蛭子の論語 自由に生きるためのヒント 蛭子能収

編集部訳の論語をネタに蛭子さんが語る。

「新しさ」を理解する感覚

もちろん、一方でインパクトだけの人はすぐに消えてしまうのが芸能界という世界です。だけど、一瞬でも時代に合った人っていうのは、きっと“何かを持っている”んですよね。時代に合った、「何か」を。(略)

うまく言葉で言い表せないけれど、「新しさ」を理解する感覚を持ち合わせることって、すごく大事なんじゃないかな。
 僕は、そういう「感覚」だけは結構持ち合わせているほうだとひそかに思っているんです。多少の浮き沈みはあっても、もう30年以上、テレビに出続けています。言い方を変えれば、僕はどんな時代にもついていけるんですよね。いや、それは言い過ぎかな……。正確には、「どうにか合わせられる」ということかもしれない。
 たとえば僕は、テレビで自分らしいことを言おうとか、自分らしく振る舞おうとか、そういうことはまるで考えていません。その時代、その時代で流行っているものを取り入れながら、自分なりに適応していくだけです。僕は意外とそういうことができる人間なんです。だから、どんな時代でも、自分が何歳になっても、時流に合わせられる気がするんです。

(略)

ただ、時代についていったり合わせていったりしても、しがみつこうと思わないことはとっても重要かもしれない。しがみつく感じが垣間見えたら……それは単に惨めだから。

“蛭子の基本方針” 

【編集部訳】徳のある人のまわりには、必ず人が集まってくるものだ。

 

 この「論語」には納得しますね。(略)僕の知っているところで言うならば、ビートたけしさんがそうかもしれない。(略)

たけしさんの性格はもちろん詳しくわかりません。でも、むしろ弟子なんてとらないタイプの人だと僕は思うんですよ。たけしさんに憧れる人たちが、勝手にどんどん集まってきた。もともとは、そんな感じだったはずなんです。(略)

単純に「たけしさんのことが好きでたまらない」という一点で強く結束しているような、そんな関係性に見受けられるのです。

 だから、たけし軍団は他のグループとはちょっと違う印象を受けるのかもしれませんね。基本的に群れることが大嫌いな僕ですら、ときどき、「あの軍団に入ってみたいなあ」なんて思ってしまうような、不思議な吸引力や居心地の良さがあるんです。

 そんなたけしさんを見ていても感じますが、自然と人が寄ってきてしまうようなタイプの人は、けっして人を差別するようなことはしません。誰であろうと、平等に扱うんですよね。それに、自ら好んで人の上に立とうとしないという特性があるように思います。

 

みんなの上に立って、支配したり威張り散らしたりするような真似はせず、自分もその集団の一員であるように振る舞うことができる。

 

 単に自分の意見を押し付けるだけではなく、「あなたは、どうしたいの?」って、一人ひとりの意見を、その人たちと同じ目線できっちりと聞いてくれるんです。それはつまり、その人の意志や自由を、ちゃんと尊重してくれるということでもありますよね。

 

 言うまでもなく僕自身は、たけしさんのように器の大きい人間ではありません。それこそ、“徳”だってまったくないでしょう。だけど、不思議と小さい頃から「人に嫌われている」と思ったことはないんです。むしろ、「人から好かれるタイプだろう」って、自分では感じているくらい。なぜかというと、僕は他人の悪口を言わないし、他人を傷つけるようなこともしないから。もちろん、会話の流れのなかで冗談っぽく冷やかしたりすることはありますよ。だけど、自分がされて嫌なことは、絶対他人にもしない──それが“蛭子の基本方針”なんです。

 だから、僕のまわりになんとなく人が集まってきてしまうことって、意外とあるんですよ。ヘラヘラ笑っているから、とりあえず危害を加えなさそうで、安全な感じがするのかな?

ローカル路線バス乗り継ぎの旅」 

【編集部訳】3人で行動するときには、必ず自分にとって師となる人がいるものである。

(略)

[『路線バス』での序列は、太川、マドンナ、僕]

3人がいたら、必ず僕がいちばん下っ端になるんです。

 といっても、むしろ、自分のほうから積極的にそうしているきらいがあります。

(略)

[太川とマドンナの意見が一致するようならば、僕は何も言わずそれに従います。両者の間で意見が分かれたり、両者とも迷っていて僕に意見を求めるようだったら自分の意見を言いますが、基本的にはふたりにお任せ。

 

極力、「自己主張をしない」というのが、僕の基本方針のひとつです。

 

 そこで、もうひとつ常に気を付けていることがあります。それは、リーダーのネガティブな発言に同調しないということ。「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」であれば、旅が進むにつれてみんなの疲労度が増してきます。すると、本当にときどきですが太川さんが僕にこっそり、「蛭子さん、今回のマドンナはなかなか手が焼けるねえ」なんて、軽く愚痴ってきたりすることがあるんですよ(太川さんバラしてごめんね)。(略)

でもそういうとき、僕は黙ってその話を聞きつつも、「本当にダメですよね」とは絶対に口にしません。ヘラヘラと笑いながら、「ああ、そうですねえ。大変ですねえ」と言うぐらいに留めて、なるべくその会話がそこで終わるように仕向けるんです。というのも、そこで僕が太川さんの意見に同調したら、太川さんと僕、そしてマドンナといったように2対1の構図が生まれてしまうから。そうなると、本人たちが意識しようがしまいが、いつの間にかそのひとりをふたりで攻撃したり、排除したりする構図になってしまう恐れがあるんです。

