ボブ・ディランという男 デイヴィッド・ドールトン

ボブ・ディランという男

ボブ・ディランという男

 

故郷ヒビング

 弟のデイヴィッドが誕生した一九四六年、父のエイブはポリオに感染し、スタンダード・オイル社の事務所長の職を失った。一家は北の鉱山の街、ヒビングに移る。ビーティの両親が貧しい親戚を受け入れ、一家は彼らとともに暮らす。ビーティは社交的なタイプだった。彼女の実家はショービジネス関係の仕事をしていて、ハワード・ストリートにある映画館と地元のラジオ局(WMFG)を所有していた。

 父親のエイブは無口で陰気でうちとけない性格だった。つねに恐れられる存在でもあった。エイブはいくつもの点で、このあとディランのマネジャーになる気難しくて陰気で冷笑的なアルバートグロスマンに似ていた。一九六八年にエイブが他界したあと、ディランは「最後まで父と知り合うことができなかった」と語っている。

 ミネソタ州ヒビングは、世界最大の人造の穴がある場所だ。(略)

鉄鉱石を求めて強引な掘削を続け、おとぎ話の村のように自らをむさぼりつづけた。五〇年代に鉱石は尽き、同時に雇用は消えて不景気に陥り、その後ヒビングが完全な回復をみることはなかった。

(略)

 エイブは義理の兄弟が営むマイカ・エレクトリックの共同経営者となり、五〇年代の電化ブームにのって収入を増やした。

ジェームズ・ディーン、エルヴィス、マーロン・ブランド

教師たちが事実と年号から成る歴史を教えても、彼は受け入れなかった。歴史の勉強を拒絶した。以降、「歴史のなかに見るべきものはない」が、彼の基本的な考え方になった。『プラネット・ウェイヴズ』の最初のライナーノーツでは、「歴史は、真実でない!」と書いている。

(略)

 一九五三年の元日は、ハンク・ウィリアムズ死去の日となった。ヒルビリー界のシェイクスピア(二十七歳だった)は、酒とドラッグの過剰摂取により自分のキャデラックの後部シートで崩れ落ちていた。

(略)

ボビーが最初に集めたレコードはハンク・ウィリアムズの78回転盤だった。「彼の声が電気棒のようにぼくを貫いた」。まもなくして、ディランは音楽と曲づくりに熱を入れるようになる。彼はハンク・ウィリアムズをアメリカの伝説の民間記録者とみて、やがて自分にもおなじ役割を課す。

(略)

一九五五年九月(略)ジェームズ・ディーンが死んだ。(略)

十四歳だったボブは、ディーンのポスターや写真や雑誌の追悼号を集めた。

(略)

[一年後プレスリー登場]

ディランのエルヴィスへの執着が始まる。(略)

「エルヴィスは……なにごとも可能だった開かれたアメリカで、神のいる場所と大自然のあいだの道を歩いた。商業主義の申し子としてではなく、燃えあがるような激しさで人々を音楽的に扇動する一匹狼として、西洋社会を征服した」。ディランにとっての「ザ・ジプシー」、つまりエルヴィスとは一種の魔法の使い手であり、ゴスペル、ポップ、R&B、カントリーといったアメリカの穀物を蒸留して酒をつくる真の意味での人々のヒーローなのだ。

(略)

 ディランは反逆者のお手本を蒐集しはじめ、貨車に載せたバイクにまたがって写真のポーズをとった――バイクと異常だけれどかっこういいマーロン・ブランドのように。

ディンキータウンのコーヒーハウス

 ディランはフォーク界を見渡して地方出身のアイドルたちをさまざまな形で組み合わせた。耳がよくて、とくにくだけた言い回しやアクセントや地方独特の発音のしかたを真似るのがうまいことが役に立った。そうすることでそれを使っている人たちを魔法で呼びだそうとしているかのようだった。

(略)

そのころのフォークとは、組合の歌、黒人霊歌、アパラチアのバラッドだった。こだわりのないディランは、ソニー・テリーやブラウニー・マギーのサウンドにゆっくりとバディ・ホリーの要素をとりこんだ。いっときは、当時のディンキータウンのフォークヒーローだった“スパイダー”・ジョン・コーナーを真似ることもした。ディランはこうしたフォークタイプの人物像に憂愁を混ぜあわせ、バイロン流の悲哀をまとって歩いた。

(略)

黒のコーデュロイのダッチボーイ・キャップ(略)にもルーツがある。(略)『罪と罰』の挿絵のなかで、ラスコリニコフがそういう帽子をかぶっていたのだった。

(略)

 ディンキータウンのコーヒーハウスで、アメリカ各地に伝わるさまざまな発音のしかたをカメレオンのように真似て、新しい人物像をつぎつぎと練習した。

「ソング・アンド・ダンス・マン」

 一九六一年のギャスライト。(略)

