追憶の泰安洋行 細野晴臣が76年に残した名盤の深層を探る

泰安洋行

(略)前作『トロピカル・ダンディー』で細野さんはサンバやバイヨンといった中南米のリズムを取り上げていた。(略)この頃になると細野さんのロック離れは顕著だ。50年代に生まれた欧米の新しい音楽を便宜上ロックと呼んでいたのだろう、と『ニューミュージック・マガジン』誌への寄稿文に冷静に書き、音楽を快いと思う人間の潜在意識の最下層に届いた音楽こそがPOPSであり、POPSの根本とはリズムであることが分かってきた、と重ねている。

 徹底したリズムやグルーヴへの拘り。トロピカル三部作の特徴はそれだが、『泰安洋行』の頃には新たにニューオーリンズの音楽、ハワイのエキゾティック・サウンド、そして沖縄の音楽へのアプローチが開始されている。

(略)

[2014年の特別講義での言葉]

 「いい音楽ってなんだろう。それは人がやっていなくて、でもどこかで聞いたことがあるような微妙なもの。決して何かの焼き直しではなく、どこかに新しい発見がある。おっ!と思わせる何かがあるもの」

(略)

 ヴォーカル・マイクにはアルテック639Bが選ばれた。その外観から"鉄仮面"と称される年代もののマイクだ。クラウンレコード日本コロムビアから独立する形で63年に創立されたレコード会社だが、スタジオにはコロムビア時代の機材が多数残っていた。年代ものの"鉄仮面"もその一つで、全指向性のダイナミック・マイクと無指向性のリボン・マイクの2ユニットが使えるハイブリッドなマイク。細野は往年の柔らかな音を得るために、この"鉄仮面"をリボン・マイクとして使っている。

(略)

 『泰安洋行』は当初からコンセプトがはっきりしていたので迷いがない。反対に苦労したのはトロピカル処女作『トロピカル・ダンディー』だ。通称『トロダン』制作開始期、細野晴臣が狙っていたのはモダンなファンクだった。林立夫がスタジオにリズム・ボックスを持ち込み、あれこれリズム・パターンを鳴らす。それを聞きながら細野も曲調を考えていくケースがあったという。かなりカッコいいオケができたが、いざ歌うとなると細野のカラーに似合わない。

(略)

サウンドは(略)タワー・オブ・パワーのようなテイストのものだった。細野はこれを一度破棄して、アルバム制作は白紙に戻る。その後、久保田の「細野さんってトロピカル・ダンディーじゃない?」という進言に閃きを得て、音楽性をガラリと変える。

(略)

 アルバム最終録音日は76年6月11日。『泰安洋行』発売日は7月25日。完パケから発売まで1カ月という短いスケジュールは当時でも突貫工事、でも何とか間に合った。アルバムの制作予算を国吉に尋ねると、「現在の新車1台分くらいかな」とのこと。すると数百万円?……そんなですか、と驚いてしまう。法外な予算をかけてはいない名盤であることを知った。

 何せクラウンには自社スタジオがあった。スタジオ使用料は一応伝票こそ会社の中を回るが費用は発生しない。制作費の大半は参加ミュージシャンへの支払い分になる。普段は演歌を録音しているスタジオは夜7時まで塞がっているが、それから後は翌朝まで使い放題。ティンパンのようなサウンド集団にとって、スタジオが自由に使える環境こそが欠かせないものだった。

 ティン・パン系のセールスは最初から好調だった。鈴木茂『バンド・ワゴン』が『オリコン』20位台までランク・インして、3万枚を越えるヒット。細野の『トロダン』も3万枚を越えた。75年11月発売の(略)『キャラメル・ママ』はさらに好調で、発売間もなくして4万枚を越える。毎日のバックオーダーが3ケタという状況が続いていた。『泰安洋行』も2万枚を優に超え、関係者が売り上げに窮した覚えはない。

