「いいね! 」戦争 兵器化するソーシャルメディア

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「いいね! 」戦争 兵器化するソーシャルメディア

 

トランプ、ツイッターではじける

 トランプも岐路に立っていた。六十三歳の不動産王は四度めの破産を経験したばかりだった。(略)彼はリアリティTV〈アプレンティス〉の司会者に転身を果たしたが、輝きは失せ始めていた。同番組は放映開始当初こそプライムタイムのトップを飾ったものの、やがて視聴率ランキングで七五位に転落して打ち切りになった。その後、セレブ版スピンオフとして復活し、同じくトランプが司会を務めていた〈セレブリティ・アプレンティス〉はまだ放映中だったとはいえ、視聴率は急降下していた。視聴率の低下を食い止めるべく、トランプはデイビッド・レターマンのトークショーに出演したのだが、効果はなかった。トランプの初ツイートからわずか六日後にシーズン終了を迎えるころには、〈セレブリティ・アプレンティス〉の視聴率は〈デスパレートな妻たち〉や〈コールドケース 迷宮事件簿〉を下回っていた。(略)

当初トランプのツイートは散発的で、数日に一回のペース(略)

[スタッフによる投稿で、内容はテレビ出演告知、トランプ・ブランドの宣伝、名言格言など]

しかし二〇一一年、何かが変わった。トランプのツイートは五倍に増え、翌年にはさらに五倍に膨れ上がった。一人称のツイートが増え、何より調子が変わった。(略)

非常に好戦的にもなり、しょっちゅうけんかを吹っかけ──とくにコメディアンのロージー・オドネルを目の敵にした──そうやって磨き上げた言葉がやがてトランプのツイートの定番になった。「残念だ!」「負け犬!」「弱虫!」「ばか!」などを、たちまち何百回も使うようになった。著名な実業家が悩み多きティーンエイジャーみたいにネットのいさかいに突っ込んでいくなど、当時はまだ珍しく、少し見苦しくもあった。だが、トランプの「炎上戦争」は最も重要な点で成功した。つまり、注意を引くことだ。

 トランプのアカウントはより私的なものになるにつれて政治色が増した。トランプは貿易、中国、イラン、さらにクワンザ(アフリカ系アメリカ人の祝祭)についてまで長々と書き連ねた。それから矛先をバラク・オバマ大統領に向け、ほんの数年前には「チャンピオン」と賞賛した相手を、有名人のなかでいちばんの標的に変えて、無数の猛攻撃を開始した。不動産王からプレイボーイを経てリアリティTVの司会者に転身した男は、やがてもう一度、今度は右派の政治勢力に変貌を遂げた。

(略)

[即座に反応がわかるので]

とくに反響を呼んだツイートに磨きをかけて強化することもできた。トランプはインターネット上でくすぶり続けていた古い陰謀説を蒸し返し、オバマの政策ばかりか大統領資格についてまで攻撃(出生証明書をよく見てみようじゃないか)。その結果、ネットの反応は急増した。トランプとツイッターの組み合わせは、政治を未知の領域に向かわせていた。

(略)

他人から反応があれば、脳から少量のドーパミンが分泌され、投稿や「いいね!」、リツイート、「シェア」を繰り返したくなる。大勢の人間と同じように、ドナルド・トランプソーシャルメディアに夢中になった。

ISISはネットワークをハックしたのではない

ネット上の情報をハックしたのだ

[ISIS支持者やボット軍団は黒ずくめの武装集団の自撮り写真や]戦車車両団の画像をインスタグラムに投稿した。[拡散のための]スマホ用アプリまで開発された。(略)

ISISの動画は、勇敢にも抵抗した人びとを残酷な方法で拷問したり処刑したりする様子も映し出した。そして現実の世界での目的を達成した。#AllEyesOnISISは実際の部隊に先駆けて無数のメッセージを拡散し、目に見えない爆撃としての威力を発揮したのである。猛烈な勢いで広がるメッセージは、恐怖と分裂と背信の種をまくことになった。

(略)

ISISの重要な標的は、三〇〇〇年の歴史を持つ人口一八〇万の多文化都市、モスルだった。ISISの先陣が迫り、#AllEyesOnISISが情報を拡散するなか、モスルは恐怖に覆われた。スンニ派シーア派、周辺のクルド人勢力が互いに疑心暗鬼になった。自分たちが目にしている斬首や処刑の高画質動画は現実のものなのか。同じことがここでも起きるのだろうか。スンニ派の若者たちは、画面に映し出される不屈の黒い群れに触発されて、テロ行為に身を投じ、侵略者の代わりを務めた。イラク軍は、この小規模ながら恐ろしい軍勢からモスルの街を守る態勢を整えていた。少なくとも理屈上では、そのはずだった。だが現実には、モスルの二万五〇〇〇人強の守備隊は名目上の存在でしかなく、兵士たちがとうに任務を放棄したか、そもそも私腹を肥やすことに余念のない腐敗した高官らによってでっち上げられたかだった。さらに悪いことに、実在した約一万人の兵士たちは、喧伝される侵攻部隊の前進と残虐行為を各自のスマホで追うことができた。#AllEyesOnISISをチェックして、戦うべきか逃げるべきか、兵士同士で相談するようになった。敵が来てもいないうちから、恐怖が兵士たちを支配していた。守る側のイラク軍兵士はこそこそと逃げ始め、最初は少しずつだった流れがやがて洪水と化した。無数の兵士たちが、その多くは武器も車両も置き去りにしてモスルから遁走し、警官の大半も後に続いた。モスル市民も侵攻部隊の噂にパニック状態になり、五〇万人近くが街から逃げ出した。ISISの侵攻部隊一五〇〇人は、ようやくモスル郊外にたどり着いたとき、自分たちの運のよさに驚愕した。市内に残っていたのはひと握りの勇敢な(あるいは混乱した)兵士と警官だけだったのだ。彼らを制圧するのは容易だった。それは戦闘ではなく虐殺であり、その様子は逐一撮影・編集されて、またもやすぐにネット配信された。

(略)

[1940年]ドイツの電撃戦の真価はそのスピードにあった。(略)フランス軍は不安にさいなまれ、たちまちパニックに陥った。すべてを可能にした「兵器」はただの無線だった。

