ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー・その2

前回の続き。

ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー

ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー

 

ジョージ・シアリングの絶賛の反動

 エヴァンスが速やかに状況を好転させることができることは、後の一九六四年五月にシェリーズ・マン・ホールにチャック・イスラエルズとポール・モチアンとともに出演した時に明らかとなる。当時居合わせた自尊心あるすべてのジャズ・ピアニストたちにとって、エヴァンスはいつも魅力的な存在だった。エヴァンス・ファンを標榜するジョージ・シアリングは、このクラブでのエヴァンスの演奏を楽しみながら絶大な熱意を持ってジャーナリストのジャック・ハットンに語った。「アイ・シュッド・ケア」を演奏中のことだったとハットンは説明する。「ジョージが私の耳元で囁いた。『アート・テイタムが生きていたら、ここにやって来てビルを見ただろうね。彼のレガート奏法は驚異的だよ。ノートと和音をどこまでも維持している。あのチェンジ。ビルはまさに私のお気に入りのピアニストだと思う。ピーターソンとハンク・ジョーンズは別のスタイルで偉大だけど、ビルは実に斬新で完璧だ。(略)彼は自分のやりたいことが何でもできるし、自分のアプローチに必要な技をすべて備えているよ』」。当時のジャズ界においては珍しく、シアリングにはエヴァンスを評価する資格が十分にあった。彼にはエヴァンスに匹敵するほどのクラシック音楽の知識があったからだ。しかしこの重要な同業者の評価は多方面からのエヴ
ァンスに対する拒絶の第一波への前兆となった。主に当時ジャズと即興演奏を新しい表現と理論の領域に持ち込もうと努力していた、ジャズ・アヴァンギャルド派からの風当たりは強かった。 

 フリージャズへの見解

[エヴァンスは]ジャズに持ち込まれたいわゆる“新しい自由”[について](略)より広い視野に立ったコメントもしている。「私には制限、つまり特定の技術や形式に挑戦するといったようなことがなければ何もできない。そしてそのうち、仕事の中に自由を見出していく。多くの人々はそうした労力を免れたいと思い、十分に拘束を使って十分に探究すればひとつの領域に報酬が存在するということに気付かない」
 これは個人的な仕事のやり方として完璧に正当なものと認められるものだが、一九六〇年代中期の極端に張りつめた雰囲気の中では、かつては革新的だったミュージシャンが巧妙に、新しい波に乗らず古いジャズで身を守っていると解釈されるだけだった。

(略)

「自分たちが取り組むためのしっかりとした基礎を用意する。……技術があれば何でもできる。それから我々は実に自由になる。しかしまったく枠組みがなかったら、かえって制限されてしまうだろうね。お互い無意味なことにかなり自分たちを適応させることになるから、呼吸をし、音楽を作り、感じる余裕がまったくなくなってしまう。そこが問題だ」

(略)
エヴァンスには新しい世代のアイディアを受け入れる必要などまったくなかった。(略)しかし、こうした進化していくアイディアヘの彼の反応は、必然的に彼を狭いスタイルの領域へと導き、その後のキャリアの中で長期に渡り、彼はジャズの発展のメインストリームから徐々に遠ざかっていくことになる。それはどうにもできないことと彼は感じていた。彼は自分自身の音楽的本能に忠実でなくてはならなかったのだ。
 「多くの人々が“無調”と言う時に意味していることを、私はより奇妙な感じの不協和音か変わった音程みたいなものだろうと思う」。彼はダウン・ビート誌のインタヴューの中で続ける。「私はそれを感じない。自分らしくないと思う。バルトークやベルクのような大音楽家が、人々が無調だと考えていることをやれば、大抵は無調ではないけれど、私にはわかるし喜んで聴く。しかし誰かがこの音楽に似たようなことをやっているだけだ。それはいかにわずかの技術しか理解していないかを明らかにしている。実は莫大な数の技術がある。ただ出て行って、私が呼んでいるところの“ザ・インチ・システム”で演奏することはできない。私はキーボード上を八インチ上に行き、そこから六インチ下がった音を演奏できるし、次に一フィート半上がって連続音を弾き、九インチ半下がって他のことをすることもできる。それが無調だ、このやり方が無調だと考える人もいる。なぜ無調が必要とされるのかわからない。そこに私がより満足できるものを見出せたら、もちろんそこに行くよ。だからみんなそこにいるんだろうね。彼らはそこに何かを見出しているんだろう」(略)

アヴァンギャルドとかにならなくてはとはまったく感じない。自分にとってはまったく魅力がないし、それよりもこれまでやってきたことより何かましなことをやりたいといつも思っている。……もしそれがそこにあり、そこが私に見つけられる最高の場所なら、それはそこにあり続けるはず」
 エヴァンスはダウン・ビート誌同号の目隠しテストでコルトレーン、マイルス、テイラーの曲を聴かされている。彼は最初にセシル・テイラーの「トランス」に賛同し、「これはすごく気になった。興味深い……とても気に入ったよ。やろうとしていることがうまくできているから五つ星だ。ただし、あの素晴らしい出だしなら、もっとテクスチャーのチェンジとダイナミックな探究ができたのにと思う。でもこの曲には何か特別に心を動かされたよ」。(略)「意図していたことがほぼ完璧に実現されているが、ただ表現の領域を十分に探っていない……すべてのダイナミック・エフェクトはチェンジによって達成される。あることを提示し、次にそこに対照的なものを持ってくる。その非常に重要なことがこの曲には欠けている」
 テイラーの比較的初期のライヴ録音への意見を表明することにより、エヴァンスは音楽に対する自分自身の評価基準をはっきりと示している。 

トリオ’65

トリオ’65

 

『トリオ65』

 一九六五年七月に『トリオ65』が発売された時、批評家ジョン・S・ウィルソンがダウン・ビート誌でレヴューしたことがきっかけとなり波乱が生じた。それはヴァーヴによるエヴァンスの宣伝戦略に対する当てこすりと、このアルバムでのエヴァンスヘの低い評価が合わさっていた。「エヴァンスを聴けば聴くほど、彼の神秘性の宣伝は、近年の中で大掛かりな違法宣伝のひとつであると確信する。エヴァンスの演奏は……きれいで洗練されているが、関心を求めもしなければ集めもしない。少なくとも私にとっては……これが素晴らしいジャズ?どちらかというと優れたBGMのようだ」
 同年の二月に遡るが、エヴァンスのジャズ形式と音楽的自由についての意見に応えて、セシル・テイラーエヴァンスを非難した。「もちろんエヴァンスには自分の道を行く権利がある。しかし、彼の演奏はとりわけその理論の強力な論拠になっているとは思わない。彼の演奏をクラブで聴いたが、彼に割かれた雑誌のページ数には、もっと相応しいピアニストが少なくとも十人はいる。彼が真剣になって言っていることは受け入れられない。彼の演奏を聴いても実に退屈で、簡単に予測できまったく生気がない。彼は単に有能なミュージシャンなだけだ」

