中のジョン・レノンの写真、トップニュースは「モンタレーの金はどこにいった?」、他には「ドノヴァンとっておきのインタヴュー」「バーズのマッギン、クロスビーを蹴り出す」等の見出し]

明日はモンタレー関連本。
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