ファンク 人物、歴史そしてワンネス その2

前回の続き。

ファンク 人物、歴史そしてワンネス

ファンク 人物、歴史そしてワンネス

 

ジミ・ヘンドリックス

「If 6 was 9」という曲で、ジミは、自分が挑戦しようとしていた社会的/文化的な対立を見事に表現したのだ。


ワイシャツを着た頭の固い奴が通りをさっさと歩いていく
人形のような指で俺を指していく
あいつらは思ってる、俺みたいな人間は落ちこぼれて死ぬだろうと
でも、俺は変てこな旗を高く高く振りあげる
いつまでも振りつづける
山々よ、崩れろ。俺の上にだけは崩れてこないでくれ
ビジネス・マンさん、そのまま歩いていけよ。
あんたに俺みたいな格好はできないだろ。


 この台詞に合わせて流れるのは、まったく型に捉われない宇宙的なグルーヴで、やがてブルーズのリフが熱く始まるが、それさえも越えたものになっていく。(略)さらに広がりを見せる演奏に乗せて、ジミの囁く声が流れてくる:「俺が死ぬときに死なないといけないのは俺なんだ/だから、俺の人生を生きさせてくれ/俺の好きなように」
 1969年8月にウッドストックに出演した際の6人編成のバンドは(略)[ビリー・コックス、ミッチ・ミッチェル]アフリカ系ラテン人のパーカッション奏者が2人(ジェリー・ヴェレズとジュマ・サルタン)、黒人リズム・ギター奏者のラリー・リー(略)
3日間の最後を飾ったジミの演奏は、明らかにアフリカの多重リズムのエネルギーをはらんでいた。しかし、音響担当者達は、ジミとミッチェルの音つまりエクスピアリアンスの音だけを残して、パーカッションの音とジミ以外のギターの音はほとんど聞こえないようにミックスしてしまった。
 ジミが世界に発表したアフリカの合奏は、ミキシング・ボード上のすっとした手の動きひとつによって消えたのだ。ジミの自伝を書いたデイヴィッド・ヘンダースンが言っているように「アフリカの太鼓が出した音が消え、アクースティックな音すべてが空気の中に消えた」のだった。

アイザック・ヘイズ

[ディオンヌの「Walk On By」]を、男の苦悩を歌い上げる作品へと生まれかわらせている。合計4曲を収録した『Hot Buttered Soul』は、安酒場でのムーディーなライヴをヘイズ流に解釈[した感じで](略)滑らかなリズムのバックの演奏に乗せ、愛のために泣き笑いする人間模様をヘイズが延々と語る。(略)
 同アルバムは、2ヵ月間ジャズ・チャートにとどまった。間違いなくロックの部類に入る作品なのだが、この作品に合うジャンルが当時はまだ存在しなかったのだ。
(略)
ネルスン・ジョージが、次のように書いている。「アイザック・ヘイズは『Shaft』と『Black Moses』によって、黒人音楽のレコードが持つ経済効果の幅を広げた。官能的なテンポにのって流れるヘイズの長い曲を十分に味わおうと思うと、LPを買わなければならなかった。つまり、それまでシングルを買っていた黒人音楽ファンがアルバムを購入するようになるという変化が生まれたのだ」 

Hot Buttered Soul

Hot Buttered Soul

  • アーティスト:Isaac Hayes
  • 出版社/メーカー: Conco
  • 発売日: 2009/07/28
  • メディア: CD
 

 

Black Moses

Black Moses

  • アーティスト:Isaac Hayes
  • 出版社/メーカー: Stax
  • 発売日: 1990/01/05
  • メディア: CD
 

  

レイ・チャールズ

メイシオ・パーカーは、チャールズからこの上なく大きな衝撃を受けたようだ:「俺がレイ・チャールズから得たものは、レイの魂と優しさ、それからレイのやっていたことがどれだけ深くて意味のあることかっていうことだった。それはつまり、ある意味では、俺にとっては、レイのスタイルが持っている感覚だし、ソウルなんだ」。さらにジョージ・クリントンの言葉を借りると、チャールズは元祖「ファンキー男」で、レイ・チャールズという人物の中に初めてファンキーという概念を見出したのだそうだ:「おそらく『What'd I Say』は、この世で一番ファンキーなレコードのはずだ──あれが理想なんだ…。(略)」
 チャールズを手本にゴスペル方式の曲作りで魅力的な「世俗の」音楽を作るという伝統の幅をさらに広げたのが、ソウルのゴッドファーザーことジェイムズ・ブラウンだった。(略)
[その]ことを、ブラウンは自伝の中で認めている:


ゴスペルを歌うというのは、音楽全般ついて勉強するために役に立つ。ゴスペルには、一定の公式がある:様々なパートを習って、それを一緒にしていくという公式だ:第1テナー、第2テナー、バリトン、バス。楽器を組み合わせていくときも、同じことだ。それで、俺もピアノを弾く前からコードを知っていた。(略)とにかくゴスペルを山ほど歌っていたから、ピアノに触って、それまで聞いたコードを探しさえすればよかった。

 

 若い歌手やミュージシャンにとって、黒人教会で聖歌隊に入ったり演奏をしたりするということは、何時間も何時間も練習することを意味すると同時に、精神性と連帯感が豊かになるということでもあった。

1967年

[ジェリー・ウェクスラー談]
「僕の知ってるミュージシャン達は『Cold Sweat』からもの凄い影響を受けていた。とにかく興奮しまくってたよ。これからどうしたらいいのか、誰もさっぱり分からなくなったんだ」。さらに、1967年は、全米で最大規模かつ最も激しい暴動の起こった年でもあった。そして、オーティス・レディングとジョン・コルトレーンの死亡した年でもあった。他のものはすべてばらばらになりつつあったが、アメリカ黒人は、音楽という声を見つけたという感じだった。(略)
カーティス・メイフィールドとインプレッションズが、1967年後半にヒットした「We're a Winner」という曲の中で、当時の黒人音楽にあふれていた前向きな気分をうまく表現している:

 

我らは勝利者
この真実は誰もが知っている
ただひたすら突き進んでいく
リーダーが言うように
ついに、恵みの日がやって来た
きみがどんな過去を持った人間であろうとかまわない
皆でこのまま昇っていくのだから 

We're a Winner

We're a Winner

  • インプレッションズ
  • R&B/ソウル
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

『What's Goin' On』 

アルバム『What's Goin' On』誕生の経緯について、マーヴィンは(略)次のように語っている

 

ウッドストックの様子を見て、ああ、まるごとひとつの世代が新しい道に足を踏みだそうとしてるんだと思ったんだ。自分の音楽も新しい道を進まなければとしみじみ感じた。モータウン側があくまで会社という姿勢をとっていたから、僕はあまり自由に息ができなかったけれど、気持ちがしっかりしてきていたから自分のやり方を始められると思えていた。ヴェトナムから帰ってきた弟のフランキーから色々な話を聞いたときは、血が沸きたったよ。何かをつかんだ、怒りとかエネルギーとか芸術的な視点とかをつかんだって分かった。もういい加減なことをしている場合じゃなかったんだ。

 

(略)レスター・ヤングの滑らかな旋律を聞いて感動を受け、途切れることなく流れるアルバムの良さが理解できたマーヴィンは、自分も勇気を出してやってみることにした。

ジャズとファンク

サン・ラは、電子楽器を使うジャズ・フュージョンの時代より何十年も先を行っていたし、即興音楽に宇宙への指向をとり入れたのもサン・ラだった。

(略)

[ポップスとジャズの融合(fusion)]