(略)

結局いわゆる“プログレッシヴ”な批評家たちおよびファンたちによってその後の二〇年以上もの間、エヴァンスの存在は徹底的に排除されてしまうことになる。テイラーの暴言そのものがその後の風潮を決定した。エヴァンスは自分がもはや音楽界の前衛ではないということ、あまりにも長い間個人的に低調であったことに気づいていた。

(略)

[『トリオ65』完成直後、渡欧]

ヨーロッパにおけるエヴァンスの観客は、アメリカの平均的なナイトクラブの観客のように冷めてはいなかった。彼らはエヴァンス世代のモダン・ジャズのスターたちを見慣れていなかったし、ましてやアメリカに出現していたアヴァンギャルドのミュージシャンたちのことなど知る由もなかった。どのヨーロッパの都市でもエヴァンス・トリオの公演はジャズの一大イヴェントとして受け取られ

 バド・パウエル

もちろんエヴァンスには、その秋に亡くなったバド・パウエルに追悼文を寄せる際に、自分が進化しなくてはならないことが分かっていた。(略)

「私が知る限り(略)彼は最も総合的な作曲の才能を備えていた。彼には本物のジャズ・プレイヤーの素質があった。(略)

[1970年のインタビューで]

「感情に訴えない感じというものがある。泣かさない、笑わさない、激しいという感じだけを与える。それがバドから受ける感じなんだ。多分ベートーヴェンなどから受けるものと同じだ。チャーリー・パーカーディジー・ガレスピー、バドについて考えた時、バドはひどく過小評価されていると思う。

 「ジャズとは?」

[67年大学のパネル・ディスカッションにて「ジャズとは?」との問いに]

「ジャズはスタイルというより精神的な姿勢だ。それは楽器を通して自発的に表現される心の特定のプロセスを用いる。私はそのプロセスを保ち続けることに腐心している

(略)

ジャズは誰にでも関わりのあること。様々な異文化に由来しているはずだ。ニグロは音楽を作ろうとしていた。それはニグロ音楽ではない。私がしたように、彼も自分の文化から引き出したのだ」。 

フリージャズ

彼らはふと現れ貢献するが、純粋なアヴァンギャルドのアーティストは多くないと思う。時代の先端を行く人々はそれほど多くはいない」。これはエヴァンスの新しい考え方ではなかった。一九七〇年に、彼はレナード・フェザーにアヴァンギャルドなんていうものはないと言っていた。「それは引用で検証できるけど、音楽的に成功しているもの、音楽的なものもあれば、単なるがらくたの山のようなもの、不平、欲求不満だらけ、病気のようなものもある。何よりも求められるのは、それが音楽的であり音楽的言語で何かを語っているということ、音楽であるふりをしているものに私が求めているのはそれだけだよ」(略)
「時代とかはどうでもいい。良いものは良い。……いわゆる“フリー”と呼ばれるものの多くは、奇妙で変わったサウンドの領域に乗り出そうと洗練に努めているが、こうした領域はすでに世紀の転換期にクラシック音楽家たちによって散々使われ、まったく新しいものではないんだ。不協和音あるいは多調性のサウンドの領域なんて、洗練されている人なら驚きもしない。重要なことはどこにあっても音楽を作るということであって、イディオムは重要ではない」 

フロム・レフト・トゥ・ライト+4

フロム・レフト・トゥ・ライト+4

  • アーティスト: ビル・エヴァンス,ミッキー・レナード,サム・ブラウン,エディ・ゴメス,ジョン・ビール,マーティ・モレル,ミッキー・レナード・オーケストラ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2011/07/20
  • メディア: CD
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 フェンダー・ローズ 

 『フロム・レフト・トゥ・ライト』はいわゆる“イージー・リスニング”の奇妙な試作のような作品だった。エヴァンスは当時流行の電子ピアノ、フェンダー・ローズを使用した。(略)

エヴァンスはレナード・フェザーに言っている。「ただひとつの危険性は、ピアニストがフェンダー・ローズだけを演奏していると、タッチがすごく軽くて、再びピアノを弾いた時に苦労することだと思う。チック・コリアがこの問題について私に言ったことがある。そのことを発明者のハロルド・ローズに伝えたら、その問題は調整できると言って、私のピアノを私のタッチに合わせて調整してくれた」

(略)

コロムビアへ移籍 

[70年]新しいレコード会社のためにエヴァンスはスタジオに入り、コロムビアの最高責任者クライヴ・デイヴィスの指揮に従った。デイヴィスは彼のジャズ・アーティストたちにファッショナブルなエレクトリック・ジャズを演奏させたがっていた。(略)当時の契約アーティストにはオーネット・コールマンウェザー・リポートジョン・マクラフリンがいた。「いまだにトラディショナルなジャズをやっているアーティストと契約する気はない。同様にロックンロールに関わっているアーティストと契約する気もない。……私は新しい観客たちと交流すること、自分たちの技術とアイディアを駆使し、新しい観客たちに理解され受け入れられる言葉で交流できるアーティストにすごく関心がある」。デイヴィスはエヴァンスを例にした。「ビル・エヴァンスを、ここ数年やっていたことから脱出させ、『自分の才能を使って交流を始め、興奮するような領域に入って行き、他の楽器編成で、音楽的アイディアを新しい人々の前に打ち出しなさい』と彼に言う。もしそうすることに関心を示さないのなら、彼のレコードを作る気はないよ」(略)
構想は「新しい実験的な曲を取り入れた、アコースティック/エレクトリック・デュオ・コラボレーションだった。……エレクトリック楽器をオーヴァーダビングするアイディアにも手を出した。

(略)

 奇妙かつ印象的なのは、エヴァンスがヴァーヴ/MGMとの最後のプロジェクトとコロムビアとの最初のプロジェクトでアコースティックとエレクトリック・ピアノをミックスし、両方とも結果はうまくいかなかったということだ。

(略)

ヴァーヴ/MGM最後のプロジェクト『フロム・レフト・トゥ・ライト』でもローズを使用していたが、広く宣伝されず事実上まったく影響を及ぼしていなかった。
 コロムビアにおける二回目のセッションでは、エヴァンスはローズの役割を彼の表現と音楽性の新たな拡張として見せびらかすというよりは、“色づけする”楽器に制限している。