 盤石なプロモ予算はないが、業界のシンパに助けられた。

第3回 林立夫が語るチャンキー・グルーヴの極意

 『トロピカル・ダンディー』は中南米のリズムに焦点を当て、続く『泰安洋行』では沖縄とニューオーリンズの音楽が二本の柱に。一般的にはそう区分けされる2枚だが、林によれば大きな違いは感じられない。キーワードになるのは"ルンバ"のリズムだ。

 「(略)ずっと底辺に流れているものは分かりやすく言えばルンバなんですよ。沖縄にはルンバはないんだけど、シャッフルに近いビートがあって3連系ですよね。その3連系は間違いなくニューオーリンズに入ってるわけでね。本の背書きみたいにタイトルは"ニューオーリンズ、ラテン、沖縄"みたいに書いてあったとしても、基本的なアクセントとかグルーヴは変わってなくて、基本はルンバです。ポップスの基本は全部ルンバですよ。ルンバのリズムを思い出しながら30~40年代以降のポップスを聞いていくと全部はまりますから。そのリズムを2・3で取るか、3・2で取るか、取り方の違いがあるだけでね」

(略)

[だが]いざ演奏するとなると林でもすぐには上手くできなかったそう。

 「セカンド・ラインはマーチとルンバの組み合わせ。根っこにあるのは2拍子で、その発展形です。白人のドラマーはスネアでマーチングをやっているので上手い。日本人で上手いのは自衛隊と消防署くらいですよ(笑)。最初は僕も何が何だか分からなかった。ドクター・ジョンのコピーとかしましたね。要するにルンバのアクセントの間にスネアのロールが入るというのが初めてだから、何だこれ?という感じ。ルンバのアクセントもマーチングも知ってる。でも二つが一緒になったのは聞いたことがない。不思議でしょうがなくて、作ったことのない料理に挑戦してるような気持ちでした」

 

 『泰安洋行』が単なる古のリズム音楽のカヴァー集ならば、これだけ大きな注目を集めることはなかっただろう。代わりにアルバムの中に新たなリズムの発見があった点が重要だ。代表的な例は〈ルーチュー・ガンボ〉における"1拍子のリズム"の発見。そしてもう一つは〈ポンポン蒸気〉で楽しめる、"おっちゃんのリズム"のウキウキ感。林立夫は、その重要な音楽的成果の生みの親でもある。(略)

1拍子とは何なのか?

 「1拍子というのは、お経だと思えばいい。お経ってアクセントがないですから。木魚のビートはイチ・イチ・イチで裏に行ったりしない。逆にそこに2拍子でも3拍子でも入れることができる。1拍子のビートとビートの間を8分っぽく割るか、3連っぽく割るかはそこに流れるメロディや雰囲気で変わっていきます。イチ・イチ・イチの中で、自由に行けますよね」

(略)

 「ずっと1拍子でリズムをキープする。だから終わった後は曲調の割にはヘロヘロです。そこへ持ってきて、もしもメロディとか構成が分からなければ、何をもって自分が音楽を楽しんでいくかが分からなくなってくる。そうなるとキツイですよね」

 細野晴臣は自身のブログで〈ルーチュー・ガンボ〉の発想を「音楽の基本的構造はほぼニューオーリンズのスタイルで、イントロに聞かれる(ニューオーリンズ風の)ピアノのフレーズと、沖縄音階のリズム・ギターから出来たものである」と書いている。(略)

どんなガイダンスを受けて録音に臨んだものか、林の中では明確な記憶がないそうだ。

 「細かなやり取りは憶えていない。沖縄っぽいもの………お囃子の掛け声と三線を抜いてしまえば、大きく分ければリズムはシャッフルなので、僕は少し緩めのシャッフルを叩いたはずです。あのリフ、カッコいいけど録音の時は細かなところはできてなかったんじゃないかな?録ってる時は〈ルーチュー・ガンボ〉という曲名も知らなかった。僕の場合は歌を聞きながら、或いは歌がなければベース・ラインを聞きながら、何かしら細野さんが作ろうとしている世界の情緒性を追いかけていました」

(略)

