よい移民 ニケシュ・シュクラ

パッとめくったら「ケンドー・ナガサキ」が目に入り、チラ読み。

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ケンドー・ナガサキと私

ダニエル・ヨーク・ロー

[70年代]イングランド西部に住む孤独な中国系ハーフの男子児童が、ケンドー・ナガサキという名の日本人極悪レスラー(略)に、奇妙な「ヒーロー像」を見出す世界です。

(略)

 その当時、中国のものと日本のものは一緒くたにされていました。私は、私のことをチンクと呼ぶ白人の子どもでいっぱいの学校をやめ、私をチンクと呼び、「ChineseとJapaneseは汚い膝kneesをしてる」(韻を踏んでるのが、お分かりでしょうか?)と唄ってくる白人の子どもでいっぱいの別の学校に転校しました。

(略)

私は、自分の家族以外の他の中国系の人びとにはほとんど会ったことがありませんでした。歴史のその時点においては、「東アジア系」という言葉がまだ発明されていなかったようで、私たちのような、おかしな眼の形をした、黄色というか、くすんだ茶色、ないしはオリーブ色をした人びとに対する総称は「オリエンタル」でした

(略)

アメリカでは、「アジア系アメリカ人」たちは「オリエンタル」と呼ばれることを拒否してきました。ここイギリスでは、(少なくとも)中国系はその呼称を肯定的に受け入れてきました。

(略)

[たまにテレビに登場する「オリエンタル」はからかいの対象になるような変なキャラばかり]

かれらの多くを白人たちが演じていたことも驚きでした。(略)

私が世界で一番好きだった《ドクター・フー》でさえ、「イエロー・フェイス」の芝居に一役買っていたのでした。

 

 イエロー・フェイスとは、東アジア人の役を演じるために俳優が使用する一種の舞台メークのことである。(ウィキペディア

 

(略)
 黒人の場合と違い、からかい返す「オリエンタル」のコメディアンは現れず、私たち「オリエンタル」には、「オリエンタル」なポップ・スターさえいませんでした。ロッド・スチュワートの〈ドゥー・ヤ・ティンク・アイム・セクシー?〉のビデオには、ベースを演奏する日本人の青年が出ていまして、その曲は、当時は永遠に思えたほどの長い期間、音楽チャートの一位を占めていましたので、この見た目はほとんど中国系と変わらない格好いいお兄さんが、《トップ・オブ・ザ・ポップス》に毎週登場してはいましたが。

 そういう状況だったのです。

 そこにケンドー・ナガサキが現れたのです。

 ケンドーは本当にすごい奴でした。(略)

息を飲むほどの俊敏な身のこなしと、躍動感あふれる蹴り技と、見事な策略を巡らせた反則行為とのコンビネーションで、ケンドーは不運な対戦相手たちをいとも容易くやっつけ、全試合で勝利を収めました。

(略)

凝った方法でリングに上がり、観衆からのブーイングと怒号を楽しみながら、曲芸のような準備運動をしました。彼は観客たちを不遜な態度でからかいました(そして、必然的な勝利の後にも再び同じことしました)が、その振る舞いは、人種的ないじめを受けている児童には、ついに訪れたエスニック・マイノリティの反逆に見えたのです。

(略)

ケンドーは、派手な東洋趣味のコスチュームのひとつとして、マスクを被っていました。(当然ながら)アジア人型の目のかたちにスリットが入っていたそのマスクは、彼の顔を全部覆い、彼をさらに悪役っぽく見せていました。レスリングには、マスクをしたレスラーたちに関する奇妙なルールがありまして、彼らがそのマスクを取るのは、リングの上で敗れた時だけ、ということになっていました。

 しかし、そんなことはケンドー・ナガサキには決して起こりませんでした。彼は誰よりも素早く、(デヴィド・キャラダインの出来損ないのスローモーションとは違う)「本物」のカンフーができ、レフリーの目を盗んで、ささっと小さなパンチを巧みに叩き込み、対戦相手がリングから落ちた後も戦いを続け、必要とあらばレフリーをのしてしまうことさえ上手にこなしました。

