ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー

ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー

ビル・エヴァンス ミュージカル・バイオグラフィー

 

エヴァンス以前のジャズ・ピアノ

 レニー・トリスターノは一九四〇年代中頃に起きたニューヨークの五二丁目バップ革命と密接に関わったが、パーカー、ガレスピー、パウエル、モンクの考え方に反発して孤立、独自の理論に専念する道を選んだ。トリスターノは、リー・コニッツやワーン・マーシュなど学生や助手によって公の場に担ぎ出されることが多かった。一九五〇年代初期、トリスターノは、ほとんどのナイトクラブ経営者は“アンチ・ミュージック”主義であるとし、愛想をつかしていた。彼は公の場での演奏活動から身を引き、教えることに専念した。その当時、彼の禁欲的なスタイルに影響を受けたとみられるピアニストはほとんどいなかったが、ビル・エヴァンスはその数少ないひとりだろう。トリスターノの理論は、どちらかというとサックス奏者たちに、よりすんなりと受け入れられたようだった。

(略)

一九五〇年代にアーマッド・ジャマルが登場したことは重要なことだった。彼の登場により、スタンダードなビバップ・アレンジやグループ・インタープレイ、ハーモニー、フォームがすたれ、新しい考え方がそれに取って代わる。

 多くの解説者たちは、スウィングの慣習を断ち切った最初のピアニストはバド・パウエルではないと指摘してきた。アル・ヘイグ、クライド・ハート、アーゴーン・ソーントン、ドド・マーマローサ、そして(思い出深いサヴォイのセッションにおいて)ディジー・ガレスピーらが、リズムの間を発展させた。片手あるいは両手のユニゾンで、ベースとドラムによるリズムや、他のプレイヤーがソロを演奏している時に、和声的な素材を即興者に提供した。さらに、パウエルの若い頃からの友人、エルモ・ホープは後年に、パウエルと同時期にバップを演奏していたということを執拗に主張していた。一方、セロニアス・モンクは自分以外のピアニストはいつもパップ特有の和声法を、一九四〇年代初期にミントンズやモンローズで見せた自分の演奏から学んだのだと言っていたことはよく引用されてきた。おそらくこれは事実なのだろうが、一九四三/四四年のモンクのレコーディングがスウィングの語法にかなり依存していること、左手の演奏がストライド奏法であることは、この主張とは矛盾する。全盛期にソロやトリオで活動していた頃、彼はよくこの手法を用いていた。一九五〇年代中頃以降、モンクは、悪戯っぽいユーモアと稀な皮肉のセンスのおかげで、彼の時代錯誤を非難されることはなかった。
 パーカーやガレスピーから多くを取り入れた単音でメロディを弾くスタイルのインプロヴィゼーションは、ミディアムやスローなテンポの曲では、ピアニストたちも心地良かった。こうしたスタイルには通常の左手によるリズム伴奏は必要なかった。演奏の速さだけで彼らのスウィングのルーツが明らかとなった。ここではストライド奏法のヴァリエーションとそれ以外の継続的な動きを伴う演奏技法が、ソロにおいても伴奏においても勢いを維持するのに有力な役割を担うようになっていった。ここで言う継続的な動きを伴う演奏技法とは、速い曲における反復音型のパターンという意味だ。こうしたテクニックは、定型的な代理和音を当たり前のものとし、ほとんどのパップ曲におけるコード・チェンジの基礎となる“スタンダード”にした。

(略)