この流れを作る大きなきっかけとなったのは、1965年にインストゥルメンタルの「The In Crowd」という曲をポップ・ヒットさせたラムズィー・ルイスだろう。身体を揺らしやすい転がるようなリズムに乗せて、旋律楽器の役目となる電気ピアノを大音量で使うのが目立ったこの曲の出現で、まったく新しいポップスが生まれたのだ。ジュリー・コリエルの著作『Jazz-Rock Fusion』の序文で、ルイスはみずからの作品の背景について、次のように述べている

 

無意識のうちに、それまでずっと耳に入っていた音楽の中からいくつかを合成して自分達の音楽を作っていた: それは、黒人教会の音楽(の聖歌のようなパターン)、リズム・アンド・ブルーズ(のメロディアスな反復リズム)とジャズだった。クラシック音楽も練習したことがあったから、ヨーロッパの和声や音楽的技術や理論の影響が編曲に出ていることもある。ミュージシャンや評論家やその他の連中からは、反則だと騒がれた。当時そういう連中は、他の種類の音楽、特にR&Bをジャズにとり入れるのは冒涜だと言っていた。 

1967年のマイルス

当時、評論家もほとんど気づいなかった事実なのだが、マイルス・デイヴィスは路上のリズム、特にジェイムズ・ブラウンのリズムから刺激を受けていた。(略)

 

ジェイムズ・ブラウンをよく聞くようになっていた。気に入ったのは、ギターの使い方だった。俺はずっとブルーズが好きで、ずっとやりたいと思っていた。だから、あの頃はマディー・ウォーターズやB.B. キングを聞いて、ああいう音調を自分の音楽で出せる方法を見つけたいと思っていた……。昔、毎週月曜日にシカゴの33丁目のミシガン通りあたりでマディーが演奏していたときは、俺もシカゴにいあわせたら、必ず聞きにいった。マディーのやってることを自分の音楽にとり入れないといけないと思っていたからだ。1ドル50セント払ったら聞ける音、ドラムとハーモニカとコードふたつしか使わない音をだ。それまで俺達のやってきたことはあまりに抽象的になりすぎていたから、あの時は、あの音に戻らないといけなかったんだ。

 

 しかし、マイルス・デイヴィスが考えていたのは、単にジェイムズ・ブラウンのリズムを真似することではなかった。マイルズの音楽はグルーヴを見つけると、そのグルーヴをひっくり返してから壊してばらまき、ふわふわ漂うように流れて、ごくたまにブリッジが入ったりテンポが変わったりするだけで延々とソロが続いていくのだ。

「ヒップ・ホップが新しいジャズなのだ」

ディジー・ガレスピーが自伝の中で明らかにしていることが、ひとつある:

「ジャズは、踊るためにできたものだ。したがって、ジャズを演奏したときに、聞いている人が踊ったり足を動かしたりしたい気分にならないようなら、ジャズの理想とするものから遠ざかっていっているということだ…。我々の音楽を聞いて踊りたくなるのは、リズムの感じが伝わっているからだ」。

 しかし、巨人と呼ばれるミュージシャン、それも特に若い世代のミュージシャンの中には、苦労して古典的ジャズの音を守ってきたため、電子楽器を使ったジャズやジャズにルーツを持つダンス音楽を断固攻撃する者もいる。1991年の「Goldmine」誌でウィントン・マーサリスがこう語っている。「僕の世代のミュージシャンは、子ども時代から大きくなっていく過程で、ブルーズとかそういう音楽を演奏したりしなかった。ファンクやポップをやったんだ。そこからジャズをやるところまでには長い距離がある。こいつは、ほんとうに長い。この上なく真剣にやりたいという気持ちがなかったら、スウィングを勉強したりスウィングできるようになるためにいつも頑張ったりなんていうことはできないんだ」。マーサリスが古典的ジャズを支持している点は尊敬に価するが、技術ではなく姿勢という視点からジャズを論じる者もいる。パブリック・エナミーの公認「情報相」であるハリー・アレンは、「ヒップ・ホップが新しいジャズなのだ」と断言している。

 これを飛躍した発言だと感じるむきには、ファンクがいいヒントになるだろう。アレンは、持たざる黒人という視点から、40年以上の歳月にわたって黒人の「民族自決の気持ち」が連綿と続いてきたことを言っているのだ。唯一の失われた輪が、ファンクの時代なのである。バップ・ジャズは、マルカムXを含む多くの人間にとって、1960年半ばまでずっと黒人民族主義を表現する音楽の中心的存在であり続けた。その後、1980年代にヒップ・ホップ文化が成長するまでのあいだ、1970年代を通じてずっと「民族自決の気持ち」を持ちつづけていたのは、(そもそもソウルと呼ばれていた)ファンクだった。マイルス・デイヴィスは、このことを理解したから音楽性を変えたのだ。「伝統的」ジャズを断ち切ったのは、ファンクに近づいていくためであり、人々に近づいていくためだったのだ。マイルスが最後に録音したのはヒップ・ホップ以外の何ものでもなく、人々のための音楽以外の何ものでもなかった。商業的にマイルスより成功したが、ハービー・ハンコックもまったく同じ方向に動いた。ジェイムズ・ブラウンのバンドをよくよく注意して聴いてみれば分かると思うが、ミュージシャン達は、リズムを加工せずに路上の雰囲気をぷんぷんさせてジャズを演奏している。これこそが、ファンクなのだ。

NATRA

大手レーベルが黒人アーティストに対して進歩的な空気を持つようになった原因のひとつには、NATRAの下部組織である「公正放送委員会」が強硬策をとっていたことが挙げられる。NATRAとは、黒人ラジオDJやレコード宣伝担当者による団体で(略)[最初は同業者の情報交換・人脈作りの場だったが]黒人DJの影響力が強まるにつれ、NATRA定例総会の運営方針も武闘色が濃くなっていった。

 1960年代の半ば、黒人DJは、行進や集会の告知をしたり(略)重要なニュースを届けたりというように、公民権運動において重要な役割を果たした。特にその影響力の大きさが発揮されたのは(略)[キング牧師暗殺の夜]規定を無視して深夜まで放送を続けたため、聴衆は絶えず最新情報を得ることができて平静を保った。(略)

[暗殺から数カ月後の第13回総会では]攻撃的な調子の演説が次々と行なわれた。(略)

 それまで「体制」にむかって脅しをほのめかしていただけだったのが過激になり、この日は出席していたレコード会社の重役に直接攻撃がしかけられたのだ。ピーター・ガロルニックの著作「Sweet Soul Music」によれば、アトランティック・レコードのプロデューサーとして知名度と尊敬を集めていたジェリー・ウェクスラーが槍玉に上げられた; その他、殴りあいの喧嘩があったという報告があるし、ピストルで殴られたり拉致や脅迫や殴打の被害を受けたりした人々が出たという報告もある。(略)

[アイザック・ヘイズの回想]

「俺もいたけど、あいつらはレコード会社の重役連中を拉致して船に連れていって、要求を並べたてたんだ。『おい、おまえらは、俺達の上前をはねてるんだ。今度は金を返してもらおうじゃないか』って言っていた……。あの後、レコード会社は前に較べると少しは黒人アーティストに対して気を使うようになったかな」

