定本 和田誠 時間旅行

定本 和田誠 時間旅行

定本 和田誠 時間旅行

 

時間旅行インタビュー(1997年)

ある日、[小4担任の]柳内先生が今日の新聞に面白い政治漫画が載っている、言葉はないのに絵だけでちゃんと今の政治を表現してると、授業の前に言ったわけ。家でその漫画を探してみると、それが清水崑の絵で、それから毎日清水さんの漫画を切り抜いてましたね。真似してこの頃から似顔絵を描き始めることになるんです。高校の時には同級生の藤田君と、友達や先生の似顔絵で「西遊記」を描いたりして。(略)

 高校生の時まで、清水崑の影響で筆を使って描いて、ソウ|ル・スタインバーグを見た時にその影響で細い線のペンで描き始めて、それは今も続いている。もうひとつベン・シャーンの筆で描くというタッチもある。そのタッチは、突然ベン・シャーンに影響されたわけではなくて、もともと清水崑が和紙に墨汁で描いていて、技法としては流れの中でそのままつながるものがあったわけですね。

 藤田君のお父さんが漫画家の佐次たかしさんで、スタインバーグの「ALL IN LINE」という本を持っていて、高校一年の時に貸してくれたんです。三日ぐらい借りて、ほとんど全ページ模写した。二年生の時には「世界のポスター展」を見て感動したんだけど、その会場ではヘルベルト・ロイピンとドナルド・ブルンが好きでした。この展覧会がこの道に進むきっかけになったわけ。

多摩美

あの頃は、多摩美なんて誰も知らないからほとんど入れましたね。武蔵美女子美もあったけど、やっぱり芸大じゃないとダメだと言われてた時代です。(略)[美術の先生は]多摩美なんてのはお嬢さん学校だからよしなって。そんなふうに先生は思ってた。行くんだったら芸大だと。

 入学したのはいいけど、友達もいなくて。先生が褒める人達はそういう人達でグループになるんだよね。ぼくなんかは下手のグループ(笑)。一年は杉浦非水さんに教わった。歴史的に言えば偉い人なんだけど、もうおじいさんでね。地下鉄が開通した時のポスターとか、三越呉服店とか、そういう時代の人だから。(略)

毎週課題を出して批評するんだけど「これはきれいだね」くらいの選評で、きれいだと思わないと黙って行っちゃうみたいな感じで、とにかく張り合いがなかった。

 課題は、何かを写生してそれを便化するというもの。(略)デザイン的にデフォルメすることなんだけど、昔の友禅の模様を描く人なんかが使ってた言葉じゃないでしょうかね。例えば椿をリアルに描いたんじゃ模様にならないからそれを便化するわけですよね。

(略)

 二年の時の先生は、何故かモダンアートの人、抽象画の絵描きさんだったんですよ。デザインに全然関係ない。生徒によってはその先生にすぐ合わせちゃって、この間までタンポボの便化してたやつが、突如抽象画を描いてくる。要領よく振る舞う方が点数がいいわけですよね。石膏かなんかをパネルの上に盛り上げてわけわかんないのを先生は褒めるわけ。ぼくはもう相変わらず同じようなものをずっと描いていた。マザー・グースの詩を書いて、下にその挿絵を描いてパネルにするとか。先生はそんな文学的なことやってちゃしょうがないな、なんて言うわけ。何がしょうがないんだかよくわからないんだけど、そんなに傷つかなかった。石膏盛り上げた汚い絵より、ぼくの方がいいと思ってたからね。

(略)

三年、四年は山名文夫さんが教授だったので、とても良くなったんです。山名先生は、あの当時は現役で資生堂宣伝部の顧問かなんか偉い人だった。(略)ポーの「黒猫」の挿絵を描いてたりするような人だった。やっぱり課題の出し方が面白かったですね。例えば「アド・マン」という雑誌があるとしよう、これは広告に携わる人や広告を志す人のための雑誌である、その表紙を描きなさい、とか、自分で電化製品を一つ選んで、全五段の新聞広告にしてきなさいとか、具体的だから面白かったんだね。

デザイン誌「アイデア

「アイデア」はぼくが高校生の時に創刊されて(略)

亀倉雄策さんとか、山城隆一さんとか、全部「アイデア」で覚えたんですよ。デザイン、イラストレーションの専門誌といえば「アイデア」しかなかったですから。 (略)

そこに「写真植字への誘い」っていう文章を山城さんが書いていた。(略)

[当時は活字全盛の時代]

写植というのはなかなかいいものだ、っていうことを書いていた。「写植は長体も斜体もできる。斜体で組んでいる行間からは、風が吹き抜けてくる気持がする」というような詩的な感じで。それでその文章のところは組が斜体になってるわけ。ある所は文字を大きく組んだりデザインしてあって、絵は入ってないんだけど全体がイラストレーション的で、とても印象的でしたね。

