細野晴臣インタビュー2:大瀧詠一の死

前回のつづき。
細野晴臣『とまっていた時計がまたうごきはじめた』その2。

海の音楽、山の音楽

[『ひこうき雲』録音時、英国派のユーミンと米国派の細野たちが]
ぶつかったわけじゃなくて、ユーミンが不安だったんじゃないかな。自分にアメリカの要素がなかったから。
――あのアルバムが、イギリス的な方向に行きすぎたら、ああいう結果にはならなかったと思います。
 アルファで録った最初のデモがね、「返事はいらない」という曲だったんだけど、それがイギリス的だった。(略)[編曲を頼まれ]キャラメル・ママでスカに変えちゃった。イギリス的だった曲を、アメリカ的な曲に変えたわけだよ。(略)
 デモの段階では、プロコル・ハルムみたいだった。そういえば、プロコル・ハルムはすごくよく聴いてたな。プロコル・ハルムは大好きだったよ。はっぴいえんどのメンバーもみんな聴いてたよ。海のバンドがプロコル・ハルム。陸のバンドはザ・バンド。ふたつ並べてよく聴いてた。対照的なグループだなって。
(略)
――[海の音楽か山の音楽か、という話から] 細野さんは山の人ですか?
 わからないな。でも、きっと海だよ。ぼくは若いときから海しか行ってないんだ。サーファーになりたかったから。子供のころから、山よりも海に縁があったと思う。(略)
 一日中サーフィンやってたんだ。でもすぐやめちゃった。うまくできないから。ぼくの知り合いのお兄さんたちが、テッドっていう湘南の有名なサーファーグループだったんだ。彼らのところに行って、サーフボードを借りてやってたんだけど、ロクに練習もしなかったから上達しなかった。
――いくつのときですか?
 高校三年生くらいのとき。
――ビーチ・ボーイズは?
 ビーチ・ボーイズは中学から聴いてた。だから、サーフィンにはすごく詳しかったんだよ。ワイプアウトとかね(笑)。
――イメージは万全だったわけですね。
 完璧だった。でも、できなかった(笑)。当時のサーフボードはデカくてね。怖いの。昔はスキーの板だってデカかったでしょ。まあそもそも、練習もしないでできるわけがないんだけど(笑)。

細野晴臣の歌謡曲~20世紀BOX

細野晴臣の歌謡曲~20世紀BOX

 

謡曲

――さっき、歌謡曲のカバーをやるかもしれないと言われてましたけど、歌謡曲というものになにかこだわりはあるんですか?
 歌謡曲をつくろうという意識はなかったな。松本隆の歌詞に曲をつけていった、というだけだよ。とくにそのボックス(『細野晴臣の歌謡曲〜20世紀BOX』)をつくったときに、自分でもあまりの量の多さに圧倒されちゃった。それで、自分のソロのために書いた曲よりも、歌謡曲のほうが多いから、作曲をすることが自分の本質なんだと思ったわけ。歌謡曲はメロディを一生懸命考えてつくる行為でしょ。それが自分の本質なんだと思った。ソロではサウンド全体のことまでを考えてやってるから。
(略)
――それは自己表現とは違うんですよね。
 違うんだと思う。人のためにつくっていたから。でも、そのなかで自分のベストを出していくというか。とにかく限界の時間のなかでやってたから、あれこれ考えるヒマはない。

――仕事としてやった作品のなかに、意外と自分の本質みたいなものが宿っている。それが生業ということなのかもしれませんね。
 うんうん。本当にぼくはメロディが好きだからね。一時期は、物語性みたいなものはもういらない、うるさいやと思って、90年代から十年間近く、メロディのことは一切排除してたの。サウンドとテクスチャー、そこにスピリットが入るとどうなるかという実験をしてた。でもやっぱりこの時代になると、いかにメロディが絶滅種になってしまったかを強く感じる。「メロディの十二音階限界説」なんてことを聞くと、「なにを」と思うんだよ。あまりにも左脳的な考えだよね。

カントリー

[聞き手:鈴木惣一朗が以前YMOの「ロータス・ラヴ」をカバーして]
あの曲はこういう曲はなんだって。そのことがきっかけになったのかはわからないけど、あのころにつくったテクノの曲は、実は全部カントリーだったんだってことがわかったの。(略)
――ディーヴォクラフトワークなんかもカントリー&ウェスタンのマニアでしたよね。彼らのナンバーもアコースティックでやればすぐカントリーになっちゃう。

[補足]
ここで→kingfish.hatenablog.com 紹介したザッパのインタビューにこんなのが。

今、ニューウェイヴと見なされている音楽の中には、60年代のセミ・フォーク・ロック風コードチェンジが、80年代のテクノロジーを駆使して再編成されたようなものがあるのには驚かされた。まったく一緒なんだ。

[以上補足終了]
ミックスはお好き?

