風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年

エイプリル・フール結成

[小坂忠によるエイプリル・フール結成結成経緯]

 1968年も終わりに近づいた頃、新しいメンバー探しが始まった。そんな年末のある日、柳田ヒロの兄である柳田優がニューイヤー・パーティーに誘ってくれた。(略)目白にあった野上眞宏の家だった。(略)

 パーティーの途中、松本が大学ノートをもって僕のところにやって来た。ノートには自作の詩がいっぱい書かれていて、その中の「暗い日曜日」という詩を僕に歌ってほしいという。メロディーは細野君がサラッと歌ってくれた。それを聴いて初めてセッションで歌うと、松本はえらく感動してくれた。そこで別の機会に細野君と松本を新しいバンドに誘うことにした。

(略)

 その本の中で小坂忠と対談している細野晴臣のその時の記憶はこうだ。

 

細野 松本は僕から誘ったんだと思う。 それで松本は大学を(略)

中退しちゃったの。それでお母さんに呼び出されてね。「困りますよ」って(笑)。その後、茂のお母さんからも僕は呼び出されたしね。「悪の道に誘わないでくれ」と(笑)。

「春よ来い」「12月の雨の日」、日本語のロック

 松本隆は、2018年の FM COCOLO の番組インタビューでこう言った。

「これから日本語のロックをやってどういう形で世間に発表していくかという時に“お正月”と“炬燵”“ミカンとお雑煮”。全然かっこよくない(笑)。わざとそういう言葉を使ってる。発売は8月、真夏なのにですよ。僕、そういうみんなが望んでいるようなものと正反対を提示するんです。それが松本式の世間に対するメッセージみたいになってるんですね」

――家を飛び出してるわけですもんね。

「書いている僕は全然飛び出てない。はっぴいえんどの時はまだ家族で暮らしてました。でも、僕の父は言ってみれば高級官僚なんで、バンドをやるということにはものすごく反対してましたし、殴られたこともありますから。そういうのを秤にかけながらはっぴいえんどをやってたん んです。もし、どっちを選択するかと言われたら何度でも、100回でもはっぴいえんどの方を選ぶだろうと。サラリーマンになることは魅力的ではなかった」

(略)

 「春よ来い」は、同じくアルバム「はっぴいえんど」に入っている「12月の雨の日」とともに彼が大瀧詠一に書いた最初の曲だった。

(略)

「『12月の雨の日』の方が先だったと思うんだけど、非常にリアルタイムで時系列。私小説に近いですね。当時、僕の家は西麻布で大瀧さんは経堂あたりに住んでたの。その下宿に行く途中の景色ですね。雨上がりの街だったし風が吹いていたし。風景をそのまんま詞にしています。大瀧さんのところに行ったら永島慎二の漫画があって、炬燵があった。彼と僕とは出身も違います。彼は岩手の人で宮沢賢治と同じところから出てきて僕は青山で生まれて麻布で育った。都会しか知らないんで会話の糸口がないんです。音楽の話は通じるけど音楽以外の部分では何を話せばいいんだろうと悩んでいて。その部屋にはガロ系の漫画雑誌があって、僕も読んでいたから、そこで初めて接点があったんですね」

(略)

大瀧 松本くんが、たまたまぼくが読んで転がしておいた永島慎二のマンガを読みながらスススッと歌詞を書いて、「この詞で歌ってみてよ」と言って去って行った。それが「十二月の雨の日」の前、仮タイトル「雨あがり」。

(略)

帰ったとき、もう1曲、詞だけ書いて置いていったんですよ。それが「春よ来い」。これも永島慎二のマンガを見てサッと書いたもので。難しかったね、この詞に曲を付けるのは。詞を見ると曲ができない。だから、詞を適当な英語の音韻に変えてインチキな歌詞をこしらえて、そっちを見ながら作った。そんなふうに作り始めたは良かったけど、後が大変。大サビを作るのがものすごく大変で、細野さんにも手助けしてもらいました。ただ、大サビの最後はぼくが強引に締めた。

(略)