(略)

後の彼のコメントには、ジョー・ザヴィヌルチック・コリアといった当時アンプを使った音楽に取り組んでいた若手のジャズ・プレイヤーたちとは対象的に、エヴァンスがエレクトリック・ピアノの真価をけっして認めていなかったことが表れている。「特定の演奏にちょっと色を添えるためにフェンダー・ローズを使うのはいいけど、ただ付加的にだけだ。どんなエレクトリック楽器も優れたアコースティック・ピアノの資質と力量とは比較の対象にもならないよ」。数年も経たないうちに、キース・ジャレットが似たようなことを言い、永久的にエレクトリック・キーボードを使わなくなった。 

リヴィング・タイム

リヴィング・タイム

 

ジョージ・ラッセル 

 ラッセルは一九六七年のバレエ音楽『オセロ』と一九六九年にヨーロッパで初演された『エレクトロニック・ソナタ・フォー・ソウルズ・ラヴド・バイ・ネイチャー』が絶賛された後、広く注目されていた。エヴァンスのために作られたビッグバンドとピアノ・トリオのための八部構成の作品『リヴィング・タイム』は、ラッセルの作品と理論の進化形に論理的にぴったり収まっている。ラッセルは初めこの委託に対して躊躇していたが、エヴァンスの音楽的要望と彼自身の要望を満たすことができると判断した。ラッセルは当時語っている。「ビルも私もモーダル・ミュージックに没頭しているけど、長い間お互いに別の方向に向かっていたようなものだった。ビルはより調性のある演奏に没頭していたが、私はそうではなかった。私は延長線上にある、モーダル理論から外れるものに取り組んできた。でもビルの演奏はとても好きだし尊重しているから、そのチャレンジを拒むことはできなかった。私が見たところ、その任務は、私自身の作品の妨げにならないように彼の作品を強化するようなモードを作ることだった」。

(略)

プロジェクトは一九五〇年代末にラッセルとエヴァンスが享受した関係のなごりがはっきりと感じられるものとなった。またラッセルのより近年の作品にも追随していた。

(略)

 制作されてから三〇年ほど経てから、このレコードを再び聴いてみると、ラッセルとエヴァンスがコロムビアのクライド・デイヴィスが求めていたものを惜しみなく提供したことは明らかである。『リヴィング・タイム』は長編作品でサウンドとリズムは徹底的に同時代の方法を採用している。  

But Beautiful

But Beautiful

 

スタン・ゲッツ

[74年ニューポート・イン・ニューヨーク・フェスティヴァル]

唯一の驚きは、スタン・ゲッツがセットの最後のブルースに飛び入りしたことだった。

 この気楽なブルースがうまくいった[ため](略)

二人は一ヶ月後のオランダとベルギーのフェスティヴァルでも、エバンス・トリオのセットの最後の部分で共演することにし、最初のコンサートの前にお互いの協調性を高めるために長々とリハーサルをした(略)

[地元放送局の録音が海賊盤として出回り、数年後]

『バット・ビューティフル』として、期待通りの良い音質でマイルストーンから発売された。

(略)

ゲッツは気まぐれな性質で(略)

ヘレン・キーンはオランダのラレンでのコンサート中の事件について後に語っている。「トリオがセットを終えると、スタンがアナウンスされ、彼がステージに登場すると、リハーサルしていなかった曲をやると言ったの。(略)スタンがリハーサルしていない『スタンズ・ブルース』を演奏し始めるとエヴァンスの表情に怒りが表れているのがわかったわ。ビルはメロディ・コーラスを少しだけ弾いて、鍵盤から手を下ろし、後はまったく弾かなかった。……ビルは穏やかな人間だけど芯はすごく強い。彼はいつも他のミュージシャンたちとうまくやってきたけど、明らかにスタンの行いは気に障ったようね」(略)
 後に出たマイルストーンのアルバムにはゲッツの無作法に続き、エヴァンスが沈黙する「スタンズ・ブルース」と、もう一曲、まずまずだが抑え気味にゲッツと演奏している「グランドファーザーズ・ワルツ」が収録されている。皮肉なことに、ゲッツはこの問題のブルースを自信と気迫に満ちて演奏している。

(略)

 ベルギーのアントワープでのゲッツとのコンサートは、五日後の一九七四年八月に行われ

(略)

「スタンが温かくビルの誕生日を祝福し、『ハッピー・バースデイ』を『アイル・ビー・ラヴィング・ユー・オールウェイズ』の数小節を交えて即興し、切れ目なく『ユー・アンド・ザ・ナイト・アンド・ザ・ミュージック』に入っていったの。七千人の観客を前にスタンが誕生祝いをしてくれたことに、ビルはすごく感動したと思うわ」。これらのメロディはゲッツにより単独で演奏され、感動的な模様は今もCDで聴くことができる。このアップビートなコンサートはエヴァンスにとって思い出深い四五歳の誕生祝いとなった。彼の健康も目覚ましい回復を見せ、体重も増え、顔も丸みを帯び、一年の間に豊かなあごひげをたくわえていた。

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ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー

 
ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー

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エヴァンス以前のジャズ・ピアノ

 レニー・トリスターノは一九四〇年代中頃に起きたニューヨークの五二丁目バップ革命と密接に関わったが、パーカー、ガレスピー、パウエル、モンクの考え方に反発して孤立、独自の理論に専念する道を選んだ。トリスターノは、リー・コニッツやワーン・マーシュなど学生や助手によって公の場に担ぎ出されることが多かった。一九五〇年代初期、トリスターノは、ほとんどのナイトクラブ経営者は“アンチ・ミュージック”主義であるとし、愛想をつかしていた。彼は公の場での演奏活動から身を引き、教えることに専念した。その当時、彼の禁欲的なスタイルに影響を受けたとみられるピアニストはほとんどいなかったが、ビル・エヴァンスはその数少ないひとりだろう。トリスターノの理論は、どちらかというとサックス奏者たちに、よりすんなりと受け入れられたようだった。

(略)

一九五〇年代にアーマッド・ジャマルが登場したことは重要なことだった。彼の登場により、スタンダードなビバップ・アレンジやグループ・インタープレイ、ハーモニー、フォームがすたれ、新しい考え方がそれに取って代わる。