 

 僕は、ことあるごとに「群れるべきではない」「グループに属するべきではない」と言ってきました。主張が少ない僕にしては、よほど自分で強く思っていることなんだと思います。

 グループ内では、必ず多数派と少数派が生まれて、その一方が一方を差別するような構図になりがちです。3人というのは、僕ひとりでその状況を防ぐことができるギリギリのラインなんですよ。僕を含めた2対1の構図にならないよう、常に1対1対1の関係になるように調整する。そのためには、僕、つまり残されたひとりが一歩引いた立場から全体のバランスを見ていたほうがいいと考えているんです。

 もちろん、ただ「ハイハイ」とふたりの言うことを聞いているだけではなく、ときにはふたりが対立してしまわないように冗談を言うことだってあります。そういう配慮がすごく大切だと僕は考えているんです。

協調性 

【編集部訳】 真の教養人たるもの、和合はするが、雷同はしない。

(略)

 巷では、「蛭子は人のことなどお構いなしで自由気ままな奴」みたいに誤解されているような気がするのですが、こう見えても、それなりの協調性はあるんですよ。テレビの仕事でも、「蛭子さん、これをやってください!」って言われたら、命の危険がない限り、基本的に何でもやってしまいます。そこで、「いや、それはちょっと無理だよ……」と言って断るようなことはまずありません。『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』だってそう。あれこそまさに、協調性が必要とされる仕事。本当に行き当たりばったりの収録なので、3人で助け合って旅を進めないとロケの時間内にゴールまで辿りつけないんですから。

(略)

みなさんがどんなふうに見ているかはわかりませんが、一応は20回も続いている人気シリーズを大きな問題もなくやってきたんです。さすがに協調性はあると認めてくれてもいいんじゃないかなあ、と淡い期待を抱いています。

 自分にウソをつき続けたら自滅する

 長いこと芸能界に身を置いていると、たくさんの芸能人の方に遭遇します。カメラが回っているとあんなに明るいのに、普段は物静かな芸人さん。テレビに映っているときは、コワモテなのに実際話すとものすごく腰が低くてていねいな役者さん。本当にさまざまです。ただ、これは僕の持論なのですが、あまりにも無理をしている人、無理をして自分を作っている人は、いつの間にかこの世界から消えてしまうんですね。

 それはきっと、どこか自分を偽っていたというか、自分にウソをついていたんだと思うんです。

 

自分にウソをつくことの何が怖いかって、自分につくウソは、いつの間にか真実になってしまうんですよ。

 

 そうやって内面的な葛藤によって、自分自身がやがて壊れていく。そういう人って、みなさんのまわりにもいませんか? 過剰に自分を作り過ぎた結果、その自分を受け止められなくなってしまってやがて自滅してしまう人。人間は、できるだけ自然体で、自分自身に正直なのがいちばんです。

ギャンブルがある限り

[駄菓子屋のクジ、メンコ遊び]近所のスマートボール……という具合に、僕は幼少時代に、何かを賭けて勝ち負けを競うことの楽しさを知ってしまったようなんです。その楽しさは、自分の生活環境に多少の変化があろうとも、いっさい変わらないんです。

(略)

僕は幼少時代から貧乏時代、そして今に至るまで、それを楽しみ続けています。人生におけるかなり早い段階で、自分にとって「楽しいこと」を見つけることができて、それを細く長く楽しめているのは最高に幸せなこと。

 だから、こう言えると思うんです。

 

ギャンブルがある限り、僕はけっして身を持ち崩さないだろう、と。なぜなら、好きなギャンブルをずっと楽しむために、きちんとお金を稼いで、贅沢もせず、質素な暮らしを続けていくからです。

 

 これからの人生、どんなことがあるかわかりません。だけど、たとえまた貧乏になろうとも、僕はギャンブルをやり続けることだけは断言できます。なぜならそれが、僕にとってのいちばんの楽しみなのだから。

 少しの想像力があれば生きていける

 たしかに、若い頃は凄まじい才能発揮したのに、年をとるにつれてどんどんしぼんでいく人ってどの世界にもいますよね。だけど僕は、「かつてすごかったのに今は凄くない人」よりも、「一向に芽を出す気配すらない人」の方が気になるかな。

 

 何をするにしてもどこか漫然としていて、ただ言われたことをダラダラやってるだけの人って、どこの職場にもいませんか?(略)

 そういう人って何かの才能があるとかないとか、適性があるとかないとか言う以前に、「見る目」がないんだと僕は考えているんです。「自分がこうしたら、こうなる」と常に思いを巡らせることができない。言い換えれば、“先を見通す目”がないんですよね。

(略)

 正直、向上心みたいなものは、僕には欠けているのかもしれません。だけど、自分がやったことに対して「相手はどう思うかな?」ということは、意外と現実的に考えているほうなんです。漫画についてもそうでした。たとえば漫画に対する向上心──とりわけ“絵”に関する向上心は、かなり早い段階で捨てました。「これはもう、どうやってもうまくならないな」と、自分で早々に結論を出したんです。絵のうまい人は、この世にいくらでもいます。それこそ、“才能”と言っていいでしょう。最初に『ガロ』に原稿を持っていったとき、編集者に「ちょっと絵がねえ……」と言われた時点で、そこで勝負することはあきらめたんです。