 が、実際には、レコード会社は以前より黒人アーティストをそつなく扱うようになっただけだった。NATRAや他の黒すぎる団体(やアーティスト)を支持することをやめる一方で、新しく黒人の宣伝担当者や仲介人をごっそり雇ってパーティーに出席させることによって厄介な人種問題をうやむやにし──仕事のほうは従来のまま続けていったのだ。その結果、音楽業界は「人種が融合した」ものの、実質的な力の持ち主が変わることなどまったくなかった。「もし俺達が成功していたなら、黒人ラジオの現場がすべて変わっていただろう。だが、レコード会社を持っていたのは白人だし、ラジオ局を持っていたのも白人だったから、俺達が変えることなどできなかった」とジャック“くちさきジャック”ギブスンは言っている(1960年代後期、黒人国家主義が最高に熱かったときでさえ、全米にある合計300以上のR&B系ラジオ局のうち黒人所有のものは8局しかなく、しかもそのうち3局はジェイムズ・ブラウンが持っていた)。

ブラックスプロイテイション

[黒人アクション]映画音楽のアルバムは、突きつめて言うと、非常に重要な機能をふたつ果たしていた:第一に、映画全体に関して同じことが言えるのだが、けっして有名とは言えないアーティストの場合、単独ではレコードを発表して配給するのが難しくても、映画音楽アルバムという形でなら仕事になるということ。第二に、そしてこれが重要な機能なのだが、映画音楽には幅があるので、映画の中の様々な雰囲気すなわち自分達黒人の様々な気分を追及──して描写──しているということだ。映画音楽のアルバムが生みだした多様さと持続力は、当時一線のファンク・バンドと肩を並べられるほどであったし、何百万という人々が映画音楽のファンキーなリズムに合わせて踊っていたのだ。

 手強く奇想天外なイメージの黒人が映画の中で活躍するようになるとともに、それに輪をかけて口が達者で路上叩きあげの黒人コメディアンが津波のような勢いで登場し、全米に嵐を巻き起こした。(略)

アル中、ポン引き、娼婦、黒人の「フォンキーさ」をネタにしたつまらないお笑いは、ずっと以前から売れないコメディアンが黒人ナイトクラブでやっていたが、本当の意味で成人向けのお笑いが商品価値を持つようになったのは、1970年代になってからだった。「ドウルマイト」ことルディ・レイ・モアは、多彩な活動で徹底的に下世話な笑いを売りにしていて、1970年に『Eat Out More Often』というお笑いアルバムを出し、「アメリカ初のX指定レコードを出したコメディアン」とみずから称した。スーパーヒーローの主人公が麻薬の売人から町を救うという内容の映画「Dolemite」は(略)黒人の闇社会を文化遺産として残した名作と呼べるのだ。

(略)

リチャード・プライアーが脚光を浴びて数年のうちに、成人向けのお笑いはいい儲け口になった。フロリダでは、R&B歌手であるクラレンス・リードがブロウフライという変名を使い、X指定の性の亡者というとんでもない別人格を作りだして非常に生き生きと演出した。(略)

卑猥な語りを満載したアルバムが出た結果、マイアミ音楽業界の暗部は活気づき約10年後に2ライヴ・クルーを世に送りだすことになる。卑俗で非常に下品なスタイルの露骨なファンクをあえてやれば、儲かるのだった。こうして汚い言葉を使うコメディアンのネタの数多くが今日のギャングスタ・ラップの曲の土台になっているようだが、最近のラッパーは昔のコメディアンと較べるとまったく面白みに欠けている。

(略)

ジョージ・クリントンは、1970年に、あるジャーナリストにPファンク人気の理由をこう説明している。「今、黒人がかっこいいんだ。リチャード・プライアーは、ラジオでかかってないのにレコードが百万枚も売れている。俺から見たら、リチャード・プライアーは幼なじみの連中そっくりだ。公民権運動、つまり自由のための大きな運動があったから、それまで抑えられてたものが外に出てきたんだ」

 黒人であることが美しくなったのとほぼ同じように、ファンクも良い意味のも、のへと変わっていったのだ。(略)

ファンクは汚くて臭い。けれど俺達のものだ。そして、音楽の主流へとじわじわ進んでいったのだ。 

次回に続く。

Dolemite

Dolemite

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Relapse
  • 発売日: 2006/06/27
  • メディア: CD
 

  

ドールマイト絶体絶倫!! コレクション DVD-BOX

ドールマイト絶体絶倫!! コレクション DVD-BOX

  • 出版社/メーカー: ナウオンメディア株式会社
  • 発売日: 2006/12/22
  • メディア: DVD
 

  

On TV

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  • アーティスト:Blowfly
  • 出版社/メーカー: Essential Media Mod
  • 発売日: 2012/08/08
  • メディア: CD
 

 

ファンク 人物、歴史そしてワンネス

ファンク 人物、歴史そしてワンネス

ファンク 人物、歴史そしてワンネス

 

 ジェイムズ・ブラウン

 ソウルのゴッドファーザーことジェイムズ・ブラウンは、アメリカに衝撃の爆弾を落とした。(略)
[JBが]体現する力強さ、雰囲気、ファンキーさが、1970年代初めにおけるアフリカ系アメリカ人の存在そのものを肯定し、正当性を証明していたのだ。大多数の政治家や運動家が命を奪われたり懐柔されたりしていく状況にあって、黒人国家の将来への展望を理解して保っていくという大役を担うことになったのがゴッドファーザーであり(略)
ブラウンが象徴していたのは、政治的な黒人の男、成功をつかんだ黒人の男、性的な黒人の男であり、「黒人であることを誇りに思う」無情な黒い戦士であり
(略)
上から打ち下ろすビート──4拍子の1拍目──を強調することにより、ゴッドファーザーは新しいポップの流行を劇的に生みだすと同時に、リズムの面ではアフリカとのつながりを作った。(略)アクセントが「1拍目」にあるのだが、2拍目と4拍目を中心としてブルーズ風の太いドラムのビートが激しく鳴って常にリズムを感じさせるので、まったく隙間が残らない。
(略)
こうして驚異的なリズムが生まれたわけだが、そこにスライ・ストーン達がファズ・ギターとチョッパー・ベースを加えたとき、まったく新しい音が作リだされ
(略)
1拍目を強調するリズムのとリ方は、従来の2拍目と4拍目を強調するリズムのとり方よりもアフリカの太鼓のリズムとの相性が良かったため、ここに来て突然、ジャズやソウルを演奏するときには世界じゅうどこでもアフリカのコンガ演奏者が欠かせなくなった。(略)
[マイルスら]ジャズ界の巨人も「モダン・ジャズ」ショウをやめ、ベースや電気ピアノやジェイムズ・ブラウン風のリズムをさかんに使うように(略)
[これも]ブラウンが衝撃的な爆弾を落としたからだった。

ファンクとは

ジョージ・クリントンの言葉を借りれば、「腰を振らずにいられなくなったら、それがファンクなのだ」ということになる。(略)
[92年フレッド・ウェズリーは]基本的なファンクの曲作りの方法を語っている。

 

ベースのフレーズにシンコペーションをきかせて、そこへドラマーがとても強くて重いビートを裏拍子で入れ、ギターかキーボードがベースに呼応するフレーズを弾き、これらの音に合わせてだれかがゴスペル流でソウルフルに歌えば、ファンクになる。(略)

 

 ただし、ウェズリーは、ファンクを演奏するというのは「精神的なこと」で、特別なアーティストでないとちゃんと演奏できないのだとも言っている。単に揺れるだけでなくて、ぶんぶん揺れる強烈なグルーヴをびしっと作るためには、特別なものがなければ駄目なのだ。ミュージシャンは完璧に自分の楽器を弾きこなすことができて、お互いにぴったり息が合い、かっこよくて、なおかつ音楽の伝統を知り尽くしていなくてはいけないのだ。
 さらに、バンドの中のすべての楽器が欠かせない。リズム楽器が旋律を創ることもよくあるし、旋律楽器が打楽器のように力強く弾むこともよくある。ファンクでは、ベースもギターもホーンも完全に旋律といえるような一節を演奏していることが多いので、そのうちのどれをとっても、ソウルやR&Bの単純な曲の主旋律として立派に通用するほどだ