 多くの解説者たちは、スウィングの慣習を断ち切った最初のピアニストはバド・パウエルではないと指摘してきた。アル・ヘイグ、クライド・ハート、アーゴーン・ソーントン、ドド・マーマローサ、そして(思い出深いサヴォイのセッションにおいて)ディジー・ガレスピーらが、リズムの間を発展させた。片手あるいは両手のユニゾンで、ベースとドラムによるリズムや、他のプレイヤーがソロを演奏している時に、和声的な素材を即興者に提供した。さらに、パウエルの若い頃からの友人、エルモ・ホープは後年に、パウエルと同時期にバップを演奏していたということを執拗に主張していた。一方、セロニアス・モンクは自分以外のピアニストはいつもパップ特有の和声法を、一九四〇年代初期にミントンズやモンローズで見せた自分の演奏から学んだのだと言っていたことはよく引用されてきた。おそらくこれは事実なのだろうが、一九四三/四四年のモンクのレコーディングがスウィングの語法にかなり依存していること、左手の演奏がストライド奏法であることは、この主張とは矛盾する。全盛期にソロやトリオで活動していた頃、彼はよくこの手法を用いていた。一九五〇年代中頃以降、モンクは、悪戯っぽいユーモアと稀な皮肉のセンスのおかげで、彼の時代錯誤を非難されることはなかった。
 パーカーやガレスピーから多くを取り入れた単音でメロディを弾くスタイルのインプロヴィゼーションは、ミディアムやスローなテンポの曲では、ピアニストたちも心地良かった。こうしたスタイルには通常の左手によるリズム伴奏は必要なかった。演奏の速さだけで彼らのスウィングのルーツが明らかとなった。ここではストライド奏法のヴァリエーションとそれ以外の継続的な動きを伴う演奏技法が、ソロにおいても伴奏においても勢いを維持するのに有力な役割を担うようになっていった。ここで言う継続的な動きを伴う演奏技法とは、速い曲における反復音型のパターンという意味だ。こうしたテクニックは、定型的な代理和音を当たり前のものとし、ほとんどのパップ曲におけるコード・チェンジの基礎となる“スタンダード”にした。

バド・パウエル

スウィングの血が流れる第一世代のピアニストの中では誰一人として、こうしたすべての要素を取り入れ、若い世代に訴えるような、新しく明確な音楽的個性を作り出しはしなかった。それはバド・パウエルが一九四〇年代中期から後期にかけて成し遂げた。パウエルはピアニストのチャーリー・パーカーであるとよく言われるが、ある程度理にかなった比喩である。彼の和音遣い、リズムの推進力や合成、長いフレーズのメロディ、さらにブルースの完璧な把握、これらすべての点がパーカーと共通している。パウエルには、白熱した情景を伝え得るずば抜けたテクニックがあった。パウエルは、ありふれたポピュラー・ソングのコード・チェンジ、同時にバップ世代のパーカー風和音の転回形、代理和音の導入といったことを、どんなテンポでも、なおかつ周りの若手の暴れ者を脅かすようなスタイルで弾き倒した。実に、絶好調で最高に流麗な状態のパウエルを凌ぐキーボードの腕を持っていたのは、戦前の無敵な巨匠アート・テイタムぐらいだろう。しかし、パウエルのルーツは、旋律楽器としてのピアノというものと、一九三〇年代にアール・ハインズにより発達を遂げた即興性にあった。長く非対称で、常にドラマティックに展開する旋律のアラベスクに、合いの手のように勢いよく頻繁に用いられる左手(テディ・ウィルソンとナット・コールが取り入れ、発展させた)を組み合わせたハインズ独自の奏法は、まったく異なるレヴェルの表現方法として、脚光を浴び始めた頃のパウエルに取り入れられた。
 パウエルはマーマローサや同時代のごく少数のピアニストのように、正式なピアノの訓練を受けていた。そのおかげで彼は、和音とリズム両方の創作力を新鮮な形で使いこなすことができた。アル・ヘイグの演奏で初めて耳にした、低音域において間を開けながら左手を弾いていく手法を利用しながら、パウエルはソロや伴奏の中で、よりドラマティックな効果を演出し、その手法の重要性を強調した。彼はこの手法を右手が華やかに奏でていくのとほぼ同時進行で使った。他のピアニストたちは、どちらかというとコードの基本形を、単に目印として使い、どんな組み合わせのコード・チェンジに処理されたとしても、通常は小節の一拍目にこの目印を置いた。
 彼のスタイルが完成度を増し、一九四〇年代後期の全盛期に到達するにつれ、パウエルは他の要素も左手の手法に取り入れていった。たとえば、オスティナート・パターン、ラテン・アメリカやカリブの音楽を起源とするリズムの技巧、まれに取り入れられる強力なブルースの風味などがある。また全体の演奏の中に別の要素を織り込めると感じた時にだけ、左手の和音伴奏も使った。

(略)

 おそらくパウエルの偉大なインプロヴィゼーションの功績は、ピアノの演奏スタイルを進化させたことだろう。それは、新バップ世代の小編成におけるソロ演奏、そして新たな進化を遂げたケニー・クラークマックス・ローチらによって完成されたドラムスの役割には打ってつけだった。この奏法は他のピアニストたちを魅了し、パウエルと技術面や感情面で競い合いたいと思う者は稀どころか、ほとんどがこのアイドルを模倣することになった。パウエルは一九五〇年代に入っても若手プレイヤーの間では圧倒的な影響力を持つ存在であり続けた。(略)

ホレス・シルヴァーは、左手にパウエルのような推進力のあるトライアドの第一および第二転回形をそっと使い、さらに臆することなく、彼自身の音楽性に近いブルースにどっぷりとつかったような、リズミカルで溌刺としたキャラクターを付け加えた。彼の右手の旋律主義はパウエルが得意とした、長い指特有の、予測できない弾き方を真似ていたが、シルヴァーは非常に才能のあるメロディストであり、徐々に即興スタイルを発展させ、短いフレーズやモティーフの繰り返しとリズム的な戯れに、より比重を置くようになった。そうした結果が一九五〇年代ハード・パップ奏法の基礎になった。皮肉なことにパウエルは、後年この短いフレーズ奏法に頼るようになる。創意を失ったパウエルには、もはや若い頃の長いフレーズ・パターンを維持することはできなかった。
 パウエルはチャーリー・パーカーよりもずっと幅広く様々な手法を身につけた、独創的で印象的な作曲家だった。だからこそ彼自身のレコードだけでなく、彼の作品を演奏した他者のレコードを通じて、次世代のジャズに影響を及ぼし続けたのだ。変わった和音の水の中にいる作曲の実験家パウエルは、友人のセロニアス・モンクそしてクラシックの学習のみならず、パーカーのパップ作品の込み入ったメロディやディジー・ガレスピー等によってジャズに持ち込まれたエキゾチックなアフロ・キューバンのリズムにも影響を受けた。