(略)

 ドイツ側がラジオと装甲車を駆使したのに対し、ISISは新たな電撃戦の兵器としていち早くインターネット使った。

(略)

ISISは、現実にはこれといったサイバー戦の能力を備えていたわけではなく、とにかくバイラルマーケティングのような軍事攻勢をかけて、あり得ないはずだった勝利を収めたのだ。ISISはネットワークをハックしたのではない。ネット上の情報をハックしたのだった。

(略)
 ソーシャルメディアは戦争のメッセージだけでなく力学も変えた。情報がいかにアクセスされ、操作され、拡散されるかが、新たな影響を持つようになっていった。戦いに関与しているのは誰か、どこにいるのか、いかにして勝利を収めたかまで、事実が歪曲され、変質させられていた。

ネット紛争が招く「現実」

 外交官だけではない。史上初めて、世界のどこに住んでいようと誰とでも直接やりとりできるようになった結果、往々にして一触即発の状況になっている。インド人とパキスタン人はそれぞれ「フェイスブック義勇軍」を結成して暴力を扇動し、自国に対する誇りをかき立てる。(略)

中国のネットユーザーの間では、中国の力を見くびっているように思える周辺国に対するネット「遠征」が習慣化している。何より、こうしたネット市民は自国政府の対応が弱腰だと思えばことごとく抗議し、武力行使するよう指導者たちに絶えず強要もする。

(略)

 オンラインの紛争のこうした変化にはもう一つ、厄介で逃れられない一貫したテーマがある。ときとして、こうしたインターネットの戦闘が招くひどい結果だけが唯一の「現実」かもしれないのだ。

 ISISがイラクで暴走する様子を私たちが見つめていたときでさえ、アメリカでは別の紛争が起きていた。それは一目瞭然だったのに、当時はあまりにも見すごされがちだった。ロシアの諜報員たちが、それまでのオンライン攻勢がかすんでしまうほどの大規模な攻勢を組織していたのだ。2016年のアメリカ大統領選挙では終始、何千人もの「荒らし」が、何万という自動作成されたアカウントを後ろ盾にして、アメリカの政治的対応の隅々にまで潜入していた。彼らは議論を誘導し、疑念を植え付け、真実をわかりにくくし、史上最も政治的に重大な情報攻撃を仕掛けた。そして、その作戦は現在まで続いている。

(略)

インターネットの楽天的な考案者と最も熱烈な支持者たちにとっては耐えがたい状況だ。彼らはインターネットが平和と理解をもたらし得ると確信していた。「以前は、誰もが自由に発言し、情報や考えを交換できたら、世界は自然とより良い場所になるはずだと思っていた」と、ツイッターの共同創業者エヴァン・ウィリアムズは打ち明けている。「それは私の思い違いだった」

 マケドニアの「クリックベイト」セレブ

マケドニアの錆びついた街ヴェレスで、彼らは戴冠したばかりの王様だった。(略)
失業率二五パーセント、年間所得が五〇〇〇ドルを下回る町で、これらの少年たちは暇な時間をカネに変え、そこそこ英語も身につく方法を見つけたのだ。彼らは受けそうなウェブサイトを立ち上げ、流行のダイエット法や風変わりな健康情報を売り込み、フェイスブックの「シェア」を頼りにアクセスを増やした。ユーザーがクリックするたび、オンライン広告の広告料のごくささやかな分け前が彼らのものになった。じきにいちばん人気のあるサイトは一カ月に何万ドルも稼ぐようになっていた。

(略)

ぞんざいで明らかに流用とわかる文章と広告でも何十万もの「シェア」を得られた。ヴェレスで生まれたアメリカ政治絡みのウェブサイトの数は数百に膨れ上がった。米ドルが地元経済に大量に流れ込み、グーグルの広告収入支払日に合わせて特別なイベントを行うナイトクラブまで現れた。(略)「ドミトリ」(仮名)は五〇のウェブサイトからなるネットワークを運営しており(略)[閲覧回数が六カ月間で約四〇〇〇万回]その収入は約六万ドルに上った。十八歳のドミトリは自身のメディア帝国を拡大し、記事の執筆を一人日給一〇ドルで十五歳の少年三人に委託した。だが上には上がいる。数人は百万長者になった。そのうちの一人は「クリックベイト(扇情的なタイトルをつけて閲覧者数を増やす手法) コーチ」と名を変えて、どうしたら自分のように成功できるかを数十人に伝授する学校経営に乗り出した。

 アメリカの有権者たちから約八〇〇〇キロ離れた、このマケドニアの小さな町は、マーク・ザッカーバーグが一〇年前に始めたことを、完全ではないものの再現した。町の起業家たちが開拓した新たな産業は途方もない額の現金を生み出し、若きコンピュータオタク・グループをロックスター並みのセレブに変えた。ナイトクラブで浮かれ騒ぐ大物ティーンエイジャーたちを眺めながら、十七歳の少女は次のように説明した。「フェイクニュースが始まってから、女子はマッチョな男よりテックマニアに引かれる」

 こうした荒稼ぎしているマケドニアの若者たちが送り出すバイラル性のあるニュース(略)には、オバマケニア生まれだという待望の「証拠」がようやく見つかったとか、オバマが軍事クーデターを計画していることが露見したなどという話題も登場する。(略)

そうした記事は(略)真実を伝える報道をはるかに上回る規模で読まれた。

(略)

 少年たちは流行のダイエット法を売り込む場合と同じく、自分たちのターゲットが欲しがりそうだという理由だけで政治に関する嘘を書き込んだ。「水が好きだとわかったら水を与える」とドミトリは言った。「ワインが好きならワインを与える」。だがこのビジネスには一つ鉄則があった。トランプの熱烈な支持者を狙え、というものだ。ティーンエイジャーたちはトランプの政治的メッセージをとくに気にしていたわけではないが、ドミトリによれば、彼らの作り話をクリックすることにかけてはトランプ支持者は「無敵だった」そうだ。

(略)

