ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー・その2

 前回の続き。

ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー

ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー

 

ジョージ・シアリングの絶賛の反動

 エヴァンスが速やかに状況を好転させることができることは、後の一九六四年五月にシェリーズ・マン・ホールにチャック・イスラエルズとポール・モチアンとともに出演した時に明らかとなる。当時居合わせた自尊心あるすべてのジャズ・ピアニストたちにとって、エヴァンスはいつも魅力的な存在だった。エヴァンス・ファンを標榜するジョージ・シアリングは、このクラブでのエヴァンスの演奏を楽しみながら絶大な熱意を持ってジャーナリストのジャック・ハットンに語った。「アイ・シュッド・ケア」を演奏中のことだったとハットンは説明する。「ジョージが私の耳元で囁いた。『アート・テイタムが生きていたら、ここにやって来てビルを見ただろうね。彼のレガート奏法は驚異的だよ。ノートと和音をどこまでも維持している。あのチェンジ。ビルはまさに私のお気に入りのピアニストだと思う。ピーターソンとハンク・ジョーンズは別のスタイルで偉大だけど、ビルは実に斬新で完璧だ。(略)彼は自分のやりたいことが何でもできるし、自分のアプローチに必要な技をすべて備えているよ』」。当時のジャズ界においては珍しく、シアリングにはエヴァンスを評価する資格が十分にあった。彼にはエヴァンスに匹敵するほどのクラシック音楽の知識があったからだ。しかしこの重要な同業者の評価は多方面からのエヴ
ァンスに対する拒絶の第一波への前兆となった。主に当時ジャズと即興演奏を新しい表現と理論の領域に持ち込もうと努力していた、ジャズ・アヴァンギャルド派からの風当たりは強かった。 

 フリージャズへの見解

[エヴァンスは]ジャズに持ち込まれたいわゆる“新しい自由”[について](略)より広い視野に立ったコメントもしている。「私には制限、つまり特定の技術や形式に挑戦するといったようなことがなければ何もできない。そしてそのうち、仕事の中に自由を見出していく。多くの人々はそうした労力を免れたいと思い、十分に拘束を使って十分に探究すればひとつの領域に報酬が存在するということに気付かない」
 これは個人的な仕事のやり方として完璧に正当なものと認められるものだが、一九六〇年代中期の極端に張りつめた雰囲気の中では、かつては革新的だったミュージシャンが巧妙に、新しい波に乗らず古いジャズで身を守っていると解釈されるだけだった。

(略)

「自分たちが取り組むためのしっかりとした基礎を用意する。……技術があれば何でもできる。それから我々は実に自由になる。しかしまったく枠組みがなかったら、かえって制限されてしまうだろうね。お互い無意味なことにかなり自分たちを適応させることになるから、呼吸をし、音楽を作り、感じる余裕がまったくなくなってしまう。そこが問題だ」

(略)
エヴァンスには新しい世代のアイディアを受け入れる必要などまったくなかった。(略)しかし、こうした進化していくアイディアヘの彼の反応は、必然的に彼を狭いスタイルの領域へと導き、その後のキャリアの中で長期に渡り、彼はジャズの発展のメインストリームから徐々に遠ざかっていくことになる。それはどうにもできないことと彼は感じていた。彼は自分自身の音楽的本能に忠実でなくてはならなかったのだ。
 「多くの人々が“無調”と言う時に意味していることを、私はより奇妙な感じの不協和音か変わった音程みたいなものだろうと思う」。彼はダウン・ビート誌のインタヴューの中で続ける。「私はそれを感じない。自分らしくないと思う。バルトークやベルクのような大音楽家が、人々が無調だと考えていることをやれば、大抵は無調ではないけれど、私にはわかるし喜んで聴く。しかし誰かがこの音楽に似たようなことをやっているだけだ。それはいかにわずかの技術しか理解していないかを明らかにしている。実は莫大な数の技術がある。ただ出て行って、私が呼んでいるところの“ザ・インチ・システム”で演奏することはできない。私はキーボード上を八インチ上に行き、そこから六インチ下がった音を演奏できるし、次に一フィート半上がって連続音を弾き、九インチ半下がって他のことをすることもできる。それが無調だ、このやり方が無調だと考える人もいる。なぜ無調が必要とされるのかわからない。そこに私がより満足できるものを見出せたら、もちろんそこに行くよ。だからみんなそこにいるんだろうね。彼らはそこに何かを見出しているんだろう」(略)