 では、どうするか。考えた結果、僕はストーリーで勝負する方向に自ら舵を切りました。画力よりも発想力ということです。絵はうまくなくてもいいから、「他の人が思いつかないようなストーリーを考えてやろう!」と決心したんです。そこで必要となってくるのが、先ほど述べた「ちょっと先を見通す想像力」なんですよね。

 この漫画を読んだら、この人は次にどんな展開を予想するだろう。それを想像しながら、敢えてそこから外れるようなストーリーを考える。やがて、僕の漫画は「シュール」と言われて、ある程度の評価を得るようになりました。絵のヘタさと物語のシュールさを組み合わせることによって、独自性を出すことに成功したんです。

 遠い未来のことなんて、いくら考えてもわかりません。だけど、ちょっと先のことだったら、自分で想像がつくじゃないですか。現状に甘んじることなく、ほんの少し先を見とおす力。孔子さんの言う「不断の努力」というのは、じつはそういう小さな想像力の積み重ねを意味しているのかもしれませんよ。

 過ぎたるは猶及ばざるが如し

【編集部訳】多いことも少ないことも、同じくよろしくない。何事にもちょうど良い「按配」というものがあるのだ。

 

 最初に絵を描き始めた頃、僕は画面いっぱいに細かく絵を描いて、自分が一生懸命努力した爪痕を残そうとしていました。だけど、それをあとから眺めてみると、ただ頑張って描いただけで、全然良くないんですよね。びっしり描いてあれば良い絵というわけではないんです。絵を描き込んでしまうと、逆に見づらくなることがあるんですよ。「この人、えらい細かく描いたな」とは思われるかもしれないけど、別にうまいとは思われない。

 それよりも、きちんとレイアウトを考えたうえで、画面の要所要所にポツンと絵を描いたほうが、よっぽどうまく見えたりする。僕の場合は、完全にそのやり方ですね。そのほうが描くのも楽だし……見栄えもいい。

 その原理で描くので、僕の漫画はスカスカです。だけど、それが当時のヘタウマ・ブームに乗って、意外と評価されるようになった。つまり何が言いたいかというと、やっぱりそれも按配というか、「何事もやり過ぎはよくないですよ」ということです。

蛭子の気遣い

 謝って済むならば、僕はいくらでも謝ることができるんです。

 

 先日、息子の嫁にひどく怒られました。孫の名前を覚えていないという話を、僕があちこちでしていたものですから、「お義父さん、それはちょっとあり得ないですよね」って咎められまして。たしかに、それは怒りますよね。なので、僕も嫁に素直に謝った。ただし、謝ったからといって、すぐに孫の名前を覚えられるわけではないんですよ。いまだにちょっと、うろ覚えなところがありますから。再婚した今の女房の娘が産んだ子どもは、すごく可愛いなと思って名前もちゃんと覚えているんですけど、息子夫婦はちょっと離れた場所に住んでいるから...…こういうことを言うから、怒られるんだろうな。

 この『論語』で思い出したのだけど、自分では失敗と思っていないことを、他人から失敗のように扱われる場合はちょっと困ってしまいますよね。

 たとえば先日、『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』の特別番組に出演したときのこと。(略)スタジオには一緒に旅をしてきた歴代マドンナたちが、大勢ゲストで来てくれていたんです。その収録が終わる間際、司会の人が「蛭子さん、もう一度旅をするなら、誰と一緒に行きたいですか?」って聞いてきたんですよ。それはさすがに僕でも気を遣いますよね。何しろ、歴代マドンナたちが、ズラリその場にいるわけですから。そこで正直に、「○○さんと行きたいです」とは、やっぱり言えないじゃないですか。そこで僕は考えました。なるべくそこにいるみんなが頭にこない返答は何だろうって。その結果、僕の口から出た言葉が、「なるべく若い人がいいです」だったんですよ。そしたら、歴代マドンナたちはもちろん、スタジオにいた全員から批難ごうごうで。もう完全に人でなしの扱いをされてしまいました。

 でも、そこにいたマドンナたちは、みんなそれなりの年齢の人ばかりだったから、僕としてはきっと笑って済ませてくれるって判断したんですよね。全員に気を配った結果の答えがそれだったんです。そのあたりの気遣いは、誰にも気づいてもらえませんでした。もちろん、そこで僕はすぐに謝罪するわけです。

私のイラストレーション史 南伸坊

私のイラストレーション史

私のイラストレーション史

 

話の特集和田誠

話の特集』 で和田誠さんのした[『暮しの手帖』の]パロディ、『殺しの手帳』には、めちゃくちゃ反応した。

(略)

私にとっては『話の特集』の創刊自体が、まるで夢のようだった。(略)何から何までが「新しい雑誌」だったのだ。

 まず雑誌にアートディレクターがいた。そして、それは和田誠さんなのだ。表紙が横尾さん、イラストレーターは宇野亜喜良さんをはじめほとんど広告畑のデザイナー。そして篠山紀信さん、立木義浩さん、高梨豊さんと後にビッグネームとなるカメラマンが勢揃いだ。こんな、こんな雑誌を待っていたんだ!と私は思った。
 「『NIPPON』が創刊された時の驚きは今でも忘れることができない。」
 と書いたのは、亀倉雄策である。(略)当時の水準をめちゃくちゃに超えたデザインは、いま見ても、とても昔の雑誌のレイアウトに見えない。

