ボブ・ディランのことだけを書いた雑誌『ザ・テレグラフ』掲載記事をまとめた二冊目の本。
学生寮におけるボビー・ジマーマン
現在ミネアポリスで弁護士をしている同寮生だったスティーヴ・バードは、ボブ・ジマーマンのことをよく覚えている。
彼は背が低くて、頭はクルーカットで、顔には桃の綿毛のような産毛があった。まるで未熟な15歳の高校生のようだった。正直に言って、彼の印象は、他の連中も同じ意見だったけれど、高校でよくいじめられるタイプの子って感じだったんだ。わかるだろ、みんなにからかわれるさえない奴さ。
ボブの隣の部屋にいたリチャード・ロックリンの記憶も同様のものだった。
「彼はいつも回りの連中がからかいたくなるような、実際からかっていたけど、馬鹿みたいなうす笑いを浮かべていたんだ」
未発表の詩の中で、ボブはクリスマスにひとり学生寮に残された自分のことを次のように書いている。自分を「変なやつ」だとして、絶えず自分を見てくすくす笑い、困惑させるような同窓の連中とはほとんど交友関係がなかったため「ぼくは単なる友だちですらなかった」と。これはまさしく告白の詩である。
さらに別の未発表作では、彼が学生寮を嫌い、どう感じていたかがはっきりと歌われている。彼は自分自身を、ジェイムズ・ディーンのように「体制的なすべてのこと」との絆を断ち切る、感傷的な人物に置き換えている。学生寮はボブにとって「体制社会」を代表するものであり、彼が、そこに住む連中と彼らの「いいかげんな見当外れの笑い」を嫌悪していたことがはっきり表現されている。またボブ自身「かなり神経質だったみたいだ……」と告白している。
北国の少女
ジャハラナ・ロムニー、旧名ボニー・ビーチャーは、〈北国の少女〉で歌われている主人公だ
(略)
私は当時、18歳のミネソタの女の子とは思えないような、難解なレコードをたくさん集めていました。ハイスクールの同級生だったバリー・ハンセン、今はデメント博士として誰もが知ってる有名人になっていますが、彼の影響で早くから不可解なブルースなんかに興味を持っていたのです。(略)
上級生になって、私はニューヨークに劇場巡りに行くようになり、サム・グッディ・レコード店を見つけました。そしてファンキーなシンガーやブルース・シンガーの類いだろうと思う古いレコードを何でもいいから集めたのです。(略)キャット・アイアンやラビット・ブラウンのレコードを買いました。1959年にミネソタの田舎娘がそんな洗練されたブルースに傾倒していたなんて信じられないでしょう。
(略)
[ある日隣に座った二人の]話の中に、何人か知ってる名前が話に出てきました。キャット・アイアンやスリーピー・ジョン・エステスが何者かなんて知ってるような人は聞いたことがなかったので、つい聞き耳をたてて、とうとうふたりの方を向いて、口を出してしまったんです。するとハーヴィーがこっちを向いて(略)
[どうせお前が知ってるのは、キングストン・トリオとかだろ、と意地悪く言ってきたので]
私は頭にきて自分が集めている難解なアーティストの名前をずらりと並べました。するとディランは首を伸ばして私に向かって「本当? 彼らのことを知ってるのかい?いったいどうやって知ったんだい?」と話しかけてきたのです。私は「みんな家にレコードがあるのよ」と答えてやりました。そして、気がつくと私はディランと一緒に家に向かっていました。彼は結局私のレコードコレクションを借りて帰りました。数年間も返ってきませんでしたが!ハハハハ!
翌年私たちはふたりともミネソタ大学に入学しました。(略)
例えばブッカ・ホワイトやフレッド・マクドウェル(略)
ディランは、自分の曲を書き出す前によくそうした曲をいくつか聴いて、古いレコードから吸収していました。私たちは繰り返しそうしたレコードを聴いたものです。キャノン・シティ・ジャグ・ストンパーの〈Stealin'〉もそのひとつでした。ディランがその歌を練習していたのを覚えています。それにラビット・ブラウンの歌も聴いていました。後に彼はその歌詞の一部を自分の歌で使っています。
次の年、カレッジ 2年生の時、ディランはすでにグリニッチ・ヴィレッジにいました。(略)
彼が人前で演奏した初期の頃のひとつ、ガーズ・フォーク・シティでの演奏も見ることができました。そして、彼が私をウディ・ガスリーに紹介してくれた時は、もう最高の感激でした。
ミネソタに戻ってから彼は2、3か月姿を消しました。旅に出ていたんです。戻ってくると、ひどいオクラホマなまりでしゃべるようになっていて、カウボーイハットにカウボーイブーツといういでたちでした。彼はそれはもう大変なくらいウディ・ガスリーにかぶれていたので、私はこう言ったんです。あなたはあなたなのよ。あなたはミネソタ・ボーイなんだから、自分以外の何者かを装うなんて馬鹿げているわって。でも彼はどっぷりウディ・ガスリーに浸っていて、魂を奪われた感じで、酔っぱらうと、自分をウディと呼ばない相手には返事もしなかったくらいでした。冗談じゃありません。まったく、ウディ・ガスリーに狂っていたのです。その時は馬鹿馬鹿しくって、見栄っぱりで、愚かなことだと思っていましたが、今は、偉大なボブ・ディランが生まれ出る兆しだったのだと思うと納得できます。
彼がニューヨークに行った時、彼はウディを病院に見舞うことができるくらいの関係になっていました。でも。彼がそのことを手紙に書いてきても、ミネソタのみんなは誰も信じませんでした。またあいつのたわごとだって。だから彼が私を入院中のウディ・ガスリーに会わせてくれたのは、私にミネソタに帰って(略)彼が本当にウディの友人のひとりだってことを言ってほしかったんだと思います。実際彼はウディの友だちになっていました。あれには本当に感激しました。
(略)
――当時のボブ・ディランの曲をテープに録音していましたか?
