戦前日本のポピュリズム・その2

 前回の続き。

 空前の近衛人気

[内閣書記官長に風見章]

近衛好みのサプライズ人事であり、またそれは人気という点で成功するのであった。風見は、「見物席から舞台へ 型破りの大番頭 生れて初めてお役人」「微塵の政治臭もないこの無冠の野人の革新イデオロギーがここに青年宰相の胸奥にピリリッと感応」「窓にドタ靴のせて 寝そべる野人翰長」「虫喰いモーニングで 野人翰長の晴れ姿 撒き散らすナフタリン臭」などと新聞に書かれて持ち上げられ、「公家」の近衛と好一対のコンビとして内閣を支えることとなるのである。

(略)

この風見の件も含めて近衛内閣は空前の人気内閣であった。(略)

「一般の人気は湧く様であった。五摂家の筆頭である青年貴族の近衛が、総理大臣になったということが、何かしら新鮮な感じを国民に与えたのだ。殊にそれが林銃十郎のような憂鬱内閣の後だったので、一層フレッシュな感じを近衛に対して抱かせた。……近衛があの弱々しい感じの口調でラジオの放送などすると、政治に無関心な各家庭の女子供まで、「近衛さんが演説する」といって、大騒ぎしてラジオにスイッチを入れるという有様だった」

「近衛首相は、日本中に人気を湧かし、……日本一の家柄、西園寺元老のホープ、革新思想に富む新人、軍部中堅層に支持者を持つ人、颯爽たる美丈夫、まさに時局待望の首相としてジャーナリズムがもてはやし、国民が随喜した。

(略)

(1)スターとしての近衛ファミリー・長男文隆(略)

第二世プリンス文隆が(略)「ウィルソンが総長をやっていたプリンストン大学に入りますよ」(略)

「チョット北米の旅 豪勢な! 近衛公一家総動員 (略)しゃちこ張った社交は御免だ」(略)ロッキー山脈の山の中の町パンフに「逃れ」、「文隆君を呼寄せて一家水入らず(略)

近衛公は(略)一家のことに関しては一切平等の発言権を許して完全な家庭デモクラシーを布いていられるのだ」

(略)

大臣といえば苦学力行、修身の見本のような人物ばかりと思われていたのに、近衛は昼寝をするなど役人の型を破り、「大分若いサラリーマンなどに受けがよかった」が、「今度は又、夫人が日曜には自由に遊びに出かけて(略)貞女型を破って見せ、若い細君や娘さん達の中に人気の出そうな所を見せている。

(略)

 近衛人気は近衛ファミリーの「個人的自由をもつ近代的ブルジョアジーの趣味や家庭を代表したような感」に大きく依拠したものなのであった。それが「女学生」「若いサラリーマン」「若い細君や娘さん達」に好まれるというのである。

(略)

近衛が首相になると、プリンストン大学に留学中の文隆はNBCのラジオインタビューに出演、それはただちに日本に「“我が父”を放送 全米の感激  ニューヨークの近衛首相令息」と報道されるのだった。「文隆君は流暢な英語で」言った。父はいかなるときでも子供をそのときには叱らず、後から適当な人を通じて「柔かに諭して呉れます」。また、関東大震災のとき、貨物列車に乗って軽井沢にやって来てくれた「父首相の家族に対する優しい思いやり」について話し、「全米国民に多大の感銘を与えた」。

(略)

 そして、文隆が帰国し、近衛が彼を秘書として使うと、以下のように新聞に載るのだった。

「と、その後から近衛さんに負けないくらい背の高い青年が車を降りて来た。グレイの地に幅広い縞のある流行のダブル・ブレスト、ピタリと着こなして近衛家自慢の長男、アメリカから帰ったばかりの文隆(二二)君である。

 政治学をやっている令息に官邸見学をかねてきょうの歴史的閣議の匂をかがせようとする近衛さんの親ごころである……長身を左右にふって歩きぶりまで首相にそっくりだ……アメリカ仕込みの颯爽たる身ぶりで自動車にのりこんだ」

(略)

[大学を中退して入営すると]

