追憶の泰安洋行 その2

前回のエキゾ話から続く。

エキゾ御三家

[ハイファイ・レコード・ストア店長大江田信によるエキゾ講座]

忘れられないイージー・リスニングのヒット作がある。それはリカルド・サントス楽団の『ホリデイ・イン・ジャパン』。大江田は語る。

 「(略)日本においてマーティン・デニー以前に好感を持って受け取られた具体例がこのアルバムです。(略)日本の童謡や古謡を演奏したこのアルバムは戦後の日本で圧倒的な支持を得ました。日本の伝統的なメロディが、こんなに優れたジャズになるのか!?という驚きと喜びがあったのだろうと想像されます。ただし音像は、やや中国的ですが。日本人にとってのエキゾチックな日本のイメージを提示し、国内で大ヒットとなった最初の作品かもしれません。この時すでに、後の細野さんのように、外国人の目に映る日本像を楽しむ萌芽が、日本人聴衆の間に生まれていたようにも思いますね。

 リカルド・サントスは58年に来日、熱烈な歓迎を受ける。

(略)

 エキゾチック音楽の代表者といえば、レス・バクスター(1922~1996)、マーティン・デニー(1911~2005)、アーサー・ライマン(1932~2002)(略)

ちょうど10年ずつ、生年が違っているのも興味深い。もちろん、草分けはレス・バクスター。(略)

 「本土におけるアーティスト・パワーという点では、デニーよりバクスターの方が勝っていたのではないかと僕は想像しています。与えられていた仕事のバジェットが、バクスターの方がより大きいように思われるので。バクスターアメリカ映画産業と音楽産業の中心地、ハリウッドで音楽活動を続けました。一方、デニーとライマンは生涯をハワイで過ごします。

(略)

 それぞれがエキゾチック音楽の代表曲〈クワイエット・ウィレッジ〉を録音している。57年、デニー最初の録音のヴィブラフォン奏者はアーサー・ライマン。間もなくバンドを脱退したライマンが『バイーア』という自身のアルバムで同曲をカヴァーしたのが59年(その後も関係は良好だったらしい)。

(略)

名曲の出来栄えを大江田に聞き比べてもらう。

 「この楽曲は、低音域と高音域のそれぞれのメロディの対旋律の構造になっている。それをバクスターはシンフォニックなオーケストレーションを用いてダイナミックに演奏している。ここではエキセントリックな表現は、まだそれほど盛り込まれていません。後年に恐らくは販売実績も踏まえて、エキゾものへ一気に傾斜したのでしょう。デニーの59年の新録版はシングル盤的とでも言うべき分かりやすさがあって、冒頭から登場するバードコール(鳥の鳴き声)が具体的に目前に立ち現われる"未開"感を表現していますね。ライマン版はデニーのグループに在籍時の編曲とよく似ています。その音作りはより内奥に踏み込むような、異郷の胎内にもぐりこむような奥行きがあり夢想的なニュアンスが強まっています。57年にはデニーのグループを脱退しますが、"彼がいなければデニーもあれほどの世界観は築けなかった"との声もあるほどです」(略)

 「バクスターはエキゾの観察者であり外側から音像化した音楽家デニーはメインランドの聴衆向けにエキゾをデフォルメし、コンパクトに音楽化した音楽家。ライマンはエキゾの当事者であり、内側から音像化した音楽家。というのが今のところの僕の理解ですね」

 ライマンのみ、ハワイ生まれハワイ育ちという背景も関係しているかもしれない。言わばロコの人間なのだ。バクスターテキサス州メキシアの生まれ。デニーはNY生まれLA育ちで、54年からハワイ在住。

 ここで少し豆知識をお伝えしたい。バクスターデニーはピアノで編曲を学んだが、ライマンは最初からマリンバを叩いていた。幼少時はベニー・グッドマンと共演するライオネル・ハンプトンのプレイをコピーしていたという。そしてライマン後任のヴィブラフォン奏者に選ばれたのは、ジュリアス・ウェクター。60年代にはセッション・ミュージシャンとしてLAに戻り(略)

何とビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』にも参加していて、〈救いの道〉ではヴィブラフォンを演奏している。

(略)

 さて、エキゾチック音楽に欠かせないスパイスになるのは"カカカカカァ~"と響く鳥や動物の鳴き声。(略)まるでバンドに江戸家猫八師匠がいるかの如く。マーティン・デニー・バンドのパーカッション奏者オージー・コロンのお家芸として知られているが(動画サイトでも演奏シーンが観られる)、このバードコールのいきさつにも大江田は詳しい。