 私は、亀倉さんの驚きを、自分の『話の特集』体験に重ねている。同等のショックと喜びだったと思う。
 『話の特集』は、業界誌や専門誌の才能と水準を、いきなり一般雑誌に一挙に持ち込んだ。このことで、その後の日本の雑誌文化が、大きく舵をきったことを、私はもっと世間は知っているべきだと思う。

(略)

 『話の特集』創刊の四年後、一九七〇年、『少年マガジン』の表紙をなんと、横尾さんが担当するようになっていた。少年漫画誌の編集部員の、おそらく全員が『話の特集』の影響下にあった、と私は睨んでいる。

(略)
 その活動があまりにも多彩で華麗であるために、忘れられてしまいそうな、出版文化の歴史を動かした人としての和田誠像を、正しく伝えてほしい。

美学校

 「美学校」は「現代思潮社」という出版社が、いままでの美術大学とはまったく違う新しい美術学校をということではじまったのだった。

 この「現代思潮社」というのがそもそも「良俗や進歩派に逆行する『悪い本』を出す」というのが“モットー”という会社で、吉本隆明埴谷雄高澁澤龍彦種村季弘といった著者の本を出版していた。

(略)

 術中に貼られていた、[赤瀬川原平デザインの奇怪なロゴタイプの]この異様なポスターを私は何度も凝視していたので、いまでもその人名をいくつか思い返すことができる。(花文字)赤瀬川原平、(漫画)井上洋介、(硬筆画)山川惣治、(図案)木村恒久、(油彩)中村宏、(素描)中西夏之
 そして講師陣には澁澤龍彦瀧口修造種村季弘埴谷雄高土方巽唐十郎とある。(略)この講師の面子だけでも、めちゃくちゃインパクトである。
 それに無試験だ。私は生徒になると即決した。

木村恒久先生

 当時のデザイナーの中で、もっとも深いところまでデザインについて理詰めに考えていたのは木村さんだろう。

(略)

 木村さんの授業は、そういう木村さんの日々考える中での一人言のようだった。

(略)

 「水彩画、描いてる時に筆洗で筆、洗いますね、横に紙が置いてあって、余分な筆の先の絵具を、そこになすりつけてから筆洗で洗う。水彩画一枚描き終わった時に、こっちの紙に意識してない絵が描けてる」
 「電話で話してる時に、メモの用意に持ってるエンペツでくるくるくるっと、無意識にイタズラ書きしてますね。あれ、何ですか?」と質問形だ。

「最近ボクがやってるパターンはアレです」

「デザイナーとしての義理があるから、くるくるに厚みつけて影つけてますけどね」

と、いきなり実作例の秘密が開示される、おもしろい。(略)

[赤瀬川先生の話によると、中平卓馬が頼んだ写真集のデザインを]取りに行くと、いきなり「情報論」とかムズカシイ話題をふっかけてきて、ちっとも上がったはずのデザインが出てこない。[ようやく座ブトンの下から出してきたのが]

(略)

 丸と四角だけのなんとも言えないデザインなのだ。
 「なにしろその情報論ヴワァーの後だからねえ、そのまんまもらって帰ってきたらしいよ、注文つけるスキがない(笑)」

(略)

「カラーテレビ、あの素人に触らせないようにしてあるツマミ、あれ勝手に動かすとおもしろいネェ。色メチャクチャになりますよ」と授業の時にも言っていた。(略)

「情報、変わりますよ」

というのは、木村さんの口まねをする時のコツなんだけど、あきらかに「情報」変わる。

唐十郎の講義

 その日は、はじめて見る、怪しい風体の男がさっきから教室のはしにある流しで、蛇口から直接水を飲んでいた。いや、飲んでいただけならなんともないが、ずっと飲み続けているのだ。
 その異様さに、だんだん気のついた頃、「客の入り」を確認してた唐先生が入ってきた。
 「なんだ!?キミは?」
 って、まるで志村けんのコントみたいだが、ほんとにコントがはじまったのだ。
 水飲む男は、大久保鷹だった。状況劇場の看板俳優である。先生は男に次々に難題をふっかけた。三階の窓から、ちょっと跳び降りてみろ、なぜ跳び降りないんだ!?と怒鳴ったと思うと、今度は「こんにちは、さようなら」と、何度もアイサツを繰り返させたりする。ほうほうの体で男が怪しいままに退場すると、世阿弥の『風姿花伝』の講義がはじまった。