グルーヴ

オハイオ・プレイヤーズのジェイムズ“ダイアモンド”ウィリアムズは、「俺達がスタジオに入る目的は創ることだったけれど、複製するのが目的の連中が圧倒的に多かった。つまり、そういう連中は、どんなものを録音したいのかを頭に入れてからスタジオに入ってたんだ。俺達の場合は、スタジオに入ってジャムってた。それで、一番いいとこを曲にしていった」と説明している。アース・ウィンド&ファイアのモーリス・ホワイトも、同じ手順を踏んでいた。「曲の骨組みを作っておきはするけれど、スタジオに入ってから即興でやることが多かった。とてもフリーだったし、自然と出てくるものを大事にしたよ」

骨抜きにされる革新的な黒人音楽

作家兼活動家のアンジェロ・スターンズが、こういった現象の持つ不公平さを以下のように説明している。
 新しい黒人音楽が「危険なもの」になるのを防ぐため、革新的な黒人音楽はとりこまれ、薄められ、容れ物を替えた後、「洗練」されて「上等」になったポップスとして叩き売りされた。よく考えてもらいたい。ニューオーリンズの路上音楽はディキシーランドに骨抜きにされた。ビ・バップはクール・ジャズによって薄められた。ロックンロールは白人のロックとロカビリーによってはみ出しものにされた。ファンクはディスコにしっぺ返しを受けた。そして今日、何かと否定的なことばかり言いならべるギャングスタ/道化者ラップのせいで、そういう姿勢がヒップ・ホップという形を借りた黒人文化なのだと誰もが思いこまされている。どの例をとっても、目的と音楽的なまとまりがなくなってしまい、その音楽の強みが壊されてきたのだ。

ファンクの語源

 昔の英語辞典によると、ファンク(funk)という語は「ぞっとするような恐怖感」とか「憂欝な気持ち」とか「がっかりした気分」というように説明されている。このような概念は、フラマン語フランダース語で恐怖や失望を意味するフォンック(fonck)という言葉に由来を持つ。
(略)
 ファンキー(funky)の場合は(略)フランス語で黴臭い匂いという意味のフメール(fumer)が語源(略)
ラテン語で「煙」を意味するフムス(fumus)が語源になっている。(略)英国での古い定義は「強い匂い」あるいは「強烈な悪臭」に関連していて
(略)
体臭についての「匂いの強烈さ(funkiness)」という概念とつながったのが「ファンキーな音楽」で、この言葉を頻繁に使うようになったのは、ジャズ・ミュージシャンである可能性が高い。

シャッフルから均等なハットへ

「変わったことのうちで本当に大事だったのは、ハイ・ハットのパターンが『シャッフル』でなくなったということ」だった。少なくとも第二次世界大戦以降、R&Bドラムの基本リズム構造はずっとシャッフルだった。シャッフルとはジャズのスウィングのリズムから来た跳ねるようなリズムのことで、ドラム奏者はダダッ、ダダッ、ダダッ、ダダッと駆け足のように拍子をとる。が、ゴッドファーザーの手による「新しいやつ」は、ドンドンドンドン──ドンドンドンドンとハイ・ハットを均等に打たせていた。(略)[そのため]各ビートのリズムの緊張感が拡大することになり、何かを期待させるような穴があいて、足を鳴らすかのごときファンク・ビートが生まれることになったのだ。(略)
そして「シャッフル・ビート」は時代遅れの宣告を受けることとなった。
(略)
シャッフルのリズムは、ジターバッグ(=ジルバ)やリンディ・ホップなど(略)40年代から50年代にかけての素晴らしいダンス・ステップを作っていた要素なのだが、シャッフルというステップ/歩き方は、ずっと「ニグロ」のマイナス・イメージという残酷な側面を持っていたのだった。(略)
そもそもシャッフルは、植民地時代にアフリカのダンスの仕方を馬鹿にして誇張することによって作られたものなのである。(略)
人種分離の時代、世間で思い込まれていた黒人の姿とは、背筋をしゃんと伸ばして立つことも白人の目をまともに見ることも口答えすることもなく、威厳など失ってうつむいたまま、ひたすら足を引きずって歩く(shuffle along)姿だった。

「Funky Broadway Part 1」

 60年代半ば、突如として、南部や中西部のバンドから一斉にグルーヴが生まれ、それがひとつになって全米を席巻したのだ
(略)
まず、1967年初めに、フェニクスを本拠にして活動していたダイク&ザ・ブレイザーズが「Funky Broadway Part 1」でダンス・ブームの口火を切った。この曲は、跳ねるベースと打楽器風のオルガンがうねるような感じのごつごつしたグルーブを作っていて、黒人がみずからファンキーと称した初のダンス・レコードだった

オーティス・レディングによる

モータウンとスタックスの違い

モータウンは、重ね録りが多い。機械を使った録音だ。スタックスのやり方は(略)感じたことを演奏する。ホーンもリズムも歌も、全部一緒に録音する。3回か4回やった後、聞きなおしてみて一番できのいいのを選ぶ。誰か気に入らないところがあったら、また全員でスタジオに戻って曲の最初から最後まで演奏しなおす。去年まで4トラックのテープ・レコーダーさえなかったんだ。1トラックの機械では重ね録りできないだろう。

ミーターズ

微妙な裏リズムが終始鳴っていて、なおかつどの曲も緊張感が一番高まる瞬間にぽっかりグルーヴの穴に入り込むのだ。ドラムのモデリステとベースのポーターは年季の入った阿吽の呼吸で、それぞれのリフに「次はこういう音が来るぞ」という期待をずっと持たせつつも、実際にはその音を出さなかったり、匂わせたり、即興で変化をつけたり、そのまま弾いたり(略)
「音楽には穴があった。いつも隙間があった…。ずっと思ってきたことなんだが、何を言うかでなくて、何を言わないかが大事なんだ」と、ジョージ・ポーターは1994年にみずからの演奏法を評している。

ニューオーリンズ

[ドクター・ジョンは自伝で]「ニューオーリンズのルーツ音楽では、ドラマーが鍵を握っていて、絶対欠かせない。ドラマーが土台を作るから、その上にニューオーリンズ音楽の真髄、つまりファンクができあがっていく」と書いている。
(略)
[アール・パーマーは、リトル・リチャードのヒット曲ほとんどを演奏した、ファンク・ドラムの創始者]
締まったスネアと重い裏拍子を叩いて曲の最初から最後まで高いエネルギーを保つことができ、一緒に演奏するミュージシャンと呼吸を合わせてグルーヴを作ることができる能力があっため、パーマーは類稀なドラマーになったのだ。パーマーから影響を受けたニューオーリンズのドラマーとしては、(後にアイドリス・モハメドとして知られることになる)リオ・モリス、チャールズ“ハニー・ボーイ”オーティス、ジョー“スモーキー”ジョンソンなどが挙げられ、さらにこういう先輩から若いジョー“ズィガブー”モデリステが影響を受けたことが実を結んでミーターズというグループが成長していったのだ。
 ニューオーリンズのドラム奏法というのは音数が多く、主となるビートと同時に微妙な裏拍子のリズムを何層も叩きつづけていく。(略)
[黒人奴隷が]太鼓を演奏することが許されていたのは、合衆国で唯一二ューオーリンズだけだった。(略)
コンゴ広場で奴隷達が延々と太鼓を叩いてリズムのやりとりをしていた様子は、有名な「セカンド・ライン」に今でもはっきりと面影がしのばれる。「セカンド・ライン」のミュージシャンは、何世代にもわたって、カウベルやタンバリンをはじめとした打楽器を鳴らしながらパレードや葬式の行進の後についてニューオーリンズの町じゅうを歩きまわってきたのだ。
(略)
ジョージ・ポーターによれば「ニューオーリンズのファンク・シーンというのは、路上の音楽と伝統音楽を合成することに大きく関係していたし、このふたつがぶつかったときに生まれる隙間とも大きく関係していた」。