「(略)"ワイキキの〈シェル・バー〉という会場で演奏してたら、たまたま近くの池にいたカエルが鳴いた。これをデニーが真似したら、客に好評だった。その後オージー・コロンが積極的に声真似を取り入れるようになった"と。(略)」

(略)

『地平線の階段』の中で、細野は当時こんな風に書いている。

 「今僕が感じ取ることのできる日本の匂いは異邦人の感性を借りたもので、そこを通して見る日本はまさに東洋の神秘であり、オリエンタル・エキゾティシズムそのものである。海の向うから東洋を見よ!そうやって知る世界の広がりほど面白いものはない。しかしこの面白さを味わうためには、どうしても異邦人にならざるを得ない」

 細野が何故、イージー・リスニングの延長線上にあるエキゾチック音楽に、自身のアイデンティティを見つけたのか?(略)大江田はこんな推理をしている。

 「イージー・リスニングシンガー・ソングライターやバップ・ジャズ等の"俺様音楽"とは正反対の"アンチ俺様音楽"、すなわち"非"主体性音楽です。外国人が日本を見ている視線(日本人には違和感が生じる場合もあります)を内包するイージー・リスニング音楽を自らひょいと身に纏うことによって、細野さんは外国人からどのように見られているかを"気にする"メンタリティの日本人に対し、外国人からどのように見られているかを"楽しむ"ことを提示したのでしょう。そんな表現を実現するには、自己告白的な音楽ではなく、描写的なイージー・リスニング音楽を利用する、或いはそれに近似的な作品を表現することが望ましかったのだろうと思います。(略)」

 大江田はここで再び、翻案という言葉を持ち出す。翻訳ではなく翻案。翻訳音楽の場合は正しいか間違っているか、オリジナルかコピーか、といった疑問が常につきまとう。しかし翻案の場合は、そうした問いとは縁が切れる。

(略)

 「翻案は原作を対象化することから生まれます。翻案は多くの場合、演劇用語として扱われますが、細野さんの制作態度にそのような視線が内在していることを僕は感じてきました。変ないい方ですが、本物であることを目指してはいない音楽なのに、ある種の補完を経つつ受容することで、聞き手の中で"本物"となってしまう。しかし、このマジックが細野さんの音楽の楽しさだと思いますね」

 そこで大事なのはユーモアの感覚。エキゾチック音楽自体も充分にユーモアを携えたジャンルだし、さらに細野のユーモアも加わって『泰安洋行』の幸福感は倍増していった。エキゾチック音楽がジャングルの奥地を探訪するとしたら、細野は東京から中国へのシー・クルーズをテーマにした。そんな翻案もまた、細野ならではのセンス。文化の曲解、装飾、誤解がまた別の文化を生む。西洋人には容易に表情が読み取れない東洋人の不気味さを逆手にとって、細野晴臣は国際的な音楽を作り出したのだ。

大瀧詠一

[大瀧詠一の]「ゴー・ゴー・ナイアガラ」76年1月放送の回に細野がゲスト出演し、当時の細野キーワード"チョップ&チャンプ"なるサウンドを紐解いていく回があった。

(略)

「細野さんって、ある時ぬなっとのめりこむんだよね?」

(略)

 そう聞かれて、細野は答える。それまでキャラメル・ママの活動をしていて、胸の中には何もなかった。ただベースを弾いてただけ。ソウル・ミュージックとかをギンギンにやってた。自分のことをしばらく忘れていて、自分のソロをやろうとしたら一体何がやりたかったのか、忘れてしまっていた。そんな時、色んなきっかけが一度にやってきた。〈熱帯夜〉を書いてエキゾチック音楽を思い出したり、雑誌編集者エスケンとの出会いがあったり。74年に雪村いづみのアルバム『スーパー・ジェネレイション』をプロデュースし、ザ・バンド〈シュート・アウト・イン・チャイナタウン〉に聞き惚れて、次第に中国のロマンティシズムに憧れていた。そしてトロピカルの構想が一気に噴き出した。

 大滝は続けて言う。

 「本当にこのチョップ&チャンプ・サウンドは世界にたった一人だよね(笑)。冗談抜きで世界で一人だから。細野さんは誰もやらないことをやりたがる人だからさ」

 細野はそこでポツリ、「寂しい……」と呟いている。

(略)