(略)

 それから何年にも思われた時間が経った後、その運命の日が訪れました。

 ケンドーは(ミック・マクマナスか、別のつまらない善玉レスラーに)負けてしまったのです。(略)

観客が大きな歓声をあげる中、悪名高きケンドー・ナガサキのマスクを、勝者が剥がす瞬間がやってきたのです。

 ケンドーがひざまずき……。

 一本の手が彼のマスクを引っ張りました。私は覚悟を決め、見事なまでに不屈の表情を浮かべるケンドーの、誇らしいアジア的な顔を拝むことになるのだと、心を慰めていました。

(略)

マスクが剥ぎ取られ……

現れたのです……

白人の男が。

!!!!????!!!!????!!!

憎たらしい白人の男がもうひとり。

(略)

 ご注意ください。ウィキペディアやユーチューブなどをちらっとでもご覧になれば、私がおそらくケンドーと、東アジアをテーマにした別の覆面レスラーを混同してしまっていたことがお分かりになるでしょう。そのレスラーは「カン・フー」という想像力豊かな名をしていまして、今見ると失望するほど野暮ったく見えるケンドーよりも、はるかに華麗な格好をしていました。それからケンドーが、試合途中にビッグ・ダディーの手でマスクを剥ぎ取られ、金髪ではなく、茶色の髪をした禿かかっている白人であることが露わになる様子を写した動画も出てきます。(略)

黄色 ヴェラ・チョック

  私は黄色です。背が低く黄色い女で、エスニシティで言えば一〇〇%中国系です。(略)

 中国は私を怯えさせます。私は中国のどの方言も話すことができませんし、中国の慣習に馴染みはなく、箸を使うのはそうせざるをえない時だけです。マレーシアに住む家族は、世界中に拡散した中国系ディアスポラの一部です。もし中国を訪れることになれば、私の明らかな異質性のせいで恥をかくことになりはしないかと心配しています。

(略)

あるイギリス生まれの中国系女性の知り合いが言ったように、「中国なんてモザンビークやカナダと一緒よ──遠くの国。そこに住んでいる人たちと、私の見た目がたまたま似てるってだけのこと」なのです。私は隣の白人と同じぐらい、西洋文明なるものに中国が与えるかもしない脅威のことを懸念しているのです。

(略)

 私の夢に出てくるのはマレーシアです。ココナッツの木と赤道直下の熱気の国(略)私が郷愁を抱くのは、この東南アジアの国の山と海の匂いに対してです。私の口は、マレーシアのさまざまなものの形や音を語りたがっています。

(略)

[2013年フェイスブック上での出会い系アプリ分析で]

「アジア系以外のすべての男性がアジア系の女性を好んだ」ことが明らかになりました。すべての男性が、です。アジア系女性の身体のフェティッシュ化は、きわめて問題です。性的な従順さと旺盛な性欲、そして寡黙さが、非常に巧妙かつ悪質に組み合わせられています。

(略)

魅力的に思われようとすれば、私たちは小柄で柔和なことが求められます。冷淡で自動人形のようで女王様然とした魔性の女であるアジア系女性、というもう一つのステレオタイプがありますが、そうした女性にはあまりメールの注文が入らないようです。私は昔ある時に「かわいらしい」服を着ることをやめました。年齢や見た目に関係なく、どんな白人男性と出かけても、私は話題にされ、見下されたからです。私は彼に付き添う女か、メール・オーダー・ブライドとみなされていたのです。白人のボーイフレンドと夕食をとるため彼に会いにいった私の友人は、レストランから出ていくよう言われました。店の者は彼女が客引きをしていると思い込んだのです。

(略)

受動的なアジア系の身体を征服/植民地化したいという暴力的な男性的欲望に警戒心を抱いています。

(略) 

カースト主義の永続 サラ・サヒム

カースト制が創造されたことに対しては、イギリス人は直接的な責任を持たないとはいえ、かれらが植民地化の過程でイギリス独自の階級制度と人種差別の暴力とをインド人に押し付けたことが、カースト制を強化したのである。