デイヴ・ブルーベック

[ジョン・ルイスの説明に続き]

 デイヴ・ブルーベックもヨーロッパ音楽の広い知識と関心を持ったピアニストだった。彼も当時ほとんど他のピアニストと交流がなかったが、妙なことに、同世代に対しての痛烈な批判で知られる若手アヴァンギャルドセシル・テイラーが、ブルーベックの手法に学んだことを後に渋々認めた。ほぼ間違いなく、ビル・エヴァンスも孤立したピアニストであった。彼はブルーベックの新鮮で総合的なハーモニーの使い方、さらにいつも見落とされがちなメロディの才能に惹かれた。
 ブルーベックは、一九五〇年代にハードバップヘと変化していくニューヨークのパップ語法とは疎遠だった。彼のジャズのルーツは、より典型的なもので、自身も言っているように、ナット・コール、ジョージ・シアリングからテイタム、ファッツ・ウォーラー、さらにジミー・ヤンシー、アルバート・アモンズ、ジェームズ・P・ジョンソンといったブルースやブギのプレイヤーたちにまで及ぶ。これは当然ながら、ブルーベックにジャズ以外で唯一最も大きな影響力を及ぼしたダリウス・ミョーのジャズ・ルーツと一致したようだった。ミョーの初期の最も有名な作品は、一九三〇年代と一九四〇年代のスタイルよりもむしろ第一次世界大戦直後ヨーロッパに到来したラグタイムとクラシック・ジャズの形式により傾倒している。
 ブルーベックは、表現形式や拍子、より高度なハーモニーの応用に関心を持っていたが、一九五〇年代に同類のキーボード奏者はほとんどいなかった。しかし一九五六年のオリジナル作品のソロ録音『ブルーベック・プレイズ・ブルーベック』で見せている手法は、ビル・エヴァンスの作曲と即興の考え方と実践の主要部分に近いものであることがわかる。たとえば「ザ・デューク」の最初のテーマで十二鍵すべてを動き回るブルーベックの離れ業は、同時期のジャズ・ミュージシャンたちにはほとんど受け容れられなかった。しかし、このような複雑だが自然な転調とその背後にある音楽的論法は、その後二五年間エヴァンスの芸術の魅力の源となる。

アーマッド・ジャマル

 フィラデルフィア生まれのピアニスト、アーマッド・ジャマルは一九五〇年代後期に重要な米国ミュージシャンとして頭角を現し始めていた。最初に彼は、シアリングによって完成された“クッション・コード”という考え方と、アート・テイタムやナット・コールらが採用したドラムレス・トリオ編成を組み合わせた。

(略)

ジャマルの理路整然として均一に計ったような技法は誰よりもテイタムに近いものだったが、この申し分のない技法を滅多にフルには使わず、ほんの少し見せるだけだった。それよりもずっと、彼はグループのインタープレイでピアノをリード・ヴォイスとして使うことに強い関心があり、自分たちが奏でるきめ細かく明暗のはっきりとした音によってオーディエンスの想像力を演出したかった。寄せ集めよりも雑踏、メロディとハーモニーの明瞭さを好み、空間を使った。こうした手法はエヴァンスが自身のトリオのためにアイディアを練る際に貴重な指針となった。
 ジャマルバド・パウエルの派手な表現に追随しなかったことも重要な点である。エヴァンスのように、ジャマルもよく感情表現が希薄であると批判される。エヴァンス同様、ジャマルも自分の音楽に深い情感を持ち込んでいたが、控えめでさりげなく表していた。ジャマルは、パウエルを支配していた勝手気ままな芸術と感情の悪魔たちと付き合うことはまずなかった。彼が一番大切にしていたのは平和と喜びだった。ジャマルの手による、有名曲の精巧でいつも刺激的なトリオ・アレンジメントは、ベースのイスラエル・クロスビーとドラムのヴァーネル・フォーニエを起用し、空間のドラマティックな使用、予期せぬ間、オスティナート、本質的に減速された和音の動きといった素晴らしい資産を生み出した。これらすべての手法は直ちに他の多くのリーダーたちの模範となった。ジャマルの質素だが力強くリズミックなプレイを模倣できることから、マイルス・デイヴィスは一九五四年(編注=正しくは一九五五年)にレッド・ガーランドを雇った。
 初期バップの作曲と和声法の多くの源泉であったセロニアス・モンクが、一九五〇年代後半に世に広く知られる前の一九五〇年代初期にも大きな影響力を持っていたのかどうかは議論の的だろう。

(略)

[マイルスが]「ラウンド・ミッドナイト」を録音しモンクは注目を集めた。モンクはテクニック面では他のピアニストたちにほとんど影響を与えなかったが、妙なことにパウエルは末期のレコーディングでよくモンクヘの敬意を表した。リヴァーサイド・レーベルから一九五〇年代後期にレコードが出て広く宣伝され、国際的に脚光を浴びるようになるまで、モンクの楽曲についてライブもレコードも、他のミュージシャンたちによってほとんど調査研究されていない。(略)
若手ピアニストの多くは、パウエル流バップ・スタイルの複雑さと、色褪せやすいR&Bジャンルの洗練された側面から取り入れた単純なリズムとハーモニーのアプローチを組み合わせた。一九五〇年代半ば、ホレス・シルヴァーハンプトン・ホーズは傑出したピアニストであり影響力を持った存在となった。その背景にはエルヴィス[ら](略)白人R&Bの大成功と、レイ・チャールズの演奏に見られるような教会と日常表現の融合への強い支持があった。シルヴァーとホーズは、パウエルとパーカーの成し遂げた革新の根本的部分をうまく拡張し、増幅していった。それまでモダン・ジャズに許容されてきた以上に、粗削りのブルースやゴスペルっぽいリズムとハーモニーを持ち込んだ。シルヴァーは純粋な作曲の才能を自身のグループにも持ち込み、泥臭いメロディシズムは一九五〇年代中期から一九六〇年代中期の十年間に広く称賛され模倣された。

 ドラマーのアート・ブレイキーと組んでいた時代に、シルヴァーはよりアフリカ色の濃い音楽表現方法を開拓し始めた。(略)