細野が「みんなそのうちやり出すんじゃないかな?」と希望を語ると、大滝は「みんなやり出すとやめるんでしょ?」と再び笑い出す。

(略)

 細野は同年2月の「ゴー・ゴー・ナイアガラ」に再びゲスト出演。「今ティン・パンの3人の気持ちが固まって来ていて、これからティン・パン・アレーというレコード・レーベルも作る予定」と語ると大滝は「遂に!ナイアガラもウカウカしてられない。負けそうだな」なんていうライヴァル心全開の合いの手を入れている。

(略)

[99年2月「デイジー・ワールド」で語られた『ナイアガラ・ムーン』エピソード]

細野が話しだす。

 「『トロダン』の後に『泰安洋行』になる前に何があったかというと、『ガンボ』とプロフェッサー・ロングヘアの存在がある。"『ガンボ』がいい!"と電話で教えてくれたのは大滝だった。少し前にザ・バンドの『カフーツ』を聞いて、これからはニューオーリンズだ!と思ってた時期でもある。いち早くニューオーリンズが深く分かるアルバムとして紹介してくれたわけだ」

 しかし『ガンボ』収録曲の中で特に影響を受けた楽曲は二人の間で違っていた。細野は〈ビッグ・チーフ〉に打ちのめされた。その曲でエキゾックなオルガンを弾いているロニー・バロンのアルバムを後にプロデュースしている(略)。一方、大滝の惚れ込んだ曲は賑やかな〈ジャンコ・パートナー〉だった。

(略)

 「『ナイアガラ・ムーン』はちゃんとプロデュースされたアルバムだ」という細野の指摘に対して、大滝は衝撃的な発言を残している。

 「『ナイアガラ・ムーン』がなぜ出来たのか?あのアルバムを作ったのは細野晴臣さんなんです」

 細野が思わず「何だそりゃ!?」と反応している大滝発言の趣旨をまとめてみよう。

 はっぴいえんどの3枚目『HAPPYEND』より一足前に大滝詠一[のソロが発売](略)グループの中でソロを作るという、ある種のお遊び的アルバムだった。そのため松本隆は作詞に専念し、大滝はベースを弾き、細野がドラムスを叩いている。内容ははっぴいえんどらしい部分と、現在に繋がるポップス志向の楽曲が半分半分。その制作姿勢を細野は当時「どちらかに統一した方がいい」と批判したのだそうだ。その言葉が長らく頭に残っていて、そこで『ナイアガラ・ムーン』ではリズミックなノヴェルティ・サウンドに集中し、『ロング・バケイション』ではアルバムすべてメロディアスな楽曲で埋めつくした。「アプローチを決めて1枚にまとめろ」という細野の指示に従ったのだ。そう考えると、『ロンバケ』の生みの親も細野であるということができるんだよ……。

 目から鱗が落ちるような、大滝本人による自分史の解説。細野が大滝の"批判"という言辞に慌てて「それは批判じゃなくて忠告だよ!」と言い直しているのも面白い。実は細野は75年に『トロダン』と『ナイアガラ・ムーン』を聞き比べ、ここは自分の負けだと感じていた。(略)

第17回 矢野顕子

RMIというメーカーのエレピ。細野がその音色が好きでレンタルしたものを矢野が弾いていた。アルバムのほぼ全編で聞こえる鍵盤楽器佐藤博の生ピアノで、矢野はエレピ担当。(略)

 「佐藤君がニューオーリンズ・スタイルのピアノが上手かったので、私はそうじゃないものを担当してました。(略)」

(略)

[横浜中華街でのライヴ]

矢野はこの夜、エレピではなく生ピアノを担当している。何故かといえば佐藤博があいにくスケジュールの調整がつかず、エレピにはトラの新メンバーを急遽入れての演奏となった(略)

[それが]まだ東京芸大に籍を置いていた坂本龍一。この時が矢野と坂本が初めて顔を合わせる機会だったという。

 「(略)ステージの本番は……とにかくトラで芸大の学生さんが来るらしいよ、とは聞いてたけど、二人でキーボードのアンサンブルを作るのに必死でしたね。指定された部分を全然無視して弾いちゃうので、困ったなあという印象で(笑)。

