ノー・ディレクション・ホーム ボブ・ディランの日々と音楽

ボビー・アレン誕生

十ポンド(約四・五キロ)の大きな男の子が産まれた。安産でなかったのは、赤ん坊の頭がとても大きかったからである。

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 近隣の住人たちでさえ、ボビー・アレンが可愛らしい子供であることを認めずにはいられなかった。金色の頭髪の彼に[母の]ビーティーはよくこう言った。「女の子だったらよかったのに。こんなに美しくて」。彼女は鮮やかなリボンを息子の髪につけて、カメラの前でポーズをとらせた。

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十五か月のときに撮られた写真に写る彼は、まさに天使のような子供で、りんごのようなほっぺたと笑顔を見せ、金色の髪をなびかせていた。

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 [父のエイブ]が二歳の息子を会社に連れて行くと、秘書や事務員たちが集まってきた。三歳のときにボビー・アレンは初めて人前でパフォーマンスを行った。父のデスクの上に座り、ディクタフォンに向かって語りかけ、歌ったのだ。幼い少年は自分自身の録音された声に驚いた。

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一九四六年、ダルースで行われた母の日の祝祭(略)

「ダルースで話題になったのよ。実際、今でも話題になるわ」とボブの母は振り返った。

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ステージに呼ばれたの。四歳の小さな変わり者さんは立ち上がると、くしゃくしゃのカールした髪でステージに向かったわ。あの子は足を踏み鳴らして注目を集めようとした。ボビーは言った。「もしみんなが静かにしてくれたら、おばあちゃんのために『サム・サンデー・モーニング』を歌います」って。そうしてあの子は歌って、みんな騒然としていたわ。あまりに拍手がすごいから、あの子はもう一つの自慢の曲『アクセンチュエイト・ザ・ポジティヴ』を披露した。(略)祝福の声を伝える人たちからの電話が鳴りやまなかった。

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 それから二週間も経たないうちに、ボブはさらにもう一つコンサートを開いた。ビーティーの妹のアイリーンがコヴェナント・クラブで豪華な結婚パーティを開催したのだ。(略)

「私は言ったよ」と父は言う。「歌うべきだ、みんなお前の歌を聞きに来たんだからってね。

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その声はいわゆる少年のソプラノというよりは、か細い、魅惑的な声で、全員がボブの二つのレパートリー曲が終わるまで静かにしていた。そしてまたしても喝采が起き、ボビーはおじのもとへ歩いていって二五ドルを受け取った。彼は初めてもらった報酬を手にして母に近寄った。「お母さん」と彼は言った。「お金は返そうと思う」。彼はおじのもとに戻り金を渡した。彼はその日の英雄となり、花嫁と花婿をしのぐほどの注目を浴びた。父親は振り返る。「息子の歌を聞いた人は大喜びして笑顔になる。愛らしくて、普通の子供とは全然違っていた。みんな息子に触れたり話しかけようとして、わざわざやって来るんだよ。息子がいつの日かとても有名になるだろうなんてことを信じようとしなかったのは私たち両親だけだったと思う。誰もがこう言うんだ。この子は天才になるとか、あれになるだとか、これになるだとか。みんなが言うんだよ、家族だけじゃなくてね。

初めてのギター

 ヒビング・ジュニア・ハイスクールでは、一目置かれる人物は誰しも学校の楽団に入っていた。ボブは頻繁にハワード・ストリートの楽器店を訪れるようになり、そこでは十ドルで三か月の楽器レンタルや購入ができた。ボブは初めトランペットを持ち帰り(略)澄みきった音を連続して出すことが一度もなかったようだ。サックスを試すべくトランペットが返却され、家族はホッとした。サックスも二日後、打ちひしがれて返却した。彼は別の金管楽器に挑戦して、その後はリード楽器に挑戦した。どちらも思い通りにはいかなかった。最終的に、音楽への喜びが萎えかけていた不安のさなかに、ボブは安いギターを借り、スペイン王家の家宝であるかのように扱った。指示書に従って手を動かし、優しく六本の弦を鳴らし、指でフレットを押さえた。それは音楽らしきものに聞こえた。何時間も彼はギターを手に抱きかかえて座りながら、実験し研究した。指はヒリヒリと痛んだ。(略)