(略)

 それと「アイデア」に載った亀倉さんのエッセイで「拡大することの面白さ」っていうのがあったんです。小さな絵を描いて、それを十倍ぐらいに拡大すると線がビリビリになって面白くなるというの。(略)
線が荒れて迫力があっていいんですよね。それでぼくは拡大の楽しさを教わった。
(略)
日宣美は自分から出そうと思ったんじゃなくてみんなが出すから一緒に出すという感じ。入るわけはないと思ってた。[が、受賞]
(略)

[授賞式の前夜祭で]細谷巌さんが近づいてきて、いきなり「君はベン・シャーンの影響を受けてるだろ」って言ったの。それを一番印象強く覚えてます。

(略)

[1年の時に、コーワの蛙マーク公募で一等賞に]

もう一人の一等賞が「ウノ アキラ」っていう人だったんです。日宣美展で入賞してた宇野亞喜良さんが、あの時の「ウノ アキラ」だってすぐわかった。ぼくの方から声かけたのかな。

ライトパブリシティ入社

ある日、山名有世さんに学校の廊下で会って就職話になって、「じゃあ電通みたいなところ?」って聞かれて、「まあ、そうですね」って言ったらすぐお父さんに話してくれて、それで電通の新井静一郎さんに会いに行けっていうことになった。
 一方、仕事をしてた東芝の宣伝課長の寺尾さんっていう人が「どうするんだ?」って言うから、「ライトパブリシティに入りたかったんだけど、電通に決まりそうです」って言ったら、「なんだ、じゃあ向(秀男)さんに紹介してあげよう」ってことになった。電通の方がはっきり決まっていれば別だけ ど、新井さんに会ってから通知が来るまで間があったから、向さんと会ったら「いいよ」って簡単なの(笑)。それでその日ぐらいに電通から採用の通知が来てしまったんです。困って山名さんのお宅に行って「電通を断りたい」って言ったら 「そんな勝手なことが許せるか!」ってすごく叱られた。[それでもライトに行きたいと言うと](略)

「そうか。まあ後輩っていうのは先輩に迷惑をかける権利があるんだ。新井さんに話しといてやるよ」と言ってくれたんでホッとしましたね。

(略)

ライトパブリシティに憧れてたのは、仕事が良かったのと、そこの人たちも魅力的だったから。村越襄がいて、細谷巌がいて、伊坂芳太良がいて(略)その後は篠山紀信が入ってきたり、土屋耕一さんは年はぼくより上だけど、その当時はまだ資生堂にいて、ぼくより後にライトの社員になった。

(略)

 細谷巌さんが怖かったですね。年は一つだけ上だけど、ライトのキャリアは五年先輩になるし、口も悪いし(笑)。(略)叱られるというより、馬鹿にされるんです。ぼくがあまりにも下手だから。

(略)

 当時のライトの仕事は、プレゼンテーションなんてなかったですね。クライアントには、初校で初めて見せる。クライアントがチェックするのは、値段や住所が間違ってないかどうかということだけで、デザインに対しては何も言わなかった。(略)[各社競合も]なくて、本当に幸せな時代だった(笑)。ノーを出す人は社内の上の人だけ

(略)

一番影響を受けたのはやっぱり映画と音楽。(略)広く言えばアメリカ文化だったんです。(略)

 一応戦争の怖さは記憶にあるんです。日本の飛行機がB29に体当たりして両方落ちるのを見ました。

(略)

家にフォスターのレコードがあったんです。(略)今でこそアメリカの古典みたいに言われてるけどあれは完全にポップスですね。アメリカンポップスみたいなものの源流がそこにあるから、戦後すぐ「センチメンタルジャーニー」なんか聴いても、突然新しいものを聴くというよりは懐かしいという感じもするわけですね。

横尾忠則篠山紀信

横尾(忠則)ちゃんとは田中一光さんの家で出会ったんですけど、その時は彼はまだナショナル宣伝研究所にいたのかな。(略)

お互い日宣美に入った作品をよく覚えていて(略)たちまち仲良くなっちゃったんです。それで一九六〇年にデザインセンターができて、横尾ちゃんが入って、宇野さんとも仲良くなって、ぼくはライトだけどよく三人で会ったりしてました。

 デザインセンターは超エリート集団で、初めからできる人を集めたから、当然会社発足当時から、クオリティが高いわけなんです。一方、ライトは学生とか無名な人を入れて徐々に育てていくという感じ。(略)

デザインセンターとライトはそういう[仕事の取り合い]のはなかった。はっきり一業種一社で、デザインセンターはニコン、ライトはキャノン、ビールだったらデザインセンターはアサヒ、ライトはサッポロというように、お互いに侵食し合わない。

(略)