「無理矢理カネを払わせたわけじゃない」とドミトリは言った。「たばこを売る。アルコールを売る。それは違法じゃない。なのになぜおれのビジネスは違法なんだ?たばこを売れば、たばこは人を殺す。おれは誰も殺しちゃいない」。むしろ、悪いのは既成ニュースメディアのほうで、簡単に稼げる金づるを放置していたと話す。「連中は嘘をついちゃいけないからな」。ドミトリは嘲るように言った。

(略)

 マケドニアのメディア王たちの仕事が脚光を浴びていたころ、当のオバマ大統領は顧問たちと大統領専用機の中で身を寄せ合っていた。世界で最も影響力を持つ男が、状況の愚かしさと反撃できない自身の無力さについて思案していた。彼は海軍特殊部隊SEALsを派遣してウサマ・ビンラディンを殺害することはできても、この新たな「何もかもが真実で何一つ真実ではない」情報環境を変えることはできなかった。

(略)

[二世紀近く前、トクヴィル]も同じ思案にふけった。そしてこう結論付けた。「アメリカにおける政治学の原理は、新聞の影響力を無効化する唯一の方法はその数を増やすことである、というものだ」。新聞の数が多いほど、一連の事実について世論は一致しにくくなるだろうと、トクヴィルは推論した。

(略)

[現在ソーシャルメディアにより]一定の事実というものは存在しない。視点によって「事実」が違ってくるのだ。誰もが見たいものを見る。そして、その仕組を学べば、自分自身が生み出したこの現実にさらに引き込まれ、出口が見つけにくくなるだろう。

「ピザゲート」

[ピザ店コメット・ピンポンが小児性愛者の秘密組織だと信じ込んだ]

ウェルチは店の奥に向かった。そこに子どもたちが囚われているはずの広大な洞窟のような地下室への入り口があるはずだった。だが実際には、彼が目にしたのはピザ生地を手にした従業員一人だった。それからの四五分間、ウェルチは家具をひっくり返し、壁を探って、淫らな行為が行われているはずの秘密の部屋を探した。(略)

秘密の地下室に通じる階段はなかった。そもそも地下室がなかった。落胆し混乱したウェルチは銃を捨てて警察に投降した。

(略)

検察側の記録によれば、ウェルチは「意識は明瞭で、きわめて真剣で、十分な自覚があった」という。彼は囚われている子どもたちを解放し、命を捨てる覚悟で帰ることのない任務に赴くのだと本気で考えていた。

(略)

もとをたどれば、「ピザゲート」と呼ばれるバイラルな陰謀論に端を発していた。二〇一六年のアメリカ大統領選挙の終盤に登場したデマで、ヒラリー・クリントンと側近らが首都ワシントンのピザ店で行われている悪魔崇拝と未成年者の売買に関与しているという内容だった。

(略)

 ピザゲートはソーシャルメディアで炎上し、ツイッターだけで一四〇万回言及された。(略)

陰謀論者のアレックス・ジョーンズは登録ユーザー二〇〇万人に向かって次のように語った。「隠蔽が行われている。たぶん、神に誓って、私たちは悪の権化に牛耳られているのだ」。サンクトペテルブルクのロシア人ソックパペットたちも、チャンスを嗅ぎつけてピザゲート現象に乗じて投稿し、火に油を注いだ。ピザゲートは極右のオンラインでのやりとりを何週間も支配しただけでなく、クリントンの敗北を受けて影響力を増した。選挙後の世論調査では、トランプに投票した人の半数近くが、クリントン陣営は小児性愛、人身売買、悪魔崇拝儀礼での虐待に関与していたと信じていた。

(略)

ピザゲートの主要な投稿者に、米海軍予備役の若き情報部員ジャック・ポソビエックがいた。(略)

ポソビエックは一〇万人を超える自分のフォロワーにピザゲートを容赦なく押しつけた。(略)

「やつらはこちらの考えることや行動を管理したがる」とポソビエックはうそぶいた。「でも今なら独自のプラットフォームとチャンネルを使って、真実を語ることができる」

(略)

ウェルチの暴力的で無駄に終わった探索でも、ポソビエックの主張は覆されることはなく、かえって彼を新たな陰謀論に駆り立てただけだった。(略)

「コメット・ピンポンのガンマンはやらせで、企業の所有でない独立系報道機関に対する検閲推進に利用されるはずだ」。それから話題を変え、フォロワーたちに、ワシントン警察署長が「コメット・ピンポンに銃を持って押し入った男とピザゲートに関係がある証拠はない」と結論したと告げた。

(略)

それでもポソビエックは報いをほとんど受けなかった。それどころか、オンラインでの彼の名声と影響力は増した。見返りはほかにもあった。トロールによってピザ店を悲劇寸前に追いやってからわずか数カ月後、ポソビエックはホワイトハウスの記者会見室から特別招待客としてライブ配信していた。そして究極のお墨付きを得た。ポソビエックと彼のメッセージは、全世界で最も影響力を持つソーシャルメディア・プラットフォーム、すなわちドナルド・トランプ大統領のプラットフォームによって何度もリツイートされたのだ。

次回に続く。

 

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 前回の続き。

 空前の近衛人気

[内閣書記官長に風見章]

近衛好みのサプライズ人事であり、またそれは人気という点で成功するのであった。風見は、「見物席から舞台へ 型破りの大番頭 生れて初めてお役人」「微塵の政治臭もないこの無冠の野人の革新イデオロギーがここに青年宰相の胸奥にピリリッと感応」「窓にドタ靴のせて 寝そべる野人翰長」「虫喰いモーニングで 野人翰長の晴れ姿 撒き散らすナフタリン臭」などと新聞に書かれて持ち上げられ、「公家」の近衛と好一対のコンビとして内閣を支えることとなるのである。

(略)

この風見の件も含めて近衛内閣は空前の人気内閣であった。(略)

「一般の人気は湧く様であった。五摂家の筆頭である青年貴族の近衛が、総理大臣になったということが、何かしら新鮮な感じを国民に与えたのだ。殊にそれが林銃十郎のような憂鬱内閣の後だったので、一層フレッシュな感じを近衛に対して抱かせた。……近衛があの弱々しい感じの口調でラジオの放送などすると、政治に無関心な各家庭の女子供まで、「近衛さんが演説する」といって、大騒ぎしてラジオにスイッチを入れるという有様だった」