大滝 おれから見ると細野・松本の両君は大人だったよ。よく考えてたし。日本語についてもよく考えてたしね。だって、おれは日本語に反対してたじゃん。

松本 あの頃、茂が「これじゃ会議バンドだ、練習しよう」って(笑)。

大滝 おれは「日本語なんかロックに乗るわけがない」って反対してたんだけど、その後(略)裕也さんに同じことをおれが言われることになるとは夢にも思わなかったね(笑)。最初に自分が言ってたこととまったく逆の弁明の矢面に立たされてるっていう、あの構図はおかしかったな。

サブカルとは「好きなことに真実がある」

「僕らの2年くらい上の世代が全共闘なんですね。その人たちが闘っているのを横で見てた(笑)。新宿騒乱事件という暴動なんかも石浦信三と二人で見に行ってたんです。催涙ガスで目、痛いなあとか言いながらね。でも、こういうことでは世の中は変わらないかもしれないなあと。見る、ということが自分たちに課せられたというか、残されたのはそれしかないかなという感じかな。岡林(信康)も一生懸命、歌でやってましたけど、意外に何にも残らなくて一過性で終わってしまう。そういうことも自分の中に記録しておいた方がいいなと。見る、ということが重要、そこに重心を置いていた気がしますね」

 石浦信三の名前は、アルバムの手書きの歌詞カードにも登場する。松本隆の小学校時代からの友人でありはっぴいえんど初代マネージャー。(略)71年発売の2枚目のアルバム「風街ろまん」は彼なくしては語れないアルバムでもある。

(略)

「僕はサブカル出身ですから」

では、サブカルとは何でしょう。

答えはこうだった。

「好きなことに真実があると言うことです」

「風都市」

 石浦とは文学の話ばかりしていたね。ぼくが感覚的に説明することを彼は論理的に説明してくれる。そういう補完のし合いだった。その意味では彼はマネジャーというより親友だったね。ぼくは普通の学生からはロックをやっている奇人変人と見られ、ロックをやってる連中からは文学好きな奇人変人と見られていたんだ。

(略)

[石浦は]渋谷のライブハウス、B.Y.Gのブッキングを手掛けたりもする事務所「風都市」を立ち上げている。

 それは松本隆はっぴいえんどの2枚目のアルバムタイトルに考えていた名前だったという。(略)

「ある晩、風都市って書いたポスターがあったの。何これって聞いたら『今度、こういうコンサートを開こうと思ってる。事務所の名前にもした』って。これはアルバムのタイトルとして考えたんだ、マネージャーなのに盗作するのかって激怒したよ。彼はタイトルに著作権はないって。名言だと思ったよ。だから違うタイトルを考えなきゃと一晩くらい徹夜して造語したのね。代案です。今から思うと『風街ろまん』の方がいいタイトルだから、怪我の功名ですね(笑)」

『HAPPY END』

「『風街ろまん』の後に、やりつくした感がすごく強くて、失語症状態になってしまうんです。これはもう越えられないと思った。同じようにそれぞれの想いがあって解散に向かってゆく。本当は2枚でやめといた方が良かった。そうしたらみんな海外旅行につられちゃって(笑)。僕は反対したんだけど、他の3人が行きたいっていうからしょうがない、付き合うよ、その代わりに詞は各自書いてねと。でも、茂が詞は書けないっていうんで茂の分だけ書くことにした。そうしたらアメリカに着いた時に、大瀧さんが実は、詞が出来てないとか言って(笑)。急遽、日本から使っていない詞を電話送りしてもらって、それに即興で曲をつけて。細野さんはしっかり作詞作曲して来てて。これはほとんど細野ソロだな、はっぴいえんどの意味はあんまりないなと思った。録音は楽しかったけど、結構危ない橋を渡ったのね」

(略)

氷雨月のスケッチ」には、“ねえ もうやめようよ こんな淋しい話”という一節もある。「花いちもんめ」の例にならえば、この時のバンドの状態に対しての彼の気持ち、というようにも取れる。「はっぴいえんどBOX」の中でも「このレコーディングはモチベーションがゼロだったんだよね(笑)。まず、『解散するって決めたのに、なぜ海外で録音する必要があるの?』という疑問があって。(略)まともな詞って『外はいrい天気』だけだよ(笑)」と話している。