第18回 鈴木慶一

「[エキゾ御三家]の音楽は子供の頃、ラジオで聞いていたものだった。NHKラジオとか糸居五郎さんの番組とか。糸居さんは間口が広くて、番組ではエキゾチック音楽が流れていたからね。(略)汎太平洋的なものというか、アジア的なものを含めてトロピカルなものが、もっと地域的に広がっているような印象だった。三木鶏郎さんも晩年はサイパンに住んだ人。僕は鶏郎さんのメロディに常々トロピカルな雰囲気を感じていた。細野さんは案の定〈チュー・チュー・ガタゴト'75〉で鶏郎さんを取り上げているよね。そうしたいろんな要素が1ピースずつ、細野さんのトロピカル音楽にも含まれている気がする。細野さんがあくまで感覚的に取り入れてる要素が、まるでプロレスの試合のように一つに繋がっていくんだよ」

 鈴木の心を捉えて離さなかった和製エゾチック音楽が他にもあった。50~60年代のギャング映画、特に岡本喜八監督作品である。映画の中にキャバレー・シーン(略)トリオ・ロス・パンチョスか?と思えるような3人組が登場してきて、妖しげなラテン音楽を奏でている。

(略)

『トロダン』~『泰安洋行』(略)に参加しているわけではないが、その狭間で作られる[あがた森魚]『日本少年』には全面的に参加していて、細野の仕事ぶりを実感するようになる。

 「(略)細野さんはまずべースとドラムズ、リズム・アレンジから入っていく。そういう音の作り方は見たことがなかった。ついでに細野さんが寝ている間に私が作業進行をしたりもして(笑)、プロデュースとはこういうことなのか?という勉強をしていった。

(略)

『トロダン』はわりとメロディが立ってる。『泰安洋行』は、それよりブルースっぽい感じかな。(略)」

(略)

 「ムーンライダーズになってからは確かに海関係のピアノ曲が多いね。そこで大切なのはプロコル・ハルムの存在だ。『ソルティ・ドッグ』というアルバムが海の匂いがするよね。周りはみんな好きだった」

(略)

 「プロコル・ハルムザ・バンドはあの頃、同時に聞かれていたよ。要するに何が重要かというとツイン・キーボードの存在。ボブ・ディランがライク・ア・ローリング・ストーンで開発したピアノとオルガンの組み合わせ、これがバンドの形態として素晴らしいじゃないかと評価されてた。特に松本隆さんはプロコル・ハルム好きで知られている。細野さんもはっぴいえんどの頃、歌っていた♪アメリカから遠く離れて〜(〈飛べない空〉)なんかは、まさに細野さんにとってのプロコル・ハルムだと思う。ザ・バンドプロコル・ハルムと来て、ミュージシャンの間では次にヴァン・ダイク・パークス『ディスカヴァー・アメリカ』がもてはやされ、ヴァン・ダイクがプロデュースしたリトル・フィートが輸入されてくる。リズムがニューオーリンズっぽくて、リズムだけは洋楽的。しかしそこに和風や中国っぽいものが入っているのが流行していく。そこにどんな共時性があるか(略)

海を意識するにあたって、バナナのような島国の日本を外から見るという余裕が自然に生まれてきたのではないか?それが潜在的に響き合って、チャイニーズなメロディと日本の三味線がごちゃまぜになったような、チャンプルー・サウンドをやっていけばいいとみんな思うようになったんじゃないかな?」

(略)

鈴木の場合はどんな風に海洋の音楽に辿りついたのだろう。

「[アグネス・チャンのバックで75年に2回]香港に行ったことが大きいね。(略)

今でも印象に残るのは香港のディスコ。サミュエル・ホイがやってたロータスという、英語で歌うディスコ・バンドが出演していた。凄く上手いんだ。

(略)

何だか香港にいると戦後の満州人のような気がしてきた。満州と香港は共通項がないけどね。ただ海流の流れみたいなものを感じたと思う。そして日本に帰って来ると細野さんが『トロダン』を出してたり、我々が『火の玉ボーイ』に入ってる海の歌を書くようになる。私には香港の文化ショックがあって、中国のクラシック音楽も買って聞いたりした。もう少し遡って、ラジオで聞いてた三橋美智也とかも思い出したね。

(略)」

(略)