「陸軍歩兵二等兵近衛文隆君の入営.…御曹子出陣の朝は日本晴れ!……長身を包んだ文隆君の頭はまだオールバック……(略)珍らしや親子三人晴れの旅立ちの描景である」

 文隆は満洲で結婚、中尉昇進後にソ連軍の捕虜となり、七年間生死が定かでなかった。[イワノヴォ収容所で病死]

(略)

(1)女性人気(略)

「漆黒の髪に秀麗な眉、ゴルフで鍛えた五尺八寸のあの長身、春畝伊藤博文公についで歴代三十四代のうち二番目の若さを謳われる“青年日本のホープ”三十五代の公達宰相近衛文麿」(略)

「空は日本晴れ! 近衛さんの“青春組閣街道”

…午前十一時ネズミのソフトに鉄無地の単衣という瀟洒な貴公子を乗せたクライスラーは組閣本部の裏門をすべり込む……空は蒼ぞら宰相は若い、と新聞社のテント村から谺する……一時──付近のサラリーマンが昼の休みに組閣本部を遠巻きにする、若き宰相の顔が見たい──洋装の女の子まで犇めいている、すぐそばの裁判所から検事さんまでが、口をあいて、……組閣室の窓を仰いで「近衛さーン、顔を出せーイ」(略)

とくに「女学生」からの人気の指摘は多い。「薄陽の射した明治神宮参道に……青年宰相がその長身をモーニングに包んで現われた……丁度参拝に来合せた女学生の一団が二列に並んで先生の「礼!」という号令で丁寧に敬礼する、近衛さんは一寸はにかみながらこれも丁寧な礼を返す……大した人気である」

(略)

近衛以前にこのような形で評価された首相はいない。

(略)

(2)インテリ人気(略)

大正初期に成立して強い影響力を持っていた教養主義は、大正後期からマルクス主義の登場で衰退したのだが、昭和十年代に河合栄治郎などによって再び復権してきたのであかった。近衛の背後にはそうした教養主義的インテリ層の支持があったのである。それは驚くほどの渇仰ぶりであった。

(略)

「その内閣の特質は……いい意味でのインテリ的洗練味をもつところにあるのではあるまいか」

(略)

菊池寛は言う。「近衛内閣の出現は、近来暗鬱な気持になっていた我々インテリ階級に、ある程度の明るさを与えてくれたことは、確かである。少くとも、日本に於ての最初のインテリ首相である。

(略)

平林たい子は言う。

「公の周囲には新進大学教授などを網羅したブレーン・トラストが組織されているという噂だから、きっと、教養のある合理的な人にちがいない」

(略)

近衛は原稿を『キング』『日の出』などの大衆雑誌に書くことが多く、これも近衛人気に非常に貢献していた。

(略)

こうして、最新のメディアを駆使しながら、本来持っている「復古性」に大きな「モダン性」が付加され時代の要請を統合的に活かし、女性・知識人・大衆とあらゆる層に受容されながら近衛人気は作られていったのだった。

戦争の拡大

[盧溝橋事件発生]

近衛内閣の最も初期の動きは決して拡大主義ではなかった。

 しかし、蒋介石が直系の中央軍を北上させるという知らせが入った十日には(略)不拡大論の中心人物石原莞爾参謀本部作戦部長も、不測の事態を考えるとこの派兵案を呑まざるをえなかった。派兵案は、七月十一日の臨時閣議で承認され、派兵声明が決められる。

(略)

 さらに、午後九時から首相官邸で言論機関代表、貴衆両院代表、財界代表と、協力要請のための会合が三〇分おきに開かれた。いきなりこのようなものを開催したのは、史上初めてのことであった。

 これは、風見章書記官長のアイデアであり、近衛がすぐに諒解して実現したことであった。それは「政府の態度強硬なりとの印象を内外に示す」ために行われたことであり、近衛が「対外交姿勢」によって内閣の人気浮揚を目指したことは否定できぬところであろう。そして発案者はもと新聞人の風見章なのであり、ここには典型的なマスメディア操作型のポピュリズムが見られると言ってよいであろう。

翌日の新聞は一斉に[挙国一致と書きたて](略)

「“一致の決意だ”全日本の心臓!

