戦前日本のポピュリズム 筒井清忠

日比谷焼き打ち事件

 内務大臣官邸に向かった一団は、午後二時ごろ小村全権らの曝し首が描かれ「天誅」と題する「喝采を博し」た張り紙を警官が剥がそうとしたのに激怒、警官に暴行を加えた後、官邸に逃げ込んだ警官を追って邸内に石を投げ込み、乱入・放火した。

(略)

 社会主義者吉川守圀は、人力車夫らしい老人が「お茶の水の交番は日頃戸籍の事で八釜しく云ってうるさいから是非焼いて貰い度い」と群衆に頼みカンテラ道具を持ち出して来た、と記録しており
(略)
 日比谷焼き打ち事件の考察にあたってそのポイントとしてまず第一に、戦争中にたびたび開かれていた戦勝祝捷会が群衆形成の重要な要因となっているということを指摘しておきたい。

 日露戦争の当初、国民の戦争支持はそれほど熱心でなかった面があったと言われている。政友会の幹部であった原敬は「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり」と記しており、既述のように『国民新聞』の徳富蘇峰は、国民の戦争に対する熱心さは日清戦争当時の半分もない、とロンドンの深井英五に書いている。

 しかし、戦闘の勝利につれて、やはりそれは盛り上がっていったと見るべきであろう。その際、その気運に大きく寄与したのが戦勝祝捷会の開催であった。

(略)

 次に重要な論点として新聞と事件との関連という問題がある。何よりも河野広中小川平吉ら事件関係者が、暴動の波及が急速となった原因として警察への憤懣が浸透していたこととともに「新聞が是を煽動的に報道せることを挙げて居る」のであるが、取り締まる側もこれを「傾聴に値すると思う」と著していることは見逃せない。

 この点について松尾尊兌は次のような重要な指摘を行っている。

「(略)まず注目すべきは運動の組織には必ずといってよいほど、地方新聞社、ないしはその記者が関係していることである。新聞は政府反対の論陣を張り、あるいは各地の運動の状況を報ずることで運動の気勢を高めただけではなく、運動そのものの組織にあたったのである」

(略)

 こうした新聞の激しい反対運動が日比谷焼き打ち事件を誘発した有力な原因であることは間違いないが、それがのちの憲政擁護運動(護憲運動)・普通選挙要求運動(普選運動)につながったことも否定できない。

(略)

 講和条約に反対した陸羯南の『日本』が展開した「兵役を負担する国民、豈戦争を議するの権なしと謂わんや」という論理──兵役の負担と講和すなわち政治について議論する権利をイコールで結ぶ論理──が普選運動に直結するものであることは見やすい道理であろう。

 こうして新聞に支えられた講和条約反対運動が日比谷焼き打ち事件のような暴力的大衆を登場させ、またのちの護憲運動・普選運動をも準備したのである。両者は最初からぴったりと結びついており、切り離すのは難しいものなのであった。

(略)

 日比谷公園での「国民大会」の模様について、『君が代』が演奏され、天皇・陸海軍の万歳が唱えられて大会が終了したことをすでに見た。また、午後一時半すぎに起きた最初の衝突は、「億兆一心」「赤誠撼天地」などと書いた大旗を持ち宮城前広場に移動した群衆を警官隊が取り締まったとき、楽隊が『君が代』を演奏しようとしていたので群衆が激昂したのが原因と見られている。

(略)

「東京で多くの行列の目指した場所は皇居であり、日比谷公園に集合して解散するという形もパターン化しつつあった。神聖な「皇居」を目標としつつ、集合と解散の身近な場所としては日比谷公園を設定するという形が成立しつつあったのである。「皇居」と「日比谷公園」はこの時代日本の群衆の統合点であり、沸騰点であった」。
 読者の労をいとわずに繰り返し書いたのは、日本に最初に登場した大衆は天皇ナショナリズム(それも「英霊」的なものによって裏打ちされたもの)によって支えられたそれであったことが、明白に理解されると思われるからである。