ジェイムズ・ブラウン

[メイシオ・パーカー談]「頭の回転を早くしないと、ついていけない。たとえば、ソロも即興でやることが多かった。ジェイムズに名前を呼ばれたら、とにかく何か演奏しないといけない。」
(略)
[JB談]「一度もR&Bのアーティストだったことはない。ただ、そういう分類をされてきただけだ。俺の音楽は、ずっとゴスペルとジャズから来ていて、それがファンクとソウルというふうに呼ばれている。ファンクもソウルも、実はジャズなんだ」
(略)
楽器のみの演奏はスマッシュ、歌の入った曲はキングと作品が見事に二分されてしまい、ブラウンは苦況に(略)何とかこの時期を持ちこたえ、契約内容の変更を要求してキングに復帰することになる。この件については、「力がないと自由は手に入らない……。(そして)自由がないと創作ができない」と本人が振り返っている。
(略)
俺の強みがホーンでなくてリズムにあるということには気がついていた。すべての音、ギターまでもドラムの音として聞いていたんだ。そう聞こえさせる方法も見つけていた。録音した演奏を再生したときにスピーカーが独特の調子で震えて跳びあがっていたら、うまくいったということだった。音を救いだせたということだ。スピーカーを見れば、リズムがうまくいっているかどうか分かった。
(略)
[キング牧師暗殺後]
全米をくまなくまわって、「冷静に(Stay Cool)」や「学ぼう、暴動はやめよう(Learn, don't burn)」といったメッセージを発した。また、「教育を受けて、しっかり働いて、ものを持つ立場になれるように努力しよう。それが、ブラック・パワーだ」と人々に言った。
(略)
ブラウンは、[武力闘争による黒人革命を唱えていた]H・ラップ・ブラウンと交わした議論を自伝の中で回想している。(略)
JB:「ラップ、きみのやろうとしていることは分かっている。俺も同じことをしようとしているんだ。ただ、きみらは別の方法を見つけないといけない。銃を捨てないと。暴力を使うのはまずい」
ラップ:「いや、分かっていないんだ。あなたは、街から街へ旅をしているだけで(略)俺は街に出て、住人に接している。あなたが知っているのは、舞台から見えることだけだ」
JB:「かもしれない。けれど、舞台から結構よく見えるものなんだ。何が起こっているか分かっているし、その理由も分かる。たぶん、きみよりも貧しい育ちなんだから」
ラップ:「なら、皆の気持ちを分からないと。ゲットーであなたを応援している人間がどれだけいることか。あなたの力で行動を起こさせるべきだ」
JB:「銃を持てとは誰にも言わない…。それに、もし革命を起こしたとしても、黒人は損をするだけだ。銃の数も人の数も負けている」
(略)
マネージャーをしていたアラン・リードによると「ジェイムズは、楽屋で毎晩毎晩会議を開いて、黒人社会についての考えやアメリカの当時の状況についての考えを皆と話しあっていた」そうだ。
(略)
[ヴェトナム・ツアー後、「機関銃を持ったブラックパンサー」から脅される]
「Say it Loud」は、黒人音楽に転換をもたらした曲だった。これまでの黒人大衆音楽では、黒人が白人に対して抱いている敵意や恨みがこれほどあからさまに表現されたことなど一度もなかった
(略)
ブラウンにそれができたのは(略)完全に自分の思いどおりに音楽制作のできる立場の人間だったからだ。
(略)
あの曲が原因で、白人の聴衆をずいぶん失った。あれ以降、コンサートに来てくれるのは、ほとんど黒人ばかりになった。だが、あの曲が誤解されたとはいえ、録音したこと自体は後悔していない。当時どうしてもそうする必要があったから。アフリカ系アメリカ人全体のためになった(略)自分でも誇りに思っている。
(略)
 ブーツィーは、俺のところで色々勉強したはずだ。最初に会ったときは、やたら音を弾いていた――別にファンクに関係のない音まで、あれもこれも。そこで、ファンクでは(略)1拍目が大事なんだということを分からせた。1拍目の前や後ろでずっと音を鳴らしっぱなしにするのではなくて、動きのある1拍目に集中させた。そうすれば、ひとつめの後で──つぼを外さずに他の音も入れられるというわけだ。

スライ&ザ・ファミリー・ストーン

ラリー・グラハムは、「Thank You」によって路上ファンク創始者の位置を確立した。(略)
サンフランシスコの東で育ったグラハムは(略)母親を含む3人組で地元のクラブで演奏をしていた頃は、ギターを弾きながら歌い、低音で打楽器風の効果を出すために舞台の上でオルガンの足元のペダルを踏んでいた。が、オルガンが壊れたのでベースを借りることになったところ、リードとベースのリフを両方うまく弾きこなせたので、ドラム奏者なしで母と二人で演奏するようになった。「その頃、ベース・ドラムの穴埋めをするために親指で弦をはじくようになった」とグラハムは言っている。当時KSOLで番組を持っていたスライは、しょっちゅう電話をかけてくるファンからグラハムのことを聞いて演奏を見に行き、当初の予定ではファミリー・ストーンのべースは自分が弾くことにしていたのだが、グラハムを加えることに決めた。
(略)
[グリエル・マーカスの分析]
「スライは『Riot』で、聴く側──特に白人──がいらないと思っている、まさにそのものずばりを表現した。彼らが望んでいたのは前向きな明るさであって、風変わりな黒人スーパースターがアルバムのジャケットでにやりと浮かべている笑顔のむこうに何があるのかを描いてほしいなどとはおもっていなかったのだ」
(略)
[『Small Talk』]「Time for Livin'」という曲で、スライは音楽の最前線から身を引くことを冷静に歌っている。
(略)
[79年]クリントン軍団と一緒に何箇所もツアーをしたのだが、舞台恐怖症に悩むことが多かった。いくつものショウで、スライは舞台の袖から客席をのぞくように顔を出し、ほんの数小節で引っこんでしまうということを繰り返すのだった。
(略)
 1981年、スライとクリントンは一緒にいるときにコカイン所持で逮捕され、それ以降、袂を分かつことになる。

マディ・ウォーターズ

ただ、いいかい、ブルーズの音色は──重いビートのある深い音色で…。いいブルーズを歌える人間は、教会から出てきているはずだ。俺も、牧師になろうと考えたこともある。ブルーズは、本当に教会の説教に似ているから。俺の演奏では、いい歌もいいギターも教会から来ているんだ。
(略)
ドラムのビートの後をがつんと落とす、これが俺のブルーズの基本を作っている。何も変わったことをやってるわけではない──ストレイトで重いビートがあるだけだ」(略)(とにかく「Electric Mud」を聞かれたし)。
 ウォーターズは、B.B.キング、ボビー“ブルー”ブランド、ハウリン・ウルフなどと同様、1960年代の電気ブルーズ復活期に活躍した。一種独特な社会変化の中──当時衝動的に人種融合の気運が生まれたという理由があり、さらには、ネルスン・ジョージ言うところの「白人ギター・ヒーロー達から賛辞が寄せられた」という理由もあって──いつの間にかブルーズの巨人達は国内でも指折りの大きなクラブから出演を依頼され、正面玄関から店に入り、「気紛れな白人客が突如としてブルーズを聞くようになったため、前後のミュージシャン人生を通じて最高のギャラを手に入れる」ようになった。
「気紛れな」白人客が60年代の黒人ミュージシャンのソウルフルな音にひたるには、西海岸が旬な場所だった。(略)
[混成バンドがいくつもあり]黒人と白人との活動が成熟していたのだ。人々が多様で、他の地域に比べると寛容で、複合文化が存在していたため、新機軸の音楽を演奏するのに適した地域だった。