スウィングの血が流れる第一世代のピアニストの中では誰一人として、こうしたすべての要素を取り入れ、若い世代に訴えるような、新しく明確な音楽的個性を作り出しはしなかった。それはバド・パウエルが一九四〇年代中期から後期にかけて成し遂げた。パウエルはピアニストのチャーリー・パーカーであるとよく言われるが、ある程度理にかなった比喩である。彼の和音遣い、リズムの推進力や合成、長いフレーズのメロディ、さらにブルースの完璧な把握、これらすべての点がパーカーと共通している。パウエルには、白熱した情景を伝え得るずば抜けたテクニックがあった。パウエルは、ありふれたポピュラー・ソングのコード・チェンジ、同時にバップ世代のパーカー風和音の転回形、代理和音の導入といったことを、どんなテンポでも、なおかつ周りの若手の暴れ者を脅かすようなスタイルで弾き倒した。実に、絶好調で最高に流麗な状態のパウエルを凌ぐキーボードの腕を持っていたのは、戦前の無敵な巨匠アート・テイタムぐらいだろう。しかし、パウエルのルーツは、旋律楽器としてのピアノというものと、一九三〇年代にアール・ハインズにより発達を遂げた即興性にあった。長く非対称で、常にドラマティックに展開する旋律のアラベスクに、合いの手のように勢いよく頻繁に用いられる左手(テディ・ウィルソンとナット・コールが取り入れ、発展させた)を組み合わせたハインズ独自の奏法は、まったく異なるレヴェルの表現方法として、脚光を浴び始めた頃のパウエルに取り入れられた。
 パウエルはマーマローサや同時代のごく少数のピアニストのように、正式なピアノの訓練を受けていた。そのおかげで彼は、和音とリズム両方の創作力を新鮮な形で使いこなすことができた。アル・ヘイグの演奏で初めて耳にした、低音域において間を開けながら左手を弾いていく手法を利用しながら、パウエルはソロや伴奏の中で、よりドラマティックな効果を演出し、その手法の重要性を強調した。彼はこの手法を右手が華やかに奏でていくのとほぼ同時進行で使った。他のピアニストたちは、どちらかというとコードの基本形を、単に目印として使い、どんな組み合わせのコード・チェンジに処理されたとしても、通常は小節の一拍目にこの目印を置いた。
 彼のスタイルが完成度を増し、一九四〇年代後期の全盛期に到達するにつれ、パウエルは他の要素も左手の手法に取り入れていった。たとえば、オスティナート・パターン、ラテン・アメリカやカリブの音楽を起源とするリズムの技巧、まれに取り入れられる強力なブルースの風味などがある。また全体の演奏の中に別の要素を織り込めると感じた時にだけ、左手の和音伴奏も使った。

(略)

 おそらくパウエルの偉大なインプロヴィゼーションの功績は、ピアノの演奏スタイルを進化させたことだろう。それは、新バップ世代の小編成におけるソロ演奏、そして新たな進化を遂げたケニー・クラークマックス・ローチらによって完成されたドラムスの役割には打ってつけだった。この奏法は他のピアニストたちを魅了し、パウエルと技術面や感情面で競い合いたいと思う者は稀どころか、ほとんどがこのアイドルを模倣することになった。パウエルは一九五〇年代に入っても若手プレイヤーの間では圧倒的な影響力を持つ存在であり続けた。(略)

ホレス・シルヴァーは、左手にパウエルのような推進力のあるトライアドの第一および第二転回形をそっと使い、さらに臆することなく、彼自身の音楽性に近いブルースにどっぷりとつかったような、リズミカルで溌刺としたキャラクターを付け加えた。彼の右手の旋律主義はパウエルが得意とした、長い指特有の、予測できない弾き方を真似ていたが、シルヴァーは非常に才能のあるメロディストであり、徐々に即興スタイルを発展させ、短いフレーズやモティーフの繰り返しとリズム的な戯れに、より比重を置くようになった。そうした結果が一九五〇年代ハード・パップ奏法の基礎になった。皮肉なことにパウエルは、後年この短いフレーズ奏法に頼るようになる。創意を失ったパウエルには、もはや若い頃の長いフレーズ・パターンを維持することはできなかった。
 パウエルはチャーリー・パーカーよりもずっと幅広く様々な手法を身につけた、独創的で印象的な作曲家だった。だからこそ彼自身のレコードだけでなく、彼の作品を演奏した他者のレコードを通じて、次世代のジャズに影響を及ぼし続けたのだ。変わった和音の水の中にいる作曲の実験家パウエルは、友人のセロニアス・モンクそしてクラシックの学習のみならず、パーカーのパップ作品の込み入ったメロディやディジー・ガレスピー等によってジャズに持ち込まれたエキゾチックなアフロ・キューバンのリズムにも影響を受けた。