ええ、私のベッドルームで何度か録音しました。(略)先生が持っていた小さなオープンリールのテープ・レコーダーでしたが、後にテープは盗まれて、その中の多くの曲が海賊盤で流れてしまいました。1本のテープに40か50曲は入っていたでしょう。あるパーティで録音したのには、〈Who Killed Davy Moore?〉の初期のバージョンや〈One Too Many Mornings〉が入っていました。彼は少し酔っていました。〈Corrina Corrina〉のとってもすてきなヴァージョンもあって、うっとりするようなとても愛らしい感じでした。
(略)
初めてのハーモニカホールダーは、私がシュミット・ミュージック・ショップで買ってあげたものなんです。同じ日に、私は彼が爪を割らないようにに、「ハード・アズ・ネイルズ」っていう爪磨きを買わなくてはなりませんでした。
(略)
――周囲の目が変わったのはいつですか? テン・オクロック・スカラーで演奏を始めたでしょう?
(略)
[スカラーで演奏するようになり]次第に町でも知られるようになって、コーナー、レイ、グローヴァー、デイヴ・モートン、デイヴ・ウィッテイカーといった仲間もできました。(略)デイヴはキャンパスの中に大きなアパートを持っていて、とっても知的な人物で、私たちみんなが彼の影響を受けました。ディランは彼から本を読むことの楽しさを教わって、夢中になったのです。それまでは読書なんて軽蔑していた彼がです。私たちは集まって時間をつぶしたり、古いゴスペルソングを歌ったりする仲間でした。
(略)
ディランの歌い始めた頃の声は、そう、アルバム〈Nashville Skyline〉の声ってわかるかしら? 他のアルバムとは声が違うでしょう……ディランの初期の頃の声はあんな感じでした。再びあの声が聴けるなんて驚きでした。彼は気管支炎を患って、ほとんど1年近く咳が止まりませんでした(略)[が、声が荒れるほどウディ・ガスリーに近づけると医者には行かず]
あの1年近い咳が、結局彼の甘い声を失わせてしまったのだと、〈Nashville Skyline〉を聴くまでは思っていました。
(略)
彼はずいぶん早い時期に〈Song To Woody〉という曲を書いていました。おそらくそれを書いた頃はまだミネソタにいたと思います。(略)
彼が私のアパートにやって来て「大至急!手伝ってくれ!おふくろの見舞いに家に帰らなけりゃならないんだ!」(略)急遽ヒビングに帰ることになって、髪を切って欲しいって言うんです。「ごくごく短くしてくれ。おふくろは、ぼくが長髪だって知らないんだ。短く!もっと短く! もみあげも全部切ってくれ!」って。私は彼の言う通りに一生懸命に切りました。するとちょうどデイヴ・モートンとジョニー・コーナー、ハーヴィー・エイブラムが部屋に入ってきて、ディランの頭を見て「おお、何てひどい頭なんだ!いったいどうしたんだい?」と叫びました。ディランは「彼女がやったんだ!少しそろえてくれって言っただけなのに、全部切っちゃったんだよ。怖くて鏡が見られないよ!」と答えました。そして彼は歌を作りました。〈Bonnie,Why'd You Cut My Hair? Now I Can't Go Nowhere!(ボニー、どうしてぼくの髪を切っちゃったの?もうどこへも行けないよ)〉という歌です。彼はその夜コーヒーハウスでその歌を歌いました。ある人からごく最近聞いたのですが、ミネソタに行くと今でもあの歌を歌っている人がいるんだそうです。(略)もうミネソタの名曲になってるみたい!それで、私の名前が歴史に残ることになったのです!