ハイサイおじさん〉のリズムをテクノで解析していく。すると普通は8分音符が鳴るタイミングが12対12で均等に分割されるものが、この曲は14対10の間隔で分かれているという。そうすれば、〈ハイサイおじさん〉のリズムが機械的に出来上がる。YMOの3名がそうした発見をしたのは80年代になってからのことだ。

 「いかにも坂本らしいアプローチですよね。僕らは手でやっていたし、手でやっていたから生まれたノリかもしれない。例えば僕が東北地方にいたとして、民謡を歌いながら手拍子を打つとする。そこで手の平でこねる、大切なのはそこですよ。何回こねて、どれくらいの強さで打つかなんて東北の人は考えていないから。それを坂本は数値に置き換えてみたんでしょうね」

(略)

 もう一つの注目曲〈ポンポン蒸気〉(略)のリズムは長らく"おっちゃんのリズム"として知られている。(略)

[そう名付けたのが]林立夫だったと僕は今回の取材で初めて知った。

 「確かに僕が付けました。チャンキーという言葉と同じ感覚かな、言ってみれば洒落てないという感じ。(略)白い長袖のメリヤスのシャツ着て、手拭い巻いて出てくる感じ。"でもあのおっちゃん、ファンキーだよね、味あるねえ!"という人いるじゃないですか。そういうおっちゃんの歩く姿をイメージなんかして。もっと言えば"無粋の粋"、そんなことを考えてましたね。

(略)

おっちゃんにするには、余計なことをしないこと。オカズで入れるフレーズによっては急にシカゴとかニューヨークに行っちゃうことがあるでしょ。そこに行っちゃダメ。だからやらないことを先に決めるんです。言わば断捨離です

(略)

意図的になりすぎると左手(スネア)が凄く遅くなるでしょ?遅くなると次の1拍目(キック)が必ず容赦なしにやってくるので、その間隔がせっつくわけですよ。その違和感のない、ギリギリのところで遅らせます。ずれてしまって、そこで帳尻を合わせると、今度はテンポが遅れてしまう。じゃなくてテンポはキープしながら、自分なりの表現とか情緒性を織り込むわけです。とってもアナログ的な方法ですけどね」(略)

(つづく)

第5回 1976 日本のトロピカル事情

 「今年(1975年)になってから僕の興味の対象は北アメリカを離れ、カリブの島々とそれを取り囲む海、そしてその海の向こうにかすんで見える大陸と海、といった風景に集中しはじめた」

 アルバム『トロピカル・ダンディー』に封入された本人自筆のライナー・ノーツは、そんな書き出しで始まる。

(略)

 細野晴臣のトロピカル志向は精神的にも逼迫したものだったはず。ノストラダムスの終末観に影響され、核戦争の脅威に怯えていた。若き日の薬物のバッド・トリップで神経を病んでいた時期もある。細野は楽園に救いを求めていた。しかし同時に音楽的にも実に真剣で、たとえば小泉文夫が紹介する民俗音楽(略)や、中村とうようが紹介する中南米のポピュラー・ミュージックを丹念に聞き取りながら、自分なりの音楽地図をまとめていった。

(略)

[74年]マイティ・スパロウの『ホット・アンド・スウィート』というアルバムが発表されている。(略)ヴァン・ダイク・パークスが共同プロデュースを手がけた一枚だ。(略)中でも東洋音階のリフを含んだダンス・ナンバー「チャイニーズ・ラヴ・アフェア」という曲が痛快。きっと細野はヴァン・ダイク繋がりでこのアルバムを聞いていただろうし、「北京ダック」(略)の賑やかさなどはこの楽曲とも関連しそうだ。

(略)

細野はニューオーリンズと沖縄、そして自分がいる東京の間で三角形をつくる。

[ライはメキシコ、ハワイ、LA](略)

ライ・クーダー『チキン・スキン・ミュージック』の日本盤発売は10月25日で、細野が先に聞いて『泰安洋行』を作るような時間的猶予はない。両者はまさにコインシデンタルなアルバムだったのだ。

(略)