(略)

[ジョン・ルイスの説明に続き]

 デイヴ・ブルーベックもヨーロッパ音楽の広い知識と関心を持ったピアニストだった。彼も当時ほとんど他のピアニストと交流がなかったが、妙なことに、同世代に対しての痛烈な批判で知られる若手アヴァンギャルドセシル・テイラーが、ブルーベックの手法に学んだことを後に渋々認めた。ほぼ間違いなく、ビル・エヴァンスも孤立したピアニストであった。彼はブルーベックの新鮮で総合的なハーモニーの使い方、さらにいつも見落とされがちなメロディの才能に惹かれた。
 ブルーベックは、一九五〇年代にハードバップヘと変化していくニューヨークのパップ語法とは疎遠だった。彼のジャズのルーツは、より典型的なもので、自身も言っているように、ナット・コール、ジョージ・シアリングからテイタム、ファッツ・ウォーラー、さらにジミー・ヤンシー、アルバート・アモンズ、ジェームズ・P・ジョンソンといったブルースやブギのプレイヤーたちにまで及ぶ。これは当然ながら、ブルーベックにジャズ以外で唯一最も大きな影響力を及ぼしたダリウス・ミョーのジャズ・ルーツと一致したようだった。ミョーの初期の最も有名な作品は、一九三〇年代と一九四〇年代のスタイルよりもむしろ第一次世界大戦直後ヨーロッパに到来したラグタイムとクラシック・ジャズの形式により傾倒している。
 ブルーベックは、表現形式や拍子、より高度なハーモニーの応用に関心を持っていたが、一九五〇年代に同類のキーボード奏者はほとんどいなかった。しかし一九五六年のオリジナル作品のソロ録音『ブルーベック・プレイズ・ブルーベック』で見せている手法は、ビル・エヴァンスの作曲と即興の考え方と実践の主要部分に近いものであることがわかる。たとえば「ザ・デューク」の最初のテーマで十二鍵すべてを動き回るブルーベックの離れ業は、同時期のジャズ・ミュージシャンたちにはほとんど受け容れられなかった。しかし、このような複雑だが自然な転調とその背後にある音楽的論法は、その後二五年間エヴァンスの芸術の魅力の源となる。
 フィラデルフィア生まれのピアニスト、アーマッド・ジャマルは一九五〇年代後期に重要な米国ミュージシャンとして頭角を現し始めていた。最初に彼は、シアリングによって完成された“クッション・コード”という考え方と、アート・テイタムやナット・コールらが採用したドラムレス・トリオ編成を組み合わせた。

(略)

ジャマルの理路整然として均一に計ったような技法は誰よりもテイタムに近いものだったが、この申し分のない技法を滅多にフルには使わず、ほんの少し見せるだけだった。それよりもずっと、彼はグループのインタープレイでピアノをリード・ヴォイスとして使うことに強い関心があり、自分たちが奏でるきめ細かく明暗のはっきりとした音によってオーディエンスの想像力を演出したかった。寄せ集めよりも雑踏、メロディとハーモニーの明瞭さを好み、空間を使った。こうした手法はエヴァンスが自身のトリオのためにアイディアを練る際に貴重な指針となった。
 ジャマルバド・パウエルの派手な表現に追随しなかったことも重要な点である。エヴァンスのように、ジャマルもよく感情表現が希薄であると批判される。エヴァンス同様、ジャマルも自分の音楽に深い情感を持ち込んでいたが、控えめでさりげなく表していた。ジャマルは、パウエルを支配していた勝手気ままな芸術と感情の悪魔たちと付き合うことはまずなかった。彼が一番大切にしていたのは平和と喜びだった。ジャマルの手による、有名曲の精巧でいつも刺激的なトリオ・アレンジメントは、ベースのイスラエル・クロスビーとドラムのヴァーネル・フォーニエを起用し、空間のドラマティックな使用、予期せぬ間、オスティナート、本質的に減速された和音の動きといった素晴らしい資産を生み出した。これらすべての手法は直ちに他の多くのリーダーたちの模範となった。ジャマルの質素だが力強くリズミックなプレイを模倣できることから、マイルス・デイヴィスは一九五四年(編注=正しくは一九五五年)にレッド・ガーランドを雇った。
 初期バップの作曲と和声法の多くの源泉であったセロニアス・モンクが、一九五〇年代後半に世に広く知られる前の一九五〇年代初期にも大きな影響力を持っていたのかどうかは議論の的だろう。