彼の耳と指がすぐに主導権を握るようになった。彼は押さえ方を次々とマスターしていった。音階と調を見つけたのだ。

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 ギターは、彼にとっての杖、武器、地位の象徴、ライナスの毛布、権威者が持つ短いステッキとなった。ヒビング周辺では、レザーストラップをつけたギターを肩にかけて道を行ったり来たりしている彼の姿を覚えている人もいた。チェット・クリッパは、どんなに寒い日もボブはギターを持っていたと振り返る。ディランは成長するにつれ、自身の内側へと向かっていき、家族ぐるみの友人やクラスメートたちと会話をすることが少なくなった。

ぼく初めてのアイドルはハンク・ウィリアムスだった

 ハイラム・「ハンク」・ウィリアムスは、多くの農民、トラックドライヴァー、工場労働者たちにとっての「ヒルビリーシェイクスピア」だった。アラバマの丸太小屋で生まれた彼唯一の音楽的指導者は、ティートットという黒人の路上シンガーだった。 ウィリアムスは一二五の曲を書き、非常に簡素な歌詞から数々の哀愁を絞り出した。(略)ハンク・ウィリアムスは悲しい曲をさらに悲しくするようにして、一九五三年の元旦に二九歳で亡くなった。公式発表では、心臓発作で亡くなったとされている。だが非公式には、あまりに生き急ぎ、過剰なまでのアルコールとドラッグの摂取で亡くなったと言われている。

 ハンク・ウィリアムスが詩人であるなら、リトル・リチャードは衝動の男で、R&B界のジョン・ヘンリーだった。リチャード・ペニマンは、一九三五年にジョージア州で生まれ、十歳のときに教会や街角で歌い始めた。(略)

取りつかれたように、悪魔のように叫んで飛び跳ね、ジョン・レノンは感情を解放した「原初の叫び」の第一人者だと表現した。彼はブラック・ゴスペルとモダンソウルの架け橋となった。プレスリーはリトル・リチャードの曲を出し、ローリング・ストーンズヤードバーズは彼のスタイルに同化し、ポール・マッカートニーは彼の信奉者となった。五十年代半ばのディランは、ラジオ大学でリトル・リチャードの生徒となり、彼の猥雑な説教へ熱心に耳を傾けた。「おれの音楽はヒーリングミュージックだ。口のきけないやつらや耳の聞こえないやつらも、話したり聞こえたりするようになる」。リトル・リチャードは神学生になることを目指して少しのあいだ一線を退いていたが、一九六二年にショービジネスの世界に戻った。彼はリヴァプールのキャヴァーン・クラブでビートルズとともに活動し「イェー、イェー、イェー」の高いファルセットの出し方を指導した。ディランはリトル・リチャードに会ったことはなかったが、ビートルズより七年も前から彼のスタイルを取り入れていた。一九五九年の高校の学校年鑑に、ボブは自らの野望をこう書いた。「リトル・リチャードのバンドに参加すること」

エルヴィス

一九七八年のワールドツアーでディランは私にエルヴィスが亡くなったときの心境を語った。「とても悲しかった。あのときはまいったよ!完全にまいってしまった……そんなこと本当にめったにないけどね。自分のこれまでの人生について考えこんだ。子供時代のことも全部ひっくるめて。一週間誰とも口をきかなかったよ。 エルヴィスやハンク・ウィリアムスがいなかったら、ぼくは今やっているようなことをできていないと思う」

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 一九六八年、シャイで華奢な電気技師であるリロイ・ホイッカラが私にこう語ってくれた。「あるとき、ぼくとボブは街なかで会って音楽の話をしたんだ。ぼくたちは八年生で、ぼくはドラムの演奏に熱中していた。モンテ・エドワードソンはギターを弾いていて、ぼくらは一九五五年頃、ボブの家のガレージに集まってはセッションをしていた。モンテがリードで、ボブはリズムと歌が担当だった。ぼくらはバンドのようなことをしていると気がついて、ゴールデン・コーズと名乗ることに決めたんだ。リーダーはいなかったよ。ボブは当時、心からリトル・リチャードを崇拝していた。彼はピアノでもコードを上手く弾けた。ロックはちょうどその頃に始まったんだ。ヘイリーやエルヴィスがまさに有名になり始めていた」