(略)

 カーストは、ダリット(「抑圧された者」の意)を最下層に、司祭・学者階級のバラモンを頂点に置いた

(略)

カーストは他の国々や、インド系ディアスポラのあいだにも浸透している。それは植民地主義震源、イギリス本国にも広まっているのだ。

(略)

 「カースト」という用語自体はイギリスが作ったもので、一八七一年のインドの国勢調査用紙で導入された。この調査がカーストによる階層秩序の創出を助長し、この階層秩序は複雑なヴァルナ(ヒンドゥー教社会を分割する古来の身分制度)に関するイギリス人の誤解を通じて、バラモンに多大な特権と社会内での有利な立場を与えることになった。ヴァルナそのものには──イギリス人が到来する以前には──欠陥がなかったと言っているわけではない。インドではカーストに基づく差別は違法になっているにもかかわらず

(略)

カースト主義は今日も横行しているばかりか、その存在を認めようとしない人たちが余多いるのだ。

 カースト間の関係も複雑である。グジャラート州バラモン の母と、アフガニスタンパシュトゥーン人の父を持ち、薄い肌をした、若い女である私は、多くの特権を手にできてきたし、それを当たり前のものと思ってきた。私の家族はカースト主義に関心を持ったことがなく、私もそうだった。私たちは差別をしたことも、カーストの規範を遵守したこともない。しかしこの「カーストを意識しない」態度は極めて有害である。

(略)

 インドでカースト制が建前上は終焉した後、積極的差別に似た制度が現れた。いわゆる「割当制度」である。(略)

この制度は、「その他の後進的階級」や「指定カースト」や「指定部族」といったグループを設けた。(略)

[下層カースト民救済のために]人びとをある職場に配属しても、その制度だけが理由でかれらはそこにいると考えられてしまうようであれば、それはそれで別の問題を生み出してしまう。

 (略)

 ガンディーは悪の大英帝国と戦った平和的な抗議運動の牙城とみなされたが、彼の手法はアンベードカル博士を含めた多くの人びとに不満を残した。たしかにガンディーの努力は反植民地主義運動を進展させたが、そのことによってただちに彼のカースト主義が免罪されるわけではない。遡ること一九三一年、ロンドンで開かれた英印円卓会議で、ダリットの分離選挙を要求したアンベードカル博士の主張に、ガンディーは反対した。そのためダリットたちは、ガンディーがムンバイに戻るとすぐ、この問題についての彼の態度に抗議した。そして下層の虐げられた階級に別個の選挙区が与えられると、機嫌を悪くしたガンディーは、アンベードカル博士が妥協するまで抗議のハンガーストライキを続けたのだった。アンベードカル博士は、ダリット独自の選挙区を持たないかぎり、かれらは「ヒンドゥー教徒の意のまま」にされると懸念したのであり、後から考えれば、彼の危惧は理にかなったものだったように思われる。他方、ガンディーは「不可触民の問題」はすぐに過去のものとなると信じていた。歴史の再構成と改竄はガンディーに有利に働いてきた。ハンガーストライキは、勇敢な形態の政治的抵抗とみなされ、これがガンディーについての認識をさらにロマン化した。しかし、こうした心情は下層カースト民には共有されていない。かれらが政治的な力を欠いている状況は変わらぬままだからである。

 このカースト差別の強化にイギリス人は関与したわけであるが、白人のイギリス人が行なう人種差別は、下層カーストの者だけでなく、あらゆる人びとに及んでいる。人種差別はダリットとバラモンを区別しはしないのだ。人種差別主義者たちにとっては、すべてのインド人は同じなのだ。世間体政治が、イギリスにおけるインド人の扱いを、カーストや社会経済的な身分の違いによって変えるよう促したところで、結局はやはり人種差別を受けることになのである。

 社会の中での人種差別はしばしば分割統治の戦略を通じて作用し、たいていの場合、階級主義や他の形態の抑圧とも絡み合っている。構造的人種差別は、個々の集団を自分たちの階級に──この場合はカースト差別に──しがみつかせることによって、協力すればもっと強くなれるコミュニティを分断してしまう。