(略)

[マイルスが]「ラウンド・ミッドナイト」を録音しモンクは注目を集めた。モンクはテクニック面では他のピアニストたちにほとんど影響を与えなかったが、妙なことにパウエルは末期のレコーディングでよくモンクヘの敬意を表した。リヴァーサイド・レーベルから一九五〇年代後期にレコードが出て広く宣伝され、国際的に脚光を浴びるようになるまで、モンクの楽曲についてライブもレコードも、他のミュージシャンたちによってほとんど調査研究されていない。(略)
若手ピアニストの多くは、パウエル流バップ・スタイルの複雑さと、色褪せやすいR&Bジャンルの洗練された側面から取り入れた単純なリズムとハーモニーのアプローチを組み合わせた。一九五〇年代半ば、ホレス・シルヴァーハンプトン・ホーズは傑出したピアニストであり影響力を持った存在となった。その背景にはエルヴィス[ら](略)白人R&Bの大成功と、レイ・チャールズの演奏に見られるような教会と日常表現の融合への強い支持があった。シルヴァーとホーズは、パウエルとパーカーの成し遂げた革新の根本的部分をうまく拡張し、増幅していった。それまでモダン・ジャズに許容されてきた以上に、粗削りのブルースやゴスペルっぽいリズムとハーモニーを持ち込んだ。シルヴァーは純粋な作曲の才能を自身のグループにも持ち込み、泥臭いメロディシズムは一九五〇年代中期から一九六〇年代中期の十年間に広く称賛され模倣された。

 ドラマーのアート・ブレイキーと組んでいた時代に、シルヴァーはよりアフリカ色の濃い音楽表現方法を開拓し始めた。(略)

ブレイキーはジャズとアフリカ(編注=正しくはプエルト・リコ)のドラマーの組み合わせを試みている。しかしこのような奏法は、アートとしては評価され成功するものの、エキゾティックなものとされてしまいがちで、当然ながら一九八〇年代と一九九〇年代に流行したこの手の音楽の奏法研究の俎上には上らなかった。確かに、サックスのユセフ・ラティーフも世界中の数多くのリード楽器と木管楽器を採用し、一九五六年から一九六一年にかけては他の文化から音色、リズム、メロディを穏やかにだが知的かつ折衷的にジャズに取り込んだが、評論家筋からは“変だ”と非難され、当時の解釈ではジャズとして取り上げられなかった。このようなバップ、クール、そして一九五〇年代半ばにプログレッシヴ・ジャズとして知られるようになるものへと、ジャズの領域は拡張していったにもかかわらず、本質的にこれらすべてのプレイヤーたちがやっていたことは、既存のストラクチャーのコードを変えたり入れ替えたりしながら即興する(作曲する)ことだった。ラティーフでさえ即興時の和音は特に冒険的というわけではなかった。これらのプレイヤーたちの人気と仲間からの称賛の基準は通常、技術的な腕前とハーモニーやリズムの特性の創造的な処理の仕方にあった。ほとんどの場合がパウエル、コール、テイタム、それほどではないがトリスターノから借用(そして改作)した音楽言語を使っていた。経過和音、代理和音、転回形それぞれについて明確にする必要があるなら、彼らの奏法は常に精巧かつ複雑な右手の動きが支配的で、ほとんどが使い古されたメロディの小道を経由して、いつもの場所に落ち着く。一方、左手は時折リズムとハーモニーに対する目印となる程度。(略)トリスターノを別にすると、ジャマル、ブルーベック、ルイスだけが、一時代前にパウエル、パーカー、ガレスピーらによって確立され支配的だったバップのガイドラインから逸脱していた。(略)
[ジャズの伝統、クラシック、音楽理論の習得に]加え、エヴァンスはトリスターノ特有の音楽的実践の背後にある理論に強く惹かれた。