「近衛首相は、日本中に人気を湧かし、……日本一の家柄、西園寺元老のホープ、革新思想に富む新人、軍部中堅層に支持者を持つ人、颯爽たる美丈夫、まさに時局待望の首相としてジャーナリズムがもてはやし、国民が随喜した。

(略)

(1)スターとしての近衛ファミリー・長男文隆(略)

第二世プリンス文隆が(略)「ウィルソンが総長をやっていたプリンストン大学に入りますよ」(略)

「チョット北米の旅 豪勢な! 近衛公一家総動員 (略)しゃちこ張った社交は御免だ」(略)ロッキー山脈の山の中の町パンフに「逃れ」、「文隆君を呼寄せて一家水入らず(略)

近衛公は(略)一家のことに関しては一切平等の発言権を許して完全な家庭デモクラシーを布いていられるのだ」

(略)

大臣といえば苦学力行、修身の見本のような人物ばかりと思われていたのに、近衛は昼寝をするなど役人の型を破り、「大分若いサラリーマンなどに受けがよかった」が、「今度は又、夫人が日曜には自由に遊びに出かけて(略)貞女型を破って見せ、若い細君や娘さん達の中に人気の出そうな所を見せている。

(略)

 近衛人気は近衛ファミリーの「個人的自由をもつ近代的ブルジョアジーの趣味や家庭を代表したような感」に大きく依拠したものなのであった。それが「女学生」「若いサラリーマン」「若い細君や娘さん達」に好まれるというのである。

(略)

近衛が首相になると、プリンストン大学に留学中の文隆はNBCのラジオインタビューに出演、それはただちに日本に「“我が父”を放送 全米の感激  ニューヨークの近衛首相令息」と報道されるのだった。「文隆君は流暢な英語で」言った。父はいかなるときでも子供をそのときには叱らず、後から適当な人を通じて「柔かに諭して呉れます」。また、関東大震災のとき、貨物列車に乗って軽井沢にやって来てくれた「父首相の家族に対する優しい思いやり」について話し、「全米国民に多大の感銘を与えた」。

(略)

 そして、文隆が帰国し、近衛が彼を秘書として使うと、以下のように新聞に載るのだった。

「と、その後から近衛さんに負けないくらい背の高い青年が車を降りて来た。グレイの地に幅広い縞のある流行のダブル・ブレスト、ピタリと着こなして近衛家自慢の長男、アメリカから帰ったばかりの文隆(二二)君である。

 政治学をやっている令息に官邸見学をかねてきょうの歴史的閣議の匂をかがせようとする近衛さんの親ごころである……長身を左右にふって歩きぶりまで首相にそっくりだ……アメリカ仕込みの颯爽たる身ぶりで自動車にのりこんだ」

(略)

[大学を中退して入営すると]

「陸軍歩兵二等兵近衛文隆君の入営.…御曹子出陣の朝は日本晴れ!……長身を包んだ文隆君の頭はまだオールバック……(略)珍らしや親子三人晴れの旅立ちの描景である」

 文隆は満洲で結婚、中尉昇進後にソ連軍の捕虜となり、七年間生死が定かでなかった。[イワノヴォ収容所で病死]

(略)

(1)女性人気(略)

「漆黒の髪に秀麗な眉、ゴルフで鍛えた五尺八寸のあの長身、春畝伊藤博文公についで歴代三十四代のうち二番目の若さを謳われる“青年日本のホープ”三十五代の公達宰相近衛文麿」(略)

「空は日本晴れ! 近衛さんの“青春組閣街道”

…午前十一時ネズミのソフトに鉄無地の単衣という瀟洒な貴公子を乗せたクライスラーは組閣本部の裏門をすべり込む……空は蒼ぞら宰相は若い、と新聞社のテント村から谺する……一時──付近のサラリーマンが昼の休みに組閣本部を遠巻きにする、若き宰相の顔が見たい──洋装の女の子まで犇めいている、すぐそばの裁判所から検事さんまでが、口をあいて、……組閣室の窓を仰いで「近衛さーン、顔を出せーイ」(略)

とくに「女学生」からの人気の指摘は多い。「薄陽の射した明治神宮参道に……青年宰相がその長身をモーニングに包んで現われた……丁度参拝に来合せた女学生の一団が二列に並んで先生の「礼!」という号令で丁寧に敬礼する、近衛さんは一寸はにかみながらこれも丁寧な礼を返す……大した人気である」

(略)

近衛以前にこのような形で評価された首相はいない。

(略)

(2)インテリ人気(略)

大正初期に成立して強い影響力を持っていた教養主義は、大正後期からマルクス主義の登場で衰退したのだが、昭和十年代に河合栄治郎などによって再び復権してきたのであかった。近衛の背後にはそうした教養主義的インテリ層の支持があったのである。それは驚くほどの渇仰ぶりであった。

(略)

「その内閣の特質は……いい意味でのインテリ的洗練味をもつところにあるのではあるまいか」

(略)

菊池寛は言う。「近衛内閣の出現は、近来暗鬱な気持になっていた我々インテリ階級に、ある程度の明るさを与えてくれたことは、確かである。少くとも、日本に於ての最初のインテリ首相である。

(略)

平林たい子は言う。

「公の周囲には新進大学教授などを網羅したブレーン・トラストが組織されているという噂だから、きっと、教養のある合理的な人にちがいない」

(略)

近衛は原稿を『キング』『日の出』などの大衆雑誌に書くことが多く、これも近衛人気に非常に貢献していた。

(略)

こうして、最新のメディアを駆使しながら、本来持っている「復古性」に大きな「モダン性」が付加され時代の要請を統合的に活かし、女性・知識人・大衆とあらゆる層に受容されながら近衛人気は作られていったのだった。

戦争の拡大

[盧溝橋事件発生]

近衛内閣の最も初期の動きは決して拡大主義ではなかった。

 しかし、蒋介石が直系の中央軍を北上させるという知らせが入った十日には(略)不拡大論の中心人物石原莞爾参謀本部作戦部長も、不測の事態を考えるとこの派兵案を呑まざるをえなかった。派兵案は、七月十一日の臨時閣議で承認され、派兵声明が決められる。

(略)

 さらに、午後九時から首相官邸で言論機関代表、貴衆両院代表、財界代表と、協力要請のための会合が三〇分おきに開かれた。いきなりこのようなものを開催したのは、史上初めてのことであった。

 これは、風見章書記官長のアイデアであり、近衛がすぐに諒解して実現したことであった。それは「政府の態度強硬なりとの印象を内外に示す」ために行われたことであり、近衛が「対外交姿勢」によって内閣の人気浮揚を目指したことは否定できぬところであろう。そして発案者はもと新聞人の風見章なのであり、ここには典型的なマスメディア操作型のポピュリズムが見られると言ってよいであろう。

翌日の新聞は一斉に[挙国一致と書きたて](略)

「“一致の決意だ”全日本の心臓!

