スティーリー・ダン Aja作曲術と作詞法

 
スティーリー・ダン Aja作曲術と作詞法

スティーリー・ダン Aja作曲術と作詞法

 

ディランの影響

 しばしば指摘されているように、フェイゲンの唱法にはディラン的な抑揚が見られる――〈寂しき四番街〉と〈バリータウン〉、とりわけ “You see me on the street"と''If they see you on the street"のくだりを比較してほしい(略)

 「ボブ・ディランがいなかったら、みんな、なんにもできなかっただろう」とフェイゲンは言う。「彼が自分のやっていることに、特に意識的だったとは思わない。でも結果的にそうなったんだ。今にして思えば、すごく単純なアイデアなんだけど。つまり、どんなことだって歌になるという、ね? でも、だれもそんなことは考えたことがなかった。しかもそうやってなんでも歌にしながら、アルバムにはそれなりにヴァラエティを持たせるなんて真似ができると思うかい? 

ブルース

「ブルースはポップ・ミュージックのもっとも重要な部分だ(略)

実際にソウルと前に進む力を与えてくれるのはそれなんだ。(ぼくらの)曲の多くは、ごく普通のブルースの構造をもとにして書かれている……そこから和音的に拡張していくか、構造を変えるかしてね。だから根本にはブルースのフィーリングがあるんだけど、ずっと複雑な曲ができあがるんだ」 

(略) 

〈ペグ〉を通じて、和音のイオニアン的な快活さは、ブルースの構造が暗示する陰鬱さとつねに対立している。多くの腕利きギタリストがこの曲のソロに手こずったのも、それがいちばんの理由だった。(略)

「ぼくはあのふたつのコード、一種のIVからⅢの進行を、以前にも使ったことがあった。ぼくが考えていたのは、そのふたつのコードだけを使って、Iのコードは鳴らさずに、ブルースをつくるということだ。 

ギル・エヴァンス

「ぼくはギル・エヴァンスが好きだった(略)彼はあまり高い音を使わなかった。ホーンに関しては、ウォルターもぼくも、マイルス・デイヴィス的だとされることの多いフレーズをよく使った。“中音域の陰気さ”ってやつだ。ちょっとしたジョークのつもりでね」 

70年代のフェイバリットソング 

 「ぼくらはもちろん、スティーヴィー・ワンダーが好きだった」とフェイゲンは言う。
 「ほんとうにいい音楽をやってくれるんじゃないかと期待してたのはだれだったと思う?シールズ&クロフツという男の2人組だよ。彼らは自分たちの曲に、ジャズをすごくうまく融合させていた。ダン・ヒックス&ザ・ホット・リックス、スタッフもほんとうに好きだったな。ジョン・セバスチャンはすばらしいミュージシャンだったし。ぼくはラヴィン・スプーンフルにすごく影響されていた。特に唱法の面でね。ジョンのフレージングと、リズムの乗せ方がすごく好きだったんだ。ハービー・ハンコックの作品も好きだった。《ヘッドハンターズ》はちょっとくり返しが多すぎるけど――同じグルーヴがえんえんとつづくからね――彼はいいサウンドのつくりかたをよく知っていたと思う。ドラマーもすばらしかった。ハーヴィー・メイスンとか、ハービーとプレイしたドラマーはみんな。彼のギタリストもよかったね。ワー・ワー・ワトスンとかのLAでやってた連中だけど」(略)

[90年にBBCラジオで70年代音楽を振り返って]
ジャズとロックのある種のフュージョンと呼ばれることも多かった彼らだが、たとえばリターン・トゥ・フォーエヴァー的な意味でのフュージョン・グループでは決してなかった。
 「正直、その手の話には関心がなかった」とフェイゲンは言う。「ぼくが知っていたジャズ・ロックと呼ばれるシロモノは、大部分がかなり退屈だった。ジェレミー[スタイグ]&ザ・サチュルスという、ジャムっぽい連中を覚えているけど、このグループはほんとに退屈だったし、《ビッチェズ・ブリュー》も基本的には、マイルスが思いきり悪態をついているだけのアルバムだった。その考えは今も変わっていない。
《イン・ア・サイレント・ウェイ》は好きだったけど、《ビッチェズ・ブリュー》はとにかく、冗談としか思えなかった。『ファット・アルバート』のアニメに使ったら、打ってつけだったかもしれないな(略)

ぼくにはとにかく馬鹿馬鹿しい、音の外れた愚作としか思えなかったし、とても聴いていられなかった。なんだか[デイヴィスが]間違ったメンツを集めて、ファンクのレコードをやろうとしてるように聞こえたんだ。彼らはファンクをどうプレイしたらいいか、理解していなかった。リズムがー定じゃなかったからね。
 ぼくの好みを知りたい? ザ・ドン・エリス・ビッグ・バンドさ。ニューョークじゃ人気のバンドだった。彼はクォータートーンの出るトランペットを持っていて、バンドはいい感じのブーガルーっぽいビッグ・バンド・ナンバーを、ジャズ専門局でプレイしていた。特に盛り上がってはいなかったけれど」 

コード

ぼくはいつも曲の研究を怠らなかった。和音の本を見ながらね(略)