『チキン・スキン……』はマリアッチやフラの楽しい演奏という枠を越えて、「いつも優しく」や「スタンド・バイ・ミー」に顕著なゴスペルの感覚が感動を生む。黒人男性3声のコーラス隊が落ち着きや深みを添えている。本人の最高傑作と今も称される所以は、このスピリチュアルな感覚にあるはずだ。

 ライが獲得したゴスペルの感覚を細野晴臣が手にしたのは76年のアルバム『はらいそ』収録曲の「ウォリー・ビーズ」を書いた時ではないかと思う。

 『泰安洋行』を作り上げた細野は横尾忠則のエッセイ集『なぜぼくはここにいるのか』に衝撃を受け著者に会いに行く。横尾は細野をインドへの旅に誘う。(略)

コチンの海を舟で行くと、数年前に見ていた夢と重なるシーンがあった。昼間なのに空の彼方に月が透けている。月の夜、横尾と一緒に想念を送るとUFOを目撃もする。そこで細野晴臣は実感する。月は自分の守護神なのだと。そしてこんな実感に行き着くのだ。

 オーム・ナム・チャンドラーヤ!

 サンスクリット語で、私は月に帰依しますというフレーズである。このフレーズが先の「ウォリー・ビーズ」後半で何度もリフレインされていた。まるでメロディのついたマントラ(真言)、感動を越えたありがたみも生まれてくる。

(略)

 「ウォリー・ビーズ」が生まれ、細野のトロピカル路線はゴールに辿り着いたのかもしれない。最初はリズムやサウンドに導かれ、スピリットが最後にやってきたのだ。

第6回 エンジニア=田中信一が残した魅惑の響き

 細野が当時エコーが嫌いで、エコーを取るように田中に指示したというエピソードは鈴木惣一朗の快著『細野晴臣 録音術』にも詳しい。(略)細野の意向を汲みながら、しかし田中は最小限の範囲でのリヴァーブ処理はしていた。

 「あの頃の日本のスタジオはモウリ・スタジオから始まって響かない。そのまま録ったらデッドになって音楽になりません。だからリヴァーブというより、僕は部屋の中の響きくらいのパッと広がる音にはしたかった。でもそれも見えちゃうとダメだから隠しエコー、隠しリヴァーブという感じですよね」

(略)

低域を重視したサウンドを求めて、エンジニアはどのようにバランスを取ったのだろうか。

 「(略)細野さんに教えてもらったことはありました。それはミックスの時に"モノにしろ"ということです。一度2チャンにミックスして、それをモノラルで聞き返してみる。すると音がマスキングされて下の楽器が見えなくなっちゃう。でもレヴェルはメーターだけ振ってしまう。ということは逆に低域をカットしないといけない。低域ばかりだとモノは成り立たない。バランスが難しいので相当勉強になりましたね」

(略)

第9回 久保田麻琴

「『泰安』のセッションは見ていない。(略)細野さんの家でカセットを聞いて、"お、こんなカッコいいことやってる!"って驚いたんだよ。"この沖縄ヴォイスはどこから来たの?"って聞いたら"沖縄料理店でスカウトしたんだ"って言ってたから、やるな、取材能力凄いな、なんて感心したものだよ(笑)」

 つまり初演時のリズム作りには久保田は関わっていないことになる。

「細野さんは夕焼けの〈ハイサイおじさん〉録音で十分学んでるから。そこにニュオーリンズを合体させたんだね。その辺の彼の再現能力や分析能力は凄いものがあるよね。私らでは到底太刀打ちできない」

(略)

アルバム『セカンド・ライン』。この時のメンツは豪華だ。ドラムスにレヴォン・ヘルム、コンガとコーラスにスティーヴ・クロッパー、同じくコーラスにボビー・チャールズ。78年6月に彼らがレヴォン・ヘルム&RCOオール・スターズとして来日した際に録音したもの。ドラム以外のリズム隊は夕焼け楽団のメンバーで、ピアノに佐藤博、細野はコルグのシンセ演奏で参加。

(略)

