科学神話の虚実『ニュートンのりんご〜』

ニュートンのりんご、アインシュタインの神』

ニュートンのりんご、アインシュタインの神 -科学神話の虚実-

ニュートンのりんご、アインシュタインの神 -科学神話の虚実-

 

ガリレオピサの斜塔から物体など落下させていない

[レーン・クーパー教授は1935年自著で]ガリレオピサの斜塔から物体など落下させていないと主張した。
(略)
 ガリレオピサの斜塔の物語が最初に現れたのは、ガリレオが晩年、視力を失い、自宅に幽閉されていた1639年から亡くなる1642年まで仕えていた若い秘書、ヴォンチェンツィオ・ヴィヴィアーニによるガリレオ伝である。(略)自分では目撃していない出来事のことだった。
(略)
[1544年フィレンツェ歴史学者ベネデット・ヴァルキは]物体が重いほど早く落下するという主張に反対している。従ってガリレオが生まれるずっと前に、運動についてのアリストテレスの主張は、落下する物体に関する実験によってすでに反論されていたのである。
 その後、パドヴァ大学の数学教授、ジュゼッペ・モレッティが落下物体の実験を行い、1576年、重量の異なる同じ材質の落体が地面に一緒に到達することを報告した。
(略)
 ガリレオはピサ大学にいたあいだ(1589〜1592年)、死後かなりたってから出版された書物『運動について』の執筆を始めた。この本には、塔から落下する物体の問題が収められている。
 アリストテレスの)この意見がどれくらい馬鹿げているかは、火を見るより明らかだ。つまりたとえば、一方が他方より100倍よりも大きい二つの鉛の球が月がある球の高さから落下したとして、大きい方が地球に到達するのに1時間かかった場合、小さい方が動くのに100時間かかるなどと一体誰が信じるだろうか? あるいはまた、高い塔から石の大きさが一方の石の倍となる二つの石を同時に放り出したとして、小さい方が塔の半分まで落下したときに、大きい方はすでに地面に到達しているだろうか?
 この手稿で、ガリレオは塔から落下する物体について繰り返し言及しているが、ピサの斜塔を明記してはおらず、またいかなる実験についても詳細には記してはいない。さらにガリレオは、この著書ではっきりと、異なる重量の物体が異なる早さで落下すると主張しているのだ!彼は、一方が木でもう一方が鉛という二つの物体を高い塔の頂から落下させたら、「鉛の物体の方が大きく先行して移動した。これが私がしばしば試験していることである」と主張した。ガリレオはそして、落下する物体の速さは、(アリストテレスが主張したと思われる重量などではなく)密度に比例する、と考えていた。
 16世紀末のある時点で、フランドルの数学者で技術者のシモン・ステヴィンは、異なる重量の落下する物体が同時に地面に衝突するとはっきり確信するようになった。彼は、一方が他方より10倍よりも重い二つの鉛の球を「約30フィートの高さの位置から」下の厚板へと落としたが、「軽い方が重い方より10倍の後になるのではなく、両方とも一度にゴツンと厚板に衝突するように思われる」と主張した。
(略)
 1604年にガリレオは、パオロ・サルピに手紙を送った。その中では、異なる物体が同じ速さで落下すると述べている。その頃ガリレオは、速さは(時間にではなく)落下距離に比例すると誤って考えていた。
 1612年、ギリシャ語の教授であるジョルジョ・コレジオは、マッツォーニの行った物体落下の実験は不十分な高さから行われたとして、マッツォーニの主張を批判した。そしてコレジオは、ピサの塔のてっぺんから物体を落下させ、コレジオ自身でアリストテレスが正しい、すなわち物体全体は、別々にした部分よりも速く落下することを示した、と簡潔に述べている。
(略)
 数十年後の1641年3月、ピサの数学教授、ヴィンチェンツオ・レニエリはガリレオに手紙を送った。その中で彼はピサの斜塔から物体を落下させて実験を行ったことを述べ、それらの実験を解釈するようにガリレオに頼んだ。レニエリはこう書いている。
(略)
我々はついにそれとは反対の事実を見出した。大聖堂の鐘塔の頂きから落とした、鉛の球と木の球とのあいだには、少なくとも三クビトの差が生じるからである。一方が球形砲弾と同じ大きさで、他方がマスケット銃弾と同じ大きさの二つの鉛の球での実験も行ったが、同じ鐘塔の高さからは、大きい方と小さい方のあいだでは、大きい方がゆうに掌一つ分先行していたのが観察された。
(略)
 レニエリが斜塔での実験について盲目のガリレオに書き送ったとき、ちょうどヴィヴィアーニはガリレオの秘書であった。1年後、ガリレオはこの世を去った。15年後、ヴィヴィアーニは、ガリレオがピサの塔から物体を落下させたと主張した。
 ガリレオが何十年にもわたって書いた多くの手紙や手稿のどれにも彼が斜塔から何か物を落下させたと主張するものはない。そしてそのできごとを目撃したであろう彼の同時代人の誰もそんなことを報告していないのだ。

