カインド・オブ・ブルーの真実

今回引用したのは最初に翻訳された方から。

カインド・オブ・ブルーの真実

カインド・オブ・ブルーの真実

 

翻訳者と出版社が変わって最近発売されたのが下記の本。

マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術 (モード・ジャズの原点を探る)

マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術 (モード・ジャズの原点を探る)

 

 『ウォーキン』は、マイルスがはじめて個人的な満足感を覚え、それに見合う人気を博したアルバムになった。「あのアルバムはすごかったぜ。なにしろ評論家の連中がよそ見しているあいだに売れはじめたんだからな」
(略)
 マイルスがパリ・ジャズ・フェスティヴァルに招待された1949年には、依然としてまぎれもないファッツ・ナヴァロの影響下にあり、高音域での熱演をくり広げていた。しかしその一方で、マイルスは、自分が決してディジー・ガレスピーファッツ・ナヴァロのようなテクニシャンになれないことを悟っていた。(略)
[『どうしてオレにはそういう演奏ができないんだろう?』とマイルスに訊かれた]ディジーはこう言った。『ハイノートには耳を傾けないことだ。中音域をじっくり聴くんだ。オレが演奏するコードをコピーすればいい。低めの音域でやることだ』(略)
 マイルスがなによりもまず傾聴していたのは、メロディーだった。(略)
[キャノンボール・アダレイは]「マイルスはトランペットの名手ではなく、ソロイストの名手だ。マイルスを聴いて、突然、基本的なテクニックなど取るにたりないものに思えた。マイルスが違う意味でずばぬけていたからだ。ソロそのものが彼の構想の中心にあり、ソロじたいが作品なんだ」

観客に背を向けるマナーが尊大だと一部から非難

1950年代には、マイルスのように公然と非妥協的な断固とした姿勢をとる黒人男性は希少な存在だった。人種的緊張がみなぎる社会のなかで、マイルスの静かな、しかし決然とした個性は、同胞のアフリカン・アメリカンにとって最良の手本となった。あきらかに、彼が大多数をしめる白人の観客に背を向けることには、象徴的な意義があった。
(略)
ビル・コスビー(コメディアン)がふり返る。「ノース・フィラデルフィアでは50年代、マイルス・デイヴィスにのめりこむことが、一部のティーンエイジャーのステータスシンボルだった。つまり、マイルス・デイヴィスについて語れば“クール”で、マイルスのアルバムをもっていれば“最高にクール”だと思われた。彼はたんなるミュージシャン以上の存在だった」
(略)
ジミー・コブは、1940年代後期、仲間のミュージシャンがマイルスのスタイルを模倣していたことを記憶している。「マイルスのような身なりや立居ふるまいをし、演奏するときにはホーンのかまえかたまで真似る連中がいた。彼が死ぬまで、そんなふうに追随しようとする連中がいた、だろ?」