「火の玉ボーイって、英語にしたら"ボーイズ・オブ・ファイアー"。細野さんはアルバムが出るより前に〈ポンポン蒸気〉という曲を書いてて、ライヴでよく演奏してた。その中に"グレイト・ボールズ・オブ・ファイアー"という歌詞の一節があって、それはジェリー・リー・ルイスだよね。じゃあ細野さんは火の玉ボーイだな、と思ったんだ。(略)

3番の歌詞、"真夜中にスタジオに入る"のは細野さん。当時、私は馴染みのスタッフと酒を飲むことが多かったので、そこでいろんなミュージシャンの噂話を耳にした。(略)最近、細野さんこんな曲作ったよ、とか。秘かに音源コピーしてもらったり。ある時、細野さんがスタジオに8時間くらい入ってたけど曲が作れなかったらしい、なんていう話を伝え聞いたものでね。だから3番で火の玉ボーイは"疲れた顔して去っていく"と書いてるんだよ」(略)

一方、鈴木をテーマにした曲と細野も公言している〈東京シャイネス・ボーイ〉を耳にした時の感想は……。

 「確かに若かりし頃は対人赤面恐怖症みたいなところがあったからね。

(略)

 『はらいそ』収録曲で一際エキゾチックな曲は〈ファム・ファタール〉だった。(略)あの独特のこもったリズムは、今思えばオリジナル・サヴァンナ・バンドの1枚目に入っていた〈サンシャワー〉に閃きを得ていたのかも。エコー成分を抜いた、渇いたバイヨンのようなリズムが何とも色っぽい曲だった。

 「サヴァンナ・バンド!当時ミュージシャンの間でだけ流行ってたよ。あの1枚目(76年発表『ドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンド』)だけね。つまり合計20~30人の間でだけの大ブーム(笑)。あの混じり具合、熱い地域なんだけどどこのサウンドか分からなくて、どこかインチキ臭くて。そこが好きな人と嫌いな人で二つに分かれていた。あれが好きな人はニュー・ウェイヴに上手く乗れたんじゃない?(高橋)幸宏も、夢中で聞いたと言ってたもの」

 そう聞くとYMOの3人が初めて共演したのがこの〈ファム・ファタール〉だった、という逸話も一層意味深く響いてくる。

(略)

[前回で紹介した]他にもまだ重要な音楽があるような気がする。本人には尋ねていないが気になるレコードがもう二つあるんだ、と鈴木は新たに語る。

 まず最初はモビー・グレイプの〈チャイニーズ・ソング〉という曲。歌ものではなインスト曲である。(略)

 「楽器に琴を使ってたり、この曲だけ異色で完全にチャイニーズ・ソングなんだよね。これがあってYMOに発展していった気がしなくもないね。何で彼らがこんな曲をやったのか、私も不思議でならなかった」(略)

69年に一度袂を分かったメンバーが再会して71年に発表したアルバム『20グラナイト・クリーク』収録曲。(略)

 もう一つはさらに珍品中の珍品。フランスの音楽プロジェクト、ヤマスキである。71年のアルバム『素晴らしきヤマスキの世界』1曲目の〈ヤマスキ〉という曲(略)

 「ダフト・パンクの親父さん(略)がサウンド・プロデュースを務めてる。アルバムの文字が中国語で歌詞が日本語。しかも思いつきの日本語で歌ってて変な感じ。私は21世紀に入ってからヤマスキを知ったんだけど、細野さんが前から知ってたのか、ぜひとも尋ねてみたい」

(略)

 78年リリースの大滝詠一のアルバムには、鈴木のクレジットがある。まずは『多羅尾伴内楽團VOL2』。ここでは"助っ人"という肩書で鈴木の名前があり、生ギターを弾いている。そしてもう1枚は『DEBUT』。当時のベスト盤だが、〈水彩画の町〉〈乱れ髪〉〈外はいい天気だよ〉の78年新録ヴァージョンでこちらはピアノ。

(略)

 「多羅尾伴内楽團は厳しい学校だった(笑)。福生のスタジオに行き、奥の部屋で炬燵に入って待ってて、出番が来るとスタジオに入る。生ギター奏者が3人いて、3人でせ~ので弾くんだよ。フィル・スペクターを目指してるから楽器の数は3の数が大事なんだね。で、大滝さんが言うんだ。"一人ずつ弾いてみな……お前、2弦鳴ってないよ"なんてトークバックが来る。2弦が鳴ってなくたって3人いるから大丈夫じゃないの?と私なんかは思ってた。でも、そう言われるんだな」