(略)

おそらく最も決定的だったのは、一九五〇年代中頃に理論家ジョージ・ラッセルとともに始めた研究と作品だろう。多くのバップ・プレイヤーたちを虜にしていた妄想的かつ一般的な、あるいはそれを拡張したコード・チェンジの処理に代わるものとして、スケールとモードの研究をすべきであると、若きピアニストのエヴァンスに対してラッセルは指摘した。 

ニュー・ジャズ・コンセプションズ+1

ニュー・ジャズ・コンセプションズ+1

 

 オリジナリティと影響について

[初リーダー作の]解説の中でキープニュースは、かつても今も問題となっているオリジナリティと影響について、エヴァンスと議論したことを引用している。「あまりにも多くの若いミュージシャンたちが、自分たちが従うべき“人”を見つけ、その人そっくりに、音楽的にだけでなく、“同じ生活をする”ことを目指そうとしているだけのように(エヴァンスは)感じている。しかし自分自身が本当に成長していなければ、そういう人たちは深刻な障害が出るだろう。“自分自身を表現するための音楽ヴォキャブラリー”をわずかしか、あるいはまったく持たず、“他の誰かのヴォキャブラリー”に頼らざるを得なくなり、彼らは創造者というよりは模倣者のようになる。『この問題について説教しようとしているわけではない』とビルは言う。『これは私自身もまだある程度奮闘している問題だ』。でも音楽で自分のことを語る手段が整っていると確信することがある』」

マイルス

 なぜエヴァンスがマイルスの元を短期間で後にしたのか?(略)

[本人は毎晩巡業する]過密なスケジュールにあったと言っている。 その生活が「あらゆる面で私をすり減らした」と。(略)

[だがマイルスは]出演ペースについては気遣っていて、よく仕事と仕事の間には休みを入れていたし、一晩の仕事を連続させるよりは、同じクラブでの一週間か二週間の仕事を選ぶようにしていた。アダレイの見方は異なる。「マイルスはビルのやることが気に入っていたけど、抑えなくていいところでも十分にスウィングしていないと感じていたようだ。(略)[後任のウィントン・ケリーは]抑えることもスウィングすることも実によくできるよ」。他のバンド・メンバーたちが言うには、一緒に活動していた八ヶ月間いつもエヴァンスはジャズの巨匠たちの中で自分自身の存在価値に不安で自信がなかったようだ。

(略)

エヴァンスが辞める決意をしたことにマイルスが同情的であったことは(略)[仕事を探してやったり『カインド・オブ・ブルー』に参加させていることから明らか]

(略)

エヴァンスがバンドを辞めたのは、グループ外の黒人たちが露わにした彼への敵意のせいであったとマイルスは記している。「(略)くだらないことに黒人の中には彼のことを我々のバンドの中のホワイト・ボーイだと露骨に言う者もいた。(略)黒人ピアニストを雇うべきだと思っている黒人たちがたくさんいたんだ。(略)」。エヴァンスは晩年になってこの当時を振り返り、バンド内には人種差別的な軋轢はなかったと言っている。「それはファンとの間の問題だった。バンドの連中は私をしっかりと擁護してくれていた」

お蔵入り

一九六二年春のデュエット・アルバムのレコーディングで花開いたエヴァンスとジム・ホールの関係も、その後は二人が参加した八月二一日と二二日のリヴァーサイドのクインテットの録音でちらっと聴かれるだけに終わった。(略)