今、橋を渡ろうとしている

1975年に出た『エッセイ集 微熱少年』の中に「今ぼくたちをとりまく歌の“平凡”さ 世紀末を飾る歌謡曲を創りたい」と題されたこんな文章がある。

 

 正直言って歌謡曲なんて、殆んど聞いたこともないし、いわゆるテレビの歌謡ショーなんてまともに見たこともないぼくだ。だから歌謡曲の正体なんぞおよそ想像もつかない現状だ。そんなぼくが今、橋を渡ろうとしている。もちろん対岸はあのきらびやかな世界。大衆という、これも正体不明の煙のような人々の眼という眼、耳という耳によって逆投影される不思議な幻影、巨大なSHOWだ。

 

 僕の記憶では73年の暮れに雑誌『ニューミュージック・マガジン』に掲載されたものだと思う。つまり、チューリップの「夏色のおもいで」がヒットしたばかりの時期だ。当時、彼がどこに行こうとしているのかと思いつつ興味深く読んだことを覚えている。

アグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密」

エッセイ集『風のくわるてつと』の文庫版での鈴木慶一との対談でこう話している。

 

松本 はっぴいえんど解散後、プロデューサーとしてやっていこうと思ったら、今と違ってお金があまり派生しなくて、とても生活できないことが判った。そこで作詞家として生きていこうと思って、はっぴいえんどのエンジニアだった吉野金次さんに「CMソングを書きたいんだけど」って言ったら、吉野さんが「CM」を「商業的な」と勘違いして、アグネスの仕事の話を持ってきたんだ。

(略)

オケがキャラメル・ママだったのも、偶然だった。仕掛けたのは吉野さんだと思うけど。

(略)

[アグネスは芸能界の牙城]“ナベプロ”の正真正銘のアイドルだった。“転向”“寝返り”“裏切り者”。彼は1999年に出た「風街図鑑」の全曲解説でこう書いている。

 

 この詞のせいで、ぼくには昔の友だちがほとんどいなくなったんだ。「あいつはロックから歌謡界に魂を売った」ってことで(笑)。(略)そのときに、NHKの教育テレビのドキュメンタリーの番組を観たんだ。それは養護学校の身障者の子供たちが野山をピクニックしながら、「ポケットいっぱいの秘密」をみんなで歌っていた。ぼくはそれを見て感動して泣いた。自分は間違ってないと。歌って趣味趣向や理屈よりもっと深いものであるべきだと。

 

 

筒美京平

[筒美京平との対談]

松本 初めてお邪魔した時(略)[できたばかりの南佳孝『摩天楼のヒロイン』を]

聴いてもらったら……なんて言ったか覚えてる?

筒美 いや(笑い)。

松本 「こういう好きなことやって、食べられたらいいよね」って。(略)

けっこうガーンときてさ。

(略)

筒美 あの頃の松本くんは何か「書生さん」みたいな感じだったよね。学生っぽかった。当時、作詞の仕事をしている人でそういうタイプはいなかったから珍しかった。(略)

松本 ところで、京平さんは「夏色のおもいで」の何が気に入ったの?

筒美 ヒット曲になってたんだよ、最初から。(略)

そういうの(ヒット曲になっているか/いないか)はわかるよ。自分がヒット曲を出してるということは、その時代のカラーをよく知ってるということだから、その曲がそのカラーかどうかはわかる。

 

太田裕美木綿のハンカチーフ

 松本隆は前述の『太田裕美白書』の中でこう話している。

「『雨だれ』『たんぽぽ』『夕焼け』ってシングル 3枚が出るうちに、だんだん売り上げが落ちてしまって。

 それで『夕焼け』が出たあたりでディレクターの白川隆三さんを呼び出してね。(略)