 「RCOオール・スターズ、日比谷野音のライヴで前座が夕焼けだったんだよ。打ち上げで渋谷のブラック・ホークに行ったら、誰かが夕焼けの『ハワイ・チャンプルー』をかけた。〈ハイサイおじさん〉を聞いたレヴォンが"この曲はいい!"と言ってくれて、"じゃあ一緒にスタジオでやる?""やる、やる!"というノリになって、早速コロムビアのディレクターにスタジオを押さえてもらった。沖縄繋がりで〈ルーチュー……〉をやろうとすんなり思ったし、細野さんの了解も特に取らなかったはずだよ。夕焼けにはギタリストがいるから、スティーヴ・クロッパーはギターを弾かずにセッション全体を仕切ってる感じだったね」

 リズムの指定は特にレヴォンに伝えなかった(略)やりたいようにやってもらった。レヴォンも"よし、分かった!"という感じで本番に臨んだが、『泰安洋行』でしばしば語られる"おっちゃんのリズム"にはならなかった。だから強いて言えばあのテイクは、アーカンソーのおっちゃんのリズムなのだそう(笑)。

(略)

 ファンキーの極意について、かつて久保田は(略)ロバート・パーマーと語り合ったことがある。(略)

 「80年代の中盤だったな。来日した折にサンセッツの楽屋に来たんだよ。最初に私に聞いたのは"フォンクは何拍子だ?"(略)

(フォンクはファンクの語源であり、ニューオーリンズで生まれた用語)(略)

 「いきなり聞かれて、こっちはモゴモゴしていた。するとあいつは先走りして"トリプレッツだ"と言った。とはいえ、アフリカやケルト系にある跳ねたハチロク的な3連じゃなく、つまり2拍3連なんだと。(略)本の中にも書いたけど(『世界の音を訪ねる』岩波新書)、たとえばタッタカ・タッタカ・タッタカというリズムがあるとする。それを繰り返してるとサンバもグナワもそうだけど、タッタカ・タッタカと頭にアクセントが付いたりする。さらに繰り返すうちに、タカタ・タカタにもなる。それらが混じり合ってグルーヴが生まれていく。"これがリズムの基本だ"ということを、パーマーは私に言いたかったんだね」

(略)

林立夫は『泰安洋行』〈ルーチュー……〉で、できるだけ無機的な1拍子を叩こうとしていた。(略)時々沖縄風に"タタタタ・タスタタタ"と割れているようにも感じる。なるべくリズムが跳ねないように叩いてはいるが、周りの楽器との兼ね合いで時々跳ねるアクセントがついているように聞き手が"錯覚"する時もある。

第10回 ドラマー伊藤大地 1拍子

 「何度かあの曲をセッションしてるうちに、細野さんが"あ、今のこの感じいいね。1拍子になってるよ!”なんて仰ったことがある。その瞬間に"これが1拍子なのか!"と僕も気付きました。最初は4ビートだった気がするし"2拍4拍にアクセントを入れないでね"くらいのリクエストは事前にあったかもしれません。1拍子で叩こうとすると裏拍もなくなるし、何か無になる感覚があるんですよ(笑)。自分の中の1拍子というのは、宙に浮いてるというか、何かこう足を地面に下ろす前に次の一歩に行く感じというか……」

(略)

 本連載に登場した林立夫は〈ルーチュー・ガンボ〉のドラミングについて"ずっと1拍子でリズムをキープする。だから終わった頃には曲調の割にはヘロヘロです"と話していたもの。

 「僕もあの回の記事は読みました。確かにヘロヘロです。リズムを刻む時って、例えば4小節ごとに自分の中で風景を作り、それを何度も繰り返す感じなんです。まるで同じ車窓の景色が流れるというか。でも1拍子の場合は景色が流れない。他のリズムの曲との違いは……自分が無になるという言葉が一番しっくり来るかな。駅から駅までの車窓があるとしたら、それがないというか。普通のドラミングが一駅分の車窓をみんなに提示する役割とするならば、真反対で車窓を提示しないという演奏になります」

 林立夫は1拍子の音楽を「お経と思えばいい」と喩え、伊藤は「車窓の景色がない鉄道旅」と呼ぶ。(略)