ニューヨークのボブ・ディラン
ぼくは自分がやろうとしていることに完全に夢中になっていた。200曲ものウディの歌をマスターした後、ニュージャージー州モーリスタウンの病院に彼を訪ねる機会を見計らってウディに会いに行った。ぼくはニューヨークからバスに乗った。ウディが隣にいるようで、ぼくはずっと彼の歌を歌っていた。
(略)
その葉書は、ワークシャツ姿のウディがギターを抱えている写真を使った有名な絵はがきで、ディランの興奮が文面にあふれている。
「ウディに会えた。ウディに会えた……彼を知り、彼に会い、彼と向いあって、彼のために歌った。ウディと知り合った。やった!」
(略)
ディランは、ガスリーが毎週日曜日(略)ボブ&シドセル・グリースン家で過ごしていることを知った可能性が高い。(略)グリースン夫妻に会い、週末彼らの家を訪れることを承諾してもらっている。
彼は、ウディを愛しており、彼といっしょにいたいということ以外ほとんどしゃべらなかった。小さめな丸い顔と美しい瞳を持った彼は、大天使のようで、聖歌隊の少年みたいだった。当時の彼の髪は、長い巻き毛で、濃い青緑色の帽子をかぶり、2サイズは大きいと思われるようなブーツを履いていた。彼の身に着けているものすべてが、小さいか大きいかのどっちがだった。彼は間に合わせに全然身体に合ってないジャケットを買ったようて、想像するにヴィレッジの古着店で75セント位で買ったのではないかと思われた。
1961年2月13日ガーズ・フォーク・シティ
1年ほど貨車に乗っていたようなよれよれの服装をした、変な格好の少年が、その夜、みんなが思わず足踏みをしてしまうような調子の歌を歌った。ディランの初期のスタイルはブルースとロックとカントリーを合わせたようなものだった。そのスタイルは初めてガーズ・フォーク・シティのステージに上がった時から身についていた。
(略)
ディランはいわゆる普通のフォークシンガーのような歌い方を試みたこともあるが、結果は滑稽にしか聞こえなかった。しかし、彼がハンク・ウィリアムズ風の哀愁を帯びた声と、ウディ・ガスリー風の装飾音、ジミー・ロジャーズ風の叫び、リトル・リチャード風の嘆きを込めてヒルビリー風に歌うと、これまでの普通のフォークシンガーの歌い方はすべて滑稽に思えるようになったのである。彼のようなミュージシャンはこれまでどこにもいなかった。トム・パクストンも初めて見たディランに衝撃を受けたひとりだ。
ガーズ・フォーク・シティのフーテナニーの夜だった。デイヴ・ヴァン・ロンクとぼくは並んで座っていた。その時、少年のようなディランがステージに上がって歌った。ぼくたちはふたりともすごいと思った。無限の可能性を彼に感じた。
(略)
[ナット・ヘントフの感想]
やせこけた少年の声を初めて聴いた時は、とても耐えられなかった。それまでぼくが聴いていたどのサウンドの基準にもあてはまらなかった。それが聴く者を魅了するものじゃなかったという意味ではなく、ただそれが音楽として認められるものだとは思わなかっただけだ。でも彼には何かがあった。確固とした存在感のようなものが……
(略)
ジョーン・バエズはこう語っている。
ガーズ・フォーク・シティで、ディランは〈Song To Woody〉を歌っていた。その時私は完璧に打ちのめされました。今でも覚えているけど、彼は背が5フィートくらいしかないんじゃないかと思うほどちびに見えました。本当に背が低くて、間の抜けたような小さな帽子をかぶっていて……でも、すばらしさには驚かされました。私は完璧に打ちのめされ、彼のスタイル、彼の目、何か霊感を感じさせるようなすべての虜になり、何日も彼のことだけを考えました。私は驚嘆し、幸福感に浸っていました。これほどまでに才能豊かな人物がいるということが私を幸せにしました。その天才に私は完全にくぎづけになり、それからいつも彼のステージを見る度に興奮しました。
アイドルはチャップリン
ロバート・シェルトンも彼が書いた記事『カリスマ・キッド』の中で、同じような見方をしている。
彼は若干19歳の少年だ。しかし、彼の青白い顔を見ると、まるである部分は聖歌隊の子供みたいで、ある部分はビートニクのようでもあり、ニュージャージーからのトンネルのどこかで迷い子になり、マンハッタンの出口の前であわてて自分を取り戻したような感じがした。ヴィレッジのクラブでディランは、ブルージーな歌や即興詩のような語りで客を感動させることもあったが、ほとんどの場合、客を笑わせていた。彼は不思議なことに、人を引きつけるチャーリー・チャップリンのような雰囲気を持っていた。彼のよろめくような足取りは、マイクに向かった単なるミュージシャンを越えるものであり、彼はその帽子とヘアースタイルとハーモニカで数多くのステージの仕事を得た。
このように、彼の初期のクラブでの様子をいくつか回想すると、驚くことにどの場合にもチャーリー・チャップリンとの比較がなされている。実際にディラン自身も、チャップリンの影響を受けたことをビリー・ジェイムズのインタヴューで語っている。
ステージの上で、いや、ステージを離れても、ぼくの頭からいつも離れずに憧れていたアイドルはチャーリ・チャップリンだ。理由は……説明するには難しいが、つまり……彼は男の中の男だったんだ。
次回に続く。