次回に続く。 

エレクトリック・マッド

エレクトリック・マッド

  • アーティスト:マディ・ウォーターズ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2013/12/11
  • メディア: CD
 

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ソーシャルメディアの生態系

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フェイスブック

 フェイスブックのバラ色の化粧板はユーザーに、彼らが語りたい物語を語らせてくれる。ユーザーは自分自身についての理想化された物語を構築し、提示する。これが私です。シミも皺もない(ように修正した) 美しい肌と完璧な家族をもち、ハッピーで安全で、でも十分エキサイティングで変化に富んだ生活を送っています!と。

 フェイスブックのプラットフォームは、こうしたバラ色の表現形式に適合させられている。それはしばらくのあいだは、主流の市場に向けて、快適な空間を創造し続けるだろう。物議をかもしそうなコンテンツをさりげなく規制する彼らのやりかたもまた──その厳しい姿勢を、私は個人的に知っている。ごく個人的なメッセージの中でちょっとしたジョークを述べたあと、私のアカウントは停止されたのだ──同じ目標に焦点をあてている。つまり、ご清潔で快適なコミュニティをつくるということだ。

 だが私は自分の経験からこんなふうに感じている。時とともに、あちらとこちらの両方を立てることは難しくなり、最後には検閲がソーシャル・オーガニズムの成長を阻害することになる。そして、検閲を実践していたプロバイダたちは力を失い、もっと開かれたプラットフォームに負かされていくのではないか、と。

インスタグラムの「乳首解放運動」

インスタグラムには、どんな形態であれヌード写真を禁じるというポリシーがあり、その石頭ぶりと、とりわけ男性の乳首と女性の乳首に対する性的ダブルスタンダードの存在から、人々の冷笑を買ってきた。授乳の写真は許可されているとインスタグラム側は主張しているが、公衆の場での授乳を唱道している人々は、そうした写真はこの先もずっとブロックされ続けるだろうと言っている。インスタグラム側は、ヌード規制はアップルストアから課されたルールにもとづくものだと主張している。それは、アプリを17歳以下の人々にも使用可能にするためだという。

 だが、こうした規制はツイッターやその他の、ヌードを許容しているアプリには適用されていないようだ。さらに大きな問題は、そうした任意のルールの強制が、それぞれの社内の検閲制度の裁量に任されていることだ。そして社内の検閲制度はたやすく、愚かな方向に向かいやすい──たとえば、『ヴォーグ』のクリエイティブ・ディレクターであるグレース・コディントンは、自分のトップレス姿の線画イラストを投稿したのがもとで、一時的にインスタグラムから排除された。この馬鹿げた出来事がもとで「Free the Nipple Movement(乳首解放運動)」というフェミニズム的な運動が起きた。

(略)

 インスタグラムの淑女ぶりとは対照的に、ヤフー傘下の簡易ブログであるタンブラーは、もっと自由放任的なアプローチを選んだ。このサイトが、前衛的なアーチストやアニメーターたちが共同作業をするプラットフォームとしてたいへん活気があることや、境界にとらわれない創作活動が行われていることは、けっして偶然ではない──そして、ティーンたちがタンブラーを、おふざけミームでたがいを出し抜くために使っていることも単なる偶然ではないはずだ。いっぽうのインスタグラムは、エアーブラシで完全に整えた映像をファンに送りたいと願う、ビヨンセらのアーチストにとって都合のいいサイトでもあった。だが、文化を前へと推し進める芸術的アイデアを育てる重要な器になる可能性が高いのは、タンブラー的なアプローチのほうだ。

ヘイトスピーチ検閲の功罪

[憎悪に満ちた表現への]厳格な対応の副作用は普通、長い目で見れば利益よりもむしろ害悪を多くもたらす。だからこそ私は、2016年にヨーロッパ連合フェイスブックツイッターなどのソーシャルメディアのプラットフォームにヘイトスピーチへの検閲を強制しようとしていることに、危惧を抱いている。検閲のラインはたちまちあいまいになる可能性があるうえ、そうした禁止措置は乱用や無分別を招きやすいからだ。

 一つの大きな問題は、検閲制度が情報の門番──それは政府であるかもしれないし、伝統的なメディア企業であるかもしれないし、ソーシャルメディアのプラットフォームの会社の所有者かもしれない──に事実上のライセンスを与えてしまうと、彼らがそれをお墨付きとして利用して、自身の利益を追求したり守ったりするために言論を統制する危険があることと、そしてそれが前例として確立されてしまう心配があることだ。

(略)

この業界に何年も身を置く私には、鞭のタイプのアプローチがぜったいにうまくいかないことは、はっきりわかっている。鞭のアプローチでは人々はいつまでも愚鈍なままだ。

 もう一つの大きな問題は(略)たとえどんなに憎悪に満ちた言論であっても、それにふれる機会を完全に遮断すると、文化に良い影響を与える方向にソーシャル・オーガニズムが進化する能力が削がれてしまう可能性があることだ。

検閲と抗生物質

 反社会的な言説を削除したり検閲したりというルールを、ツイッターフェイスブックに配備すべきだという声がしばしばあがっているが、これはいわば、病気と戦うために抗生物質という傭兵を連れてくる戦略と似ている。そうしたやり方は、特定の病原体が出現するのを抑え込むかもしれないが、それらのDNAの根本を破壊するわけではなく、ソーシャル・オーガニズムはそうした病原体と独力でいかに戦うべきか、いつまでも学ぶことができなくなる。攻撃的な思想や思考の根幹にあるミーム──たとえば、#ゲーマーゲートの偏屈者たちの激しい女性蔑視──はそのまま生き続け、それが占拠している細胞(この例で言えば、そういう考えをもつ支持者たち)の助けを借りて、いつか外の世界に反撃に出ることになる。そうした支持者たちは、過去にいつもしてきたのと同じように、検閲を自由な言論への攻撃として受けとめるだろう。そして残念なことに、彼らの言い分は正しいのだ。

慣習のクラウドソース化

 現代において他者との関わり方が変化し、デジタル空間に即したものに移行するにつれて私たちはそれまでの規範の再評価を迫られている。そのさいに社会がすることは、いつも決まっている。社会は、新しく出てきた受け入れ不可能な行動に対して不同意を伝えたり、当事者を辱めたりすることで「取りしまり」を行うのだ。この反応は単に、ある個人の行動を変えることを目的にしているわけではなく、すべての人に新しい掟を知らしめることを目ざしている。私はこれを、新たに進化した免疫反応の一種と考える。この新しい抗体がそれまでの免疫系統の警察部隊に加われば、免疫系統が引き起こす影響力は格段に大きくなり、外部からの侵入者を追い散らしたり、さらなる侵入に備えて防護策をとったりする助けになるはずだ。

 この種の価値観の衝突が起こる可能性がソーシャルメディアによって過激なほど拡大された結果、文化的変化の過渡期は大きく短縮された。この新しいボーダーレスでグローバルなコミュニケーション構造の中で私たちは今、過去には不可能だった異文化間の爆発的相互作用を経験している。これらは、最初のころは争いを招く。そうした争いは、ある種の集合的文化の転換が起こり、受け入れ可能なものの線引きが再定義されなければ解決しない。同じほど重要なのが、ひとたびこうした新しい決まりが確立されると、ソーシャルメディアは巨大で開かれたプラットフォームを新たにつくり、そこで社会の免疫系統に取りしまりの仕事を行わせることだ。