 「ぼくらはよそでも演奏をするようになって、ムース・ロッジでの集会のときやPTAの集まりなんかで演奏をしていた。タレント・コンテストがあるときには必ず出場した。

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リロイはすでに一九五五年の時点から、ボブの曲作りの速さに感心していた。「彼はピアノの前で、あっという間に曲を作るんだ。コードを鳴らして、即興で演奏する。電車についての曲をR&Bスタイルでさっと歌ったのを覚えているよ。彼は一瞬で曲にまとめることができたんだ」。

リトル・リチャード 

 およそ一年後、ボブと名もなきバンドは、ヒビング・ハイスクールのジャケット・ジャンボリー・タレント・フェスティヴァルに出演した。

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 ボブは額の上で髪を盛り、リトル・リチャードスタイルにしていた。バンドメンバーたちはアンプを調整して大音量にした。そしてボブがハスキーで、力強い、叫ぶような声で歌い始めた

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「曲はリトル・リチャードとビッグ・エルヴィスのレパートリーから選曲したもので、なかでもみんなの記憶に鮮明に残っている曲は『ロックンロール・イズ・ヒア・トゥー・ステイ』だった」

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会場のマイクとバンドのアンプが出す音量は相当なもので、校長は走ってステージ裏に行くとマイクのスイッチを切った。

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「アフリカ人のような甲高い叫び声だった」と述べたのは驚愕した教師だった。学生のジェリー・エリクソンは(略)「ボブは少し先を行き過ぎていた。やつはいかれてるって、あの日のぼくたちは思っていたんじゃないかな。普段はいいやつだって知っていたけどね」。(略)

[ギターのラリー・ファブロ談]

「ボブの歌い方はすごく独特だったんだ、あの時代の、あの町にとっては」

エコ・ヘルストロム・シヴァーズ 

 ヘルストロム家の住まいはタール紙を張った箱のような掘っ立て小屋で、ヒビングから三マイル南西のハイウェイ73にあった。たびたび、ボブは学校帰りにヒッチハイクをしてそこに行った。ボブが小さな青のフォードを買ったときには、車を南に走らせてメープル・ヒルの頂上まで行った。そこからは三十マイル一帯のアイアン・レンジが見渡せた。彼らはファイヤー・タワー・ロードのシラカバの木が散在するわだちの道を頂上へ向かって車を走らせたりヒッチハイクをしたりした。夜の空気はひんやりとして気分を高揚させ、空には星が輝いていた。

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 午後に、マット・ヘルストロム氏が不在のときは、エコとボブは掘っ立て小屋の前でのんびりと過ごしていた。ボブはギターを膝に抱いて木の階段にしゃがみ、金髪の少女は小さな木のブランコに腰かけ、穏やかな振り子運動で拍子をとっていた。ボブは即興で歌詞をつくった。「彼が歌ってくれた曲は」とエコは振り返る。「ほとんどがリズム・アンド・ブルースかトーキング・ブルースだった。他のアーティストのように歌詞を繰り返すことはなかった。フレーズはいつも違ったし、いつだって物語があった」

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 「ジョンとボブはしょっちゅうトーキング・ブルースをやっていた。ときには「虹の彼方に」のような曲をヒルビリー・スタイルで歌うこともあった。お互いに教えたり学んだりしようとしていた。私は彼を信じてた、誰も信じていなかったときに。私だけのために歌ってくれたときの彼を見れば、その才能も分かったかもしれないけれど、外で演奏するときにはアンプの音量を大きくするから、声が聞こえなくなってた」。エコはボブの演奏する場所にどこでもついていった。

ディロン、ディリオン

ボブの新たな名前にはおそらく二つの由来があった。マット・ディロン(Matt Dillon)は[ドラマ「ガンスモーク」の架空の人物](略)

ディランの故郷の辺境地帯の近くには、ディリオンという名前のヒビングの開拓者一家がいた。

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ボブは、一九六五年十一月、『シカゴ・デイリー・ニュース』紙の記者から名前のことを聞かれ、ディリオンについて語って受け流した。

 

CDNの記者 ボブ・ジママンからボブ・ディランに名前を変えたのは、詩人のディラン・トマスを尊敬していたからというのは本当ですか?