 日本の言論界、政界、財界を代表する首脳部の乗りすてた車が首相官邸の前庭を埋めつくした、新聞社、放送協会の幹部が階下の大食堂へ消える 貴衆両院を牛耳る顔触れが、財界浮沈のバランスを握るお歴々と踵を接して階上二室の客間へ隣り合せに額をあつめる(略)

首相は官邸へ集った日本の三つの心臓へ「挙国一致」の活をいれた、三つの室の静かな興奮がただ一つの焔となって燃あがった

(略)

 石射猪太郎外務省東亜局長は、この日の朝の閣議で杉山陸相から出される三個師団動員案を外相の力で否定してくれという陸軍省軍務局からの使者にあきれたが、広田外相に否定を進言、ところが賛同したはずの広田は閣議であっさりと動員案に同意して退出してきたので失望していた。その後、夜になり首相官邸に「行ってみると、官邸はお祭りのように賑わっていた。政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ。事件があるごとに、政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近の考えから、まず大風呂敷を広げて気勢を示したのだといわれた。冗談じゃない、野獣に生肉を投したのだ」。

「首相側近」が風見書記官長を指すことは間違いないところであろう。

(略)

 もちろん事態の展開はそれほど単純ではない。その後、この動員案はすぐに実施されたわけではなく、現地では解決の機運も見られたりしたのだが(略)

二十六日には北平広安門で日中両軍は衝突、結局支那駐屯軍最後通牒を発した上で二十八日から全面攻撃を始め、華北での戦争は引き返すことのできない局面へと広がっていった。

(略)

 しかし、現地で交渉をまとめていた今井武夫少佐は次のように言っている。

「私らにすれば現地で交渉が妥結するというときに、出兵を決定されたことは致命的だったのです。また私どもの協定ができたということは東京に報告もしたし新聞社の電報も届いているわけですけれども……風見書記官長……は新聞記者出身ですから、ジャーナリズムの利用が上手なんです。すぐ各界の代表を集めて、大いに日本はやるのだといった。それがすぐシナ側に反響して「いよいよ日本はやるそうだ、これはたいへんだ」というので硬化しちゃった」

(略)

不拡大論の石原作戦部長が九月に関東軍参謀副長に左遷される。

 その石原がきっかけを作っておいたのが、ドイツの駐華大使トラウトマンを通した和平交渉であった。(略)

 しかし、国民政府の首都南京陥落の結果、その和平条件は「賠償」「保障占領」などを加重した厳しいものになってしまっていた。それは「世論の圧力」によると広田外相が認めている。

 すなわち、十月一日の四相(近衛首相、広田外相、杉山陸相、米内海相)による「支那事変対処要綱」では比較的穏やかなものであったのか、十二月十四日の大本営政府連絡会議での「和平条件」は、「国民の期待」「国内の要求」「かかる条件にて国民はこれを納得すべきか」と言わざるをえないようなものになった、というのである。

(略)

文相だった木戸幸一は次のように言っている。

 「「トラウトマン」和平交渉は、おそらく日支事変においての和平実現のチャンスのあった最終の重大な機会であったと思われるに不拘」「広田外相があの時どうしてあのように強気に交渉打切の態度に出たか一寸考えられないことで、もっと粘ってもよかったのではないかと思うが、その理由として一つ考えられることは、一月二十日から議会が再開されるので、議会では必らず論議に上るこの和平問題を議会対策としてその再開前に早く結論を出して置こうと考えたのではなかろうか」

 多田駿も同じ推測をしている。すでにこの工作のことがある程度新聞などに洩れつつあったので、和平工作をしたこと自体が議会で追及される恐れがあり(すでに想定問答集ができていた)、こうした批判・追及をかわすためにも、強硬な声明が必要となったわけである。

 また、これを中国側が暴露・発表することも警戒されていた。木戸によると、「近衛首相の最も心配し居られしは、支那が右の交渉を拒絶し而して其条件を議会開会中に逆宣伝に使用」することなのであった。

(略)