(略) 

 安西水丸 いつまでも愛されるイラストレーター

南伸坊 安西油丸がいた

 イラストレーターとかイラストレーションというのがカタカナ語として日本語に組み入れられたころ、イラストレーターは、たいがいグラフィックデザイナーがなるものだった。

 こういう言い方が、ちょっと粗雑だというのなら、デザイン感覚と無縁なイラストレーションは、当時はさし絵と呼ばれていたということである。

 つまり、具体的に言うと、和田誠横尾忠則宇野亞喜良灘本唯人山下勇三といった、日本のイラストレーション草創期の人々が描いた絵が即ちイラストレーションだった。

 それは、当時のさし絵と、決定的に違って見えた。「見えた」ところがこの話の肝である。何が言いたいのかといったら、つまり、デザイン感覚のあるさし絵だけが、イラストレーションだと認識されていたということだ。

 それがフレッシュであったことで、以後、雑誌のさし絵は、どんどんイラストレーターにとってかわられていく。

 しかし、フレッシュさというものは、時間と共に目減りをしていくものだし、さし絵に対してイラストレーションがフレッシュに感じられたとしたら、どんどんイラストレーションがふえるにしたがってそのフレッシュさは減じていく運命にある。

 安西水丸さんが、イラストレーターとしてデビューした頃、イラストレーションは既にものめずらしいものではなくなっていた。

 湯村輝彦、河村要助、矢吹申彦原田治といった人々が一線で活躍するとともに、いままでイラストレーションとは呼ばれなかったジャンルの絵、たとえば漫画家や絵本作家の絵がイラストレーションとして使われるようになり、イラストレーションは本来の「illustration」と同じ意味合いになっていったといえる。

 この時期にイラストレーションを牽引していたのは、まちがいなく湯村輝彦である。そうして水丸さんは他の誰よりも湯村さんに似ていたと思う。

 何が似ていたかというと、一人でイラストレーターとディレクターを兼任しているところ。当時の「イラストレーション」らしさから、意図的にずれようとしていたことである。

 たとえば、カラートーンやスクリントーンを、線描きの絵の色付けや調子付けに使う時、線描きからはみ出したりずれたりする。これは小さなことのようだが、意識として几帳面に線描き通りに貼り込むのと、実は大きく異なる。もちろん、当時のイラストレーターはトーンをていねいに貼っていた。トーンを貼るのは自分で色をぬるのとは違う。本来、指定で職人にしてもらうべきところを自分でしているというのがこの作業なのだった。

 水丸さんが『ガロ』で漫画を描いていたころ、スクリーントーンを貼っていたのは私だ。私は当時『ガロ』の編集者であって、少しでも作者の、労力を減じるために、その作業を率先してやっていた。そして、もちろん私の当時の意識は、版下の職人である。

 水丸さんは、カラートーンを自分で貼るようになってから、イラストレーターのトップランナーになっていった。

 もちろん、カラートーンをハミ出して貼るのは、すぐに新しい「テクニック」として流行るのであって、それからはハミ出すのが当り前になる。そして、よく考えて、ていねいにハミ出すイラストレーターがふえていった。

 水丸さんのカラートーンのハミ出しは、どうだったのだろうか? 最初はいっしょうけんめいに、線のとおりに貼ろうとしていたのだろうか?それはどちらでもいいけれども、私が思うのには、ハミダシを当然の「テクニック」としてではなく、何故それが魅力的に見えるのかを自分で考えた時期があったにちがいない。ということだ。

 あるいは単純に、不器用でうまくカラートーンを貼ることができなかったのかもしれない。それは湯村さんにも言えることで、二人ともカラートーンを貼るのがめちゃくちゃ得意でなかった可能性もありうる。

(略)

[うまく貼れない]ところから、「いいじゃないか、ちょっとくらいハミ出しても。」

「いいや、このハミ出してるとこがいいんだよ」「ここがいいんじゃない。」「いいねえ、このカラートーンのハミ出しかたがいいねえ。」

 というふうにして、どんどん自信を持っていった可能性もある。つまり

(略)