ディラン 違うよ、まったく違う。ディリオンという名のおじがいるからディランにしたんだ。スペルは変えたけど、その方が見栄えがいいってだけだ。ディラン・トマスも読んだけど、ぼくとはちょっと違うね。

 

 ディランはこの有名な誤解を私に繰り返し話した。「ぼくがディラン・トマスから名前をとったんじゃないってことをあんたの本できちんと書いてくれ。ディラン・トマスの詩は夜の営みに満足できない人や、男らしいロマンを求めている人のためのものだ」。彼はロバート・ジママンとしてミネソタ大学に入学したが、学生たちも友人たちも彼のことをディロンと認識していた。何人かの友人にはディロンは母の旧姓だと言っていた。

ジュディ・コリンズ、ジェシー・フラー

[59年デンヴァー近郊でフォークが盛り上がっていると聞き]

彼はそこでの運にかけることにした。一人でコーヒーハウスでのフォーク・シーンに飛び込んだのだった。(略)

「ジ・エクソダス・ギャラリー・バー」は地元のビート族、芸術家、詩人が集まる場所で(略)

流行に敏感な者たちはエクソダスに引き寄せられ、美術展や詩の朗読会やフォークセッションに集まった。

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 デンヴァーのミュージシャン二人がディランに影響を与えた。エクソダスで人気だったのはデンヴァー出身の十九歳ジュディ・コリンズだった。(略)

当時ジュディが歌っていた二曲は、のちにディランのファーストアルバムに収められることになった。それが「朝日のあたる家」と「いつも悲しむ男」だ。

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それからボブは、陽気な賭博師で、エクソダスでよく演奏をしていたジェシー・フラーとも出会っている。ジョージア州ジョーンズボロで一八九六年に生まれたフラーは、伝統的な曲、ブルース、自作の曲、地方のラグタイム、そして単にとても「心地よい」音を融合させていた。ワンマンバンドミュージシャンで、十二弦のギターと、シンバルと、ハーモニカを演奏していた。彼の興味深い発明品「フォトデラ」は、足でペダルを踏んでドラムを叩き、同時にベースも即興でかき鳴らすパーカッション装置だった。彼は自らを「孤独な猫」と名乗り、元気がよくウィットがあった。ディランは、金属のネックホルダーで固定された口元のハーモニカやカズーを活用して歌とハーモニカのリフを交互に行うフラーのスタイルを観察した。ディランは一九七六年に亡くなったフラーに熱心に質問を投げかけ、ハーモニカの演奏方法をその異色の使い手から学んだのである。

ウディ・ガスリー 

ウディのギター演奏と新しい詩を取り入れた楽曲は(略)カーター・ファミリーのレコードから受け継がれたものだった。

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一九三九年、ウディは週二〇〇ドルもの大金をタバコ会社「モデル・タバコ」が提供するラジオ番組で稼いでいた。その後、あるエージェントがロックフェラーセンターの六五階にある華やかなレストラン「レインボー・ルーム」でのアルマナックの出演を取りつけた。[初期の自伝]『ギターをとって弦をはれ』には、あかぬけないヒルビリーの衣装を着せられることに抵抗して、彼らが会場を去ったことが記されている。彼は妥協しようとはせず、フォーク・ミュージシャンたちのライフスタイルの土台を作り、それがディランに大きな影響を与えることになる。

 ウディは進歩的な組織や左派の仲間のなかにいる偽善者を嗅ぎだすこともできた。人の心につけこむようなことを嫌い、「大衆が望むものを提供する」 ショービジネスを軽蔑していた。彼は「フォーク・ミュージック」という言葉を拒絶していた。なぜならそれは「上流階級のバラッド歌手」と一緒にされることでもあったからだ。ディランが頻繁にフォーク・シンガーやプロテスト・シンガーと呼ばれることを拒否している理由も、ガスリーのこのスタンスにあったと言える。同様にディランが詩人であることを否定するのは、ウディの「ぼくは作家じゃない。そのことを分かってほしい。ぼくはエンジンシリンダーひとつのささやかなギター弾きさ」という主張に通じるところがあった。

 ウディに『ギターをとって弦をはれ』の執筆を勧めたのはピート・シーガーだった。

(略)

一九五四年から発症したハンチントン病は彼を、十三年ものあいだ病院で苦しめた。

次回に続く。