エヴァンスは参加したミュージシャン全員を長年高く評価していた。ホールとカーターに加え、テナー奏者のズート・シムズ、ドラマーのフィリー・ジョー・ジョーンズがいた。エヴァンスはスタジオの条件下で彼らを信頼し、簡単に片付けられるようなものではないトリッキーな曲の数々をー、二時間で録音できると踏んでいた。しかしながら、スタジオ時間の制限、少ない予算、レコーディング前のリハーサルなしといった一九六〇年代のレコーディング・セッションの典型的な欠点のせいもあって、エヴァンスとリヴァーサイドのプロデューサー、オリン・キープニュースが目指していたことはほとんど実現しなかった。
 後にキープニュースはこれを不快なセッションであったと振り返っている。彼は「実に険悪な空気がスタジオに蔓延していてどうにもならない」と感じていたことを認めた。

(略)

「タイム・リメンバード」は、そのハーモニーが予想外に動き、いつになく長いヴァース構造で、ソロイストは迷路内で自分が移動するポジションに必死に取り組まなくてはならない。スタジオ内のしらけた空気はズート・シムズを困惑させたようで、所々できらめくような美しい表現を見せてはいるものの、実にためらいがちに演奏している。

(略)

 二日目はさらに問題が悪化している。「マイ・ベルズ」、「ゼア・ケイム・ユー」、「ファン・ライド」の三曲が録音されたが、「マイ・ベルズ」は何度となく挫折するか不完全で、関係者全員がすべてを編集して出せる演奏になると納得するまでには少なくとも二五テイクは録らなければならなかった。

(略)

[満足の行く編集ができたのは「ルーズ・ブルース」1曲]

その後エヴァンスはヴァーヴに移籍してしまい、このプロジェクトはお蔵入りになった。[リヴァーサイドは一時消滅](略)

この音楽が部分的に『ジ・インタープレイ・セッションズ』というLPとして発売されるのは一九八二年、エヴァンスの死後二年目だった。エヴァンスがこのセッションに持ち込んだ曲の独創性、その後たった三曲しか別のレコーディング・スタジオで録音しようとしなかったことを考えると、このセッションで起きたことは彼にとって相当なストレスだったに違いない。

(略)

[キープニュース談]

彼が去るための条件として最終的に二つのプロジェクトを即座にレコーディングしなくてはならなかった。

(略)

一九六三年一月に行われたソロ・セッションで、エヴァンスはただひとり自分のアパートで自己満足のためにピアノを弾いているかのようだ。

(略)

 少なくとも十四の演奏が録音された。(略)

「オール・ザ・シングス・ユー・アー」の抽象性、あるいは「マイ・フェイヴァリット・シングス」の憂鬱なトーンなど美しく珍しい点が見られるが、これはかなり私的な音楽で意思を伝えようとしたり、観客と接しようとするようなものではなかった。「スパルタカス 愛のテーマ」の最初の方の演奏でも、繊細なオープニング・シークェンスが示される。エヴァンスの閃きで、サティの「ジムノペディ第三番」がとりとめもなくインプロヴァイズされてから主題に入っていく。

(略)

 ここでエヴァンスは整った形あるいは形式を求めてはいない。その結果、レコーディングされたものは、エヴァンスの創造行程を深く迫りたい仲間のピアニストや学生たちには魅力的なものとなっている。「ハウ・ハイ・ザ・ムーン/オーニソロジー」で、彼は巧妙かつ意図的にトリスターノとパウエルの即興法を再現している。賢く、うまくユーモアのある模倣には、エヴァンス自身のピアノのルーツとこの二人に対する愛情が表れている。

(略)

彼はいつもとは異なる演奏法を大っぴらに披露している。またいつもよりも技術面および創作面で多くの挑戦を試み、特に右手の華麗な動き、ひどく破壊的なリズムの変更、耳障りなパターンに、それが明らかである。いつになくひどいミスと技術的な不備を気にかけていないことから、この時のエヴァンスの奔放な様子がうかがえる。このリサイタルは一九八四年にリリースされ、エヴァンス完全主義者たちには無防備な時の彼の創造性を洞察するものとして大歓迎されたが、一般のリスナーにとっては得るものはほとんどない。

次回に続く。