アヴァンギャルドとかにならなくてはとはまったく感じない。自分にとってはまったく魅力がないし、それよりもこれまでやってきたことより何かましなことをやりたいといつも思っている。……もしそれがそこにあり、そこが私に見つけられる最高の場所なら、それはそこにあり続けるはず」
 エヴァンスはダウン・ビート誌同号の目隠しテストでコルトレーン、マイルス、テイラーの曲を聴かされている。彼は最初にセシル・テイラーの「トランス」に賛同し、「これはすごく気になった。興味深い……とても気に入ったよ。やろうとしていることがうまくできているから五つ星だ。ただし、あの素晴らしい出だしなら、もっとテクスチャーのチェンジとダイナミックな探究ができたのにと思う。でもこの曲には何か特別に心を動かされたよ」。(略)「意図していたことがほぼ完璧に実現されているが、ただ表現の領域を十分に探っていない……すべてのダイナミック・エフェクトはチェンジによって達成される。あることを提示し、次にそこに対照的なものを持ってくる。その非常に重要なことがこの曲には欠けている」
 テイラーの比較的初期のライヴ録音への意見を表明することにより、エヴァンスは音楽に対する自分自身の評価基準をはっきりと示している。 

トリオ’65

トリオ’65

 

『トリオ65』

 一九六五年七月に『トリオ65』が発売された時、批評家ジョン・S・ウィルソンがダウン・ビート誌でレヴューしたことがきっかけとなり波乱が生じた。それはヴァーヴによるエヴァンスの宣伝戦略に対する当てこすりと、このアルバムでのエヴァンスヘの低い評価が合わさっていた。「エヴァンスを聴けば聴くほど、彼の神秘性の宣伝は、近年の中で大掛かりな違法宣伝のひとつであると確信する。エヴァンスの演奏は……きれいで洗練されているが、関心を求めもしなければ集めもしない。少なくとも私にとっては……これが素晴らしいジャズ?どちらかというと優れたBGMのようだ」
 同年の二月に遡るが、エヴァンスのジャズ形式と音楽的自由についての意見に応えて、セシル・テイラーエヴァンスを非難した。「もちろんエヴァンスには自分の道を行く権利がある。しかし、彼の演奏はとりわけその理論の強力な論拠になっているとは思わない。彼の演奏をクラブで聴いたが、彼に割かれた雑誌のページ数には、もっと相応しいピアニストが少なくとも十人はいる。彼が真剣になって言っていることは受け入れられない。彼の演奏を聴いても実に退屈で、簡単に予測できまったく生気がない。彼は単に有能なミュージシャンなだけだ」

(略)

結局いわゆる“プログレッシヴ”な批評家たちおよびファンたちによってその後の二〇年以上もの間、エヴァンスの存在は徹底的に排除されてしまうことになる。テイラーの暴言そのものがその後の風潮を決定した。エヴァンスは自分がもはや音楽界の前衛ではないということ、あまりにも長い間個人的に低調であったことに気づいていた。

(略)

[『トリオ65』完成直後、渡欧]

ヨーロッパにおけるエヴァンスの観客は、アメリカの平均的なナイトクラブの観客のように冷めてはいなかった。彼らはエヴァンス世代のモダン・ジャズのスターたちを見慣れていなかったし、ましてやアメリカに出現していたアヴァンギャルドのミュージシャンたちのことなど知る由もなかった。どのヨーロッパの都市でもエヴァンス・トリオの公演はジャズの一大イヴェントとして受け取られ

 バド・パウエル

もちろんエヴァンスには、その秋に亡くなったバド・パウエルに追悼文を寄せる際に、自分が進化しなくてはならないことが分かっていた。(略)

「私が知る限り(略)彼は最も総合的な作曲の才能を備えていた。彼には本物のジャズ・プレイヤーの素質があった。(略)

[1970年のインタビューで]

「感情に訴えない感じというものがある。泣かさない、笑わさない、激しいという感じだけを与える。それがバドから受ける感じなんだ。多分ベートーヴェンなどから受けるものと同じだ。チャーリー・パーカーディジー・ガレスピー、バドについて考えた時、バドはひどく過小評価されていると思う。

 「ジャズとは?」

[67年大学のパネル・ディスカッションにて「ジャズとは?」との問いに]

「ジャズはスタイルというより精神的な姿勢だ。それは楽器を通して自発的に表現される心の特定のプロセスを用いる。私はそのプロセスを保ち続けることに腐心している

(略)

ジャズは誰にでも関わりのあること。様々な異文化に由来しているはずだ。ニグロは音楽を作ろうとしていた。それはニグロ音楽ではない。私がしたように、彼も自分の文化から引き出したのだ」。 