 スペクター・サウンドとナイアガラ・サウンドの弾き方の違いは、スペクターは楽器を大きく鳴らさない。反対にナイアガラは楽器を強く弾くという違いがあるのだと某専門誌で読んでいた憶えがある。鈴木に今回確かめると、あながち間違ってはいないようだ。

 「うん、大滝さんは"とにかく強く弾け!"と言ってたね。それで全員で音を出してると、あるうねりが出るという。するとミキシング・ルームから"フッフッフッフツ"という笑い声が立ち上ってくる。それはこれで"OKだ!"という意味なんだよ。全体のうねりを求めて何テイクも何テイクも録っていた。ベーシックなリズムは差し替えはしない。ミスがあると全員でもう一度やり直す。そこはスペクター方式だったね」

(略)

鈴木は細野&大滝関連で70年代にたまげるような(本人談)ライヴを二つ観ていた。まず一つは、はっぴいえんど小坂忠のバック・バンド、フォージョーハーフが合体してステージに出ていたコンサート。

 「二つのバンドが一体化したバンドでリズム隊がとにかく一杯いる。フロントに大滝、細野、小坂忠さんの3人がいて♪ときどき戦闘機が堕ちてくる街に~なんて歌ってた。まさにスリー・ドッグ・ナイトみたいだ。あれはカッコ良くて驚いたな!」

(略)

第21回 民謡クルセイダーズ参上

 「90年代後半から2000年頃にモッズやソウル、ジャマイカ音楽のクラブ・シーンに出会ったのが大きいですね。(略)

ジャンプやリズム&ブルースを主軸にしてニューオーリンズの楽曲にも手を染めたが、どうもリズムが同じにならない。たとえばドラムはハネてるがベースはハネていないというグルーヴが理屈では分かるが音にならない。

(略)

ブルースのアルバムを聞いてると、中に1曲だけラテンのリズムがあったりする。ブルースマンがやる疑似ラテンなどは、そもそもラテンに似せた偽物で本人たちもよく分かっていないヤッツケ感があって、自分たちの技量ともドサクサ感とも合いました。そういうノリを、僕たちは"ズンドコしている"という表現でカテゴライズしてましたね。曲で言うとエルモア・ジェイムズのルンバ・ブルース 'I Can't Stop Lovin' You' や、デイヴ・バーソロミューの疑似ラテン 'Shrimp&Gumbo' 、ルイ・ジョーダンのカリプソ 'Run Joe' なんかが自分にとって大事な価値観になりました

(略)

50~60年代と思われる当時のブルース・バーやスカのライヴ映像で、腰を入れて、タガを外して気持ち良さそうに踊る人たちの光景に惹かれた。スタイリッシュにキメるよりは田舎臭い訛りのあるローカルな感じに憧れましたね。バンドは解散しましたが、僕の中では日本人にとって一番"ズンドコ"できる音楽ってなんだろう?という問いが残った。そんな音楽がやりたくて、次の民クルの構想にも繋がっていきます。英国のDJが日本で演歌や民謡がかかっていると、足を止めて聞き入っているというようなことも耳にしていて。民謡をエキゾ的な感覚でトライすれば、面白いものが出来るのでは、と思っていましたね

(略)

泰安洋行』は2000年になるかならないか、くらいの時に聞きました。先ほど話したハネてる・ハネてないというリズムが滅茶苦茶上手く再現されていて、"何じゃこりゃ!?"という感想でしたね。

(略)

一つ一つ元ネタが分っていながら、出来上がっている音楽がどこから聞こえてくるのか出所不明なパラダイス感があります。今のように予備知識のない当時の人にはさぞ摩訶不思議に聞こえただろうなと想像します。

(略)

はっぴいえんど時代から現在にいたるまで、西洋音楽への憧れと対峙してきた細野さんならではの日本人音楽家としての"シャイネス"なスタンスが、一番エキゾチックな部分だと思います。そこが他の日本的なモチーフを題材にしたテーマパーク的な表層のエキゾ音楽との違いだと思う。様々な年代の細野さんの映像で踊ったりする場面でも感じますが、ストイックじゃないとぼけたフィジカルさがありますよね。日本人のアイデンティティを問うような説教臭さももちろんないですし、肩の力が抜けていて、風通しがいい点に憧れますね」

(略)