 さらに、新聞論調に多いのは次のような内容である。(略)

「鳴呼、国民は閣臣元老に売られたり」「呆れ返った重臣連」

「元老、内閣の官爵、位勲を号奪せよ」

(略)

戒厳令施行後に見られた張り紙も同じように「小村全権は日本を売る国賊なり、誰か之に誅せよ」「詔勅に背きたる逆臣は宜しく誅すべし」といったものがきわめて多い

(略)

 天皇のおかげで国家は発展しつつあり国民も頑張っているのに、天皇周辺の愚かな大臣らのため国民は悲惨な目にあいつつある、天皇の親政・聖断を行い君側の奸を打倒し国民を救済する政治を行ってもらいたい、という主張である。これに最も類似した文章は「謹んで惟るに我神州たる所以は」で始まり、「万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦に呻吟せしめ」ている「君側の奸」の「斬除」による「国体の擁護開顕」を、と説いた二・二六事件の「蹶起趣意書」であろう。(略)

それはニュアンスの違いはあっても、幕末の尊攘倒幕派から二・二六事件につながる「一君万民」「尊皇討奸」的意識を強く持ったものであった。

(略)

 なお群衆が警官とは戦っても軍隊と戦おうとはしなかったことは、鎮圧が速やかになった一つの原因と見られており、軍隊は武力によって群衆を抑えたのではなく、威光によって治めたのであった。

(略)

 こうした軍隊崇拝意識は、軍隊が「天皇の軍隊」であり「国民の軍隊」である限り、天皇ナショナリズムへの渇仰意識から当然のように現れるものであり、そのコロラリー(当然の帰結)と言えよう。

対中強硬政策運動

 一九一一年に起きた辛亥革命は、袁世凱の大総統就任によっていわば簒奪された形になったが、これに対し革命派が二年後の一九一三年に起こしたのが第二革命であった。しかし孫文、黄興ら南方の革命派は敗れ、日本に亡命することになる。このとき参謀本部や出先軍人は南方の革命派を支援しており、このことが以下のような日中の対立となる暴力事件を誘発したのだった。(略)

(1)漢口事件(一九一三年八月)。日本陸軍の西村彦馬少尉ら二名が漢口の停車場で暴行・監禁を受けた事件である。日本側は厳しい処分・陳謝を要求、それに対し中国が謝罪し責任者を処分している。

(2)兗州事件(一九一三年八月)。日本陸軍の川崎亨一大尉が兗州から山東省の済南に向かう列車内で逮捕され、兗州の兵営内に四日間監禁された事件である。これも中国は謝罪し、責任者を処分している。

(3)第一次南京事件(一九一三年九月)。南京内に入城した政府軍(北軍)兵士が、国旗を掲げて領事館に避難中の日本人を襲撃した事件である。日本人三名が死亡し、三四軒の商品・家財が一切掠奪され、国旗が攻撃されている。これも最終的には中国が謝罪し責任者を処分しており、六四万ドルの賠償を支払っている。

 これらは日本が革命軍(南軍)側と見られていたことが原因で起きたと見られているが、この一連の事件に対する新聞・雑誌報道は誇大なところもあったので、世論は激昂した。

(略)

「九月一日正午南京陥落し北軍城内に闖入してより、公許されたる奪掠三日の一言は不幸にして箴を為し、九十里の城垣は故なくして阿鼻叫喚の巷となり放火、奪掠、姦淫、虐殺等、有らゆる罪悪は凡ての北軍に依りて犯されたり。

(略)

 この年は四月から五月にかけてアメリカで日本人移民の排斥が問題になっており、演説会が開かれるなどしていたから、すでに国民の被害者意識は相当高まっていた。そこにこのような報道がなされたのである。

 そもそも辛亥革命勃発後から対外強硬世論は起きており、一九一三年七月二十七日、神田青年館では一二団体の集った対支同志会が結成されていた。(略)そこでは東蒙南満の要地占領、揚子江一帯の要地への出兵という強硬な意見が決議されている。

