音楽家 村井邦彦の時代

慶應ビッグバンドサークル

[63年慶大入学]晴れてライト・ミュージック・ソサイエティに入部。
 レギュラーメンバーは17人。ジュニアバンドにはその倍の部員たちが控えるという環境のなか、厳しい切磋琢磨があった。村井はレギュラーに選ばれたものの、ライトには、日本の音楽史に名を残すシャズクラリネット奏者の北村英治、作曲家・ピアニストの三保敬太郎、同じく鈴木邦彦、ジャズピアニストの大野雄二、佐藤允彦らが在籍し、村井はその凄さから(略)上には上がいることを肌で感じていた。先輩からの指導は主に口伝で、村井は3学年上の大野雄二に教わる機会が多かったそうだ。サクソフォンばかりではなく、ピアノ演奏も身についた。(略)
活動は3年生までで、村井はその後アルバイトとはいえ、ミュージシャンとしてプロ並みの活動を開始した。先輩の大野雄二が(略)プロの道を歩み始めており、村井も赤坂にあった『ホテルニュージャパン』のラウンジでのピアノ演奏で高額なバイト料を稼いだ。川添ファミリーの後押しもあってキャンティシモでピアノ演奏をすることもあった。

コルトレーン死去

村井はちょうど1年前の初来日公演を観ており、まだその感動が残っていた。当時村井は、ジャズ好きが高じてTBSのラジオ番組のディスクジョッキーも引き受けている。(略)手持ちのレコードで追悼番組を企画した。マイクを前に解説する村井は、ファンという枠を超え、評論家も顔負けするほど経歴や表現方法に詳しかった。それには、高校生のときからコルトレーンを手本にサックスを学んでいたという思い入れがあるからだった。

荒井由実

六本本に『ザ・スピード』というライブ・スポットがあり、ここは川添兄弟が関係していることからヘアーに出演した小坂のエイプリル・フールやシー・ユー・チェンのザ・フィンガーズが演奏することもあった。ミュージシャンたちの溜まり場でもあり、そのなかにまだ中学生の荒井由実の姿もあった。(略)シー・ユーは、7歳年下の中学生ファンを妹のように接していた。(略)
 「ステージが終わって楽屋に戻ると、ボーイッシュな女の子がいるんです。そのころ、僕たちのバンドでは『青い影』のプロコル・ハルムの音楽が話題で、たまたまその女の子と話したらブロコル・ハルムの旋律のきれいなところの情景を一生懸命に説明してくれて、それが鋭いセンスだった。そんなことがきっかけで、バンドのメンバーもほかのファンとは違う目で見るようになった。僕たちにとっては唯一の知的な中学生ファンという存在で、レッド・ツェッペリンのレコードを渡されたこともあります」(略)
当時まわりからはすでに「ユーミン」と呼ばれていた。このニックネームは、「この子は必ず有名になる」という意味を含めシー・ユーがつけたものだ。

アルファミュージック誕生

[加橋かつみパリレコーディング。プロデューサーは28歳の川添象郎]
レコーディングは戦前からパリで人脈を広げた川添浩史の恩恵を十分に受けるものだった。古くからの友人、エディ・バークレー[バークレイ・レコード経営者:シャルル・アズナヴール、ダリダが所属]がすべて世話を焼いてくれた。(略)
[バークレイで「音楽出版の代理店をやる気はないか?」と聞かれ、村井は20曲聴いた中から4曲の日本での出版権を取得。個人との契約はできないと言われ、急遽社名を決めることに。村井がイプシロンを提案すると象郎がアルファを提案]
二人ともギリシャ文字のアルファのスペルが『ALPHA』ということに気がつかなくて、『ALFA』と書いてしまった。
(略)
 69年11月25日、アルファの原盤制作第一弾、フィフィ・ザ・フリーの「栄光の朝/戦争は知らない」が日本コロムビアから発売(略)
 アルファのような音楽出版社は、レコードプレスや配送機能、販売店を持たない。レコード店で売るためには、発売元となるレコード会社と契約しなければならない。この場合、原盤の制作費用はアルファが出資し、レコード売り上げの印税をレコード会社から受け取るシステムとなる。村井がコロムビアと契約したのは、当時、洋楽部長の金子秀への厚い信頼があるからだった。金子は、1950年代、ニューヨークのCBSレコードに駐在し、早くから国際的なビジネス感覚を身につけていた。村井が会社を起こすときに「レーベルをつくって自分の好きなレコードをつくってみろ」と勇気づけてくれたのが金子であり、それは力強い後押しだった。
 一方、バークレイから買った4曲のなか[の1曲に](略)ポール・アンカが「マイ・ウェイ」という詞をつけ、この年、アメリカでフランク・シナトラが歌い世界的な大ヒットとなった。その後アルファには問い合わせが相次ぎ、日本国内でこの曲が流れると使用科などが入ってきた。村井にとっては幸先のいいスタートだ。