第11回 八木康夫

[『泰安洋行』のリリース直後の文章]

 「このアルバムに関して、というよりテイン・パン・アレーの音楽に関して、よく"シャレている""パワーがない"ということをきかされる。シャレに関していえば、僕はシャレたものをつくったのではなく、つくったものをシャレたのだ。いろいろなシャレの部分、つまり表面層の部分をはがしていけば本質が現れる。そして、とどのつまりそれはリズムにぶちあたってしまうだろう。これに関して論ずる人は皆無だ。また、パワーがない、ということも当たり前である。"日本"を意識しすぎたアメリカ文化圏の中では、国籍不明のものは、その人にとって何の力にもなり得ない。さらに、僕のやる音楽は"現在"に対してパワーを持つものではなく、それは"未来"に対して持つ。よって『泰安洋行』は未来の人間へのプレゼントだ」

(細野晴臣「音楽の表面をはがした、その下にあるもの」『ニューミュージック・マガジン』1976年10月号)

(略)

コンサートの楽屋で憧れのミュージシャンだった細野と初めて会ったヤギが、当時、下落合の細野宅を訪れたのは73年12月26日。(略)細野は「絵を描くのに参考になるのでは?」と考えて、ある舶来タバコのパッケージをプレゼントした。(略)

プレゼントのお礼にと、ヤギはタバコのデザインを下に細野のイラストを描き始める。タバコと同じ浮き輪の中にテンガロン・ハット姿の細野をクレパスで描いた。細野の当時の最新作は『HOSONO HOUSE』だから、まだトロピカルのイメージはない。手作りの額に入れたイラストを進呈したのは74年12月16日。(略)

 翌年の3月25日、ソロ次作を制作中の細野から電話が入る。制作期間は1週間しかないが『トロダン』用のイラストを描いてほしい、というオファーだった。

(略)

"浮き輪の中の自分を、カントリーではなくトロピカルな感じにしてほしい"なんていう注文を受けましたね」

(略)

 ヤギヤスオはこの時、26歳。(略)駆け出しのフリーランスだった。初めてのレコード・ジャケットがこの『トロダン』だったというから、いきなりの大役を任されたことになる。

(略)

 続いて76年には『泰安洋行』の作業が始まる。(略)

タイトルを手掛かりにして早速ヤギは2枚のラフスケッチを描いてみた。1枚は船で溺れる細野のイラスト。細野の祖父が沈没したタイタニック号に乗り合わせていたという逸話も本人から聞いている。もう1枚はカンフー・ファイター姿の細野。どちらにも大きな文字で"泰安洋行"のロゴがあった。

 3月21日、そのラフ案を持ってヤギは狭山の細野宅を訪れる。残念ながら2案とも却下になったが、家にあるレコードのジャケットをあれこれ眺めながらディスカッションは続いた。そこでふと、あるアルバムに目が止まった。“Like 'Er Red Hot"というLP盤だった。

 デューク・レコーズというレーベルのコンピレーション盤である。デューク・レコーズは52年に米国で生まれたブルース、R&B系のレーベル。同レーベルの代表的シンガー、ボビー・ブランドやクラレンス"ゲイトマウス"ブラウンの代表曲を収録したサンプラー的内容のものだった。演奏はラテン音楽ではないが、青唐辛子と赤唐辛子がちりばめられたジャケットのデザインはエスニック風味満載で、聞き手の食欲を大いにそそる。

 「細野さんと二人で"これだ!この線で行こう!"と盛り上がりましたね。赤と緑の2色刷りのデザインが良くてね、次は2色刷りで行こうと。これをもとにしてアジアの安っぽい感じを出したいと思った。僕は当日、古い譜面集も持って行ったけど(略)[それの]表紙も2色刷りでした。その辺のノスタルジックな感じも取り入れつつ、イメージが固まっていきました」

(略)

アジアのチープさのためには、細野もヤギも紙質に拘った。本当はザラザラの安っぽい紙にしたい。しかしクラウンレコードでは、そうした紙が手に入らない。代わりに考えたのが通常のジャケット紙の表側ではなく裏側に印刷するというアイデアだった。