 そして、翌九月五日には阿部守太郎外務省政務局長が三人の対中強硬派に襲われ刺殺されるという事件が起きる。犯人の二人は逮捕されたが、一人は知人の家で中国地図を敷いて、その上で切腹自殺した。

(略)

 刺殺の原因は、犯人の一人によれば、南京事件で日本国旗が侮辱されたのに対し、阿部が「要するに国旗は一つの器具に過ぎぬ」と言ったからであるという。(略)

中国の暴行に対する“弱腰”は、国民の犠牲を払って得た満蒙を失う危険性につながると見られていたことがわかる。(略)

事件後、強硬政策を求める声はさらに強まり、ついに九月七日、対支同志会主催の国民大会が日比谷公園で開かれ、対中強硬政策を主唱する群衆が外務省や牧野伸顕外相宅に押しかける事態となった。

 世論が「願る高潮に達し居る」と見た牧野外相は、袁世凱政府の漢口地域の責任者張勲の辞職を要求するなど強硬外交を展開した。(略)張勲が南京日本領事館で陳謝し、事態は収拾に向かう。このとき牧野外相は、関東州租借地と満鉄の租借期限の九九か年延長なども要求しようとしたが、山座円次郎公使に反対され、思いとどまっている。この要求は対華二十一か条要求に含まれることにつながるものであった。

 山座公使は「支那人を侮る結果」の「威圧的言動」に憤慨しており、また原敬内相も牧野外相のポピュリズム的傾向に批判的で(略)政府・外交の中枢はポピュリズムに揺らぐばかりではなかったのである

(略)

 ともあれ、この事件は日比谷焼き打ち事件以来現れた「群衆」「大衆」を前に、外交がこうした「民論を無視」できない状況となっていたことを如実に示す事件であった。これ以後の対華二十一か条要求など、日本の世論の中国に対する厳しさのなかには、事件への被害者意識・報復意識と、それが国民の犠牲を払った満蒙を失うことにつながるとする危機意識とがあったことが見てとれるのである。

排日移民法排撃運動

六月十四日には横浜駐在米領事への暴行事件が起きる。七月一日、対米国民大会が芝増上寺で開催され、一万余人が参加、「対米宣戦」などがなされ、米大使館の国旗盗難事件が生起した。その後全国で集会・デモが頻発する。

 横浜沖仲仕組合の米貨積み下ろし拒否、米映画上映ボイコット運動、米系大学の補助金拒否運動などが起き、反米の歌まで作られ、親米家として知られた新渡戸稲造は今後は米国を訪問しないと宣言せざるをえなかった。在日米人は本国に日本の様子を伝え、移民法の撤廃と身辺保護を要請した。

(略)

『東京日日』『大阪朝日』のような有力紙には米英に追随する外交路線の改変、中国との関係改善のための公使館昇格、二十一か条要求改定などの主張が行われている。

憲法学者美濃部達吉は次のように書いている。

「事の茲に至ったのは、政府の罪でもなければ、外交官が悪いのでもない。詰りは国力の相違である。……情ないかな、日本は国力に於て、少くとも経済力に於て、絶対にアメリカの敵ではない。如何に侮蔑せられても、如何に無礼を加えられても、黙して隠忍するの外、対策あるを知らぬ。……国家百年の大策としては、所詮は亜細亜民族の協力一致を図るの外はない」

 こうして事件は以後の反米・アジア主義の重大な動因となった。

(略)

 大正期のポピュリズム的運動はナショナリズムと平等主義の二つに方向づけられたが、それは日比谷焼き打ち事件の延長線上に現れただけに、当然のことであった。このうちナショナリズムの方向性は中国に向かい、またアメリカに向かった。アメリカに対する排日移民法排撃運動が激化すると親中国的なアジア主義の高揚が見られるのだから、こうしたポピュリズム的運動が元来、無方向的な性格のものであることがよくうかがえよう。