 日本の言論界、政界、財界を代表する首脳部の乗りすてた車が首相官邸の前庭を埋めつくした、新聞社、放送協会の幹部が階下の大食堂へ消える 貴衆両院を牛耳る顔触れが、財界浮沈のバランスを握るお歴々と踵を接して階上二室の客間へ隣り合せに額をあつめる(略)

首相は官邸へ集った日本の三つの心臓へ「挙国一致」の活をいれた、三つの室の静かな興奮がただ一つの焔となって燃あがった

(略)

 石射猪太郎外務省東亜局長は、この日の朝の閣議で杉山陸相から出される三個師団動員案を外相の力で否定してくれという陸軍省軍務局からの使者にあきれたが、広田外相に否定を進言、ところが賛同したはずの広田は閣議であっさりと動員案に同意して退出してきたので失望していた。その後、夜になり首相官邸に「行ってみると、官邸はお祭りのように賑わっていた。政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ。事件があるごとに、政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近の考えから、まず大風呂敷を広げて気勢を示したのだといわれた。冗談じゃない、野獣に生肉を投したのだ」。

「首相側近」が風見書記官長を指すことは間違いないところであろう。

(略)

 もちろん事態の展開はそれほど単純ではない。その後、この動員案はすぐに実施されたわけではなく、現地では解決の機運も見られたりしたのだが(略)

二十六日には北平広安門で日中両軍は衝突、結局支那駐屯軍最後通牒を発した上で二十八日から全面攻撃を始め、華北での戦争は引き返すことのできない局面へと広がっていった。

(略)

 しかし、現地で交渉をまとめていた今井武夫少佐は次のように言っている。

「私らにすれば現地で交渉が妥結するというときに、出兵を決定されたことは致命的だったのです。また私どもの協定ができたということは東京に報告もしたし新聞社の電報も届いているわけですけれども……風見書記官長……は新聞記者出身ですから、ジャーナリズムの利用が上手なんです。すぐ各界の代表を集めて、大いに日本はやるのだといった。それがすぐシナ側に反響して「いよいよ日本はやるそうだ、これはたいへんだ」というので硬化しちゃった」

(略)

不拡大論の石原作戦部長が九月に関東軍参謀副長に左遷される。

 その石原がきっかけを作っておいたのが、ドイツの駐華大使トラウトマンを通した和平交渉であった。(略)

 しかし、国民政府の首都南京陥落の結果、その和平条件は「賠償」「保障占領」などを加重した厳しいものになってしまっていた。それは「世論の圧力」によると広田外相が認めている。

 すなわち、十月一日の四相(近衛首相、広田外相、杉山陸相、米内海相)による「支那事変対処要綱」では比較的穏やかなものであったのか、十二月十四日の大本営政府連絡会議での「和平条件」は、「国民の期待」「国内の要求」「かかる条件にて国民はこれを納得すべきか」と言わざるをえないようなものになった、というのである。

(略)

文相だった木戸幸一は次のように言っている。

 「「トラウトマン」和平交渉は、おそらく日支事変においての和平実現のチャンスのあった最終の重大な機会であったと思われるに不拘」「広田外相があの時どうしてあのように強気に交渉打切の態度に出たか一寸考えられないことで、もっと粘ってもよかったのではないかと思うが、その理由として一つ考えられることは、一月二十日から議会が再開されるので、議会では必らず論議に上るこの和平問題を議会対策としてその再開前に早く結論を出して置こうと考えたのではなかろうか」

 多田駿も同じ推測をしている。すでにこの工作のことがある程度新聞などに洩れつつあったので、和平工作をしたこと自体が議会で追及される恐れがあり(すでに想定問答集ができていた)、こうした批判・追及をかわすためにも、強硬な声明が必要となったわけである。

 また、これを中国側が暴露・発表することも警戒されていた。木戸によると、「近衛首相の最も心配し居られしは、支那が右の交渉を拒絶し而して其条件を議会開会中に逆宣伝に使用」することなのであった。

(略)

 議会・世論を考えたからこそ和平工作は潰れ、強硬な声明が出され、戦争は拡大していったのだった。(略)ここにポピュリズム的政治の危険性が明確に見て取れると言えよう。

ドイツのヨーロッパ制覇と新体制運動

「[ドイツの圧倒的勝利という]ヨーロッパ戦局の急速なる進展は、今や我が英米追従外交の革命的転換を要求している」「政府は速かに対外国策を根本的に転換し積極的攻勢外交を展開すべし」「世界及び東亜新秩序建設のため日独伊枢軸を強化すべし」とする社会大衆党中央執行委貝会の政府への要請書に典型的に見られるように、米内内閣の「英米追従外交」をどの政党も批判し、「対外国策」の「根本的」「転換」を迫ったのであった。

(略)

 こうしてみると、米内内閣の倒れたのも、近衛内閣の生れたのも、ヒトラーの戦運が物凄い勢で開けて行く時に際しては、日本は躊躇なく枢軸側につかねばならぬという外交理念に依ったのだ」

(略)

明日にも独軍の対英上陸ができそうだ、という欧州大戦の発展は、連日の新聞紙上、日本国内にまで、一大戦勝ムードを作り上げた。日本人の常として、忽ちこのムードに酔い、昂奮したり、熱狂して、「バスに乗りおくれるな」という叫びが、いたるところで、わめき立てられた。