 「アナログ盤をお持ちの方は、『泰安洋行』ジャケット紙の裏表を触ってみてほしい。印刷されてない裏側の方がピカピカ・ツルツルしてるはずです。印刷所の試し刷りの時からジャケット紙の裏面に刷ったので、校正刷りの紙の裏がスリー・ドッグ・ナイトのジャケットだったりしてたなあ(笑)。

(略)

印刷所は4色を使いたいのに2色でいいと言われる。しかも紙の刷り方も変則的。この仕事の後に印刷所からクラウン宛に"レコード会社は印刷代をケチるな"という投書があったという笑い話まで付いている」

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第14回 s-ken登場、マーティン・デニー

 時は1975年1月のこと。(略)『トロダン』の制作は、当初のファンク路線が上手く進まず難航していた。そんな時、細野晴臣は二日続けて運命的な人物に出会う。まず一人は久保田麻琴。沖縄から〈ハイサイおじさん〉のシングルを持って細野を訪ねた久保田は「だって細野さんてトロピカル・ダンディーでしょ?」「香りと音楽は記憶を蘇らせてくれる」という二つの名句をプレセントした。そして翌日、アルバム評を書いていた月刊誌『ライトミュージック』編集部を訪ねると、今度は「細野さん、チャイニーズ・エレガンスっていいですね!」と話しかける男性がいた。二日続けてのトロピカルな誘いに、アルバム制作の意図は"エキゾチック""と""トロピカル""に定められていった。

(略)

その人こそ、現在もミュージシャン、音楽プロデューサー、作家、イヴエント・オーガナイザー……と八面六臂の活躍を見せるs-ken(以下、片仮名でエスケンと書く)である。『ライトミュージック』誌編集部にいた当時は田中唯士と名乗っていた。『トロダン』のクレジットにはスペシャル・サンクスとして久保田麻琴南こうせつと共に田中唯士の名前が記されている。

(略)

もともとエスケンはプロの編集者ではなく、版元のヤマハ主宰の作詞作曲講座に通うソングライターだった。その講座は""ポプコン"優勝者がこぞって集まる、アマチュア梁山泊のようだったという。(略)

71年にはアイ・ジョージが歌った〈自由通りの午後〉の作曲を手がけ、この曲がポーランド音楽祭"ソポト"の日本代表選抜に選ばれる。そのご褒美としてエスケンはヤマハから世界一周周遊券を貰う。チケット代は49万円。当時サラリーマンの月収が3万円の時代だった。

 帰国後、ヤマハ契約社員として音楽ミニコミ誌の編集も依頼されるようになる。(略)

 『ライトミュージック』でアルバム評を書いていたミュージシャンは、他には松本隆伊藤銀次、元はちみつぱいの和田博巳、山岸潤史ら錚々たる面々。(略)

 「地球を一周してきて、僕は逆に日本人だと気付かされた。それで異邦人のような目で東洋の匂いのする、境界を越えたサウンドを僕なりにコレクションしてたんだよね。

(略)

古今東西、エキゾチックな音源を探しまくっていた。(略)その流れの中で、編集活動を通じて少し年上のイラストレイター河村要助さんに会うんですよ。互いの家が近所で、だんだんレコードの貸し借りをするようになっていくんです。後にサルサ通で知られる要助さんだけど、その頃はロックンロールやR&Bのレコードをたくさんオリジナルで持っている人でね。ロッカー・ルンバというかラテンの要素が入っていてストリート感があるドリフターズの〈渚のボードウォーク〉とかコースターズの〈ポイズン・アイヴィー〉とかお互いに好きで、その延長線上でマーティン・デニーのオリジナル盤に繋がっていった。(略)僕が貸したサルサのウィリー・コローンを要助さんが気に入ってあっという間にサルサ通になっていき、僕は特にマーティン・デニーのLP(『エキゾチカ』など)が好きになったわけです。(略)そんなエキゾチック・サウンドの僕のイメージが出来上がりつつある時に、一番話をわかってくれそうな細野さんと会ったんですね」