ブレイキーはジャズとアフリカ(編注=正しくはプエルト・リコ)のドラマーの組み合わせを試みている。しかしこのような奏法は、アートとしては評価され成功するものの、エキゾティックなものとされてしまいがちで、当然ながら一九八〇年代と一九九〇年代に流行したこの手の音楽の奏法研究の俎上には上らなかった。確かに、サックスのユセフ・ラティーフも世界中の数多くのリード楽器と木管楽器を採用し、一九五六年から一九六一年にかけては他の文化から音色、リズム、メロディを穏やかにだが知的かつ折衷的にジャズに取り込んだが、評論家筋からは“変だ”と非難され、当時の解釈ではジャズとして取り上げられなかった。このようなバップ、クール、そして一九五〇年代半ばにプログレッシヴ・ジャズとして知られるようになるものへと、ジャズの領域は拡張していったにもかかわらず、本質的にこれらすべてのプレイヤーたちがやっていたことは、既存のストラクチャーのコードを変えたり入れ替えたりしながら即興する(作曲する)ことだった。ラティーフでさえ即興時の和音は特に冒険的というわけではなかった。これらのプレイヤーたちの人気と仲間からの称賛の基準は通常、技術的な腕前とハーモニーやリズムの特性の創造的な処理の仕方にあった。ほとんどの場合がパウエル、コール、テイタム、それほどではないがトリスターノから借用(そして改作)した音楽言語を使っていた。経過和音、代理和音、転回形それぞれについて明確にする必要があるなら、彼らの奏法は常に精巧かつ複雑な右手の動きが支配的で、ほとんどが使い古されたメロディの小道を経由して、いつもの場所に落ち着く。一方、左手は時折リズムとハーモニーに対する目印となる程度。(略)トリスターノを別にすると、ジャマル、ブルーベック、ルイスだけが、一時代前にパウエル、パーカー、ガレスピーらによって確立され支配的だったバップのガイドラインから逸脱していた。(略)
[ジャズの伝統、クラシック、音楽理論の習得に]加え、エヴァンスはトリスターノ特有の音楽的実践の背後にある理論に強く惹かれた。

(略)

おそらく最も決定的だったのは、一九五〇年代中頃に理論家ジョージ・ラッセルとともに始めた研究と作品だろう。多くのバップ・プレイヤーたちを虜にしていた妄想的かつ一般的な、あるいはそれを拡張したコード・チェンジの処理に代わるものとして、スケールとモードの研究をすべきであると、若きピアニストのエヴァンスに対してラッセルは指摘した。 

ニュー・ジャズ・コンセプションズ+1

ニュー・ジャズ・コンセプションズ+1

 

オリジナリティと影響について

[初リーダー作の]解説の中でキープニュースは、かつても今も問題となっているオリジナリティと影響について、エヴァンスと議論したことを引用している。「あまりにも多くの若いミュージシャンたちが、自分たちが従うべき“人”を見つけ、その人そっくりに、音楽的にだけでなく、“同じ生活をする”ことを目指そうとしているだけのように(エヴァンスは)感じている。しかし自分自身が本当に成長していなければ、そういう人たちは深刻な障害が出るだろう。“自分自身を表現するための音楽ヴォキャブラリー”をわずかしか、あるいはまったく持たず、“他の誰かのヴォキャブラリー”に頼らざるを得なくなり、彼らは創造者というよりは模倣者のようになる。『この問題について説教しようとしているわけではない』とビルは言う。『これは私自身もまだある程度奮闘している問題だ』。でも音楽で自分のことを語る手段が整っていると確信することがある』」

マイルス

 なぜエヴァンスがマイルスの元を短期間で後にしたのか?(略)

[本人は毎晩巡業する]過密なスケジュールにあったと言っている。 その生活が「あらゆる面で私をすり減らした」と。(略)

[だがマイルスは]出演ペースについては気遣っていて、よく仕事と仕事の間には休みを入れていたし、一晩の仕事を連続させるよりは、同じクラブでの一週間か二週間の仕事を選ぶようにしていた。アダレイの見方は異なる。「マイルスはビルのやることが気に入っていたけど、抑えなくていいところでも十分にスウィングしていないと感じていたようだ。(略)[後任のウィントン・ケリーは]抑えることもスウィングすることも実によくできるよ」。他のバンド・メンバーたちが言うには、一緒に活動していた八ヶ月間いつもエヴァンスはジャズの巨匠たちの中で自分自身の存在価値に不安で自信がなかったようだ。

(略)

エヴァンスが辞める決意をしたことにマイルスが同情的であったことは(略)[仕事を探してやったり『カインド・オブ・ブルー』に参加させていることから明らか]

(略)

エヴァンスがバンドを辞めたのは、グループ外の黒人たちが露わにした彼への敵意のせいであったとマイルスは記している。「(略)くだらないことに黒人の中には彼のことを我々のバンドの中のホワイト・ボーイだと露骨に言う者もいた。(略)黒人ピアニストを雇うべきだと思っている黒人たちがたくさんいたんだ。(略)」。エヴァンスは晩年になってこの当時を振り返り、バンド内には人種差別的な軋轢はなかったと言っている。「それはファンとの間の問題だった。バンドの連中は私をしっかりと擁護してくれていた」

お蔵入り

一九六二年春のデュエット・アルバムのレコーディングで花開いたエヴァンスとジム・ホールの関係も、その後は二人が参加した八月二一日と二二日のリヴァーサイドのクインテットの録音でちらっと聴かれるだけに終わった。(略)

エヴァンスは参加したミュージシャン全員を長年高く評価していた。ホールとカーターに加え、テナー奏者のズート・シムズ、ドラマーのフィリー・ジョー・ジョーンズがいた。エヴァンスはスタジオの条件下で彼らを信頼し、簡単に片付けられるようなものではないトリッキーな曲の数々をー、二時間で録音できると踏んでいた。しかしながら、スタジオ時間の制限、少ない予算、レコーディング前のリハーサルなしといった一九六〇年代のレコーディング・セッションの典型的な欠点のせいもあって、エヴァンスとリヴァーサイドのプロデューサー、オリン・キープニュースが目指していたことはほとんど実現しなかった。
 後にキープニュースはこれを不快なセッションであったと振り返っている。彼は「実に険悪な空気がスタジオに蔓延していてどうにもならない」と感じていたことを認めた。

(略)

「タイム・リメンバード」は、そのハーモニーが予想外に動き、いつになく長いヴァース構造で、ソロイストは迷路内で自分が移動するポジションに必死に取り組まなくてはならない。スタジオ内のしらけた空気はズート・シムズを困惑させたようで、所々できらめくような美しい表現を見せてはいるものの、実にためらいがちに演奏している。

(略)