(略)

こうした激動する状況の中で、西園寺が、いかにヒットラーが偉くとも、十五年つづくか、続かぬかの問題だ。……まだまだ前途は、わからぬ、といっていたことが、「原田日記」(六月十七日)にのっており、さすがは西園寺と、いまにして思うけれども(略)

[駐英大使からも]独軍の上陸作戦は、制空権をもっていないとか、チャーチル首相の強力な抗戦計画などを理由に、不可能に近いことを打電して来ていたのを、武藤が読んで、情勢は慎重に見るべきことを、語っていたのが思い出される。

 しかし、このような達見の士は、極く少数であり、沸き立っている大衆の耳からは遠く、かすかであった。

(略)

 この気運のなか、六月二十四日、近衛は「新体制確立運動」のため枢密院議長辞職を発表、事実上の出馬表明であった。

(略)

新党は「職能的国民組織」を基礎とし、そのなかから優秀な人材を集めて中核体を作り「挙国的な国民運動」を展開する、という方針にした。

(略)

 そして、この中身のない気運だけの新党運動にすべての政党が慌てて、それこそ「バスに乗りおくれるな」と合流し、解党していくことになる。

(略)

十月十二日、大政翼賛会が発足する。近衛が演説したが、綱領のようなものは何もなく、「綱領は大政翼賛、臣道実践という語に尽きる」「これ以外は実は綱領も宣言も不要」として関係者を唖然とさせた。

日米開戦への道

近衛はこれを排し、同時に打つように言ったが、松岡は聞かずアメリカへ拒否電訓を先に発してしまった。

 七月十六日、松岡外相を辞めさせるため第二次近衛内閣は総辞職し、十八日、第三次近衛内閣が成立する。(略)

もう南部仏印進駐に進みはじめていたこの時点では、日米関係はマクロに言えばほとんど戦争に向け後戻りできない状態になりつつあったと言わざるをえないであろう。

 その意味では近衛と松岡の関係が決定的なのであった。

(略)

松岡外相を支え続けた斎藤良衛は、このころの松岡のことを次のように書いている。

「彼のねらった後盾の一つは……民衆の世論の力だった(略)

彼は人気とりが上手で、当時の政治家中彼ほど世間に人気のある者はなかった。……彼の行くところ、沿道人垣を築くことは珍しくなかった」。(略)とくに一九四一年春、欧ソ歴訪の旅を終えて帰した後の日比谷公会堂での第一声は「近衛をはじめ当時の政治家ひどくこきおろし」、人気は高まった。

 そして、松岡はついには国民的人気を背景に近衛内閣に代わる「松岡内閣」まで構想するに至っていた。(略)

 松岡のアクロバティックな外交は国民の好むところだったのであり、それは指導者と大衆の合作によるポピュリズム外交の典型だった。だから近衛による松岡の更迭は、一人のポピュリストによる他のポピュリストの放逐なのであった。 

戦前日本のポピュリズム 筒井清忠

日比谷焼き打ち事件

 内務大臣官邸に向かった一団は、午後二時ごろ小村全権らの曝し首が描かれ「天誅」と題する「喝采を博し」た張り紙を警官が剥がそうとしたのに激怒、警官に暴行を加えた後、官邸に逃げ込んだ警官を追って邸内に石を投げ込み、乱入・放火した。

(略)

 社会主義者吉川守圀は、人力車夫らしい老人が「お茶の水の交番は日頃戸籍の事で八釜しく云ってうるさいから是非焼いて貰い度い」と群衆に頼みカンテラ道具を持ち出して来た、と記録しており
(略)
 日比谷焼き打ち事件の考察にあたってそのポイントとしてまず第一に、戦争中にたびたび開かれていた戦勝祝捷会が群衆形成の重要な要因となっているということを指摘しておきたい。

 日露戦争の当初、国民の戦争支持はそれほど熱心でなかった面があったと言われている。政友会の幹部であった原敬は「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり」と記しており、既述のように『国民新聞』の徳富蘇峰は、国民の戦争に対する熱心さは日清戦争当時の半分もない、とロンドンの深井英五に書いている。

 しかし、戦闘の勝利につれて、やはりそれは盛り上がっていったと見るべきであろう。その際、その気運に大きく寄与したのが戦勝祝捷会の開催であった。

(略)

 次に重要な論点として新聞と事件との関連という問題がある。何よりも河野広中小川平吉ら事件関係者が、暴動の波及が急速となった原因として警察への憤懣が浸透していたこととともに「新聞が是を煽動的に報道せることを挙げて居る」のであるが、取り締まる側もこれを「傾聴に値すると思う」と著していることは見逃せない。

 この点について松尾尊兌は次のような重要な指摘を行っている。

「(略)まず注目すべきは運動の組織には必ずといってよいほど、地方新聞社、ないしはその記者が関係していることである。新聞は政府反対の論陣を張り、あるいは各地の運動の状況を報ずることで運動の気勢を高めただけではなく、運動そのものの組織にあたったのである」

(略)

 こうした新聞の激しい反対運動が日比谷焼き打ち事件を誘発した有力な原因であることは間違いないが、それがのちの憲政擁護運動(護憲運動)・普通選挙要求運動(普選運動)につながったことも否定できない。

(略)

 講和条約に反対した陸羯南の『日本』が展開した「兵役を負担する国民、豈戦争を議するの権なしと謂わんや」という論理──兵役の負担と講和すなわち政治について議論する権利をイコールで結ぶ論理──が普選運動に直結するものであることは見やすい道理であろう。

 こうして新聞に支えられた講和条約反対運動が日比谷焼き打ち事件のような暴力的大衆を登場させ、またのちの護憲運動・普選運動をも準備したのである。両者は最初からぴったりと結びついており、切り離すのは難しいものなのであった。

(略)

 日比谷公園での「国民大会」の模様について、『君が代』が演奏され、天皇・陸海軍の万歳が唱えられて大会が終了したことをすでに見た。また、午後一時半すぎに起きた最初の衝突は、「億兆一心」「赤誠撼天地」などと書いた大旗を持ち宮城前広場に移動した群衆を警官隊が取り締まったとき、楽隊が『君が代』を演奏しようとしていたので群衆が激昂したのが原因と見られている。