 平等主義は普通選挙要求運動において最大の高揚を見せたが、なかでもそれが非暴力的性格を勝ち得たことは画期的成果であった。排日移民法排撃運動でそれは一時破られるが、結局終戦まで大きな爆発的混乱は起きなかったわけである。

天皇シンボルの肥大化

田中内閣は、一般に言われるように張作霖爆殺事件だけが原因で崩壊したのではない。

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田中内閣の倒壊とは、天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力が政党内閣を倒したということである。しかし、「腐敗した」内閣であっても政党内閣は野党によって倒されるのが健全な議会政治の道なのであり、これは不健全な事態である。「政党外の超越的存在・勢力とメディア世論の結合」という内閣打倒の枠組みがいったんできると

(略)

「軍部」「官僚」「近衛文麿」などと形を変えてそれは再生されていき、政党政治は破壊されることになるのである。

(略)

 こうした天皇の政治シンボルとしての肥大化が、以後の時代に天皇シンボルのいっそうの政治的利用や「天皇親政論」的発想、すなわち天皇ポピュリズムを導き出すことになるのだが、政党人にその自覚は乏しかった。

(略)

知識人も、吉野作造が典型であるが、大衆デモクラシー時代に十分に対応することができなかった。

(略)

 当時、多くの知識人は、既成政党=ブルジョワ政党への失望と批判ばかりを語り、同時に新興の第三極としての「無産政党」の発展に期待していたのだった。二大政党制の意義と理念を語ることができなかった彼らは、「無産政党」が内訌を続けて国民多数の支持を得られず夢が破れると、今度は「軍部」や「近衛文麿」「新体制」などに期待することになる。

 勝負は、マスメディアの既成政党政治批判と天皇シンボル型ポピュリズムが結合し始めたこの時期につきはじめていたとも言えよう 。

二大政党に分極化した地域社会

政党による官僚支配の問題は当時「党弊」と言われ、ある意味では時代の趨勢をはかる最も大きな問題だったのである。

(略)

 内務省を掌握すると選挙に勝つことができるということで、内務官僚の政党による掌握が極端に進んでいったのである。この反省から(略)

斎藤実挙国一致内閣では、警視総監、内務省警保局長、衆参両院書記官長などは試験任用にするということで、官吏の身分保障が強化されることになったのであった。(略)

[だが事態はそう簡単には治まらず、1935年に大分県警察部長になった内務官僚村田五郎の場合は] 

赴任してみると、大分県には警察の駐在所が政友会系・民政党系と二つあった。政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系・民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。(略)土木工事・道路などの公共事業も知事が政友会系・民政党系と変わるたびにそれぞれ二つ行われていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(略)

党員の団結は非常に強固で、隅々まで連絡網が張りめぐらされていた。このような強力な組織をもって、双方の政党は、野党時代には政権党の内閣の知事の下での県職員の行動を厳重に監視し、いったん政変により政権党になると、そのたびごとに反対党の知事はじめ職員を一斉に退職させた。(略)

村田以外に(略)政友会系・民政党系それぞれの「本部長」がおり、「本部長」が三人いる状態であった。各警察官は自派の「本部長」の意向を確かめてから動くのである。村田は警察官の公平・中立化を目指した人事異動を行おうとしたが、政党からの妨害は激しかった。しかし実現していき、警察と暴力団の癒着も摘発、是正し、県民から感謝された。折から開かれた全国警察部長会議で、内務省警保局長は「天皇陛下の警察官」という言葉を使って、政党に従属する警官ではなく、天皇陛下の政府に仕える警察官であるから、今後は真に政府の警察という本来の姿に立ち戻って出直すべきだということを強調した。過去、政党に使われ嫌な思いをしてきた全国の警察官の士気は大いに上がったという──。

 もちろんこれは政争が非常に激しい県の例なので、すべての地方がこのようであったというわけではない

次回に続く。