 二日目はさらに問題が悪化している。「マイ・ベルズ」、「ゼア・ケイム・ユー」、「ファン・ライド」の三曲が録音されたが、「マイ・ベルズ」は何度となく挫折するか不完全で、関係者全員がすべてを編集して出せる演奏になると納得するまでには少なくとも二五テイクは録らなければならなかった。

(略)

[満足の行く編集ができたのは「ルーズ・ブルース」1曲]

その後エヴァンスはヴァーヴに移籍してしまい、このプロジェクトはお蔵入りになった。[リヴァーサイドは一時消滅](略)

この音楽が部分的に『ジ・インタープレイ・セッションズ』というLPとして発売されるのは一九八二年、エヴァンスの死後二年目だった。エヴァンスがこのセッションに持ち込んだ曲の独創性、その後たった三曲しか別のレコーディング・スタジオで録音しようとしなかったことを考えると、このセッションで起きたことは彼にとって相当なストレスだったに違いない。

(略)

[キープニュース談]

彼が去るための条件として最終的に二つのプロジェクトを即座にレコーディングしなくてはならなかった。

(略)

一九六三年一月に行われたソロ・セッションで、エヴァンスはただひとり自分のアパートで自己満足のためにピアノを弾いているかのようだ。

(略)

 少なくとも十四の演奏が録音された。(略)

「オール・ザ・シングス・ユー・アー」の抽象性、あるいは「マイ・フェイヴァリット・シングス」の憂鬱なトーンなど美しく珍しい点が見られるが、これはかなり私的な音楽で意思を伝えようとしたり、観客と接しようとするようなものではなかった。「スパルタカス 愛のテーマ」の最初の方の演奏でも、繊細なオープニング・シークェンスが示される。エヴァンスの閃きで、サティの「ジムノペディ第三番」がとりとめもなくインプロヴァイズされてから主題に入っていく。

(略)

 ここでエヴァンスは整った形あるいは形式を求めてはいない。その結果、レコーディングされたものは、エヴァンスの創造行程を深く迫りたい仲間のピアニストや学生たちには魅力的なものとなっている。「ハウ・ハイ・ザ・ムーン/オーニソロジー」で、彼は巧妙かつ意図的にトリスターノとパウエルの即興法を再現している。賢く、うまくユーモアのある模倣には、エヴァンス自身のピアノのルーツとこの二人に対する愛情が表れている。

(略)

彼はいつもとは異なる演奏法を大っぴらに披露している。またいつもよりも技術面および創作面で多くの挑戦を試み、特に右手の華麗な動き、ひどく破壊的なリズムの変更、耳障りなパターンに、それが明らかである。いつになくひどいミスと技術的な不備を気にかけていないことから、この時のエヴァンスの奔放な様子がうかがえる。このリサイタルは一九八四年にリリースされ、エヴァンス完全主義者たちには無防備な時の彼の創造性を洞察するものとして大歓迎されたが、一般のリスナーにとっては得るものはほとんどない。

次回に続く。

スティーリー・ダン Aja作曲術と作詞法

 
スティーリー・ダン Aja作曲術と作詞法

スティーリー・ダン Aja作曲術と作詞法

 

ディランの影響

 しばしば指摘されているように、フェイゲンの唱法にはディラン的な抑揚が見られる――〈寂しき四番街〉と〈バリータウン〉、とりわけ “You see me on the street"と''If they see you on the street"のくだりを比較してほしい(略)

 「ボブ・ディランがいなかったら、みんな、なんにもできなかっただろう」とフェイゲンは言う。「彼が自分のやっていることに、特に意識的だったとは思わない。でも結果的にそうなったんだ。今にして思えば、すごく単純なアイデアなんだけど。つまり、どんなことだって歌になるという、ね? でも、だれもそんなことは考えたことがなかった。しかもそうやってなんでも歌にしながら、アルバムにはそれなりにヴァラエティを持たせるなんて真似ができると思うかい? 

ブルース

「ブルースはポップ・ミュージックのもっとも重要な部分だ(略)

実際にソウルと前に進む力を与えてくれるのはそれなんだ。(ぼくらの)曲の多くは、ごく普通のブルースの構造をもとにして書かれている……そこから和音的に拡張していくか、構造を変えるかしてね。だから根本にはブルースのフィーリングがあるんだけど、ずっと複雑な曲ができあがるんだ」 

(略) 

〈ペグ〉を通じて、和音のイオニアン的な快活さは、ブルースの構造が暗示する陰鬱さとつねに対立している。多くの腕利きギタリストがこの曲のソロに手こずったのも、それがいちばんの理由だった。(略)

「ぼくはあのふたつのコード、一種のIVからⅢの進行を、以前にも使ったことがあった。ぼくが考えていたのは、そのふたつのコードだけを使って、Iのコードは鳴らさずに、ブルースをつくるということだ。 

ギル・エヴァンス

「ぼくはギル・エヴァンスが好きだった(略)彼はあまり高い音を使わなかった。ホーンに関しては、ウォルターもぼくも、マイルス・デイヴィス的だとされることの多いフレーズをよく使った。“中音域の陰気さ”ってやつだ。ちょっとしたジョークのつもりでね」 

70年代のフェイバリットソング 

 「ぼくらはもちろん、スティーヴィー・ワンダーが好きだった」とフェイゲンは言う。
 「ほんとうにいい音楽をやってくれるんじゃないかと期待してたのはだれだったと思う?シールズ&クロフツという男の2人組だよ。彼らは自分たちの曲に、ジャズをすごくうまく融合させていた。ダン・ヒックス&ザ・ホット・リックス、スタッフもほんとうに好きだったな。ジョン・セバスチャンはすばらしいミュージシャンだったし。ぼくはラヴィン・スプーンフルにすごく影響されていた。特に唱法の面でね。ジョンのフレージングと、リズムの乗せ方がすごく好きだったんだ。ハービー・ハンコックの作品も好きだった。《ヘッドハンターズ》はちょっとくり返しが多すぎるけど――同じグルーヴがえんえんとつづくからね――彼はいいサウンドのつくりかたをよく知っていたと思う。ドラマーもすばらしかった。ハーヴィー・メイスンとか、ハービーとプレイしたドラマーはみんな。彼のギタリストもよかったね。ワー・ワー・ワトスンとかのLAでやってた連中だけど」(略)