フリージャズ

彼らはふと現れ貢献するが、純粋なアヴァンギャルドのアーティストは多くないと思う。時代の先端を行く人々はそれほど多くはいない」。これはエヴァンスの新しい考え方ではなかった。一九七〇年に、彼はレナード・フェザーにアヴァンギャルドなんていうものはないと言っていた。「それは引用で検証できるけど、音楽的に成功しているもの、音楽的なものもあれば、単なるがらくたの山のようなもの、不平、欲求不満だらけ、病気のようなものもある。何よりも求められるのは、それが音楽的であり音楽的言語で何かを語っているということ、音楽であるふりをしているものに私が求めているのはそれだけだよ」(略)
「時代とかはどうでもいい。良いものは良い。……いわゆる“フリー”と呼ばれるものの多くは、奇妙で変わったサウンドの領域に乗り出そうと洗練に努めているが、こうした領域はすでに世紀の転換期にクラシック音楽家たちによって散々使われ、まったく新しいものではないんだ。不協和音あるいは多調性のサウンドの領域なんて、洗練されている人なら驚きもしない。重要なことはどこにあっても音楽を作るということであって、イディオムは重要ではない」 

フロム・レフト・トゥ・ライト+4

フロム・レフト・トゥ・ライト+4

  • アーティスト: ビル・エヴァンス,ミッキー・レナード,サム・ブラウン,エディ・ゴメス,ジョン・ビール,マーティ・モレル,ミッキー・レナード・オーケストラ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2011/07/20
  • メディア: CD
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 フェンダー・ローズ 

 『フロム・レフト・トゥ・ライト』はいわゆる“イージー・リスニング”の奇妙な試作のような作品だった。エヴァンスは当時流行の電子ピアノ、フェンダー・ローズを使用した。(略)

エヴァンスはレナード・フェザーに言っている。「ただひとつの危険性は、ピアニストがフェンダー・ローズだけを演奏していると、タッチがすごく軽くて、再びピアノを弾いた時に苦労することだと思う。チック・コリアがこの問題について私に言ったことがある。そのことを発明者のハロルド・ローズに伝えたら、その問題は調整できると言って、私のピアノを私のタッチに合わせて調整してくれた」

(略)

コロムビアへ移籍 

[70年]新しいレコード会社のためにエヴァンスはスタジオに入り、コロムビアの最高責任者クライヴ・デイヴィスの指揮に従った。デイヴィスは彼のジャズ・アーティストたちにファッショナブルなエレクトリック・ジャズを演奏させたがっていた。(略)当時の契約アーティストにはオーネット・コールマンウェザー・リポートジョン・マクラフリンがいた。「いまだにトラディショナルなジャズをやっているアーティストと契約する気はない。同様にロックンロールに関わっているアーティストと契約する気もない。……私は新しい観客たちと交流すること、自分たちの技術とアイディアを駆使し、新しい観客たちに理解され受け入れられる言葉で交流できるアーティストにすごく関心がある」。デイヴィスはエヴァンスを例にした。「ビル・エヴァンスを、ここ数年やっていたことから脱出させ、『自分の才能を使って交流を始め、興奮するような領域に入って行き、他の楽器編成で、音楽的アイディアを新しい人々の前に打ち出しなさい』と彼に言う。もしそうすることに関心を示さないのなら、彼のレコードを作る気はないよ」(略)
構想は「新しい実験的な曲を取り入れた、アコースティック/エレクトリック・デュオ・コラボレーションだった。……エレクトリック楽器をオーヴァーダビングするアイディアにも手を出した。

(略)

 奇妙かつ印象的なのは、エヴァンスがヴァーヴ/MGMとの最後のプロジェクトとコロムビアとの最初のプロジェクトでアコースティックとエレクトリック・ピアノをミックスし、両方とも結果はうまくいかなかったということだ。

(略)

ヴァーヴ/MGM最後のプロジェクト『フロム・レフト・トゥ・ライト』でもローズを使用していたが、広く宣伝されず事実上まったく影響を及ぼしていなかった。
 コロムビアにおける二回目のセッションでは、エヴァンスはローズの役割を彼の表現と音楽性の新たな拡張として見せびらかすというよりは、“色づけする”楽器に制限している。

(略)

後の彼のコメントには、ジョー・ザヴィヌルチック・コリアといった当時アンプを使った音楽に取り組んでいた若手のジャズ・プレイヤーたちとは対象的に、エヴァンスがエレクトリック・ピアノの真価をけっして認めていなかったことが表れている。「特定の演奏にちょっと色を添えるためにフェンダー・ローズを使うのはいいけど、ただ付加的にだけだ。どんなエレクトリック楽器も優れたアコースティック・ピアノの資質と力量とは比較の対象にもならないよ」。数年も経たないうちに、キース・ジャレットが似たようなことを言い、永久的にエレクトリック・キーボードを使わなくなった。 