僕らがやっても"ああ細野さんが好きなんですね!"で終わっちゃいそうじゃないですか(笑)。ボ・ガンボスのどんとさんもインタヴューで"東北などの民謡をトライしたがジメジメして暗いイメージで上手く行かなかった"と言ってますね。細野さんもどんとさんも、民謡は基本的に沖縄民謡へのアプローチだったので、自分たちはチャンプルー・ミュージックは敢えて避けて、まずは(本土の)民謡にトライしようと決めたんです。どんとさんが暗いと言うように、確かに民謡はマイナー調の曲が多いのですが、しかしもともとラテン音楽もマイナー調が多く、三味線のフレーズをなぞると、そのままクンビアとして弾けたりすることは発見になりました」(略)

第23回 『はらいそ』が目指したトロピカルのゴール

[ソロ空白期の77年]

 キャラメル・ママティン・パン・アレーと続いたバンド活動は念願の録音スタジオを手に入れられず、またその先の野望でもあったレコード会社の創立も果たせずにこの時期終わりを迎えつつあった。新しいバンドを作ろうと細野は盟友のドラマー林立夫に声をかける。しかし林には自分で女性シンガーをプロデュースしてみたい野望があり、その申し出は断られる。後日、今度は新バンドにティン・パンのキーボーディスト佐藤博を誘うが、アメリカで演奏活動をしたいという理由の下にこれも却下される。ここで細野の新バンドの構想は一度頓挫してしまう。この辺は割とよく知られたエピソードかと思う。76年の『はらいそ』セッションで高橋幸宏坂本龍一と共演し(略)YMO結成へと歴史は進んでいくのだが、しかしもしも林&佐藤と新たなバンドが生まれていたらどうなったのか?

(略)

[音楽家の気持ちが分かる]村井邦彦は細野とミュージシャンではなくプロデューサーとしての契約を交わす。アメリカ式に毎月定額のアドヴァンス料を支払うという洒落た待遇も用意した。細野は海外でもリリース可能な英語のポップス・アルバムを作ろうと、村井と共に女性シンガーのオーディションでLAへと向かう。そこでクレオール(黒人とフランス人の混血児)のリンダ・キャリエールに出会う。早速、彼女を東京に呼んでアルバム制作が始まる。それが77年2月のこと。(略)

しかしながら出来上がったアルバムについて、ヴォーカルが時々不安定という理由で村井は発売中止を決定する(略)。ここでまた細野は大きな失意に襲われた。

 『ニューミュージック・マガジン』77年5月号には「プロデューサーの仕事の重要さ」という特集があり、細野は「チームワーク・システムこそ必要」というエッセイを寄稿している。恐らくリンダ・キャリエールを制作している最中の執筆なのだろう、文面には意欲に満ちた細野の抱負が書かれている。(略)"僕が本腰を入れてプロデューサーになってやろうと決心したのは、時代と音楽の交差点がかすかに見えはじめたからなのです"。そしてアトランティック・レコードのように音・技術・アレンジの専門家がチームを組む姿が理想と語り"このようにチームを作れる日が今年中にこないものかなァ、と今僕は熱望しているところです"と文章を締めくくっている。

 アルファで念願のチームを結成しつつあったのだろう。しかし理想通りに事は運ばない。29歳で出家した釈迦のように仏門に入るべきか、或いは胸の中で構想が芽生えつつあるYMOのような新しいバンドをやるべきか、細野の心の中で葛藤が始まる。そしてアルファ移籍第1弾としてのソロ・アルバム『はらいそ』制作が始まったのは77年12月のことだった。(略)

第24回 鈴木惣一朗

(略)「『HOSONO HOUSE』が終わった後に、細野さんは恐らくカッコいい音楽をやろうとしていたと思う。たとえば鈴木茂さんの『バンド・ワゴン』にも近いアプローチだったかもしれない。でも『バンド・ワゴン』は出来過ぎのアルバムでしょ?もしかしたら同じやり方ではかなわない、なんて細野さんは思ったのかもしれないね

(略)

オールディーズというものの奥深さを幾重にも紐解いた『ナイアガラ・ムーン』の凄さを誰よりも分かるのが細野さんだった。しかも本人が演奏に参加して余計に凄くしちゃってる。まるで自分で自分の首を絞めて"負けた!"って言ってるみたいで可笑しいよね(笑)。でも大滝さんの凄さにびっくりした細野さんは『泰安洋行』や『はらいそ』というボールを投げ返していく。流行りのサウンドは追わず、アメリカン・ポップスもやらずに茂さんとも大滝さんとも違うおっちゃんのリズムを追求するわけだよね。(略)」