いなか出の少々奇異な感じのする若者。ダッチボーイ・キャップ、機関士の縞シャツにブルージーンズ、バイク用ブーツ

(略)

[スージー・ロトロ談]

「わたしは彼のことを、古風で冴えないけれど、なぜかかわいいと思った。ジーンズもシャツもくしゃくしゃで、暑いのにいつも黒いコーデュロイ帽をかぶっていた。いたずらっ子のようで親しみやすいハーポ・マルクスを思わせたが、同時に軽く受け取ってはいけない一途なものを感じさせた」

(略)

[デイヴ・ヴァン・ロンク談]

ステージの上の彼はものすごくひょうきんなやつだった。ステージ以外では、おもしろいやつだとは思われていなかったけれどね。チャーリー・チャップリンの小さな男に似ているとしか言えないようなキャラクターだった。よく動くパフォーマーで、じっとしていることがなく、話も動作も落ち着きがなかった。ひとこと言って、ひとりごとを呟き、口のなかでもぐもぐと何かを言い、またひとこと言い、ギターをバンと鳴らす。とくにタイミングの感覚がすごかった。不器用で落ち着かない感じを演出して、ハーモニカラックやそのほかのものをいじったりして、ひとことも発しないで客を大笑いさせることができた」

 彼の演技は、ヴォードヴィルに近かった。(略)「ソング・アンド・ダンス・マン」と自称しているのは、そういう意味だ。これは演出だったが、ミンストレル・ボーイというキャラクターは、それ自体がアメリカの民間伝承のひとつだった。

ほら吹きディラン

一九六一年一月、二十年ぶりの大雪の日、ディランは(略)グリニッチヴィレッジに到着した。(略)

ハックルベリー・フィン顔負けの冒険話をいくつも練り上げて持っていた。(略)

北西部の大自然のなかできこりをしていた、ミネソタで蒸気掘削機を操作していた。強盗の容疑をかけられて逮捕されたことがあるし、ブラインド・レモン・ジェファーソンの墓へ行ったこともある。四人のホーボーといっしょにミシシッピー川のワシントンアヴェニュー橋の下の土手で暮らし、ナッシュヴィルジーン・ヴィンセントとジャムをし、ボビー・フリーマンの「ドゥ・ユー・ワナ・ダンス」に参加し、ボビー・ヴィーのバンドでピアノを弾いたと言った(すくなくとも最後の話だけはほんとうだ)。

(略)

 「嘘だとわかっていても楽しめた」。ヴァン・ロンクは言う。「たとえばある夜、ボブは一時間ぐらいかけて、みんなにインディアンのサインランゲージの使い方を教えた。話をしながら創作していたのだと思うが、それでもすごくうまくそれをやったんだ」

(略)

当然辻褄が合わなくなり、周囲のだれかがかならず嘘を嗅ぎつけ説明を求めてくる。しかしいつも素速いディランは完璧な逃げ道を用意している。(略)

だれかが嘘を見破りそうになると、ハーモニカを吹いて話を打ち切る」

残忍なフォークソング

 ディランの初期のレパートリーには暗いテーマの歌がたくさんある。

(略)

「あのころはサン・ハウスやレッドベリーやカーター・ファミリーやメンフィス・ミニー、それに死への憧憬を歌ったバラッドを聞いていた」とディランは言う。

(略)

 やがて、プルースやフォークの伝説上の人物が大勢、再発見されることになる。レコードの音からは、彼らが大昔の人たちであるように思えた。しかし彼らのほとんどが、大ホテルのエレベーター係をしたり、鉱山や製材所で働いたり、ハイウェイ61で給油をしたりして、元気で暮らしていることがわかった。

(略)

「昔のカントリー・ブルースのシンガーはもう死んでしまっている。だれもがそう思っていた。大恐慌のあとはいっさいレコードがなかった。一九六三年にふたたびブルースが流行りだした。

(略)

ふたりは南部へ逃げて、ミシシッピー州アヴァロンという街へ行き着いた。男のほうが、ジョン・ハートの歌にアヴァロンが故郷という歌詞があるのを思いだした。そこで街のドラッグストアに行き、ハートのことを知っている人がいないかと訊いた。店の男は『そこを歩いている、そこだ』と言った。そしてハートの歌も前とおなじようによかった。たくさんのカントリーブルース・ファンは『えっ!?』と驚くと同時に南部へ向かった。電話帳がとても役に立つのがすぐにわかった。『ブッカ・ホワイトはどこの出身だったけ? ブッカー・ホワイト、あったぞ!』という具合にね。

(略)

 南部の山岳地帯の人々の暮らしは、聖書のなかの物語や神話のように謎めいている。

(略)