土方巽の講義

 その人は、怪僧ラスプーチンのような、東北のお婆さんのような人で、いつの間にか教壇に座っていた。長髪を後ろに束ねて、猫背で小さく座っているが、異様に鋭い顔をしている。生徒がしんとして固唾を呑んでいると、
 「ビューウ、ビューウ」
 とその人が突然発声をした。その人が土方巽さんであることは、もちろん知っているのだったが、怖いではないか、とても正気の人には見えない。
 「私は東北の秋田の生まれですがね、秋田では外が吹雪いて寒い晩に、客になって他家を訪ねる時は、戸が開いたらもう風になって入っていくのだよ。ビューウ、ビューウと言うて、お晩ですも、外は吹雪だのも、何も言うこどはない、ビューウ、ビューウとそれだけ言うて入っていぐのです」
 と言って先生は講義に入ったのである。二時間の講義は、おそろしく具体的で抽象語のまったくない話なのだが、まるで雲をつかむような難解さである。が、ただわからないというのとも違う、東北弁でボソボソと語られる話がまるで知らない世界をいきなりのぞかされたような気がして、雲はつかめないが、そこらじゅうにたなびいているのが見えている。かと思うと、

 「この世で一番、こわいものは何だ!風邪ですよ風邪!ゴホンゴホンの風邪!?」とか

(略)
 東北の赤ん坊は自分の体の中におりていって、自分の体で遊ぶのだ。一日中ぐるぐる巻きにされてツグラの中にいれられて、動けないから自分の体をおもちゃにして遊んでいるしかないのだと言う。これが「舞踏論」だった。何がわかったのかはわからないけれども、何かがわかったようなおもしろい講義だった。 

土方巽全集 1 『病める舞姫』『美貌の青空』 - 本と奇妙な煙

 

墨池亭黒坊と「伸坊」

 たとえば、このピカソキュビスムみたいな美人像は、『滑稽新聞』一七三号の表紙の模写だ。墨池亭黒坊っていう浮世絵師の描いたものだが、これが描かれたのは明治四一年。

 実はピカソのあの「キュビスム顔」は、まだ発明されていない。

(略)

 黒坊の絵は端正でありながら、必ず洒落たアイデアとグラフィックイメージの驚きがあって、赤瀬川教室での一番人気だった。赤瀬川さんは、その頃「赤坊」ってサインを自作のイラストレーションに入れるようになっていた。我々もマネしてそれぞれ名前の下に坊の字をつけて名乗り出した。私のペンネームが「伸坊」になったのはこの時からだ(本名は伸宏)。

和田誠の功績

 私が言いたかったのは、和田さん(たち)がイラストレーションとかイラストレーターという言葉の使用にこめた意味は、当時ももちろんあった「挿絵」とか「挿絵画家」とは違う表現をしはじめたジャンルに、新たな名称を与えて、その違いをあきらかにしたかったということじゃないかということでした。

 そうして、それは具体的には、非専門家に開かれた『話の特集』という雑誌で、イラストレーターやイラストレーションを使うことで、一目瞭然に、その意味内容を伝えていたのだと、思います。

(略)

レイアウト、デザイン、アートディレクション、という考え方、テキストとヴィジュアルのウェイトの置かれ方、イラストレーターの扱われ方。つまり、「編集者の考え方」がガラッと変わった。変わったなり、それはすぐさま、「当り前」のことになっていく。
 そして、「雑誌はヴィジュアルなもの」になった。その、そもそもの源流のところにいたのが和田誠と『話の特集』だったのだ。このことはクッキリ記憶されるべきだ。『新青年』のことをさんざん話題にしたくらいにはすくなくとも。
 イラストレーションというコトバが輝いていた時代、それが日本の「イラストレーション史」だ。輝かせた和田誠さんの名前は、もちろんいまもよく知られてはいる。が、もっと!年表にクッキリ記されなくちゃと私は思っている。

(略)

 そして、実はつげ義春さんもまた同じような波及力を持った人だったのではないか?と最近、気がついたんです。

(略)

[『ねじ式』で]おだやかなマンガらしい画風だった表現から、突然ガラリと変わってしまったんです。一九六八年のことです。

(略)

難解で、それなのになんだかぐいぐい魅きつける魅力がある。それは、つげさんが『ねじ式』用に新しい絵を発明したからでした。

(略)

 特に一九七八年~一九七九年にかけての、「稚拙なタッチの絵」の、圧倒的な効果というのは、おそるべきものだったと思います。
 この、ナイーブアートのような絵をマンガに持ち込む、という革命的手法は、実はつげ義春が元祖だった。
 ということに、私は『ねじ式』を話題にした時、いまさらのように気がついたんでした。実は「へたうま」イラストレーションの元祖は、つげ義春さんだったのではないのか!?
 実際には「へたうま」イラストレーションということを言い出したのは湯村輝彦さんであって。それはまちがいのないところです。(略)
そして余談ですが、湯村さんのイラストレーションに対して「へたうま」とはじめに指摘したのは、つまりその魅力を明言したのは、またしても和田誠さんだったわけです。

 青林堂

 私が青林堂の社員になって長井さんに教わったこと。それは「優れた作品に対する感謝」の気持ちだ。「楽しませてくれた人を尊敬する」気持ちである。

 長井さんは、その気持がとってもピュアで、それがハッキリ顔に表れる人だったと思う。

(略)

[どこの出版社でも門前払いの白土が、これで駄目なら廃業と、最後に持ち込んだのが]

長井さんのやっていた三洋社だった。

 作品を見るなり長井さんは、
 「あ、『こがらし剣士』の白土三平さんですね」
 と言ったそうだ。いままで回った出版社とは、まるで対応が違う。(略)
この対応ができたのは、長井さんが持っていた「尊敬力」だったと私は思う。

(略)