(略)

「東京で多くの行列の目指した場所は皇居であり、日比谷公園に集合して解散するという形もパターン化しつつあった。神聖な「皇居」を目標としつつ、集合と解散の身近な場所としては日比谷公園を設定するという形が成立しつつあったのである。「皇居」と「日比谷公園」はこの時代日本の群衆の統合点であり、沸騰点であった」。
 読者の労をいとわずに繰り返し書いたのは、日本に最初に登場した大衆は天皇ナショナリズム(それも「英霊」的なものによって裏打ちされたもの)によって支えられたそれであったことが、明白に理解されると思われるからである。

 さらに、新聞論調に多いのは次のような内容である。(略)

「鳴呼、国民は閣臣元老に売られたり」「呆れ返った重臣連」

「元老、内閣の官爵、位勲を号奪せよ」

(略)

戒厳令施行後に見られた張り紙も同じように「小村全権は日本を売る国賊なり、誰か之に誅せよ」「詔勅に背きたる逆臣は宜しく誅すべし」といったものがきわめて多い

(略)

 天皇のおかげで国家は発展しつつあり国民も頑張っているのに、天皇周辺の愚かな大臣らのため国民は悲惨な目にあいつつある、天皇の親政・聖断を行い君側の奸を打倒し国民を救済する政治を行ってもらいたい、という主張である。これに最も類似した文章は「謹んで惟るに我神州たる所以は」で始まり、「万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦に呻吟せしめ」ている「君側の奸」の「斬除」による「国体の擁護開顕」を、と説いた二・二六事件の「蹶起趣意書」であろう。(略)

それはニュアンスの違いはあっても、幕末の尊攘倒幕派から二・二六事件につながる「一君万民」「尊皇討奸」的意識を強く持ったものであった。

(略)

 なお群衆が警官とは戦っても軍隊と戦おうとはしなかったことは、鎮圧が速やかになった一つの原因と見られており、軍隊は武力によって群衆を抑えたのではなく、威光によって治めたのであった。

(略)

 こうした軍隊崇拝意識は、軍隊が「天皇の軍隊」であり「国民の軍隊」である限り、天皇ナショナリズムへの渇仰意識から当然のように現れるものであり、そのコロラリー(当然の帰結)と言えよう。

対中強硬政策運動

 一九一一年に起きた辛亥革命は、袁世凱の大総統就任によっていわば簒奪された形になったが、これに対し革命派が二年後の一九一三年に起こしたのが第二革命であった。しかし孫文、黄興ら南方の革命派は敗れ、日本に亡命することになる。このとき参謀本部や出先軍人は南方の革命派を支援しており、このことが以下のような日中の対立となる暴力事件を誘発したのだった。(略)

(1)漢口事件(一九一三年八月)。日本陸軍の西村彦馬少尉ら二名が漢口の停車場で暴行・監禁を受けた事件である。日本側は厳しい処分・陳謝を要求、それに対し中国が謝罪し責任者を処分している。

(2)兗州事件(一九一三年八月)。日本陸軍の川崎亨一大尉が兗州から山東省の済南に向かう列車内で逮捕され、兗州の兵営内に四日間監禁された事件である。これも中国は謝罪し、責任者を処分している。

(3)第一次南京事件(一九一三年九月)。南京内に入城した政府軍(北軍)兵士が、国旗を掲げて領事館に避難中の日本人を襲撃した事件である。日本人三名が死亡し、三四軒の商品・家財が一切掠奪され、国旗が攻撃されている。これも最終的には中国が謝罪し責任者を処分しており、六四万ドルの賠償を支払っている。

 これらは日本が革命軍(南軍)側と見られていたことが原因で起きたと見られているが、この一連の事件に対する新聞・雑誌報道は誇大なところもあったので、世論は激昂した。

(略)

「九月一日正午南京陥落し北軍城内に闖入してより、公許されたる奪掠三日の一言は不幸にして箴を為し、九十里の城垣は故なくして阿鼻叫喚の巷となり放火、奪掠、姦淫、虐殺等、有らゆる罪悪は凡ての北軍に依りて犯されたり。

(略)

 この年は四月から五月にかけてアメリカで日本人移民の排斥が問題になっており、演説会が開かれるなどしていたから、すでに国民の被害者意識は相当高まっていた。そこにこのような報道がなされたのである。

 そもそも辛亥革命勃発後から対外強硬世論は起きており、一九一三年七月二十七日、神田青年館では一二団体の集った対支同志会が結成されていた。(略)そこでは東蒙南満の要地占領、揚子江一帯の要地への出兵という強硬な意見が決議されている。

 そして、翌九月五日には阿部守太郎外務省政務局長が三人の対中強硬派に襲われ刺殺されるという事件が起きる。犯人の二人は逮捕されたが、一人は知人の家で中国地図を敷いて、その上で切腹自殺した。

(略)

 刺殺の原因は、犯人の一人によれば、南京事件で日本国旗が侮辱されたのに対し、阿部が「要するに国旗は一つの器具に過ぎぬ」と言ったからであるという。(略)

中国の暴行に対する“弱腰”は、国民の犠牲を払って得た満蒙を失う危険性につながると見られていたことがわかる。(略)

事件後、強硬政策を求める声はさらに強まり、ついに九月七日、対支同志会主催の国民大会が日比谷公園で開かれ、対中強硬政策を主唱する群衆が外務省や牧野伸顕外相宅に押しかける事態となった。

 世論が「願る高潮に達し居る」と見た牧野外相は、袁世凱政府の漢口地域の責任者張勲の辞職を要求するなど強硬外交を展開した。(略)張勲が南京日本領事館で陳謝し、事態は収拾に向かう。このとき牧野外相は、関東州租借地と満鉄の租借期限の九九か年延長なども要求しようとしたが、山座円次郎公使に反対され、思いとどまっている。この要求は対華二十一か条要求に含まれることにつながるものであった。

 山座公使は「支那人を侮る結果」の「威圧的言動」に憤慨しており、また原敬内相も牧野外相のポピュリズム的傾向に批判的で(略)政府・外交の中枢はポピュリズムに揺らぐばかりではなかったのである