南部の山でのドック・ボッグスの暮らしは、暴力的で突発的で気まぐれだった。流血の争いがあり、強姦があり、赤ん坊殺しがあり、自殺があり、身の毛のよだつたことがあった。彼らは人を殺すがために殺す。そして七〇年代になっても、まだその状況があった。

(略)

フォーク愛好者たちが育った清潔な郊外住宅地の社会では、遭遇するもっとも劇的なできごとが不倫と横領と酒酔い運転くらいでしかなかった。

 地方のフォークの世界には、奇妙で魅力的なさまざまなタイプの人間が集められている。ずっと純粋だった時代、人間性の黄金期からの伝説となった非凡な人たち。汽車の制動手や鉱夫や騾馬追いや密造酒づくり、山賊、罠猟の猟師、保安官、鉄道の保線手、機関士、税務取締官、鉱山探鉱者、流れ者、密売人が生きているフォークの世界では、変わり者たちが大きな存在感を放っている。さらにその世界には、知ってのとおり、かなりの数の殺人者や放火犯や強姦犯や猟奇魔がいて、黒いビニールのなかに閉じ込められている。

(略)

フォークソングには、残忍で恐ろしい内容のものが多い(略)

「プリティ・ポリー」では、男が結婚の約束をして若い娘を誘惑し、娘が妊娠したあと、掘っておいた墓穴に誘い入れて殺す。「ラヴ・ヘンリー」では、女性が不実な恋人を毒殺し、それを見て騒ぎだした鸚鵡まで殺そうとする。おかしなことに、こうした歌がやがて、均質化され甘く無害な新しいポップ曲の仲間入りをした。

(略)

ブルックス・ブラザーズボタンダウンシャツにチノパンツのいでたちの健全な優等生タイプの連中が、甘い味付けをしたフォークソングをつぎつぎとポップチャートに送りこんだ。常識的で洗練された退屈な連中。

(略)

こぎれいな身なりの男子とペチコートでふくらませたスカートの女子が、古くから伝わる災いと破滅を載せた物語を歌っていた。

第二期フォーク・リヴァイヴァル

 一九六一年、ボブ・ディランがやって来たときのヴィレッジのフォークシーンは、第二期のフォーク・リヴァイヴァルの真っ最中だった。

(略)

フォーク復興運動(第二期の)正式なメンバーたちは、金儲け主義の決まり文句とはびこる偽善のアメリカの主流の物質文明を軽蔑したが、やがて自分たちのひとりよがりの陳腐な常套をつくりだした。彼らの信条のなかでも、もっとも大きなまちがいは、フォークソング聖典であるかのように、形をすこしも変えてはいけないとしたところだ。そしてこのことから転じて結果として、それぞれの曲のもっとも古いヴァージョンを探すという誤った探索がはじまった。

(略)

 フォーク派とは基本的には、失われた牧歌的なアメリカをみつけようとするロマンに満ちた運動だった。そのアメリカとは、彼らの両親や祖父母たちが破壊した、あるいは逃げ出そうと必死になっていたアメリカだった。

「フィル・オクスが現れた当初、すごくいやだった」。ピーター・スタンフェルは言う。「ギャグのように思えたんだ。それにぼくは当時のフォークの状況に怒りを感じていた。ぼくから見るかぎり、ニューヨークのフォークシーンには(略)金持ちの子弟が集まっていた。

(略)

 フォーク興隆の本質とは、郊外に住むミドルクラス出身の大学生と昔の左翼がいっしょになって抱いた幻想、かつての農村生活へのあこがれだった。

ウディはわたしの最後のヒーローだ 

ディランは、やせっぽちの家のない子と古典的なホーボーのふたつのイメージを交互に見せて、さびついた厭世的な声で陰惨な死にとりつかれたバラッドを歌った。彼のひきのばされた発音は複数の音節にまたがり、音節を強めたりたわませたりした。フォーク/ブルースの表現法の考古学博物館のようにさまざまなテクニックを使い、その発音は、シナトラのように個性的で感情を効果的に伝えた。

(略)

スージー・ロトロは言う。「ボビーはいつでもどこでも、大勢の人がいる騒がしい部屋のなかでも、ふたりきりでいるときでも、自分のなかにひきこもることができた。わたしはたびたび、彼の心がどこかに行き、しばらくしてもどってくるのを眼にした。

(略)

夜を明かして書いたりタイプを打ったりギターを弾いたりして曲をつくった。一日に二曲を書きあげることもよくあった。その方法は音のコラージュとも言えるものだった。聞こえてきた会話や新聞記事や聖書の比喩や映画の台詞をうまく使って「ことばやフレーズを書きつけ」、それらを通常の口語体の音楽に合わせる。

 (略)

 

ディランはほかのフォーク愛好者とおなじように、フォークミュージックをアメリカの神秘に満ちた魂に至る鍵と考えていた。しかしほかのフォークシンガーとちがって、自身がアメリカの魂が織りなす物語の一部となることをためらいはしなかった。