[90年にBBCラジオで70年代音楽を振り返って]
ジャズとロックのある種のフュージョンと呼ばれることも多かった彼らだが、たとえばリターン・トゥ・フォーエヴァー的な意味でのフュージョン・グループでは決してなかった。
 「正直、その手の話には関心がなかった」とフェイゲンは言う。「ぼくが知っていたジャズ・ロックと呼ばれるシロモノは、大部分がかなり退屈だった。ジェレミー[スタイグ]&ザ・サチュルスという、ジャムっぽい連中を覚えているけど、このグループはほんとに退屈だったし、《ビッチェズ・ブリュー》も基本的には、マイルスが思いきり悪態をついているだけのアルバムだった。その考えは今も変わっていない。
《イン・ア・サイレント・ウェイ》は好きだったけど、《ビッチェズ・ブリュー》はとにかく、冗談としか思えなかった。『ファット・アルバート』のアニメに使ったら、打ってつけだったかもしれないな(略)

ぼくにはとにかく馬鹿馬鹿しい、音の外れた愚作としか思えなかったし、とても聴いていられなかった。なんだか[デイヴィスが]間違ったメンツを集めて、ファンクのレコードをやろうとしてるように聞こえたんだ。彼らはファンクをどうプレイしたらいいか、理解していなかった。リズムがー定じゃなかったからね。
 ぼくの好みを知りたい? ザ・ドン・エリス・ビッグ・バンドさ。ニューョークじゃ人気のバンドだった。彼はクォータートーンの出るトランペットを持っていて、バンドはいい感じのブーガルーっぽいビッグ・バンド・ナンバーを、ジャズ専門局でプレイしていた。特に盛り上がってはいなかったけれど」 

コード

ぼくはいつも曲の研究を怠らなかった。和音の本を見ながらね(略)

だから時には本で見たネタを使うこともあった。でなきゃいっしょにするといい感じ聞こえるコードを組み合わせてみたり。 

バーナード・パーディ

 「すごく押しが強いタイプだ(略)
バーナードがスタジオを横切るときは、こっちが道を開けなきゃならない。まるで牛のような男なんだ。もしも腰骨がこっちの腰骨をかすめようものなら、その場で吹っ飛ばされてしまう。彼は運動エネルギーのかたまりだった。問題は、たいてい1度目か2度目のテイクで、完璧にできてしまうことだ。だからほかのみんながまだ構成を考えていても、バーナードはコートを着て、『これで決まりだ。オレは帰る。ほかの連中はあとでかぶせりゃいいだろ』と言いだす。するとぼくらは、『バーナード、頼むよ。それじゃ感じが変わってしまう。それにまだ決まってないセクションもあるんだ』となるのさ」

マーク・ジョーダン

  ベッカーとフェイゲンは、自分たちの感性が移植可能であることに気づきはじめた。ゲイリー・カッツの肝いりで、1978年にシンガー・ソングライターのマーク・ジョーダンがワーナー・ブラザーズと契約すると、フェイゲンはジョーダンのレーベル・デビュー作《マネキン》に積極的に関与することにした。
 「ゲイリーはぼくのプロデューサーで、一部の曲に、ドナルドを呼んでくれた(略)

ローズを弾いたり、シンセでソロをやったり、その場でアレンジを考えたり。たとえば〈ジャングル・クワイア〉なんて曲は、彼が完全にコードをつけ直してくれた。濃くて暗い曲になったのは、もっぱらドナルドのヴォイシングのおかげだよ。すごく、音楽的な影響力のある男なんだ。彼のプレイには、いつも甘美な暗さがあった

(略)

ロジャー・ニコルスは、天才的なテクニシャンだった。信じられないような手つきで卓を操作する。まるで機械のようだった。10本の指を10本のフェーダーに置いて、そのままミキシングを進めていくんだ。全部の指をバラバラに動かしながらね。それになんだってパンチインできた。ゲイリーはもっとリラックスしていて、進行役って感じだったけど。
 最初はエルトン・ジョンのバンドを使っていたんだけど(略)どうにもうまく行かなくてね。それで代わりにジェフ・ポーカロや、チャック・レイニー、ヴィクター・フェルドマン、ラリー・カールトンといった面々が呼ばれることになったんだ

(略)

最終的にはロジャーがレコードをミックスした」 

マネキン(SHM-CD紙ジャケット仕様)

マネキン(SHM-CD紙ジャケット仕様)

 

 [オマケ]

たまたま読んでいた2013年のサンレコに載ってたスティーリー・ダン話。

 『カンガルー・ポーの『ミックス1年生』/中村公輔』

第13回 80′sサウンドスティーリー・ダン

エンジニアのロジャー・ニコルスは、どうしたら1曲を通して一貫したグルーブを生み出せるのか、タイトなリズム・サウンドを作れるのかと考えた挙句、何と自らサンプラーを開発しました。(略)

 ニコルスが自作サンプラー“Wendel"を開発したのは1978年。(略)MIDIの規格自体が存在しなかった時代だと言われると、いかに先進的なテクノロジーだったかが分かるでしょう。彼はCOMPAL S-100というコンピューターを基にソフトのプログラムを書き、12ビット/100kHzのサンプリング機能を実現。内蔵メモリーの容量は56KBしかなく、外付けの32MBハード・ディスクは冷蔵庫ほどの大きさがあったそうです。また当時は1MBのメモリーが400万円近くしたそうで

(略)

“ニコルスにやりたいことをオーダーすれば、彼は16進数をカタカタ打ち込んでた”とバンドのメンバーが振り返っている(略)

生録りの最高峰のように思われていたスティーリー・ダンですが、実はほとんどテクノかヒップホップかというレベルで打ち込みの頻度が高かったのです。こうしたサウンドを作る動機になったのが(略)ルディ・ヴァン・ゲルダーの音にあこがれていたからというのが意外です。“生音をクリーンに録音したい"と考えた結果が、分離を高めるためのサンプラー開発につながったのです。

(略)

次第にベストなグルーブで1曲を通したいと考えるようになったそうで、テープ時代でも数小節のループを繰り返し、そこにフィルを足すという手法を採り始めたそうです。

 Wendelが導入されたのは『ガウチョ』に収録されている「ヘイ・ナインティーン」からで、キックとスネア、ハイハットをプログラミングしています。(略)自分たちで演奏した生音を取り込んで使っています。ただし“分離の良いクリアな生演奏音源を作る"というのが当初の目的だったため、いかにもマシンで打ち込んだようなビートに聴こえるのは全力で避けようとしていたようです。生っぽい雰囲気を出そうと、ハイハット1つにしても多いときで16音色を切り替えていたといいます。また人間的な揺らぎを作るために、各打楽器が得るタイミングをジャストな時間軸からどれだけ外していくか、いろいろなドラマーの演奏の癖を相当に研究。(略)

『ナイトフライ』の「雨に歩けば」という楽曲では、ドラムのほかにベースやシンセの一部もサンプラーで鳴らしています。