 『ガロ』の編集を主導したのは、実際には白土三平さんであったろう。若い読者や、マンガ家たらんとする人々に、三平さん自身がコラムで呼びかけていたし、水木しげるさんや滝田ゆうさんに声をかけて『ガロ』の主軸を作ったのも三平さんだ。

(略)

 『ガロ』はまず、作者同士のつながりなのである。が、それも長井さんの「尊敬力」があったればこそなのだ。と私は思っている。

 資金に余裕のあった時も、原稿料がタダの赤貧の時も、さまざまな才能が集まってきたのは『ガロ』に載ったそれまでの「作品」の力と長井さんの「尊敬力」のなせる業である。
 たとえば「入選作」を選ぶ時に、それは現れる。つまり「出版界の常識」にも「資本の論理(金儲け主義)」にも、とらわれない判断ができるのは、この稀有なキャラクターに限られるのだから。
 たとえば、川崎ゆきおの入選作『うらぶれ夜風』である。私が入社した直後だったと思う。これが入選して「アッ」と驚いたのは私だけではなかったろう。
 「長井さん、スゴイねえ」
 と赤瀬川さんも言った。アレを入選させるって。普通できない。でも、おもしろいんだよね、読んだらおもしろい。
 佐々木マキさんはすでに、川崎ゆきおのファンになっていた。コマの細部やセリフのおもしろいのを話題にしていた。
 「あれを入選させる勇気はどこからくるんですか?」

 と私は直に聞いてみた。長井さんの答えは、

 「おもしろいから」

(略)

斬新すぎる画風は、どうして生まれてしまうのか?それは描き手のモチベーションが少年マンガや少女マンガの外側からやってくるからである。川崎ゆきおのモチーフは、おそらく江戸川乱歩の戦前の挿絵だろう。ジャンル違いからの引用だ。

 花輪和一伊藤彦造のキャラをモロに引用した。しかし、文脈がまるで違っている。異常に妖艶な美男がナンセンスなセリフを吐く。
 蛭子能収は、横尾忠則ゴダールのファンである。モロに横尾さんの描法をとり入れているのだが、本人の個性がムキ出しで、それと気づけない。
 オリジナルに似ないのは、ヘタだから、でもあるけれども、それより自分に描きたいものがあり、描きたいようにしか描けないからでもある。
 結果、それぞれの絵は、引用したオリジナルとは似て非なる「魅力」を持つことになる。その部分を「尊敬」し「支持」してくれる人があるからだ。
 常識ある編集者は、これを理解できない。なんでいま、わざわざ戦前の古くさい絵を持ってくる?なんでいま、猟奇なの?なんでエログロナンセンスなの?とわからないでいるうちに、世の中のほうが変わってしまうのだ。

(略)
 長井さんに、時代の先が見えていた。と考えるより、モノを作る人というのは「自分の好きに作るのだ」ということをわかっていたということだろう。

(略)

 私の仕事の仕方にも、長井さんはなんでもOKだったわけじゃないハズだ。(略)

 でも、編集に関して任されてからは一度も口をはさまれたことはない。

「ミナミはミナミなりにやりたいことをやってるのだ」

と、わかってくれていたに違いない。

まわりが見えなくなっている私に

「ミナミ、あんまり凝らんでいいぞ」

というのと、連日遅刻していた私に一年一度の忘年会の時にだけ

「チコクはな……なるべくな」

と一言いわれたきりだ。

編集者のころ

同僚の石川文子さんが、マキさんの奥さんだったのだ。マキさんは文子さんを迎えに来たのだったか。ニコニコしながら部屋に入ってきた。私はつられてニコニコした。ニコニコしているマキさんと同じ場所でニコニコしていると、友達にしてもらえたようでうれしかった。

(略)

 佐々木マキさんは「少年のような」という形容がまだなかった頃にそのような人だったけれども、それでももう、その頃は二〇歳をすぎていたはずだ。

(略)

 林静一さんとは、毎月イラストの原稿を受けとりに渋谷の喫茶店でおちあって、ムズかしい話や、ホモやヘンタイの話を一時間も二時間もねばってしていた。冗談やスケベ話とムズかしい芸術論を林さんは区別なしに話した。

(略)

 つげさんの前では私はたいがい迷惑な客だった。やりたくないっていう信号をさんざん送っているのに無視をして、タダの仕事をしつこくさせようとする図々しい編集者だったからだ。
 忠男さんにも、それは同じことが言えるので。本当に迷惑だったろうと思うが、甘えるだけ甘えていたと思う。千葉のお宅まで行って、ワク線を引いたり、ベタを塗ったり、時にはスミ入れをしたりしたのは私にはとても楽しい思い出だったが。
 決定的に嫌われたな、と思ったのは花輪和一さんだった。花輪さんの部屋で見つけた、ハ割方出来上がったまま、打ちすてられた作品を、完成してほしいと無理にせがんで、無理矢理、描かざるを得ない具合に追い込んでしまった。描きたくないから、そうなっていたのにちがいないのを、とにかくファン心理で完成してほしいと無理強いしたのだ。以後、まともに口を利いてもらえなくなった。 

佐々木マキ、ガロ、村上春樹 - 本と奇妙な煙

モンガイカンの美術館 南伸坊 - 本と奇妙な煙

赤瀬川原平: 現代赤瀬川考 - 本と奇妙な煙

本当の翻訳の話をしよう 村上春樹 柴田元幸

本当の翻訳の話をしよう

本当の翻訳の話をしよう

 