「それまでは、結構、いい子に作詞家をやろうと思っていたんだけど、こんな仕事をしていたらつまらないなと思って。いい子に作詞家をしようとしている姿勢自体が悪いんだな、間違っているんだなと(略)

『一回好きなように書かせてくれ』って言ったんです。『次のアルバムは、詞に対して口を出さないでくれ』って。嫌だったら、もうぼくを切っていいからって。白川さんは、『シングルは口を出させてもらうけど、アルバムは好きに作っていいよ』って言ってくれた。だから『心が風邪をひいた日』というのは、本当に好きに作った」(略)その中に入っていたのが「木綿のハンカチーフ」だった。

 

 

HIRO +1

HIRO +1

  • アーティスト:柳田ヒロ
  • グリーンウッド・レコーズ
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柳田ヒロ

 サンズ・オブ・サンは、元エイプリル・フールのキーボーディスト、柳田ヒロが組んでいたバンドである。

(略)

[松本談]

「ヒロはフード・ブレインで脚光も浴びてメジャーからレコードも出してたし出世も早かった。彼は“英語派”だったような気がするし、細野さんや僕とはちょっと別世界だった」

(略)

[『海賊キッドの冒険』]の全曲のうち松本隆・柳田ヒロというコンビの曲は7曲。インスツルメンタルが1曲あり、他の2曲はその頃の柳田ヒロの友人がペンネームで詞を書いていて、作曲はなんと、今や中島みゆきのプロデューサーとして名をはせる瀬尾一三だった。

 瀬尾一三にあのアルバムの記憶はあるのだろうか。彼はメールでの問い合わせにこう答えてくれた。

「上京直後、毎日が新鮮で刺激的な出逢いが目まぐるしく、寝る時間も惜しむ程喋ったり飲んだり遊び回ってた頃の中心人物が柳田ヒロでした。一緒にロンドンにも行った事があります。その頃のノリで『MAOのアルバムを作るから曲書いて』と言われて書いたと思います。彼はその当時の“若きフィクサー”でした。70年代初頭の混乱怒濤の刺激的な日々を過ごしていた思い出です」

 柳田ヒロが当時どういう存在だったのかを物語っていないだろうか。

 同じ72年の11月には彼の3枚目のソロアルバム「HIRO」も出ている。(略)発売はURC。クレジットには録音は72年7月から10月と記されている。はっぴいえんどが3枚目のアルバムのレコーディングのためにロサンジェルスに向かったのが72年10月だ。つまり、バンド在籍中だった。そして72年11月には、松本隆が4曲を書いた大滝詠一の初のソロアルバム「大瀧詠一」も発売されている。

 サンズ・オブ・サンの「海賊キッドの冒険」、柳田ヒロの「HIRO」、そして大滝詠一の「大瀧詠一」。72年に発売された3枚のアルバムは、どういう関係にあったのだろうか。何しろ柳田ヒロの「HIRO」と大滝詠一の「大瀧詠一」には、両方に「乱れ髪」が入っている。

(略)

「もうほとんど覚えてないんだけど、ウチの奥さんにヒロの事務所の人が来たら渡してくれって、まとめて詞を渡したんだと思う。はっぴいえんどで使わなかったものとか、大瀧さんのソロで使わなかったものとか、誰が歌うかも考えずに好きで書いていたものとかね。その中に大瀧さんにも渡してしまった『乱れ髪』が入っていたんだけど。僕がちゃんと分けてなかったからいけないんで二人には電話で謝った。昔の友達に頼まれて断れなかった、ということなんだと思う。そこから先は覚えてない。ヒロのアルバムが2枚あったということも忘れていた。推理するしかないよ(笑)」

(略)

柳田ヒロの記憶はこうだ。

「僕が覚えているのは、電話で松本と言葉の文字数のやりとりをしたことで、それがどっちのアルバムだったか覚えてないんだ。サンズ・オブ・サンも真剣にバンドをやろうというものじゃなくてセッションという感じでしたから、レコーディングも早かったと思いますよ。何でそうなったかも分からないんだけど、とりあえず日本語にしましょう、という感じだったんじゃないかな。自分の中では“英語派”というより“メロディー派”だと思ってましたから、はっぴいえんどへの対抗心なんて全くない。曲調も鈴木茂からもはっぴいえんどっぽいと言われたことがあるけど、松本の詞を歌うとはっぴいえんどになっちゃうんです(笑)。『乱れ髪』は、私の方が早かったんです。松本が後になって気がついて、大瀧にも渡したんだけど、って申し訳なさそうに言うから、別にいいんじゃないって。(略)」