思想警察「フェイスブック

[「リアル」な自分に近い人格で登録する]ことは、フェイスブックにすべてを包括する厄介な力を与えてしまった。(略)

[ユーザーの重要な情報源である]ニュースフィードをフェイスブックがいかに管理し、操縦しているかを考えてみてほしい。かつては投稿された情報を時系列的に並べただけのものだったのが、今は、拡散する可能性が高くて広告主の要求を満たせるコンテンツを優先するように、意図的に手が入れられるようになっている。そうしたすべてを調整するのは、所定のソフトウェアのアルゴリズムだ。

(略)

 フェイスブックはまた、フェイスブック上に埋め込まれたユーチューブや他の動画のオリジナルソースにユーザーがクリック一つではつながれないようにしている。その目的は、フェイスブックへの直接のアップロードを押し上げることにある。それはプラットフォーム間のやり取りを制限し、ソーシャル・オーガニズムの血流動態を制約する。そして、クリエイターが自分の作品から収益を得るのを妨げてしまう。

 何より気に入らないのは、フェイスブックがまるでゲシュタポのようなやり方で、目障りだと思われる素材に目を光らせていることだ。私がこれに気づいたのは、友人あてに送った個人的なメッセージの冗談がもとで、突然アカウントを停止されたときだ。フェイスブックの思想警察は私の個人的会話を監視し、47歳のアイスランドの友人(男性)に宛てたメッセージに添えた「ミクロ・ペニス」の絵を──私はそれを、グーグル出典の医学書から引っ張ってきたのだが──受け入れられないと言ってきたのだ。たしかに下品と言えば下品な冗談だが、誰に害を与えるわけでもないし、友人同士が日常的に交わしている無数のやり取りのほうがもっと行儀が悪かったりする。そして特筆すべきはもちろん、これが個人的な会話だということだ。

 だが、ともかく私は「国際児童ポルノ」抵触の咎めを受け、アカウントを即座にシャットダウンされた。私に届いた通知は、この件について私にできることは何もなく、誰にコンタクトをとることもできないという、ただそれだけだった。フェイスブックシングルサインオンの認証者としての強力な権限を通じて私のログインを監視していた。そして、フェイスブックにアカウントを削除されたことはそのままスポティファイの停止につながり、ウーバーを使うこともできなくなった。サウンドクラウドも止められ、私はそれぞれと直接パスワードの認証を再建しなければならなかった。事実上、私のアイデンティティは保留状態になった。しばらくのあいだ、透明人間になったようなものだった。

フェイスブックの検閲政策

今まで、「いいね」のほかに「ラブ」「あはは」「ワオ」「悲しい」「怒り」の絵文字が加えられたが、今もなお「嫌い」のボタンはない。フェイスブックは、不協和の存在するコミュニティであってはならないのだ。

(略)

そしてなんたることか、私たちはみごとに手玉にとられている。おおかたの人々はフェイスブックを、ハッピーなニュースやイメージのためだけの場所として使っている。人々はフェイスブック用に、理想化された別人格をつくる。完ぺきな生活。完ぺきな子どもたち。幸福な結婚生活。そして職業上の成功。フェイスブック・ランドはまるで、ディズニーランドだ。それは私たちが、従順に自分の手でつくりあげたディズニーランドまがいの世界だ。

 フェイスブックがめざすのは、可能なかぎり多くの瞳をプラットフォームに引きつけ、自身の法外な広告料を正当化することだ。それはいってみれば、「あなた」を広告主に売りつけるビジネスだ。アルゴリズムはあなたの本当のアイデンティティやあなたの表情、あなたの好きな人、あなたの個人的な会話、そしてあなたの欲望を把握しており、あなたを価値あるパッケージ化されたアイテムに仕立て上げる。同じアルゴリズムはまた、会社に有望なものとして売り込める「刺さる」コンテンツはどれかを見つけ出しもする。もちろん彼らは、「コミュニティ」が管理する検閲政策──たとえば、インスタグラムにヌードを載せないとか、フェイスブックのメッセージに下ネタ系のジョークを載せないとか──はあくまでユーザーの幸せのためだと主張するだろうが、その最大の目的はポジティブ性を売ることにあるのだ。

 コンテンツの制限を巡る議論はなかなか難しいものだ。ヘイトスピーチや直接的な脅しや、問題含みの画像や暴力的な映像がソーシャルメディアに含まれることに、世間が抗議の声をあげているのは十分理解できる。フェイスブックツイッターのような企業は、何らかの種類の秩序をコンテンツに課すべきだという非常に強い対外的義務を感じているはずだ。

(略)

 私たちはこの件についてフェイスブックにEメールでコメントを求めたが、何も回答は来ていない。反応がないとは、つまり、とりたてて言うべきことはないという意味だろう。公正を期するために言えば、フェイスブックのようなソーシャルメディア・プロバイダはいつも、複数の要求に迫られてジレンマの状態にある。攻撃的なコンテンツに辱められたように感じた人々はそれを削除するよう騒ぎ立て、いっぽう、やり玉に挙げられた相手は表現の自由を謳って強硬な行動に出る。プラットフォームはこれまで、どんなコンテンツを削除しどんなコンテンツは削除しないかについて、一貫した方針を編み出すことで(略)何とかそれに対応してきた。

(略)

各国政府からデータ開示の要求があればそれに従うことによって、フェイスブックはコンテンツの制限にまつわる決断にいくらかなりとも透明性をもたせようと明らかに努力をしている。それは賞賛すべきだろう。

 だが問題は、どんなルールやどんな「公正」な検閲の手続きでもかなわないほど、現実の世界がはるかに複雑化していることだ。特定の利害の存在はコンセンサスを得るためのプロセスを歪め、自分たちだけに有利なようにコンテンツを除外したり保護したりする力と誘因をもっている。そして、これまでにも明らかになっているように、そうした検閲的な措置はしばしば範囲を広げすぎることがある。また、主題が提示された特定のコンテクストに既存の基準が対応できなければ、コンテンツがあっさり削除されてしまうこともあるのだ。

現実とアルゴリズムの「ジレンマ」

元海軍兵のダニエル・レイ・ウルフの事例は、こうしたジレンマを浮き彫りにしている。ウルフはフェイスブックを自殺の過程を記録するのに用い、途中経過を写した一連の写真とコメントを投稿した。フェイスブックは最初、彼を悼む同僚の海軍兵たちからの「写真を削除してほしい」という要求に応じなかった。ウルフの投稿は、フェイスブックのコミュニティの基準が定める条文には抵触していなかったからだ。そのルールによれば、フェイスブックは「自傷行為摂食障害や強いドラッグの濫用を奨励したり後押ししたりするような」 コンテンツに加え、「サディスト的な作用や暴力の賞賛や美化のために共有される写真」を削除すると明言している。だがウルフの投稿は、厳密には自傷を「奨励」したり「後押し」したりするような内容ではなかった。そして彼は、自殺を決行するとたしかに約束していた。つまり、彼が生きているあいだは投稿の削除は、ある別の方針に違反することになったのだ。その方針とは、友人や家族が介入できるようにラインを開放しておくというものだ。いっぽう彼が亡くなってからは、別の方針が作動することになった。故人のアカウントを閉鎖するか、「記念品化」するかの選択は、近親者のみの責任になるというのがそれだ。近親者が正式な手続きを行わなかった場合、後者が自動的に採用される。つまり、故人のフィードはそのままの形で残され、フェイスブックアルゴリズムはそのままずっと自動的に誕生日やその他さまざまなリマインダを送り続けてしまうのだ。いちばん近い血縁からのアクションがなかったため、フェイスブックは方針通り、ウルフのアカウントをオープンなまま残した。そこにはもちろん、最期の数時間の痛ましい投稿も多数含まれていた──少なくとも、この問題にメディアの関心が集まり、フェイスブックの上層部が判断をひっくり返すまでは。