 この初期のディランの姿――列車でさまざまな土地へ移動をする一昔前のホーボー、砂嵐の中西部から来た歌う少年――、これこそが彼の最大の創作のひとつだった。

(略)

ディランは言う。「ウディはわたしの最後のヒーローだ。世界でいちばん、偉大で清らかで敬虔な人だ」。強欲と偽善の世界の真ん中で、十代のボブは真実の存在を、絶対に腐敗していない人をみつけなくてはならなかった。それがウディ・ガスリーだった。

(略)

 ウディとの面会は異様だった(略)生きた蝋人形、人がやって来て話しかける偶像だった。

(略)

ディランが主張するところによれば、ウディ・ガスリーは「ピート・シーガーフォークソングを歌うシンガーだ。ジャック・エリオットもフォークソングを歌うシンガーだ。しかしボビー・ディランはフォークシンガーだ。そう、フォークシンガーなのさ」と言ったのだった。

 ガスリーのマネジャーのハロルド・レヴェンタルは「ウディは会いに来ただれとも口をきいていない。そのころにはだれとも会話をしなかった。できなかった」と言う。

(略)

ディランによる再現のすごいところは、自分とウディの混交体を創造したところだ。

経歴詐称を暴かれる 

「つぎに出てきたのが『ニューズウィーク』の記事だった。エミリー・コールマンの署名記事で『この新進の革新的人間の本名はボブ・ジマーマンで、その父親はミネソタ州ヒビングで家庭用品店をやっている』といったような内容だった。

(略) 

[それは]単なる中傷以上の被害をもたらした。(略)

コールマンは皮肉をこめてディラン風に、「彼は苦しんだ。どうにか生きてきた。食べ物もなく、恋人もなく、ただ心のなかでよこしまな種を育てながら」

(略)

プロテストシンガーにとってもっとも大きな打撃となったのは、彼の窮乏生活が嘘だったという点だったろう。コールマンは、ディランの聞き手の大半は郊外に住む中産階級の子弟であり、彼らは彼の貧しい育ちにうらやましい思いを抱いていると書き、しかしじつはディランもまた彼らとおなじぬくぬくと子供時代をすごした中産階級の子なのだとすっぱぬいた。

(略)

[コールマンに本名を確認され]

ディランは即座に否定し(略)「このカードを見てくれ。ほら!ボブ・ディランと書いてある」と証明のために徴兵カードを見せた。たしかにその時点での彼はボブ・ディランだった。一年前に法律上の改名をして、ボブ・ディランになっていたのだ。

 コールマンは両親に関する嘘についても暴きにかかった。そこまで追及されたなら、もうすこし発言に気をつけてもよさそうなものだが、ボブはそうしなかった。無謀にも嘘を押し通そうとした。(略)

両親には何年も会っていないと断言した。まったく連絡をとっていないと。コールマンは、それをしらじらしい嘘と指摘した。コールマンがディランと話をしている数ブロックさきのモーターインには、エイブとビーティ・ジマーマンが滞在していた。(略)その夜に行われるカーネギー・リサイタル・ホールのステージを見られるよう、ボブがふたりに航空券を送ったのだった。

(略)

 父親のエイブ・ジマーマンは、孤児でインディアンやサーカス芸人に育てられたという話に激怒し、つぎのように言った。「息子はひとつの企業のようなもので、彼が打ち出しているイメージは脚色によるものだ。それを知ってわたしたちは心おだやかではいられなかった。いまも落ち着いてはいない。だがすべては演出の一部なのだ」

エリオット・アドノポス 

「ある日の午後、ボブはカフェ・フィガロで、ジャック[エリオット]がユダヤ系だという事実を知った。バリー・コーンフェルドがいて、あと何人かがいた。みんなでばか話をしていたとき、ジャックがほんとうはオーシャン・パークウェイ育ちでエリオット・アドノポスという名だという話になった。ボビーはほんとうに椅子から転がり落ちた。床で笑い転げて、落ち着いて立ち上がるまで何分もかかった。そのあと、こういうときにはすごく悪いやつになるバリーが小声で『アドノポスだって』とボビーに言ったら、ボビーはまたテーブルの下に落っこちたよ」

 ユダヤ系で名前を変えていて、しかも自分とおなじように自己イメージをつくっているミュージシャンがほかにもいる。このときのディランはそれを知って驚き、そして笑いだした。

(略)

 アメリカにおいて、アウトサイダーでいるのはよいことだ。しかしアウトサイダーとして生きるには、正直でなくてはならない。ディラン初のポップの傑作「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、そういう歌だ。ヒップスターの物語を綴る歌詞は、徹底的に体制順応を要求し、貪欲な口で人を飲み込むアメリカ文化に対するアウトサイダーの倫理的主張を歌っていた。 

次回に続く。