(略)

「HIRO」の「作詞・松本隆」の曲は「風が焦げる匂いがするだろう」「きみの町を通ったよ」「乱れ髪」「ねえ静かだね」「おそろしいほどあをいそら」「神がまどろむとき」「何がそんなに愉快なの」の7曲である。その中の「風が焦げる匂いがするだろう」というタイトルが気になった。

(略)

 太陽が照りつける夏の情景というだけに留まらない意味を持った表現に思えるのは僕だけだろうか。

 “焦げる”という言葉が連想させる“焦燥感”や“危機感”、あるいは差し迫った何かが始まろうとしている“切迫感”。72年の夏。名盤「風街ろまん」が出た翌年である。松本隆が「アルバムの後に失語症状態になった」という話やバンドが「解散状態になった」という話を当てはめてみるとどうなるだろう。そんな1行に、「作詞家になる」と公言する前の彼の心情やバンドの状況を見ることは出来ないだろうか。

原田真二「てぃーんず ぶるーす」

『てぃーんず ぶるーす』の歌詞が松本隆さんに変えられたことは、僕の中ではショックでした。『てぃーんず ぶるーす』は元々、その時代の同じ世代の暴走族批判的な「君の世代へ」という学生時代につくった僕の詩でした。(略)その歌詞は、あまりにメッセージ色が強く、シングルには向いていないということになり、松本隆さんがそれを読み、キーワードとなるフレーズをピックアップして、言葉を置き換えてくれました。たとえば、「若者の反骨精神」みたいなものを「ジェームスディーン」に置き換えたり、そういう風につくりかえてくれたのです。今は本当に僕にとっても大変勉強になったと思うのですが、はじめに松本隆さんの歌詞を読んだときは、なんて軟弱なものだと思ったのです。その時の僕にはまだ深い意味が理解できなかったので「僕のズックはびしょ濡れ」とか、「ズック」ってなんだ!ズックなんてはいてねえぞって。ロックぽくなくて、なんだか軟弱に聞こえるフレーズが嫌だったのです。当時の僕は、よほど突っ張っていたんですね(笑)。

近藤真彦「スニーカーぶる~す」

「その頃は、歌番組は自分の曲が多くって通信簿見てるみたいで嫌だったから見ないようにしてたんだけど、偶然、茶の間で夕飯を食べる時、娘がテレビを見ていて「金八先生」が流れてたの。こいつカッコいいなー、と思ってたら注文が来たんです」「後になって知るんだけど、ジャニーさんが『てぃーんず ぶるーす』を好きで、『なんとかブルース』にしてくれって言ってたらしい。僕はそんなこと知らないけど、あの歌の世界をやろうと思った。「てぃーんず」の時は、“ズック”という死語を使った。僕らが小学校の頃はそう呼んでましたからね。その後に雑誌の『POPEYE』とか出てきてスニーカーファッションが定着したんで、その世代のブルースのつもりですね」

「ジャニーズは今みたいに帝国といわれるようになってなくて、まだ枯れた時期だった。それを救ったのが“たのきん”ですね。近藤真彦はジャニーズの救世主だった。明るく騒ぐような陽気路線をトシちゃんがやってたんで、僕は翳りのある青春をやりたかった。ジャニーズからの依頼は、その後もずっと『翳り路線』。その延長線に KinKi Kids がいますね」

 彼は自分の作品について、しばしば「通底」という言葉を使う。作品の底に流れているもの。青春観や人生観、流行に左右されない生き方の美学。ジャニー喜多川は、75年の小坂忠の「しらけちまうぜ」を好きだったのだという。

次回に続く。