パリII 1972(紙ジャケット仕様)

パリII 1972(紙ジャケット仕様)

パリ1969(紙ジャケット仕様)

パリ1969(紙ジャケット仕様)

ソフトロック・ドライヴィン ~栄光の朝

ソフトロック・ドライヴィン ~栄光の朝

栄光の朝

栄光の朝

アメリカ村

アメリカ村でいち早く生活を始めたのは、それまで東京の表参道で事務所を構える眞鍋立彦、中山泰、奥村靫正の三人によるデザイン集団『ワークショップMU!!』だった。
 桑沢デザイン研究所グラフィックデザイン科の卒業生で、当時全員25歳。71年5月に引っ越し、一軒の米軍ハウスを三人のアトリエ兼住居にした。広い裏庭があり、隣同士の垣根もない広々した環境。基地周辺の古道具屋で軍人の家族らが残していった家具や電化製品ばかりではなく、雑貨や『Esquire』や『POST』などの雑誌などを買い集め、自由な発想でデザインワークをしていた。
 小坂と細野は、エイプリル・フールのときに桑沢デザイン研究所の学園祭に出演したことがある。そのときからMU!!のメンバーと付き合いが始まり、小坂と細野もアメリカ村へ引っ越した。(略)
 小坂と細野は隣家同志で、お互い窓越しに糸電話でやり取りをしたそうだ。

荒井由実デビュー

 デビュー曲は「返事はいらない」、「空と海の輝きに向けて」となった。社員たちはかまやつひろし(当時33歳)の主導でレコーディングが行われると思っていたが、その予測に反し、荒井由実(当時18歳)は、自分のビジョンをしっかりと確実にかまやつに伝えてきた。(略)
 「ユーミンとはじめて会ったのは69年ごろだと思うけど、このころの若いミュージシャンの多くがウッドストックの影響を受け、それが時代の大きなムーブメントでした。哲学的にものを考える時代で、ユーミンには精神的にも純粋培養されて育ってきたような印象を受けましたね。彼女は僕たちでも聴いていないロックのレコードを聴き、単なるロックファンではなかった。子どものようなきれいな顔をして口数も少なくガラス細工みたいで(略)
[僕たちの世界は]アバウトのところが多かったけど、彼女にはまったく通用しないんです。自分自身で納得しないと、こっちが面倒くさいと思っていても、あらゆる角度から突っ込んでくる。ユーミンは妥協するっていうことが、そのころからないんだよね(笑)。僕はもう、大変な人を引き受けてしまった。村井さんには悪いけど、正直、早く終わって欲しいと思ったし、このときは打ち解けないまま終わりました」
(略)
 「返事はいらない」は、わずか300枚の売り上げとも言われているが、村井はそれまで人前で歌うことに抵抗感をもっていた本人がレコーディングの経験で少しでも歌うことの苦手意識が和らげばいいと、この結果をまったく気にしなかった。

山上路夫

[村井作品の半数を作詞した山上路夫が、赤い鳥の7thアルバム]『美しい星』がリリースされたころ、アルファの役員を辞任して作詞に専念することになった。
(略)
 「当初は、クニとずっと一緒にやっていこうと思っていたんですけど、彼は何をやるにも早いですからね。彼がレコード会社なんかを作っていくうちに、僕がそのペースについていけなくなったのと、それらに対して僕がどこまで責任を負ったらいいのかが判らなくなったんです。つまり、彼の足の早さに追いつかなくなって、その結果、僕は作品を書くことに専念するからクニはクニのやり方でやってくれということで。だから、たもとを分かったわけじゃないんです。(略)『ガミさんは言い出すときかないからなあ』なんて感じで結構あっさりしたものでしたよ(笑)」

ひこうき雲

「恋のスーパーパラシューター」は、ジミ・ヘンドリックスが米軍のパラシュート部隊として戦争へ行ったことを知ってつくられたもので、「ベルベット・イースター」は、ミッション系のスクールでのイースター復活祭や横田基地で体験したハロウィンパーティなどが下地になっている

ガロは田辺エージェンシーに頼んでうまくいったが、ユーミンは芸能界気質には馴染めないのではないとか案じた村井は文学座の制作部長をしていた阿部義弘に相談。荒井呉服店杉村春子の公演チケットを毎回まとめ買いしていた上客で、ユーミンのことは子供の頃から知っていた。

[阿部談]
「お引き受けしてから、八王子へ挨拶に行くと、奥さまが娘の芸能界入りをとても心配なさっていて、ためらいを感じました。(略)
私は『ひこうき雲』の清冽な詞には胸を打たれましたが、正直なところ、そのときは由美さんの才能を見通すことはとても出来ず、奥さまには助言できる立場ではありませんでした。