作る立場で絵を見ている目、というのが一方にある。

 それは、アートディレクター的な目だ。湯村さんにあり、水丸さんにあるのは、このアーディレクター的な目だったのではないか。それはつまり、日本の、ある時期には当り前だった、デザイナーがイラストレーターだったことと無関係ではない。

(略)

 水丸さんのイラストレーションの魅力は、絵を描く手のナイーブさと、その絵をイラストレーションに仕上げる目の果断さにあった。

 水丸さんの絵は、独特のニュアンスを持っているけれども、それだけでは水丸さんのイラストレーションにはならない。

 そうして、この手と目のコンビが、水と油のようなコントラストを持っていたところが魅力だったのではないか?と私は睨んでいる。安西水丸は実はもう一人のいわば安西油丸とコンビでできあがっていたかもしれない。

(略)

 それは、水丸さん自身がした装丁と、水丸さんの絵をつかった他人のデザインを見比べてみればすぐわかる。水丸さんの絵を、最もうまく使ったのは、まちがいなく安西油丸である。

小学一年生の時に書いた詩

とまと

とまとはなぜ赤いか

ぼくは知らない

こがね虫も知らないようだ。

赤いとまとの

赤い色は

ふしぎというよりしかたない

ぼくの目の前に

とまとは今

てかてか赤く光っている 

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私のイラストレーション史 南伸坊 - 本と奇妙な煙

イラストレーションというコトバが輝いていた時代、それが日本の「イラストレーション史」だ。輝かせた和田誠さんの名前は、もちろんいまもよく知られてはいる。が、もっと!年表にクッキリ記されなくちゃと私は思っている。

(略)
その活動があまりにも多彩で華麗であるために、忘れられてしまいそうな、出版文化の歴史を動かした人としての和田誠像を、正しく伝えてほしい。 

定本 和田誠 時間旅行 - 本と奇妙な煙

あの頃は、まだ「イラストレーション」という言葉すら知名度がなかったし、自分たちもイラストレータという意識はそれほどないわけですよね。絵を描くことが好きなグラフィックデザイナーだった。 

アトランタの案山子、アラバマのワニ 安西水丸

アトランタの案山子、アラバマのワニ

アトランタの案山子、アラバマのワニ

 

 プロローグ

(略)「アメリカのフォークアート」(略)に掲載されている絵は、ほとんどが無名の人の作品で(略)子供が描いたような絵だった。(略)

デッサンだの、遠近法だのはほとんどでたらめだが、でも、そこには自分なりにこういうふうに描きたいんだという気持ちがこもっている。常々、絵の魅力はそういうものではないかとおもっていたので、彼らの絵に感動した。

(略)
 アメリカのフォークアートは、ぼくに忘れていたものを蘇らせてくれた。イノセントな感性が最も大切であることを教えてくれた。

 余談。ニューヨークから帰国後、数年してぼくはイラストレーションを描きはじめたのだが、その頃、当時お茶の水女子大の学生だった柴門ふみさんと知り合った。彼女が卒論でアメリカのフォークアートについて書くと聞き、それではとニューヨークで買った「アメリカのフォークアート」を貸してあげた。果たして役に立ったかどうか不安だったが、その後人気漫画家となった彼女からその時のお礼を言われたときはちょっと恥ずかしかった。

 もう一つ余談。アメリカで大成功した日本人画家、国吉康雄のことを書いた本を読んでいたときのことだ。それまでヨーロッパの画家たちの影響を受けていた彼が、ふと入ったニューヨークの骨董品店で見た絵に強く刺激されたと書かれている。それはヨーロッパ人の描いたものではなく、まったく無名のアメリカ人の描いた絵だという。これはフォークアートだなと、ぼくはすぐにおもった。国吉康雄の絵の遠近法には、あきらかにアメリカのフォークアートの影響がある。