モード宣言

[1957年12月、マイルスは、セクステットの結成に向けて動きはじめる。]
 1972年、キャノンボールが述懐している。「バンドに戻ったコルトレーンは、なにもかも一変していた。以前やっていた酒やドラッグをいっさいやめて、まるで別人のような人格者になっていた」(略)
 コルトレーンは、心身の健康とともに音楽的力量を高めていた。(略)コルトレーンの音楽的なアプローチは、モンクとの共演を通じて劇的に発展していた。
 コルトレーンが語る。「私は、モンクから感覚的にも理論的にもテクニック的にも、あらゆる点で学んでいることを実感した。私が音楽に関する疑問をぶつけると、彼はいつもピアノに向かって明快なこたえを示してくれた。私は彼が演奏する姿をじっと見守り、問題を解決することができた」
 その夏から秋にかけて、マイルスがなおもトランペット・サウンドに磨きをかけているあいだ、コルトレーンはモンクの助力を得、せきを切るような自由奔放な“シーツ・オブ・サウンド”と呼ばれる演奏スタイルを強固なものにしていた。そして、果敢に探求するマイルスとコルトレーンの、本質的には異なるスタイルがかみ合った結果、深遠な驚くべきサウンドが生まれた。コルトレーンが次のように語っている。
 「バンドに戻ると、マイルスが音楽をさらに展開させ、新しい段階に入っていることがわかった。過去には、コードを多用する、構成に徹した時期があった。彼は“コードのためのコード”に関心をもっていた。だが今度は反対に、コード・チェンジを減らす方向に向かっているように感じた。彼は、自由に漂うようなラインと垂直的なコード進行の方向性をもったメロディーを使っていた。だから、ソロイストには垂直的に、あるいは水平的に演奏するという選択の自由が与えられた。彼のダイレクトなフリー・フローウィングなラインのおかげで、私自身、ハーモニックなアイデアが使いやすくなった」
 当時、ジャズ界に押し寄せていた新しい波“モード”は、スケール(音階)をメロディー・ラインのよりどころとする手法だった。1958年10月、マイルスがナット・ヘントフに語っている。
 「ギルは、《アイ・ラヴズ・ユー・ポーギー》のアレンジで、オレの譜面にひとつのスケールしか書きこまなかった。コードの指示はいっさいなかった。そうすると展開が自由になるんだ。このスタイルでいくと、えんえんとつづけられる。コード・チェンジを気にする必要がないし、メロディー・ラインをさらに活かせるわけだ。メロディーに関してどれほど創作力があるか、みきわめがつくというものだ。コードをベースにしていたら32小節終わったところで使いはたし、それまで使ったコードのかたちを変えてくり返すしかない」
 「いまのジャズには、一連の型どおりのコードから離れようとする動きがあるとオレは思っている。コードはますます減るだろう。だが、それによって無限の可能性が生まれるんだ。クラシックには、このスタイルで長いあいだやってきた作曲家もいるが、ジャズ・ミュージシャンにはめったにいない」
 「(略)ついこのあいだも[JJジョンソンに]ハチャトゥリアンアメリカふうのスケールを少しばかり聴かせたところだ。ありふれたヨーロッパのスケールとは違うんだ。で、そのあと、メロディーやスケールによって曲を進行させるという話になり、JJが『オレはもうコードを書くつもりはない』って言ったんだ。ジョージ・ラッセルにしてもそうだ。やつの作品はほとんどスケールだ。結局、その変化は肌で感じられるというわけだ」
 それは、モード宣言といえる。ある意味で、モード・ジャズは、音楽を再び簡潔にする手法だった。(略)
従来のコード進行がなく、ソロイストには、独自のメロディー・パターンを即座に創造することが求められた。しかし、ワン・コードで長いソロをとるという発想は、ジャズ・ミュージシャンにとって、まったく無縁のものではなかった。
 ディック・カッツ(ピアノ)が指摘する。「(略)ラテン・ミュージックでも、バンドがひとつのコードにとどまる場合は多い。デューク・エリントンの《キャラヴァン》だって、例のFマイナーにいくまでは、ワン・コードの演奏が12小節つづくんだよ」
 マイルス自身、過去にモーダルなアプローチを試みていた。(略)
 アヴァキャンが回想する。「『ホワット・イズ・ジャズ』というアルバムをレナード・バーンスタインとつくったとき、バーンスタインが《スウィート・スー》のクール・スタイルのヴァージョンがほしいと言ったんだ。(略)[そこで]『実際にマイルスにやってもらおうじゃないか』と提案した。マイルスは、クールとモードの2ヴァージョンを演奏した。あきらかにそのときの演奏が、非常にフリーな、トータル・インプロヴィゼーションにいたる“イントロ”になった。彼は突然、メロディーのコード構成を簡素化しはじめたんだ。おそらくそれが、『カインド・オブ・ブルー』のあのサウンドを生むきっかけになったんだろう」
(略)
[1986年のインタビューでマイルスは]
「みんなクラシックのような方向でやっていた。白鍵の音だけ使うんだ。それがポイントだった。まあ、世界中の建築家がいっせいにフランク・ロイド・ライトと同じような設計をやりはじめたようなものだ」

ビル・エヴァンス

[同じ頃ビル・エヴァンスもモードを試みていたとビル・クロウ]
 「当時、ビルはレニー・トリスターノのような感じだった。だがタイムに関しては、レニーよりアグレッシヴでリズミックだった。なにしろレニーはレイドバックが好きだったからね。ビルはときどきスタイルを変えて、私のベース・ノートを引きたてた。最初は“なんだ?”と思ったが、彼はモードでたわむれていたんだ。演奏していたのは、おそらくブルースだった。私はそのときはじめて、同じコードが曲を通して宙をさまようような、あの“ノー・コード・チェンジ”を耳にしたんだ」
[エヴァンスは]マイルスのような実体験というより、むしろ自分自身の研究をかさねてモード・ジャズに到達していた。(略)マイルスは、ジュリアード音楽院を1年で退学し、ナイトクラブで修業をかさねたが、エヴァンスは正規の教育を受け、クラシックや音楽理論全般の学識をおさめた。そして、マイルスが、50年代中期にビバップからクールやハードパップにいたるモダン・ジャズ探求の波がしらに乗っていたあいだ、エヴァンスは、ダンス・バンドやオーケストラに加わり、ナット・キング・コールのスウィングふうピアノに倣って演奏していた。(略)
[対照的な二人だが]ともにラフマニノフやフランス印象主義派といった現代のクラシックの作曲家を熱烈に支持した。彼らの耳には、ジャズとクラシックは同じ本流に流れ入る支流だった。
 当時マイルスと同棲していたダンサー、フランシス・テイラーは、「私たちがいつも家で聴いていた音楽は、ハチャトゥリアンラヴェルブラームスなんかだったわ」と言う。(略)[エヴァンスのガールフレンドも]「彼は、いつもクラシック、たとえばラフマニノフベートーヴェン、バッハを演奏していたものよ。そして、それがいつのまにかじょじょにジャズに変わっていたわ」(略)
彼らは、リリシズムと曲の構成を示唆するメロディー・ラインを追求した。ジャズ・シーンでは耳慣れない、エヴァンスの豊かなクラシックふうの表現は、ルートノートの演奏を避けることによってハーモニーの可能性を広げた。またマイルスは、ひとつのノートを演奏し、それを同時にいくつかのコードに関連させることにより、別の方向から同様の成果を収めた。キャノンボールがジャズ評論家アイラ・ギトラーに語っている。「コルトレーンと私は、マイルスのやりかたを“暗黙の指示”と呼んでいるんだ」