 篠山紀信は、ぼくより四つ年下なんだけど学生の時からライトに来てました。写真部に入ると、普通は助手からスタートして何年か修業した後にカメラマンに昇格するんだけど、シノは助手はイヤだといきなりカメラマンで入ったんです。意気込みはすごかったんだけど写真はまだまだで、写真部の中では生意気だと思われてたみたい。

(略)

ライトのカメラマンは、デザイナーのアイデアに従って撮るシステムだったんですね。(略)

その様子を見ていて、このやり方はカメラマンは面白くないんじゃないかって思ったんです。それである日、カメラマンにスケッチを描かずに口で大まかなことを説明して「好きなように撮ってよ。写真見てからデザイン考えるから」って言ったら、「何だおまえ、手抜いてんのか」って怒られちゃった。カメラマンのためにぼくは言ってるのに、こりゃだめだと思ったね。

 シノが入ってきたのはちょうどその頃で、話しているとどうも生意気でデザイナーがスケッチしたのをそのまま撮るようなタイプじゃないって勘で思ったわけです(笑)。それでその一年後くらいに初めて「漫画讀本」の表紙で組んで、そのやり方でどうかって言ったわけ。そしたら「そういうやり方はすごく嬉しい」って。そんなことがあってお互い独立した後も仲が良くて

(略)

 宇野さんと横尾ちゃんと昼休みに待ち合わせて、光蘭亭っていう中華料理屋さんでよく昼飯を食べました。(略)

そこで、二人はある時突然「ぼくたち本を作ったんだよ」って「海の小娘」という合作の絵本をくれたんです。うらやましいなあ、こういうふうに二人で一緒に本を出せる友達がいるっていいなと思いましたね。

(略)

横尾ちゃんは、まだ何ともわからなかった時代。これからどうなるか、まだ海のものとも山のものともつかぬ横尾忠則が、その本でものすごくいい仕事をしてましたね。途中で二人がうまくオーバーラップしていくようになっていて、赤と青の二色で刷ってあるところに、セロハンが入れてあって、赤いセロハンを入れると一人が消えて青いセロハンを入れるともう一人が消えて、という工夫になっている。そういう工夫も面白いし、二人がはっきりとページを分けるのではなくて、オーバーラップしていく不思議な友情みたいなものも、ぼくは当時ライトにはそういう友達はいなかったから、いろんな意味でちょっとショッキングな本でしたね。

(略)

一九六四年には、横尾ちゃん、宇野さん、そして原田維夫の三人が独立して「イルフィル」っていう事務所を作りました。これもちょっとうらやましかったですね。

(略)

当時は印刷ができ上がったら原画なんてもういらないもんだと思ってたから、ライト時代の原画は一切ないんです。ぼくもわりとのんびりしてたので、黙ってても返してくれる人のは受け取るし、返してくれなくても催促はしない。70年代に入った頃から、やっぱり原画はちゃんと持っていようと思うようになりましたね。多少歳とって欲も出てきて、原画があれば画集もできるかもしれないっていうようなことも考えるようになったんですかね。つまり昔は、グラフィックなんだから印刷されて初めて作品なんであって、原画なんてものは何の価値もないんだっていうふうに思ってたんです。いまだに多少それは残ってて、だから色指定が好きなんですね。きれいな色がついてても、原画はただのモノクロの線画だからね。

 個人の仕事をする時は、昔はコピー機なんて個人では持っていなかったから、全部原寸で絵を描いていたんです。(略)

原寸で描くとレイアウトが楽だっていう習慣がずっとあって、今でもほとんど原寸で描きます。逆に一発勝負みたいなところもあるけど、「週刊文春」なんかでも、題名を入れるとちょっと空きすぎたとかつまりすぎたなっていう時は、多少トンボの位置変えて(笑)。

 東京イラストレーターズ・クラブ

 あの頃は、まだ「イラストレーション」という言葉すら知名度がなかったし、自分たちもイラストレーターという意識はそれほどないわけですよね。絵を描くことが好きなグラフィックデザイナーだった。やがて「イラストレーション」というもの、「イラストレーター」という職業があるんだということをアピールしたい気持ちが強くなって、イラストレーターズ・クラブを作ろうっていうところに発展するわけです。宇野さん、横尾ちゃんたちとそういう話し合いを前からしていましたね。

(略)

 当時はやっぱり画期的な行動だったと思いますね。(略)最初は三十人ぐらいだったけど、わりとみんないい反応を示してくれました。デザイナー出身のイラストレーターと、絵本作家や挿絵画家とかいろんなジャンルの人が集まりました。(略)

約十年で崩壊してしまいました。ひとつは事務局みたいなものがきっちりとなかったからなんです。会費を払わない人がいるんだよね(笑)。

(略) このクラブは年鑑をちゃんと出していたことが良かったですね。

次回に続く。

 

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