 ウルフの家族や友人に対しては同情の気持ちを禁じえない。いったい誰が、こんな恐ろしい図を見せつけられたいと思うだろう?だが、フェイスブックの検閲アルゴリズムやユーザー自身の自己検閲による「ハイライト映像」からつくられる清潔で完全そうなコンテンツは、この元海軍兵ウルフのような人々の不安をさらに募らせる原因になる。

「 コールドプレイ」削除事件

 もちろん私たちは、ヘイトスピーチや暴力的な映像を奨励することで社会が良くなると言っているわけではまったくない。むしろその逆だ。こうしたプラットフォームがその種の素材を制限すべきだと多くの人々が感じていることも、私たちは認識している。しかし前の章でも論じたように、ソーシャル・オーガニズムにとっての病原体であるヘイトや暴力を退けるためには、それと向き合うのが最善の方法であるはずだ。そうすることによって私たちは、病原体がまき散らす抗原を吸収することができ、その結果、私たちが共有する社会的免疫システムは愛と思いやりという解毒剤によって敵を粉砕することができる。思い出してほしい。#TakeltDown の運動が生まれるには、銃乱射事件と、南部連合国旗を携えた若造の映像が広く拡散されなければならなかった。もしフェイスブックがこの同じ映像を、例のごとくディズニーランド化していたら、一連の動きは果たして起きていただろうか?

 これはけっして無意味な問いではない。フェイスブックが「コミュニティ基準」によって私たちを私たち自身から守ろうとしているアプローチのきわめて心配な点は、それが不可避的に政治的検閲につながってしまうことだ。記録に残っている多くの例の一つが、イギリスのロックバンド「コールドプレイ」が自身のフェイスブックのページに、アーチストグループである「ワンワールド」の制作した「パレスチナに自由を」のビデオ動画のURLを貼っていたところ、フェイスブックがそれを削除したという事件だ。削除が行われたのは、親イスラエル派の団体がこの歌を「侮蔑的」としてフェイスブックの倫理警察にURLごと突き出したあとだった。

 フェイスブックの検閲とその判断については、これよりもっと議論を呼んだケースがいくつもあり

(略)

 たとえばフェイスブックは、インドの大臣の「家庭内レイプという概念はインド的文脈ではありえない」という発言を批判した漫画を削除した。個人的なグループに投稿されていた、生まれたばかりでまだへその緒も切れていない赤ん坊を女性が抱いている写真もブロックされた。ヌードを想起させるうえ、「露骨に性的なイメージがあるから」だという。

(略)

 私たちのおおかたは、合衆国憲法修正第一条(訳注:言論の自由を保障)が政府に対し、たとえ馬鹿げたものや有害なものであっても、人々が何かを発言する権利を制限してはいけないと定めている理由を、もっともなものだとして受け入れている。なぜその考えをソーシャルメディアのプラットフォームにまで拡大し、私たちの声をこれらの企業に聞かせてはいけないのだろうか?

政府からのブロック要請

私たち著者は、検閲制度はしないに越したことがないという明確な立場をとっている。ソーシャルメディアの新しい神となった企業が門番として巨大な力をふるうさいには、最大限の注意と透明性が必要なのだと、人々は要求をすべきだ。コンテンツの公開や配信をつかさどるアルゴリズムに、外部の人間が近づくことはできない。それが私たちの生活にどれほどの影響を及ぼしているかを考えれば、私たちは、フェイスブックがコンテンツをタイプやソースなどによってどのように秤にかけているか、知っていてしかるべきだろう。フェイスブックは古いメディア企業を、相手の得意の手で逆に打ち負かしてきた。フェイスブックは顧客や広告主との直接の結びつきを奪い取り、さらに、有料道路的なやりかたで「投稿を宣伝する」という試みもしてきた

(略)

 それならばフェイスブックをやめればよいと、あなたは言うかもしれない。だが問題は、私たち人間が社会的な生き物であり、社会的ネットワークが存在するところに引かれるということだ。同じほど重要なのは、先にも述べたように、私たちのデジタルな人格の多くがフェイスブックのプラットフォームで結びついていることだ。社会として、フェイスブックを無視することはもはや不可能であり、私たちが言ったり聞いたりすることをフェイスブックは過去に誰もできなかったほど強く統制できるようになっている。さらに悪いことに、フェイスブックはこうした力を自分自身の利益のために行使している。フェイスブックはあなたや私が作成したコンテンツを何も対価を支払わずに採用し(略)そしてそれを組織し、検閲し、再パッケージ化する。その目的は広告主にそれらを売ることであり、そうして得た収入をフェイスブックは自分の懐におさめている。(略)

「私たちはフェイスブックの顧客ではなく、フェイスブックの製品」なのだ。

(略)

[ゆるいアプローチをとっていた]ツイッターもまた、検閲に向けて舵を切りつつある。(略)

いちばん議論を呼んでいるのは、政府からのブロック要請にも応じてしまっていることだ。2016年 2月、ツイッターは10の非営利支援団体からなる「Trust &Safety協議会」という評議会を設立した。10の団体の中には「ユダヤ名誉毀損防止連盟」や、「中傷と闘うゲイ&レズビアン同盟」などがある。ツイッターは、「人々がツイッター上で安心して自己表現できるための戦略」づくりに役立てるため、この評議会を設立したのだと、高邁な目標を説明している。だが、この一見建設的な「自由だが安全」という謳い文句が、権力乱用へと扉を開くものであることは、容易に想像がつく。ことに危ないのは、評議会のメンバーがその立場を利用して、自身の利益のために言論をコントロールし始めたときだ。

クラブ・ペンギン

フェイスブックその他がまだ自動翻訳機能を備える前、クラブ・ペンギンは世界各国の子どもを、すべての言語に通じるあらかじめ定められたフレーズを用いて円滑にコミュニケートさせていた(これは一種のデジタル・エスペラントとも言えるし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に登場する万能翻訳を可能にする魚「バベルフィッシュ」のリアル・ヴァージョンとも言える)。

 この話を聞いたとき私は、ぴんと来た。ソーシャルメディアはまさにこのようにして、コミュニケーションの経路を劇的に平たん化し、数十億の人々に自身の考えを、時空に縛られない情報の巨大なプールへと提供する機会をもたらした。それはおそらく、インターネットを土台にした他のいかなるテクノロジーよりも、創作的生産のプロセスに──そして私たちの急速な学習と革新の能力に──さらに大きな貢献をしてきた。

(略)

水平的構造をもち、生物学的な掟に従うこのコミュニケーション・システムは、情報を迅速に発信したり共有したり展開したりするまったく新しい方法を往々にして提供する。そしてそれは、クラウドベースのデータ貯蔵やビッグデータ分析、暗号法、機械学習のツール、オープンデータ・プロトコルブロックチェーン台帳など、その他の分散型テクノロジーと結びついたとき、さらに大きな力を発揮する。

(略)

 今、あらわれつつあるのは、巨大で、息づいていて、つねに進化している、全体がもつれあったようないわば超・有機体であり、その触手はツイッターフェイスブックのプラットフォームよりもさらに遠くまで広がっている。

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