安西水丸 いつまでも愛されるイラストレーター

 

南伸坊 安西油丸がいた

 イラストレーターとかイラストレーションというのがカタカナ語として日本語に組み入れられたころ、イラストレーターは、たいがいグラフィックデザイナーがなるものだった。

 こういう言い方が、ちょっと粗雑だというのなら、デザイン感覚と無縁なイラストレーションは、当時はさし絵と呼ばれていたということである。

 つまり、具体的に言うと、和田誠横尾忠則宇野亞喜良灘本唯人山下勇三といった、日本のイラストレーション草創期の人々が描いた絵が即ちイラストレーションだった。

 それは、当時のさし絵と、決定的に違って見えた。「見えた」ところがこの話の肝である。何が言いたいのかといったら、つまり、デザイン感覚のあるさし絵だけが、イラストレーションだと認識されていたということだ。

 それがフレッシュであったことで、以後、雑誌のさし絵は、どんどんイラストレーターにとってかわられていく。

 しかし、フレッシュさというものは、時間と共に目減りをしていくものだし、さし絵に対してイラストレーションがフレッシュに感じられたとしたら、どんどんイラストレーションがふえるにしたがってそのフレッシュさは減じていく運命にある。

 安西水丸さんが、イラストレーターとしてデビューした頃、イラストレーションは既にものめずらしいものではなくなっていた。

 湯村輝彦、河村要助、矢吹申彦原田治といった人々が一線で活躍するとともに、いままでイラストレーションとは呼ばれなかったジャンルの絵、たとえば漫画家や絵本作家の絵がイラストレーションとして使われるようになり、イラストレーションは本来の「illustration」と同じ意味合いになっていったといえる。

 この時期にイラストレーションを牽引していたのは、まちがいなく湯村輝彦である。そうして水丸さんは他の誰よりも湯村さんに似ていたと思う。

 何が似ていたかというと、一人でイラストレーターとディレクターを兼任しているところ。当時の「イラストレーション」らしさから、意図的にずれようとしていたことである。

 たとえば、カラートーンやスクリントーンを、線描きの絵の色付けや調子付けに使う時、線描きからはみ出したりずれたりする。これは小さなことのようだが、意識として几帳面に線描き通りに貼り込むのと、実は大きく異なる。もちろん、当時のイラストレーターはトーンをていねいに貼っていた。トーンを貼るのは自分で色をぬるのとは違う。本来、指定で職人にしてもらうべきところを自分でしているというのがこの作業なのだった。

 水丸さんが『ガロ』で漫画を描いていたころ、スクリーントーンを貼っていたのは私だ。私は当時『ガロ』の編集者であって、少しでも作者の、労力を減じるために、その作業を率先してやっていた。そして、もちろん私の当時の意識は、版下の職人である。

 水丸さんは、カラートーンを自分で貼るようになってから、イラストレーターのトップランナーになっていった。

 もちろん、カラートーンをハミ出して貼るのは、すぐに新しい「テクニック」として流行るのであって、それからはハミ出すのが当り前になる。そして、よく考えて、ていねいにハミ出すイラストレーターがふえていった。

 水丸さんのカラートーンのハミ出しは、どうだったのだろうか? 最初はいっしょうけんめいに、線のとおりに貼ろうとしていたのだろうか?それはどちらでもいいけれども、私が思うのには、ハミダシを当然の「テクニック」としてではなく、何故それが魅力的に見えるのかを自分で考えた時期があったにちがいない。ということだ。

 あるいは単純に、不器用でうまくカラートーンを貼ることができなかったのかもしれない。それは湯村さんにも言えることで、二人ともカラートーンを貼るのがめちゃくちゃ得意でなかった可能性もありうる。

(略)

[うまく貼れない]ところから、「いいじゃないか、ちょっとくらいハミ出しても。」

「いいや、このハミ出してるとこがいいんだよ」「ここがいいんじゃない。」「いいねえ、このカラートーンのハミ出しかたがいいねえ。」

 というふうにして、どんどん自信を持っていった可能性もある。つまり

(略)

作る立場で絵を見ている目、というのが一方にある。

 それは、アートディレクター的な目だ。湯村さんにあり、水丸さんにあるのは、このアーディレクター的な目だったのではないか。それはつまり、日本の、ある時期には当り前だった、デザイナーがイラストレーターだったことと無関係ではない。

(略)

 水丸さんのイラストレーションの魅力は、絵を描く手のナイーブさと、その絵をイラストレーションに仕上げる目の果断さにあった。

 水丸さんの絵は、独特のニュアンスを持っているけれども、それだけでは水丸さんのイラストレーションにはならない。

 そうして、この手と目のコンビが、水と油のようなコントラストを持っていたところが魅力だったのではないか?と私は睨んでいる。安西水丸は実はもう一人のいわば安西油丸とコンビでできあがっていたかもしれない。

(略)

 それは、水丸さん自身がした装丁と、水丸さんの絵をつかった他人のデザインを見比べてみればすぐわかる。水丸さんの絵を、最もうまく使ったのは、まちがいなく安西油丸である。

小学一年生の時に書いた詩

とまと

とまとはなぜ赤いか

ぼくは知らない

こがね虫も知らないようだ。

赤いとまとの

赤い色は

ふしぎというよりしかたない

ぼくの目の前に

とまとは今

てかてか赤く光っている 

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