(略)

 ともあれ、この事件は日比谷焼き打ち事件以来現れた「群衆」「大衆」を前に、外交がこうした「民論を無視」できない状況となっていたことを如実に示す事件であった。これ以後の対華二十一か条要求など、日本の世論の中国に対する厳しさのなかには、事件への被害者意識・報復意識と、それが国民の犠牲を払った満蒙を失うことにつながるとする危機意識とがあったことが見てとれるのである。

排日移民法排撃運動

六月十四日には横浜駐在米領事への暴行事件が起きる。七月一日、対米国民大会が芝増上寺で開催され、一万余人が参加、「対米宣戦」などがなされ、米大使館の国旗盗難事件が生起した。その後全国で集会・デモが頻発する。

 横浜沖仲仕組合の米貨積み下ろし拒否、米映画上映ボイコット運動、米系大学の補助金拒否運動などが起き、反米の歌まで作られ、親米家として知られた新渡戸稲造は今後は米国を訪問しないと宣言せざるをえなかった。在日米人は本国に日本の様子を伝え、移民法の撤廃と身辺保護を要請した。

(略)

『東京日日』『大阪朝日』のような有力紙には米英に追随する外交路線の改変、中国との関係改善のための公使館昇格、二十一か条要求改定などの主張が行われている。

憲法学者美濃部達吉は次のように書いている。

「事の茲に至ったのは、政府の罪でもなければ、外交官が悪いのでもない。詰りは国力の相違である。……情ないかな、日本は国力に於て、少くとも経済力に於て、絶対にアメリカの敵ではない。如何に侮蔑せられても、如何に無礼を加えられても、黙して隠忍するの外、対策あるを知らぬ。……国家百年の大策としては、所詮は亜細亜民族の協力一致を図るの外はない」

 こうして事件は以後の反米・アジア主義の重大な動因となった。

(略)

 大正期のポピュリズム的運動はナショナリズムと平等主義の二つに方向づけられたが、それは日比谷焼き打ち事件の延長線上に現れただけに、当然のことであった。このうちナショナリズムの方向性は中国に向かい、またアメリカに向かった。アメリカに対する排日移民法排撃運動が激化すると親中国的なアジア主義の高揚が見られるのだから、こうしたポピュリズム的運動が元来、無方向的な性格のものであることがよくうかがえよう。

 平等主義は普通選挙要求運動において最大の高揚を見せたが、なかでもそれが非暴力的性格を勝ち得たことは画期的成果であった。排日移民法排撃運動でそれは一時破られるが、結局終戦まで大きな爆発的混乱は起きなかったわけである。

天皇シンボルの肥大化

田中内閣は、一般に言われるように張作霖爆殺事件だけが原因で崩壊したのではない。

(略)

田中内閣の倒壊とは、天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力が政党内閣を倒したということである。しかし、「腐敗した」内閣であっても政党内閣は野党によって倒されるのが健全な議会政治の道なのであり、これは不健全な事態である。「政党外の超越的存在・勢力とメディア世論の結合」という内閣打倒の枠組みがいったんできると

(略)

「軍部」「官僚」「近衛文麿」などと形を変えてそれは再生されていき、政党政治は破壊されることになるのである。

(略)

 こうした天皇の政治シンボルとしての肥大化が、以後の時代に天皇シンボルのいっそうの政治的利用や「天皇親政論」的発想、すなわち天皇ポピュリズムを導き出すことになるのだが、政党人にその自覚は乏しかった。

(略)

知識人も、吉野作造が典型であるが、大衆デモクラシー時代に十分に対応することができなかった。

(略)

 当時、多くの知識人は、既成政党=ブルジョワ政党への失望と批判ばかりを語り、同時に新興の第三極としての「無産政党」の発展に期待していたのだった。二大政党制の意義と理念を語ることができなかった彼らは、「無産政党」が内訌を続けて国民多数の支持を得られず夢が破れると、今度は「軍部」や「近衛文麿」「新体制」などに期待することになる。

 勝負は、マスメディアの既成政党政治批判と天皇シンボル型ポピュリズムが結合し始めたこの時期につきはじめていたとも言えよう 。

二大政党に分極化した地域社会

政党による官僚支配の問題は当時「党弊」と言われ、ある意味では時代の趨勢をはかる最も大きな問題だったのである。

(略)

 内務省を掌握すると選挙に勝つことができるということで、内務官僚の政党による掌握が極端に進んでいったのである。この反省から(略)

斎藤実挙国一致内閣では、警視総監、内務省警保局長、衆参両院書記官長などは試験任用にするということで、官吏の身分保障が強化されることになったのであった。(略)

[だが事態はそう簡単には治まらず、1935年に大分県警察部長になった内務官僚村田五郎の場合は] 

赴任してみると、大分県には警察の駐在所が政友会系・民政党系と二つあった。政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系・民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。(略)土木工事・道路などの公共事業も知事が政友会系・民政党系と変わるたびにそれぞれ二つ行われていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(略)

党員の団結は非常に強固で、隅々まで連絡網が張りめぐらされていた。このような強力な組織をもって、双方の政党は、野党時代には政権党の内閣の知事の下での県職員の行動を厳重に監視し、いったん政変により政権党になると、そのたびごとに反対党の知事はじめ職員を一斉に退職させた。(略)

村田以外に(略)政友会系・民政党系それぞれの「本部長」がおり、「本部長」が三人いる状態であった。各警察官は自派の「本部長」の意向を確かめてから動くのである。村田は警察官の公平・中立化を目指した人事異動を行おうとしたが、政党からの妨害は激しかった。しかし実現していき、警察と暴力団の癒着も摘発、是正し、県民から感謝された。折から開かれた全国警察部長会議で、内務省警保局長は「天皇陛下の警察官」という言葉を使って、政党に従属する警官ではなく、天皇陛下の政府に仕える警察官であるから、今後は真に政府の警察という本来の姿に立ち戻って出直すべきだということを強調した。過去、政党に使われ嫌な思いをしてきた全国の警察官の士気は大いに上がったという──。

 もちろんこれは政争が非常に激しい県の例なので、すべての地方がこのようであったというわけではない

次回に続く。