 議会・世論を考えたからこそ和平工作は潰れ、強硬な声明が出され、戦争は拡大していったのだった。(略)ここにポピュリズム的政治の危険性が明確に見て取れると言えよう。

ドイツのヨーロッパ制覇と新体制運動

「[ドイツの圧倒的勝利という]ヨーロッパ戦局の急速なる進展は、今や我が英米追従外交の革命的転換を要求している」「政府は速かに対外国策を根本的に転換し積極的攻勢外交を展開すべし」「世界及び東亜新秩序建設のため日独伊枢軸を強化すべし」とする社会大衆党中央執行委貝会の政府への要請書に典型的に見られるように、米内内閣の「英米追従外交」をどの政党も批判し、「対外国策」の「根本的」「転換」を迫ったのであった。

(略)

 こうしてみると、米内内閣の倒れたのも、近衛内閣の生れたのも、ヒトラーの戦運が物凄い勢で開けて行く時に際しては、日本は躊躇なく枢軸側につかねばならぬという外交理念に依ったのだ」

(略)

明日にも独軍の対英上陸ができそうだ、という欧州大戦の発展は、連日の新聞紙上、日本国内にまで、一大戦勝ムードを作り上げた。日本人の常として、忽ちこのムードに酔い、昂奮したり、熱狂して、「バスに乗りおくれるな」という叫びが、いたるところで、わめき立てられた。

(略)

こうした激動する状況の中で、西園寺が、いかにヒットラーが偉くとも、十五年つづくか、続かぬかの問題だ。……まだまだ前途は、わからぬ、といっていたことが、「原田日記」(六月十七日)にのっており、さすがは西園寺と、いまにして思うけれども(略)

[駐英大使からも]独軍の上陸作戦は、制空権をもっていないとか、チャーチル首相の強力な抗戦計画などを理由に、不可能に近いことを打電して来ていたのを、武藤が読んで、情勢は慎重に見るべきことを、語っていたのが思い出される。

 しかし、このような達見の士は、極く少数であり、沸き立っている大衆の耳からは遠く、かすかであった。

(略)

 この気運のなか、六月二十四日、近衛は「新体制確立運動」のため枢密院議長辞職を発表、事実上の出馬表明であった。

(略)

新党は「職能的国民組織」を基礎とし、そのなかから優秀な人材を集めて中核体を作り「挙国的な国民運動」を展開する、という方針にした。

(略)

 そして、この中身のない気運だけの新党運動にすべての政党が慌てて、それこそ「バスに乗りおくれるな」と合流し、解党していくことになる。

(略)

十月十二日、大政翼賛会が発足する。近衛が演説したが、綱領のようなものは何もなく、「綱領は大政翼賛、臣道実践という語に尽きる」「これ以外は実は綱領も宣言も不要」として関係者を唖然とさせた。

日米開戦への道

近衛はこれを排し、同時に打つように言ったが、松岡は聞かずアメリカへ拒否電訓を先に発してしまった。

 七月十六日、松岡外相を辞めさせるため第二次近衛内閣は総辞職し、十八日、第三次近衛内閣が成立する。(略)

もう南部仏印進駐に進みはじめていたこの時点では、日米関係はマクロに言えばほとんど戦争に向け後戻りできない状態になりつつあったと言わざるをえないであろう。

 その意味では近衛と松岡の関係が決定的なのであった。

(略)

松岡外相を支え続けた斎藤良衛は、このころの松岡のことを次のように書いている。

「彼のねらった後盾の一つは……民衆の世論の力だった(略)

彼は人気とりが上手で、当時の政治家中彼ほど世間に人気のある者はなかった。……彼の行くところ、沿道人垣を築くことは珍しくなかった」。(略)とくに一九四一年春、欧ソ歴訪の旅を終えて帰した後の日比谷公会堂での第一声は「近衛をはじめ当時の政治家ひどくこきおろし」、人気は高まった。

 そして、松岡はついには国民的人気を背景に近衛内閣に代わる「松岡内閣」まで構想するに至っていた。(略)

 松岡のアクロバティックな外交は国民の好むところだったのであり、それは指導者と大衆の合作によるポピュリズム外交の典型だった。だから近衛による松岡の更迭は、一人のポピュリストによる他のポピュリストの放逐なのであった。