リヴィング・タイム

リヴィング・タイム

 

ジョージ・ラッセル 

 ラッセルは一九六七年のバレエ音楽『オセロ』と一九六九年にヨーロッパで初演された『エレクトロニック・ソナタ・フォー・ソウルズ・ラヴド・バイ・ネイチャー』が絶賛された後、広く注目されていた。エヴァンスのために作られたビッグバンドとピアノ・トリオのための八部構成の作品『リヴィング・タイム』は、ラッセルの作品と理論の進化形に論理的にぴったり収まっている。ラッセルは初めこの委託に対して躊躇していたが、エヴァンスの音楽的要望と彼自身の要望を満たすことができると判断した。ラッセルは当時語っている。「ビルも私もモーダル・ミュージックに没頭しているけど、長い間お互いに別の方向に向かっていたようなものだった。ビルはより調性のある演奏に没頭していたが、私はそうではなかった。私は延長線上にある、モーダル理論から外れるものに取り組んできた。でもビルの演奏はとても好きだし尊重しているから、そのチャレンジを拒むことはできなかった。私が見たところ、その任務は、私自身の作品の妨げにならないように彼の作品を強化するようなモードを作ることだった」。

(略)

プロジェクトは一九五〇年代末にラッセルとエヴァンスが享受した関係のなごりがはっきりと感じられるものとなった。またラッセルのより近年の作品にも追随していた。

(略)

 制作されてから三〇年ほど経てから、このレコードを再び聴いてみると、ラッセルとエヴァンスがコロムビアのクライド・デイヴィスが求めていたものを惜しみなく提供したことは明らかである。『リヴィング・タイム』は長編作品でサウンドとリズムは徹底的に同時代の方法を採用している。  

But Beautiful

But Beautiful

 

スタン・ゲッツ

[74年ニューポート・イン・ニューヨーク・フェスティヴァル]

唯一の驚きは、スタン・ゲッツがセットの最後のブルースに飛び入りしたことだった。

 この気楽なブルースがうまくいった[ため](略)

二人は一ヶ月後のオランダとベルギーのフェスティヴァルでも、エバンス・トリオのセットの最後の部分で共演することにし、最初のコンサートの前にお互いの協調性を高めるために長々とリハーサルをした(略)

[地元放送局の録音が海賊盤として出回り、数年後]

『バット・ビューティフル』として、期待通りの良い音質でマイルストーンから発売された。

(略)

ゲッツは気まぐれな性質で(略)

ヘレン・キーンはオランダのラレンでのコンサート中の事件について後に語っている。「トリオがセットを終えると、スタンがアナウンスされ、彼がステージに登場すると、リハーサルしていなかった曲をやると言ったの。(略)スタンがリハーサルしていない『スタンズ・ブルース』を演奏し始めるとエヴァンスの表情に怒りが表れているのがわかったわ。ビルはメロディ・コーラスを少しだけ弾いて、鍵盤から手を下ろし、後はまったく弾かなかった。……ビルは穏やかな人間だけど芯はすごく強い。彼はいつも他のミュージシャンたちとうまくやってきたけど、明らかにスタンの行いは気に障ったようね」(略)
 後に出たマイルストーンのアルバムにはゲッツの無作法に続き、エヴァンスが沈黙する「スタンズ・ブルース」と、もう一曲、まずまずだが抑え気味にゲッツと演奏している「グランドファーザーズ・ワルツ」が収録されている。皮肉なことに、ゲッツはこの問題のブルースを自信と気迫に満ちて演奏している。

(略)

 ベルギーのアントワープでのゲッツとのコンサートは、五日後の一九七四年八月に行われ

(略)

「スタンが温かくビルの誕生日を祝福し、『ハッピー・バースデイ』を『アイル・ビー・ラヴィング・ユー・オールウェイズ』の数小節を交えて即興し、切れ目なく『ユー・アンド・ザ・ナイト・アンド・ザ・ミュージック』に入っていったの。七千人の観客を前にスタンが誕生祝いをしてくれたことに、ビルはすごく感動したと思うわ」。これらのメロディはゲッツにより単独で演奏され、感動的な模様は今もCDで聴くことができる。このアップビートなコンサートはエヴァンスにとって思い出深い四五歳の誕生祝いとなった。彼の健康も目覚ましい回復を見せ、体重も増え、顔も丸みを帯び、一年の間に豊かなあごひげをたくわえていた。

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