帰れ、あの翻訳

村上 ジャック・ロンドンリバイバルの価値があると思います。僕、昔から好きなんですよ。(略)

『マーティン・イーデン』 、僕は英語で読んで心を打たれたし、翻訳でも読まれるといいなと思いました。

(略)

カーソン・マッカラーズ、個人的に大好きで、『心は孤独な狩人』(略)自分で訳したいくらいなんだけど、何せ長いからなあ……(略)

『結婚式のメンバー』は、今僕が訳しているところです(略)

『悲しき酒場の唄』の三冊はつねに出版リストに入ってるべきだと思うんだけどなあ。『黄金の眼に映るもの』『針のない時計』も個人的には好きだけど。 

 

結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)

 

 

二葉亭四迷との共通点

村上 小説文体というのがだんだんできてくると、その文体で書かないと小説ではないという決まりみたいなものができてしまうんです。僕がちょうど小説を書こうとした頃は、現代文学という縛りがあって、それじゃないと駄目、という雰囲気がありました。僕はそれを書くつもりがなかったし、書いても上手くいかなかったので、じゃあ英語で書いてみようと思った。そうすれば楽だろう、縛りから逃げられるだろうと思ったんです。それは[ロシア語で書いてみた]二葉亭四迷も同じだったでしょうね。江戸の文章から抜け出すには別のシステムを持ってこないと抜け出せなかったのだと思う。僕の場合、翻訳と書くことが最初からやっぱりどこかでクロスしているんですね。 

(略)

あの頃は大江健三郎中上健次村上龍というメインストリームがあり、そこから抜け出そうとするには、たとえば筒井康隆的なサブジャンルに行くしかない。僕はサブジャンルに行くつもりはなかったので、そうなると新しい文体をこしらえるしかない。もともと僕は小説を書こうというつもりはなかったから、逆にそれができたんだろうなという気がします。

(略)

文体に対する提案といえば漱石が浮かびますが、漱石は漢文の知識と英文の知識、江戸時代の語りみたいな話芸を頭の中で一緒にして、観念的なハイブリッドがなされていたと思うんです。だから漱石は翻訳をする必要がなかった。

(略)
漱石は文体に対してコンシャスだったと思うんです。だから彼を超える文体を作る人はその後現われなかった。少しずつバージョンアップしたけれど、志賀直哉川端康成も根底にあるのは漱石の文体なんです。戦後、大江さんあたりから変わってくるわけだけど……。

 柴田元幸講義 日本翻訳史 明治篇

僕を含め二十一世紀日本の外国文学翻訳者は、翻訳の精神を誰よりもまず森田思軒から受け継いでいると思います。にもかかわらず、実践している訳文自体は、精神としては思軒の正反対と言ってもよさそうな黒岩涙香の文章にはるかに近い、というねじれた事態になっています。二人とも明治二十年代から、新聞を主たる舞台として活躍し、森田思軒は翻訳王と言われていました。坪内逍遥は思軒のことをこんなふうに書いています。

(略)

英文如来を森田思軒氏とし独文如来森鴎外氏とし、魯文如来を長谷川四迷氏とす。

(略)

 では、思軒自身は翻訳についてどう考えていたのでしょうか。(略)

とにかく極力直訳で行こう、という姿勢です。

(略)

 思軒の訳文は「周密文体」と言われました。一語一句を極力原文どおり丁寧に訳した文章ということです。そんなの当たり前じゃないか、と思われるかもしれませんが、それを当たり前にしたのが森田思軒なのです。それまでの翻訳では、変えたり、削ったりが普通だったから。なかでも極端に自由に変えた翻訳は「豪傑訳」と言われました。そういう自由な翻訳を実践したなかで、いまでも名前が残っているのが黒岩涙香です。

(略)

涙香の出世作『法庭の美人』の序文です。「タイトルを変えてしまうなんて不当ですよね、我ながら僭越だと思います、でも本文はもっと変えてるんです、何せ翻訳してる間は原書を家に置いてオフィスで仕事してたんで、訳しはじめてから終わるまで一度も原文を見ませんでしたから。だからこれを翻訳って言うと実はまずいんですけど、創作だって言うと盗作だって言われるんで、あえて翻訳と呼ばせてもらいます。本文でもそうですから、タイトルが違うのも責められて当然です。でも私、翻訳者じゃないんで、そのへんはよろしく」といった感じでしょうか。

(略)

訳していた作品もかなり違っていて、森田思軒はかなりハイブラウで、代表的な訳業はジュール・ヴェルヌヴィクトル・ユゴーでした(どちらも英語からの重訳)。一方、黒岩涙香は今では忘れられたような大衆小説を次から次へと訳していました。

(略)

[思軒と涙香の訳文比較があって]

当時は格調高く思えたこの手の文章は、言文一致運動の流れの中で急激に古くさくなっていき(略)森田思軒は亡くなってしまいます。

(略)

[『法庭の美人』は実際に原文と比較してみると]案外違わないんです。約している間、一回も原書を見なかったというのが信じられないくらいです。

(略)