――細野さん、ミックスの作業はお好きですか?
 ミックスは嫌いだよ。アルバムをつくってて楽しいのは最初だけで、最初のうちはもうめちゃくちゃ楽しい。でも、終盤のミックスあたりにくるともう楽しくない。「マジメか?」っていうくらいぜんぜん楽しくない(笑)。

チャック・レイニーを観に行って

いい演奏っていいなと、改めて思ったよ。ぼくはこれにはとても及ばないなと。でも、もしかしたら、自分にもこういう道もあったのかもしれないな、とは思った。べース弾きとして、いいセッションに参加してね。東京じゃそういう道は無理だけど、ニューヨークに行って、皿洗いでもしながらミュージシャンの道を歩んでいたら、ああいうセッションをやっていたかもしれないね。ベースを持つとやっぱりああいう音楽をやりたくなるわけ。ちょっとフュージョンぽいやつ(笑)。

マンソンとビーチボーイズ

ポランスキーの映画は全部観てるよ。(略)
[シャロン・テート殺人]事件について『ロマン・ポランスキー初めての告白』っていうドキュメンタリー映画で、インタビュー形式で詳細を語ってるんだよね。それを観たら、知らない話がたくさんあって驚いたんだ。(略)
 ポランスキーシャロン・テートと一緒に住むことになったハリウッドの邸宅は、テリー・メルチャーがポランスキー夫婦に貸したものなんだ。テリー・メルチャーってのは歌手のドリス・デイの息子で、バーズを発掘したり、リップ・コーズのプロデュースをやったり、ブルース・ジョンストンと一緒にサーフィンやってたりしていたような人物。ビーチ・ボーイズのカバー集をつくったら、ビーチ・ボーイズより出来がよかったりとかね(笑)。なんで彼の周囲にチャールズ・マンソンがやって来たのかということが、あの映画を観て初めてわかったの。(略)
 要は、ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンが当時マンソン・ファミリーに出入りしていて、それでマンソンをテリー・メルチャーに紹介したりね。マンソンはフォークシンガーになりたかったんだよ。で、メルチャー自身も、マンソンと関わるのはやぶさかでもなかったみたいで、レコーディングをしてもいい、みたいなことになってたんだけど、レコード会社の上層部が反対してボツになっちゃった。それを恨んで殺害しようとしたっていう話なんだけど、それが果たして真相かどうかはわからない。テリー・メルチャーがいると思って忍び込んだら、友だちと団らんしてしたシャロン・テートがいて、その彼女が犠牲になったと。
(略)
それでぼくのなかで、いろんなことが全部がつながっちゃったの。ビーチ・ボーイズからチャールズ・マンソンまで。
(略)
 テリー・メルチャーはブライアン・ウィルソンヴァン・ダイク・パークスを紹介した人でもあるんだよ。なんか、すべてつながってるでしょ。
――噂ですがハリー・ニルソソもそこのグループに入って。それでアタマがおかしくなっちゃった、とか。
[引用者註:この本で→『kingfish.hatenablog.com)』「僕もトンガリを持たなくちゃ!」と思ってたのというのはそういうことなのだろうか]
 そうなんだ。
――細野さんもそのころにロサンゼルスにいたら危なかったですね(笑)。
 ほんとだよ(笑)。YMOのころに、プロデューサーのトミー・リピューマの家に招かれたことがあってね。レコード会社との契約のお祝いでホームパーティーに招待されたの。そしたらドクター・ジョンも同じころに契約したらしく、そのパーティーに来ていて、「舎弟のロニー・バロンが世話になったな」とお礼を言われて、すぐそのあとに「この世界は気をつけろよ」みたいなことを言われたの。
――ショービズの世界の、ホントの怖さですね。
 ドクター・ジョンは人がいいから散々だまされてきたんだよね。
(略)
ちなみに『ローズマリーの赤ちゃん』の舞台になってるアパートは[レノンが住んでいた]ダコタ・ハウスなんだよ。

テリー・メルチャー

テリー・メルチャー

 
オブリオの不思議な旅

オブリオの不思議な旅

 

時計がまたうごきはじめた

震災後二年半以上経つけど、あれから最近まで自分のなかの時計がとまっていたということがこの前はっきりしたんだ。
(略)
地震で倒れたままだったゼンマイの蓄音機[の脚を直して](略)ゼンマイを巻いてかけてみたら、ちゃんと音が出た。そこから時計がまたうごきはじめて、いろんなことが起こりはじめた。
(略)
福島に行くとみんなそうなんだよ。みんな時計がとまってるって言うんだ。ぼくもそこは共有してた。
――それは曲になりますか?
 書きたいよ。書きたい一方で、この世にはいい曲がいっぱいあるからもういいやという気持ちもある。(略)
だから、ぼくはいつも遠慮がちに曲を書いてるんだよ。(略)
オリジナルがなんだよという気持ちもあるんだけどね(笑)。