(略)

 『泰安洋行』担当ディレクターの国吉静治氏に本連載で話を伺った時、"タイトル曲の〈泰安洋行〉は確かインストではなく歌ものだった気がするなあ……"と話していたのが長らく気になっていた。やはりその通りで、歌詞のついた〈泰安洋行〉のカセットを鈴木は聞いていた。それは1976年5月27日に渋谷公会堂で行われた"GOROcking Festival"での細野ライヴ演奏の音源だという。

 「確かにステージで歌詞の付いた〈泰安洋行〉を歌っていたと思います。さらっと1回聞いたくらいで歌詞の内容は憶えていないけど。細野さんは、はっぴいえんどのように歌詞は意味はあるけどないようにしている、という作風。(略)」

(略)

 「エキゾチック・サウンドというのは最初にクロード・ソーンヒルがいて、ジョージ・シアリングがいて、シアリングから大きな影響を受けたマーティン・デニーがハワイにいて……お手本になるサウンドが既にありますよね。楽器の構成とかはシアリングがベースになっていて、白人のクール・ジャズのマナーに倣ったもの。そうした流れは『地平線の階段』でも紹介されるレコードを追っていくと分かるんです。

 でも細野さんがやってることはもっと土臭くて、もっとニューオーリンズ、もっとマッスル・ショールズしてる。デニーと『泰安洋行』を比べて聞くと、ありようが全然違うことに気付く。細野さんのサウンドは憧れの音楽を本歌取りしてR&Bになっている。つまりネクスト・ステージに持っていく。そこがみんな細野さんをリスペクトする理由なんだと思います。本家のドクター・ジョンが驚くようなニューオーリンズの解釈、デニーがびっくりしたというYMOの〈ファイアー・クラッカー〉。本歌取りをして、さらに新しい場所に連れていく点が凄い」(略)

第25回 トロピカル・ダンディーをもう一度

 『HOSONOHOUSE』~『トロダン』に至る細野の心の動きは80年刊行の書籍『音楽王〜細野晴臣物語』に詳しい。(略)

 はっぴいえんどを終えた細野は新しい音楽を作りたい意欲に燃えながらも、どうしていいか分からなかった。同時にLA録音で知り合ったヴァン・ダイク・パークスの影響は大きく、73年の細野はパークスの『ディスカヴァー・アメリカ』を徹底的に聞きこむ。すると細野の時代感覚は過去に戻り、子供の頃に聞いていたハリウッドの映画音楽を思い出したりするようになる。

 「それと同時に、精神的な不安定さから、ジェイムス・テイラーとか、ああいうシンガー・ソングライターの暖かい音楽に救いを求めていたし、そのいっぽうでリズム&ブルースの新しい動き、スライ&ファミリー・ストーンなんかが入ってきてたでしょう。そういうものを、ぼくは同時に見てたわけ。そういう時に作ったから、『ホソノ・ハウス』っていうアルバムには、それらの要素がみんな入っているんだよ」

(略)

フィラデルフィア・インターナショナルのようなレーベルを作りたいという野望をティン・パンは抱えていた。

(略)

 『トロダン』制作は74年11月に開始されたが、一度中断。ハリウッドの音楽にさらに深入りして、このまま戻れないかもという細野の不安を解消してくれたのが、スライ・ストーンの『フレッシュ』というアルバムだった。現実に戻った気がした細野はセカンド・ソロ作をファンキーでカッコいいものにしようとしたが、どうも何かが違う。制作中断の理由は、それだ。そんな時に久保田麻琴エスケンとの出会いによって、エキゾチックとトロピカルという主要なテーマを得た細野は75年2月からアルバム制作を再開させる。(略)

[再度『音楽王』からの引用]

 「細野は、このアルバムのA面を作り上げたところで、もう満足してしまった。――これ以上作ってしまうと、もう音楽ができなくなってしまいそうだ。未完成な部分を残しておかなくては、次のエネルギーが生まれない。

 アルバムは、自分が歩いてきた道の道標のようなものだと、細野は思っていた。だから、B面は次のステップに向けて、疑問を残したままで仕上げてしまうことにした。――アルバムっていうのは、一枚で完結させてしまうものじゃない。ぼくの音楽は長い時間をかけて創っていかなくちゃいけないんだ」(略)