 と、まあそのように、ぼくはフォークアートというものをずっと注目しつづけてきた。

ハワード・フィンスター

 この人の絵は、とにかく画面にびっしりと描き込んだ上に、さらに絵のまわりに細かく文字を書き込んでいる。文字の内容は、ほとんど彼からのメッセージで、神のお告げ、例えばエデンの園の快楽に対する戒めだったりするのだが、この頃は政治問題や女性解放、エネルギー保護といったことが書かれている。

(略)
 この人は四十年もの間、バプティスト派の伝道師をしていたという。

「はじめはだれもわたしの説教を聞いてくれなかった。ある日、神様のお告げがあり、あなたは絵を描きなさいとおっしゃった。わたしはそれから絵を描くようになった」

 フィンスターさんは言う。絵を描きはじめたのは一九七四年くらいからだ

(略)

「ほかの人の絵なんか入らない、わたしだけの本を作らないか」

彼は結構真面目な顔をして言う。

「日本人が2エーカーくらいの土地をわたしにくれたら、最高のパラダイスガーデンを作ってやる」

 こんな大口もたたく。言葉の切れ目はなかなか見つからない。

www.artsatl.org

R・A・ミラー

 ミラーさんはすでに八十歳を過ぎている。絵を描きはじめたのは七十五歳くらいかららしい。

 「親父はピストルで撃たれて死んだんだ。母親はインディアンの血が入っているよ。わたしは教師のようなことを三十年近くやってたんだ」

(略)

この人の作品を見ていると、とてもいい感覚の持ち主だということがよくわかる。ブリキを切って作るカッティングのカーブした部分や、色をつける筆さばき、ちょこんと筆を落としただけの目の描き方、サインの文字、どこにも感覚のよさが出ている。

 いいセンスをしているなあと感心してしまう。

(略)

 今度会った画家のなかでは、このミラーさんが絵のセンスでは一番いいようにおもえる。イラストレーションなど描いていたら、かなりいい仕事をするイラストレーターになっていたのではないかともおもうのだが、そのあたりは確約はできない。

 絵というのは、才能のある人がいろいろと研究を重ねたすえに、いい味わいの絵を作り出すのだが、描いているうちにどんどん巧みになってしまうことが多い。一番いい状態をいつまでも保つこと、これがなかなかむずかしい。あの人はあの頃、あんなにいい絵を描いていたのにとおもうことがしばしばある。ベン・シャーンに対しても、国吉康雄に対しても、ぼくは同じことを感じている。 

(略)

もしも二十八くらいから作品を作っていたら、今のような作品を産み出していたかどうかはわからない。この人には、七十四歳くらいのころまで、一番いいエッセンスだけが残っていたのだろう。

ジミー・リー・サダス

 ジミー・リー・サダスさんは今年で八十六歳だという。

「絵は三歳くらいから描いているけれど、売れ出したのは三十年くらい前からかな。だからいつも絵は三十年前から描きはじめたっていってるんだ」

 彼の絵の表面は泥絵の具を使ったようにざらざらしている。訊いてみると、はじめはほんとうの土を使って描いていたというので驚いた。

「はじめは土を使って描いていたよ。このあたりの土は赤いので絵の具みたいなんだ。そのうち土にシロップを混ぜたりしていろいろ工夫するようになってね。今でもアクリル絵の具に土を混ぜたりしているよ」

(略)

サダスさんはトトの絵とワニの絵を持って出てきた。トトはラグビー・ボールみたいな目をして口をぽかんと開けている。きっと吠えているのだろうが、ぼくにはそう見える。犬嫌いのぼくでも我慢できる可愛さがある。ワニは薄茶色で、青い点がちらばっている。背中に緑色の棘がある。丸く青い目がユーモラスだ。単純でおもうがままに描いている。絵をきちんと学んだ人が見たら、きっと怒るかもしれないような大胆さだ。

(略)

 絵を学んだ人は、それなりの技術を身につけ、それなりの技術であれこれと描写するが、それはただ自己の訓練を披露するだけで、そこには自分自身も何も出ていないことが多い。おそらく技術を学んでいるうちに、自己の精神が消えてしまうのだろう。美大出の多くの画家のつまらなさはそんなところにある。

americanart.si.edu

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