 話を整理すると、エスケンがカセットにダビングして細野にプレゼントしたマーティン・デニー『エキゾチカ』はもともと本人所有のものではなく河村要助から借りたレコードをカセットにコピーしたものだった。

(略)

 細野晴臣マーティン・デニーに圧倒的な衝撃を受けて、それまでの音楽観が大きく変わる。

(略)

「エキゾティシズム考」というエキゾチックに感じる音楽を集めたコラムを『ライトミュージック』誌75年4月号に書いていたりして、そのセンスの早さに驚くが、和風に響くラテン音楽の妙味は、最初の世界一周の旅から帰った後、子供の頃に観ていた映画を思い出したのが発端だったとエスケンは語る。

 「僕が50~60年代、見ていた市川右太衛門演ずる『旗本退屈男』は大きいね。シリーズには『唐人街の鬼』(51年)とか『謎の南蛮太鼓』(59年)なんてタイトルがあって、南蛮船が襲われて上海に流れて行くような映像に変な音楽が流れてたんだよ。ああいう感じが入ってる音楽が作りたくて、70年代頭から自分のアルバムに『南蛮渡来』というタイトルを秘かに付けていた。それが奇しくも10年後に、じゃがたらのデビュー・アルバムのタイトルになるわけだけど」

(略)

90年にはマーテイン・デニーが日本制作のアルバム『エキゾチカ’90』を発表する。

(略)

 実はこの時期、日本を訪れた[79歳の]マーティン・デニーエスケンがインタヴューしている。(略)

貴重なその一部を紹介したい。先にそのプロフィールを。マーティン・デニー(1911~2005)はNY生まれ。LAで育ち、30年代に計4年半、ドン・ディーン・オーケストラの南米ツアーにピアニストとして参加。この時に知った様々なリズムや民俗楽器が彼の音楽性に影響を与える。54年にはハワイのポリネシアン・レストラン"ドン・ザ・ビーチコーマー"に招かれて、当初は2週間の約束でピアニストとしてハワイに赴く。結局それから生涯最期の日まで、彼はハワイで人生を過ごすことになる。

(略)

 エキゾチックな音楽を作ろうという意識的な取り組みはあったんですか、というエスケンの問いに対して、デニーはこんな風に答えている。

 「そういうことは考えてなかった。ハワイの気候や海や自然、住んでいる人から受ける影響が自然に自分の中に蓄積されていった。何か一つのきっかけがあって出来た訳じゃないんだ。南米を旅した時はラテン音楽のリズム感に刺激を受けたし、子供の頃から親しんできたクラシックやジャズも混合されている。それにハワイはメルティング・ポットだ。日系、中国系、フィリピン、ポルトガル、白人と様々な人達が狭い所で生活している。そういう色々な人に合うような様々なエッセンスを取り入れたものが私の音楽だと言える。だから自然に彼らの中にも浸透していったんだよ」

 続いては音楽プロデューサーならではのエスケンの質問。チャック・ベリーエルヴィス・プレスリー全盛の時代に、あなたの音楽はパーカッションの音が凄くシャープでエコーも独特です。音作りの秘訣はありますか、という問いには、こう答えている。

 「自然のリバーヴを得るために工夫したね。カメハメハ高校の講堂は天井が高いので、リバーヴが良くかかって、コンサート会場で演奏してるようなエフェクトがかかるんだよ。自分が作りたい音は自分が一番良く分かってる。勿論レコーディングの時にはプロデューサーにもミキシング・ルームに入ってもらうけど、自分が気に入らなければ何度でもやり直したよ」(雑誌『any』90年8月16~30日号、連載ページ「異人都市快楽」より。)

 実際に会ったマーティン・デニーの人物評をエスケンに尋ねてみる。

 「凄くいい人だったね。優しそうでさ。ああいう独特なサウンドを作り上げた人だから、もっとトリッキーな人かも、という予測もあったんだよ。でも音楽を自然に作ったらこうなっちゃった、という答えだったから、逆に驚いた部分もあったね」

次回に続く。