ダーウィンはフィンチをまともに採取していなかった

 古い本の多くは、チャールズ・ダーウィンガラパゴス諸島を訪ねたとき、フィンチの嘴に多様性があるのを見て進化について閃いたと主張している。
(略)
 しかし、手堅く行われた過去の研究では、ハーヴァード大学のフランク・J・サロウェイが、実はダーウィンがフィンチの影響をほとんど受けなかったこと、その食餌をほとんど観察していなかったことを明らかにしている。実際のところ、ダーウィンは集めた標本が少なすぎて、どの種のフィンチがどの島の固有種であるか決定できなかった。各々の標本をどこで採取したか追跡できる記録すら残していなかった。実は、どの島にも固有のフィンチがいたわけではなかった。それなのに不幸にしてサロウェイの歴史的発見にいまだ気付かないままの教師や著述家たちが存在するのである。
 ガラパゴスのフィンチがダーウィンに進化について考えさせる決定打になったという流布している神話が生じたのは、『ビーグル号航海記』の第二版に、フィンチに関するこんな一文が加えられているからだ。「互いに近縁である鳥の小規模な一群における構造の漸次的変化と多様性を見ると、この群島に元々いたわずかな鳥から、一つの種が選ばれていろいろなものに変化したと本気で想像してもいいかもしれない」。だが、この短い見解はダーウィン旅行記とおびただしいノートとは異質であり、1835年の航海時の彼の考えを代表するものといえる証拠はない。この見解を加えたのは1845年のことであり、彼が進化を確信してからすでに8年たっていた。それにもかかわらずフィンチが名声を獲得したのは、彼の航海記のいくつもの版が、くだんの引用文とともにフィンチの図を含んでいたのが理由の一つに挙げられよう。
(略)
ダーウィンガラパゴス固有種の巨大ウミガメを進化論に基づいて考えたといわれている。(略)
 だがこの神話もまたフランク・サロウェイによって一蹴されてしまった。実際のところは、当時ダーウィンは甲羅の形がドームかサドルの形か(ちなみにガラパゴとはサドルを意味する)に基づいてカメの種を区別できる可能性には、注意を払っていなかった。彼はガラパゴスで目にしたカメがインド洋で見たのと同じ種だと推定していた。だからカメの甲羅を集めて分析しようという気はなかったのである。フィッツロイはガラパゴス諸島から船を出発させる前に、30もの巨大リクガメを捕獲したが、ただ食糧として捕まえたにすぎなかった。ダーウィンとその仲間たちは、それらの巨大で美味しいカメをイギリスに帰還する前にことごとく食し、ばかでかい甲羅と骨を海水に投げ捨てていた。ダーウィンは二匹の子ガメをペットとして飼ったが、船上にもち込んだ巨大なリクガメの方は全部平らげたのである。
(略)
なぜ異なる種が同じ環境で生きてきたのだろうか?この疑問を彼は早い時期には考えていなかったので、すべての標本を場所の違いをラベルして分けることができなかった。だから彼はフィンチについて特に推論できるはずはなかったし、カメに至ってはうわさを聞いただけだった。
(略)
標本が何の標本なのかを特定しようとして、ダーウィンは混乱して悩んでいた。多様な標本は異なる種、属またはただ単に異なる変種だったのか?どこでそのいくつかを手に入れたのだったか?どれが新しい種なのか?南米リマよりも北の北西部沿岸には彼は足を踏み入れていなかったので、ガラパゴスの動物たちが島に固有なのかどうか判断できなかった。南米からの大型の化石にしても、彼はそれが何なのか、ほとんど特定できなかったのである。