赤い鳥解散

[72年大村憲司村上ポンタ秀一が加入。岩手のコンサートで村井が見たのは]
リハーサル後の休憩時間に、村上君と大村君が大音量で延々とブルースを二人だけで演奏していた」
(略)
[後藤悦治郎談]
 「そのころステージのPA装置が開発されて、演奏者が音の出し合いみたいな感じになってしまった。僕らはそれまで、1本か2本のマイクでぐっとかたまってコーラスをとっていましたが、8チャンネルから16チャンネルとマルチにどんどん広がり一人一人にマイクがつくようになった。すると後ろの音が大きくて、これだとコーラスで重要なピアノ・フォルテを自在に表現できなくなり歌がバラバラになった。ですから、音楽的な違いということではなく、赤い鳥にしてみたらあの二人の音が大き過ぎたんです。大村君がアコースティックギターに持ち替えたりすると、僕らにはもの凄く良かった」

荒井由実デビューコンサートに勝新

[荒井由実のデビューコンサート、地方興行に詳しい阿部は京都『シルクホール』を選択。荒井呉服店なら京都にコネがあり招待客が見込めるという計算だった。村井は勝新太郎に声をかけた。]
電話をすると「よしわかった、心配するな。何十人でも連れていくから、俺に任せておけ」という豪快な声が返って来た。
(略)
開演前から並ぶ若者たちのなかに着物姿の年配者の姿が目立ち(略)
スタッフの一人が「今日集まった客たちは、ユーミンの本当のファンが少ないよ」と、阿部の痛いところを突いた。
(略)
 勝新太郎は、約束どおり祇園の芸妓や映画仲間を大勢連れて来た。
 勝は村井より14歳年上で当時43歳(略)コンサートが中盤になるころ、勝は薄暗いなかごそごそと動き、席から離れ村井を探した。村井も勝を気にしていたので、すぐに追いかけると真剣な目つきで「俺も歌った方がいいんじゃないか。何なら歌おうか」と、本気でステージに向かおうとしたのである。(略)
「勝さん、そのお気持ちはとても嬉しいけど……」と「初めてのリサイタルなので本人に任せておきましょうよ」と丁寧に断ると、勝は「そうだよな」と何もなかったように度に戻った。(略)
[『ヤクルトホール』での東京デビューコンサートは]売れ行きに苦戦し、村井たちは急いでラジオ局を中心としたプロモーションを組んだ。切り札は、荒井由実の曲を毎週流してくれるTBS、林美雄『金曜パック』だ。深夜の3時過ぎ、本人がゲスト出演すると、林が熱のこもった声で、「荒井由実の東京のデビューコンサートヘみんなで行こう!」と、高校生や大学生のリスナーヘ訴えた。その一言が効いたのか、当日悪天候だったが客席には男子学生の姿が目立った。
 林はこのあと8月の番組編成により、やむなく降板したのだが、荒井由実はこのとき「旅立つ秋」という曲を林に贈り、これは『MISSLIM』に収録されている。

「ファースト&ラストコンサート」

 ツアーには(略)ハックルバック(ベース田中章弘、ドラム林敏明、キーボード佐藤博)、元ゴールデン・カップスのジョン・山崎、吉田美奈子、パーカッション浜口茂外也が参加している。
 この画期的なツアーが実現したのは、鈴木が初のソロアルバム『BAND WAGON』と細野の2枚目の『トロピカル・ダンディー』がクラウンから発売が決まり、小坂の『HORO』の発売元のコロムビアを含め、アルファ&アソシエイツと各レコード会社との協力による(略)当時としてはそれまでに例のない大規模なロックツアーとなった。
 出演者は総勢11名、細野の28歳を最年長に田中が21歳(略)所属事務所もそれぞれで意見の食い違いも生じた。ツアー中ミュージシャンに「お前なんか絶対に干してやる」と暴言を吐くマネージャーがいたそうだ。
 小坂忠は著書『まだ夢のつづき』で、こんなことを書いている。
 「長いツアーは消耗も激しかった。人間関係が次第に崩れていった。日本のロック史における重要性は別にして、僕にとってはファースト&ラストツアーは最悪だった。ステージに立つことが嫌でたまらなかった。メンバーの誰とも心を開けない。会話ができない。頭の中で思い巡らすことは、すべてが悪いことだった。もう自分のことを誰も相手にしてくれない。誰からも必要とされていないという思いしか浮かんでこなかった。音楽を楽しめないのが一番嫌だった。自分の歌に自信が持てないのはもっと嫌だった。そんな気持ちをミュージシャンにもスタッフにも話せなかった。僕は完全に孤立してしまったのだ」(略)
小坂のプロデューサーであったミッキー・カーチスがトリオレコードに移籍(略)
 「村井さんと三田のイタリアンレストランで食事をしながら、『僕もトリオに移りたい』っていう話をしました。その話を切り出したら、村井さんがスパゲッティを巻いたフォークを落とした。これは忘れられない。そのころは村井さん側のことを想像できなかったんですね。悪いことをしました」

次回に続く。