だから時には本で見たネタを使うこともあった。でなきゃいっしょにするといい感じ聞こえるコードを組み合わせてみたり。 

バーナード・パーディ

 「すごく押しが強いタイプだ(略)
バーナードがスタジオを横切るときは、こっちが道を開けなきゃならない。まるで牛のような男なんだ。もしも腰骨がこっちの腰骨をかすめようものなら、その場で吹っ飛ばされてしまう。彼は運動エネルギーのかたまりだった。問題は、たいてい1度目か2度目のテイクで、完璧にできてしまうことだ。だからほかのみんながまだ構成を考えていても、バーナードはコートを着て、『これで決まりだ。オレは帰る。ほかの連中はあとでかぶせりゃいいだろ』と言いだす。するとぼくらは、『バーナード、頼むよ。それじゃ感じが変わってしまう。それにまだ決まってないセクションもあるんだ』となるのさ」

マーク・ジョーダン

  ベッカーとフェイゲンは、自分たちの感性が移植可能であることに気づきはじめた。ゲイリー・カッツの肝いりで、1978年にシンガー・ソングライターのマーク・ジョーダンがワーナー・ブラザーズと契約すると、フェイゲンはジョーダンのレーベル・デビュー作《マネキン》に積極的に関与することにした。
 「ゲイリーはぼくのプロデューサーで、一部の曲に、ドナルドを呼んでくれた(略)

ローズを弾いたり、シンセでソロをやったり、その場でアレンジを考えたり。たとえば〈ジャングル・クワイア〉なんて曲は、彼が完全にコードをつけ直してくれた。濃くて暗い曲になったのは、もっぱらドナルドのヴォイシングのおかげだよ。すごく、音楽的な影響力のある男なんだ。彼のプレイには、いつも甘美な暗さがあった

(略)

ロジャー・ニコルスは、天才的なテクニシャンだった。信じられないような手つきで卓を操作する。まるで機械のようだった。10本の指を10本のフェーダーに置いて、そのままミキシングを進めていくんだ。全部の指をバラバラに動かしながらね。それになんだってパンチインできた。ゲイリーはもっとリラックスしていて、進行役って感じだったけど。
 最初はエルトン・ジョンのバンドを使っていたんだけど(略)どうにもうまく行かなくてね。それで代わりにジェフ・ポーカロや、チャック・レイニー、ヴィクター・フェルドマン、ラリー・カールトンといった面々が呼ばれることになったんだ

(略)

最終的にはロジャーがレコードをミックスした」 

マネキン(SHM-CD紙ジャケット仕様)

マネキン(SHM-CD紙ジャケット仕様)

 

 [オマケ]

たまたま読んでいた2013年のサンレコに載ってたスティーリー・ダン話。

 『カンガルー・ポーの『ミックス1年生』/中村公輔』

第13回 80′sサウンドスティーリー・ダン

エンジニアのロジャー・ニコルスは、どうしたら1曲を通して一貫したグルーブを生み出せるのか、タイトなリズム・サウンドを作れるのかと考えた挙句、何と自らサンプラーを開発しました。(略)

 ニコルスが自作サンプラー“Wendel"を開発したのは1978年。(略)MIDIの規格自体が存在しなかった時代だと言われると、いかに先進的なテクノロジーだったかが分かるでしょう。彼はCOMPAL S-100というコンピューターを基にソフトのプログラムを書き、12ビット/100kHzのサンプリング機能を実現。内蔵メモリーの容量は56KBしかなく、外付けの32MBハード・ディスクは冷蔵庫ほどの大きさがあったそうです。また当時は1MBのメモリーが400万円近くしたそうで

(略)

“ニコルスにやりたいことをオーダーすれば、彼は16進数をカタカタ打ち込んでた”とバンドのメンバーが振り返っている(略)

生録りの最高峰のように思われていたスティーリー・ダンですが、実はほとんどテクノかヒップホップかというレベルで打ち込みの頻度が高かったのです。こうしたサウンドを作る動機になったのが(略)ルディ・ヴァン・ゲルダーの音にあこがれていたからというのが意外です。“生音をクリーンに録音したい"と考えた結果が、分離を高めるためのサンプラー開発につながったのです。

(略)

次第にベストなグルーブで1曲を通したいと考えるようになったそうで、テープ時代でも数小節のループを繰り返し、そこにフィルを足すという手法を採り始めたそうです。

 Wendelが導入されたのは『ガウチョ』に収録されている「ヘイ・ナインティーン」からで、キックとスネア、ハイハットをプログラミングしています。(略)自分たちで演奏した生音を取り込んで使っています。ただし“分離の良いクリアな生演奏音源を作る"というのが当初の目的だったため、いかにもマシンで打ち込んだようなビートに聴こえるのは全力で避けようとしていたようです。生っぽい雰囲気を出そうと、ハイハット1つにしても多いときで16音色を切り替えていたといいます。また人間的な揺らぎを作るために、各打楽器が得るタイミングをジャストな時間軸からどれだけ外していくか、いろいろなドラマーの演奏の癖を相当に研究。(略)

『ナイトフライ』の「雨に歩けば」という楽曲では、ドラムのほかにベースやシンセの一部もサンプラーで鳴らしています。