フランクリンは電気凧なんかあげてない

1752年5月、マルリ=ラ=ヴィルで数人の人間が、先の尖った40フィートもの鉄の棒を使って嵐の雲が電気を伝えてくれるかどうかをテストした。雲が頭上を通り過ぎたとき、鉄の棒から電気の「火花」を抽出した。このグループは、たいてい「トマ・ダリバール他」と言われる(略)フランクリンが提案した実験に概ね従って試していたが、フランクリンとは独立にやっていた。だからフランクリン自身が雲から電気を引き出した最初というわけではなかったのだ(何年も後である1768年には、フランクリンはダリバールのことを、「雲から電光を取り出そうと試みる勇気のある最初の人物」と書いて称賛している)。わずか数か月後である1752年7月、また別のフランス人の実験家、ジャック・ド・ロマがある科学の学会に手紙で、「子供のおもちゃ」を使って雲から帯電する可能性を探るという計画をたてた、と述べている。
 1752年8月27日、ベンジャミン・フランクリンの新聞である『ペンシルバニアガゼット』紙は、ダリバールその他の避雷針の実験を要約した手紙を載せた。フランクリンは自分がこれに類する実験を行ったということは一言も付け加えていない。その年の10月、フランクリンは自分の新聞に凧の実験の短い説明を載せた。彼が説明した他の実験と比べると、説明は曖昧でフィラデルフィアのいつ、どこで行われたかもはっきり書いておらず、証人のことにも触れていない。自分が実験を行ったとは実際に述べてはいないのだ。
 はっきり言えば、雷が凧に落ち、電気を糸に走らせたら、それはすさまじいことで、糸だって蒸発するだろうという想像は誰でもできそうだが、それをフランクリンは説明していなかった。
(略)
 1753年、フランス在住のジャック・ド・ロマは、空中で発生した電気を大凧の撚糸を使って集める試みに成功したことを報告した(ド・ロマはフランクリンや誰か他の人が同じ実験を思いついていたことは知らなかった)。ほとんど濡れていない糸で電気を集めるのには失敗したド・ロマは、薄い銅線を麻糸に沿わせた。
(略)
ガラスの棒の先端に金属をつけ、それを吊るした筒に向け、近づけることによって火花を引出した。彼と数人の手伝いおよび見物人もまた指を使って火花を引き寄せた。頭上の暗い雲が流れていくと、火花は減った。雲がもっと流れてくると、目撃者たちは指、鍵、細いガラス棒、剣を用いて電気を感じようとした。
(略)[嵐が近づき]
ド・ロマは自分の頭に蜘蛛の巣が張られたような電気の効果を感じた。すると長いわらが一本、地面から跳んでスズの筒へと引き寄せられ、すさまじい爆発を起こし、雷のような音をたて、電気の「火」の8インチほどの明るい火花を生じた。さらに火花が出るとともにバリバリという音が起こり、糸は光を発した。風と雨が凧を落としてしまったので、実験は終了となった。幸いなことに、負傷者はいなかった。
 フランクリンとは違い、ド・ロマは、さまざまな手順、寸法、予防措置、時間、条件、見えたこと、観察、音、さらには匂いまで詳細な観察を豊富に残している。

次回につづく。