憐れみの感情

――細野さんは自分で自分のことは好きですか?
 いや。嫌いだね。
――どの程度嫌いですか?
 憎しみはしてないかな。憐れだなと思ってる。

宮崎駿さんには

 [ナウシカの時に]一度会ってるよ。「この絵は東ヨーロッパのほうが舞台になってるんですかね」なんて言っちゃって、「まあ、そんなようなものです」なんて言われて。なにも知らなかったからね。(略)
実はそのころぼくも徳間さんに誘われてたんだ。(略)
だけど、その時点ではテイチク(ノン・スタンダード・レーベル)と契約することがほぼ決まっていたから、お断りしたんだ。

大瀧詠一の死

いなくなって初めて「しまった」と思うわけだ。彼の持っている豊かな音楽世界に、もうちょっと接触していたかった。というか、話したかったよね、もっとそういうことについて。いなくなった途端に、もう話す相手がいないんだなと思った。ぼくのソロ活動についてどう思ってるかも聞きたかったんだ。そういうことをもうそろそろ話してもいい時期だと思っていたし。でもなによりも、彼のソロアルバムを一緒につくりたかった。ソロアルバムをつくることについては、彼はぜんぜん動かなかったから、なにを考えていたのかも聞きたかったしね。福生に行って、野上くんと一緒にでもいいから行って、そういう話を聞きたかった。聞きたいことがいっぱいあったんだよ。
(略)
 亡くなってから、いろんな記憶がよみがえってくるんだ。ぼくがYMOで世の中に出ていったときに、大瀧くんが自分で車を運転して、当時ぼくが住んでいた白金の家まで来たんだよ。(略)
『ロング・バケイション』はすでに完成していて、出るということが決まっていた時期だったと思う。それで、なにをしにわざわざ来たかっていうと、今度は自分が世の中に出ていく番が来たんだという表明をしに来たの。(略)
YMOはすでに世に出ていったから、次は自分の番なんだという、決意の表明をしに来たんだ。これでようやく、はっぴいえんどのメンバー四人の足並みが揃うんだということを、わざわざ言いに来たんだよ。キャデラックに乗って来てね。そっちのほうがびっくりしたよ(笑)。いつもぼくの車の助手席に乗ってたから。
――『ロング・バケイション』をつくる前の大瀧さんは、ナイアガラ・レコードでとても苦労されていて、CMの音楽の仕事をして、その収入をレーベルの運営費に回していたような状況でしたよね。
 そうだよね。それはぼくも感じてたよ。
[大瀧との関係は]
ライバルだよ。なにかをつくってるときに、「これを聴いて大瀧くんはどう思うかな」って、ふと思うことがあるよ。アンビエントをやってるころは一切考えたことはなかったけどね。
(略)
 去年の秋ぐらいかな。野上くんがぼくのところに来たんだよ。はっぴいえんどを含む自分の写真のアーカイブをインターネットで公開したいってことで、それにあわせてはっぴいえんどの四人のインタビューを録りたいってことだった。松本隆鈴木茂のところにはもう行ったって言うから、「大瀧くんは?」って聞いたら、これから福生に会いに行くんだってことだった。(略)
野上くんが打ち合わせで会いに行ったときに、「ソロをつくるならいつでも手伝うよ」っていう伝言を託してたんだ。
(略)
[それへの返答は]「細野流の挨拶だ」って。まあ、大瀧くんならそう言うだろうなとは思ったけど。でも、ぼくはその伝言に「本気だよ」という気持ちは込めていたんだ。林立夫鈴木茂とぼくとでユーミンのバックをやったり、このあいだはアッコちゃん(矢野顕子)や大貫妙子のバックをやったりしたんだけど、そのユ二ットは自分のなかですごく生き生きしていて、すごくやる気になる。だから、その三人と大瀧くんとで一緒にできたら最高だなと思ってた。いまこそ、それができる時期なんじゃないのと思ってたんだ。実は十年くらい前から、はっぴいえんどをもう一回やらないかという誘いがたくさん来てたわけだよ。一番熱心だったのは小倉エージさんなんだけどね(笑)。
(略)
――エージさんは、はっぴいえんどの初期ディレクターとして、ある種のやり直しをしたかったんでしょうね。
(略)
ぼくは70歳になったらできるだろうっていろんなところで言っていたんだけど。(略)
いろんな記憶が曖昧になってきて、だいたいのことはどうでもよくなってくる(笑)。それは経験上そうなの。YMOもそうだったしね。(略)
悪いことはすっかり忘れちゃうね。
(略)
――大瀧さんは、本当に細野さんの話をよくしてたらしいですよ。
 そうなの?本当に?
――ええ。すごく細野さんのことを気にしてたらしいですよ。「テクノってなんだろう」って、人に聞いたりしてたらしいですし。(略)ポップスの王道を大瀧さんが選んだのは、細野さんがテクノロジーを使った音楽をやっちゃったからですよ。

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