下記セッション収録アルバム

1958マイルス+2

1958マイルス+2

 

『1958マイルス』

[1958年再結成されたセクステットが始動、だが]そこには、ヘロインが暗い影を落としていた。とくにレッド・ガーランドフィリー・ジョー・ジョーンズの行状、遅刻や金銭上の問題は、解消されていなかった。(略)
 《シッズ・アヘッド》のレコーディングで、マイルスがガーランドの演奏に注文をつける。そのとき、マイルスが投げかけた言葉は永遠の謎だが、ガーランドの平常心を失わせるに足るものだった。憤慨したガーランドはスタジオから立ち去り、やむをえずマイルスが《シッズ・アヘッド》ではピアノを演奏した。その出来事は、すでにマイルスとガーランドのあいだにできていた溝をさらに深めることになる。
(略)
[キャノンボールはマイルスからエヴァンスの感想を訊かれ「彼はすばらしいと思う」と答えた]
ジミー・コブがのちに語っているように、マイルスは、新しいメンバーを補充するとき、必ずメンバー全員の意見に耳を傾けた。そしてまた、現場に出かけて自分の耳でたしかめることも怠らなかった。エヴァンスが、ソロで出演していた『ヴィレッジ・ヴァンガード』のステージをふり返る。「ある晩、演奏中に目をあけてふと見上げると、ピアノの端に耳を傾けるマイルスの頭があった」
(略)
[マイルス談]「ビルのピアノには“静かな情熱”があった。オレはそれが気に入った。やつのアプローチ、やつのサウンドは、水晶のように澄んでいた。滝から流れ落ち、きらきら光る清水のようなノートだった。レッドの演奏はリズムが前面に出たが、ビルはそいつをひかえめにしていた」
 マイルスはピアニストに決着をつけると、フィリー・ジョー・ジョーンズに注意を向けた。(略)
[ツアマネも兼ねてたキャノンボール談。ギャラを前借りしたしないで揉め]
彼は『まあ、ボストンではオレ抜きで演奏するんだな』と返した。私たちがボストンヘ行くと、マイルスは『ジョーはこないだろうな』と言った。そこで私は『ジミー・コブを呼ぼう』と提案した」
(略)
 5月26日、マイルスの32歳の誕生日に、セクステットは、エヴァンスとコブをバンドに迎えてはじめて30丁目スタジオに入り、セッションを行う。彼らがレコーディングしたのは、《フラン・ダンス》 《オン・グリーン・ドルフィン・ストリート》 《ステラ・バイ・スターライト》、そして《ラヴ・フォー・セイル》の4曲だった。
(略)
ポール・チェンバースジミー・コブは演奏を抑えていなければならず、苛立っていた。だから、どこかで思いきりスウィングしたいと思ったんだ。マイルスはふり向き、《ラヴ・フォー・セイル》だ』とだけ言うと演奏をはじめた」。レコードからも、ようやくスウィングするチャンスを手に入れたバンドの解放感が伝わってくる。
エヴァンスは、当初からジレンマに陥った。彼は、ピアノの音色を抑制する能力、卓越した精度が買われて起用されたと捉えていた。事実、マイルスは満足を覚えた。そして、新しいバンドのサウンドと創造性に魅了された。だが他のメンバーは、この新しいピアニストに、少なくともリズム・セクションの一端を担うことを求めた。
(略)
ビルは、ほかの部分ではすばらしかったが、ハードな演奏は無理だった」(略)
キャノンボールは、彼のソロの背後でガーランドがみせたドラマティックな演出をなつかしんでいた。
エヴァンスは、たしかにバンド内の彼のスタイルに関する、ある種の不満を理解していた。だが、彼にとって最大の試練は、グループのなかでただ一人“白人”として置かれた立場にあった(略)
キャノンボールがふり返る。「マイルスが、音楽以外のことでビルに干渉し、苦痛を与えた。彼はビルをもてあそんで、“ホワイティ”(白んぼ)と呼んだものだ」
 マイルス自身、エヴァンスに過酷な試練を与えたことを認めている。「オレはこう言ったんだ。『黒人に受け入れられるようにしろ。オレの言う意味がわかるか? おまえがバンドをぶちこわすことになるんだからな』ってな」
 結局のところ、エヴァンスは、白人に対する黒人の強い偏見にさらされ、それを黙殺することができなかった。
[11月、ツアーでの黒人客からのプレッシャーなどもあり、エヴァンスは脱退を申し出る。再度ガーランドを雇うも、遅刻癖は変わらず、ウィントン・ケリーが採用される]
(略)
[デイヴ・リーブマン談]「マイルスは私に、『オレにとって音楽的な道を開いたのはビルだった』と言ったことがある。ビルは、彼にとって特別な存在だった。

次回に続く。