[涙香の]訳文はまるで原文のかたちをとどめていなくて、「直ちに」「直ぐに」「早速」といったたぐいの言葉が連発され、物語がスピーディーに進んでいきます。(略)[だが森田の]『十五少年』よりはるかにわかりやすい――つまり現代の日本語に近い――ことは認めざるをえません。

(略)

明治の翻訳を考える上でわくわくするのは、すべてどれが正解かわからない状態でやっていたということです。その後、二葉亭四迷的な翻訳が文学的とされ、ハイブラウな部分ではそっちに進み、大衆的な面では黒岩涙香的な訳が主流になったわけですが、もし言文一致の流れがあれほど大きくなければ、森田思軒のような漢文調がもっと続いたかもしれない。誰もがいろんなスタイルを使えたし、どれが主流・正解になってもおかしくないという緊迫感があった。「である」調か「ですます」調か、程度しか選択肢のない現代よりはるかにスリルを感じます。

(略)

 鴎外の翻訳は鴎外節ですらない文章になっている、翻訳者が自分の臭みを消しているばかりか作者まで消してくれているから、読者は作品そのものと向き合える、ということですね。「清潔な交渉」というのはたしかに『諸国物語』を読んだ実感にも合っている気がします。
 好きでもないかもしれない作品もガンガン訳していた鴎外と、ほとんど翻訳をしなかった漱石の対比が面白いなあと僕は思っています。漱石はとにかく翻訳ということに懐疑的でした。彼の小説の登場人物たちもそうです。

(略)

翻訳の教育的意義ということは認めていたと思うんですが、翻訳において露呈する二つの文化の違い、という点にはどうも懐疑的な発言が目につきます。漱石自身、自分の作品を誰かが翻訳したいと言ってきても、「あれは大した出来ではないから」などと言って断ってしまう。もちろん、自分が翻訳することにも燃えませんでした。いわゆる訳書も一冊もない。その理由が、翻訳が苦手だったからという話ならわかるんですけど、英文学講義録『文学評論』のなかの引用文訳を読むと、これが実に巧いんですよね。

(略)

鴎外はシベリア鉄道でドイツの新聞を取り寄せて、まるでツイートするみたいに、次から次に記事の内容を雑誌に紹介していました。

(略)

まあなかには小説の素材になりそうな面白い話もあるんですけど、誰それが何をしたというだけの短いものも多く、なぜ鴎外がこれをしなくてはいけなかったのか不思議です。しかも鴎外はこれを匿名で連載していて、連載は人気がなかったそうです。当時の日本にはまだ、西洋に追いつき追い越すためには西洋のものをどしどし取り入れなくては、という空気があったのでしょうが、鴎外のこの百年早いツイートは、そういう次元を超えている気がします。
 もちろん、つまらなくはないです。そこがまた不思議なんですけど、「(此決闘は九日に無事に済んだ)」というあたりの淡いユーモアがやっぱり効いてるんでしょうか。(略)

 短篇が上手いのは

村上 はっきり言ってチェーホフはそんなに上手いと僕は思わないんです。少なくとも今の時点から見れば。あと吉行淳之介をみんな上手いと言うけど、そんなに上手いと思わない。でもどちらもそれほど上手くないところがいいんですよね。『若い読者のための短編小説案内』でも紹介しましたが、短篇が上手いのは安岡章太郎小島信夫、それから長谷川四郎

(略)

ヘミングウェイのニック・アダムズものを読んだ人と読まない人とでは短篇小説に対する考え方が違ってくると僕は思うんです。あれは本当に素晴らしいし、短篇小説というもののすごくきっちりとした手本になっている。あと僕自身について言えば、フィッツジェラルドの「リッチ・ボーイ」を読んだのと読まなかったのでは、僕の中での短編小説の在り方が違ったなと思う。

(略)
「リッチ・ボーイ」は僕も訳したけど、どこから見ても見事に書けている。その書き込み力は、短篇の原型として、一種の黄金律として、今でも僕の中に残っています。

(略)

 昔は短篇からふくらませて長編を書くということもありましたが、最近はないですね。『女のいない男たち』のいくつかの短篇について、「続編はないんですか?」と訊かれるんですけど、もうひとつそういう気がしないんです。たぶん僕の中での短篇の位置が変わってきたんだと思います。

藤本訳ブローティガン

村上 藤本さんの翻訳で読んで興味を持って、それで原文を手に取ってみたという感じですね。まずは翻訳が最初だった。ぼくが大学生だった六〇年代の終わりから七〇年代のはじめにかけて、藤本さんの翻訳したブローティガンは、一種の、ガイディング・ライト(導きの光)のようなものでした。

(略)

それに飛田茂雄さんや浅倉久志さんの翻訳したヴォネガット。翻訳者と作家の密な関係があって、非常に幸福な時代だったと思います。僕が翻訳に興味を持ったのは、そういう人たちの影響があったのかもしれない。

(略)
柴田 藤本さんの訳文って、日本語としてすごく自然というわけではないんですよね。

村上 翻訳というものは、日本語として自然なものにしようとは思わない方がいいと、いつも思っているんです。翻訳には翻訳の文体があるわけじゃないですか。

(略)

僕が自分の小説を書くときの文体があり、そして僕が翻訳をするときの文体というものがもしあったとして、両者は当然違いますよね。会話がまず違ってくる。  

kingfish.hatenablog.com